④最終話 はなむけの言葉
「あの時は、本当に。ヴィンセント殿には何とお礼を伝えたら良いのか」
まだ子供であった頃、貴殿に助けてもらった事があるのだとタビサが話の口火を切った。どうやら彼女は、ヴィンセントが助けた迷子の一人であったらしい。
生家のある区画から士官学校までの道のりは、少し別の道を通っただけでがらりと印象が変わってしまう事もある。素行の悪い連中の吹き溜まりになっている時期もあった。けれど騎士達による見回りが強化されて居心地が悪くなったのか、そのうち遭遇する事もなくなった。
父を通して経過を把握していたヴィンセントにはその程度だが、当時の幼かった彼女にとっては怖ろしい出来事として認識されているらしい。
タビサは王城に出仕して、同じ場所で働くヴィンセントに気が付いてからずっと、律義に話の機会を伺っていたらしい。お礼を伝えなくては、とずっと思いつめていたのだそうだ。
ヴィンセントの方は朧げな記憶の中の、あの小さな子供が目の前のタビサとうまく重ならない。子供はすぐに大きくなるものだと理解していても、尚更である。
彼女はヴィンセントが騎士を志し、現在の仕事を続けている理由の一つだった。世の中は広いようでいて狭い、という奇妙な感覚だった。残っていた少し冷めてしまったコーヒーの存在を思い出して、口をつけた。
タビサは今の話を伝えるために、王女殿下にこの場を設けてもらえるように願い出たのだと言う。それを耳にして、ヴィンセントは思わず目を見開いた。
「……いつでも声を掛けて下されば」
ヴィンセントに気を遣うのではなく、もっと他の有意義な申し出に回せただろうに。口には出さなかったが、こちらの考えはある程度伝わってしまったらしい。恥ずかしくて、と彼女は薄く笑って、俯いた。
「今年は寒くなるのが早いようで」
会計は自分の主人が後日支払ってくれるそうで、二人で連れ立って外へ出た。色づいていた梢の葉は地面に落ち、寂しさを感じさせる乾いた音を立てた。時折風にあおられては、道の端へと追いやられている。暖かいこの国でも日が短くなり気温は下がり、昼間でも風が冷たくなって来ていた。ヴィンセントが気が付かなかっただけで、冬がすぐそこまで近づいていたらしい。仕事ばかりしていると見落としてしまうが、それは道を行き交う人々の衣装の色合いや、外套や小物の有無に顕著に表れつつあった。
彼女の用件は済んで、ヴィンセントもこれで主人の言いつけは果たした事になる。王女殿下のための急ごしらえの女性騎士団は晴れてお役御免で解散し、彼女は頃合いを見計らって生家へ戻るのだと聞いている。
宿舎まで送るのに辻馬車を捕まえるかを尋ねようとして、立ち止まっていたタビサが先に口を開いた。
「あの秋の日が、私の一番幸せな時間でございました」
彼女はこれ以上の説明をしなかった。おそらくヴィンセントが王女殿下の近衛騎士団恐怖症克服に駆り出された、あの秋の日の事であると推測された。先ほども話題に出て、懐かしく語ったのである。
「この花は温かい場所のものなので、楽しむのは本当に、これが最後ですよ」
秋の盛りに色づいていた木々の葉や、先ほど教えてもらった、タビサの視線の先に咲いているノエルレッドの花。どちらも枯れるのを待つばかり、というなんとも寂しい色のようにも思えてしまう。
「両親を安心させなければと思い、優しい主人は私を気遣ってくれます。ここから一歩踏み出して、前に進まなければならない時なのです。けれどそれは私にとって長い時間、支えてくれた想いとの決別でもあるのです」
どこか思いつめたような彼女の表情と声色に、ヴィンセントは無意識のうちに居住まいを正した。既視感のある眼差しは、指導役であった頃に熱心に質問を重ねて、あるべき姿を模索してた姿を思い起こさせた。どうやら、何かしらの助言を、こちらに求めているらしい。
ヴィンセントは仕事上でしか付き合いがないが、あれこれと指南する立場にあった。仮に自分が女官の代わりをしろと命じられれば従いはするけれど、同じ王城とは言え所属が違えば確実に難儀していたはずである。タビサをはじめとした女性騎士達はその職務を最後まで取り組んだのだから、形式に則った労わりと別れの一言二言よりもう少し、自分には伝えるべき言葉があるのが道理に思えた。
もう少し何か、とヴィンセント自身も言葉を探す。
「私は偶然と幸運が重なって今の仕事を拝命していますが、本来は父と同じ、人々の暮らしを守る騎士になるのだとばかり思っていました。寒くなるとその頃、まだ子供だった時の記憶がより鮮明に」
寒くなると朝方に、四人いる弟妹達が長兄ヴィンセントのベッドに潜り込んで来ていた。文句をつけてもまさか蹴り出すわけにもいかず、結局狭苦しいままで起床時間を迎えるほかなかった。起こしに来た母親と、その後ろから顔を出した夜勤明けの父も笑う、今となっては平和な幼少期の記憶である。父までやれやれと暑苦しい中に加わろうとして、にぎやかな朝だった。そういう何気ないやり取りを、大人になっても覚えているのは自分でも意外だった。
「弟妹は温かったので、普段はケンカばかりでも冬だけは重宝しました。今はもうそれぞれ勝手にやっているのですが。私はそんな、人々の当たり前の幸せを守るために、今の職を志したのです」
叩き込まれた作法の中で、ヴィンセントは彼女に、騎士同士が功績をたたえるための、敬礼の姿勢を選んだ。
彼女の家の事情や規模を考えれば、きっとどこか相応しい相手の許へと嫁ぐのだと推測できた。その男はきっと、この上なく幸運だろうとも思う。
階級に見合った気品を備えて、研鑽を怠らず、小さな子供に優しさを向ける事ができるのだから。
「この先、まるで追い立てられるように本意でない選択を迫られる日も来るでしょう。けれど心を支えた強い志だけは、色褪せ移り変わるような事はありません。そうしていつの日か決別した想いに救われ、また必要とする日もあるでしょうから」
ヴィンセントは当初、女性を一時的でも騎士の頭数に入れる事に反対していた。侮っていたわけではないつもりだが、けれど実際に業務として携わり、彼女達の真剣さやひたむきさに触れれば、考えは変わった。
「貴殿は間違いなく、主人を支えた優しく、そして気高い一人の騎士でした」
「……ヴィンセント殿」
どうかお元気で、幸福の多い道でありますように。ヴィンセントは何気なく続けようとしてその場で固まった。こちらを見上げていたタビサが失礼、と目元を拭いながら俯いてしまったのである。はなむけの言葉としては悪くないと判断したにも拘わらず、彼女にとっては何か癇に障るような発言だったようだ。
往来で、これが自分の幼き日の弟妹や主人であれば抱きかかえて撤退するだけの話なのだが、相手が相手である。どうして泣かせてしまっているのかわからずに、ハンカチを取り出して差し出した後は、彼女が落ち着くまでおろおろする他ない。
背中を撫でるのはさすがにどうかと逡巡している間が、まるで永遠のように長く感じられた。通り過ぎる人々からの、道端で恋人を泣かせる最低な男だと言わんばかりの冷たい視線を甘んじて受けていると、彼女がようやく声を絞り出した。
「これで最後にしようと、諦めようとして今日に臨んだのに。……そんな風に申されては」
少し潤んだ瞳がこちらを見上げ、愁いを帯びた眼差しが瞬きを繰り返す。その度に、別の輝きにも似た何かに移り変わっていくように、ヴィンセントには感じられた。
「あの、タビサ嬢。何というか、……無責任な発言は謝罪、撤回いたしますので」
「いいえ、貴殿が騎士の一員として認めて下さったとあれば、私もこれ以上の醜態は晒せません」
ハンカチを目元から離し、彼女はヴィンセントに向き直った。自分が教えた通りの、騎士としての立ち姿は凛としていて、自然と目を惹きつけられる。
「ですからもう覚悟を決めました。今ここで、貴殿には正式なお付き合いを申し込みます」
「え?」
ヴィンセントは思わず聞き返した。話の展開についていけずに思わず一歩引いたが、その分を彼女が迷いなく詰めたので何も変わらない。
「すみません、話が全く……」
「ずっとお慕いしていました、今思えば、助けていただいたあの日からずっとそうです。それを伝えて終わりだったのに、やはりこのままでは諦めきれないのです。今この場で前向きな返事か、そうでなければ私の心に、未練の一つも残らないように断って下さい」
「……いやそんな、急に申されましても」
あのですね、という展開に追いつけないヴィンセントは無意味な時間稼ぎをした。タビサはこのまま他の方に奪われるのは納得がいかないとまで言い出す始末である。
「とにかく、少し待って下さい」
「だめです」
却下されてヴィンセントは絶句した。第三王子殿下ですら懇願すれば一から六十まで律義に数えてくれるというのに、厳しい対応である。高嶺の花のような、と遠くから眺めて満足していたような相手が、急に目の前に来て決断を迫っていた。
兄ちゃんの負けだよ諦めな、と無責任な通行人の横やりにも、彼女は毅然とこちらを見据えたままである。気高くも美しい、一人の立派な騎士であった。
そんな彼女の心情の変化は少しもわからないが、相手が一世一代の勝負に出たという事は、こちらも誠実な対応をしなければならない。
ヴィンセントの口に、先ほどまでのんきに彼女と手を取り合って生きる男は幸運だと不埒な事を考えていた事実が重くのしかかった。こんな自分でよければ是非、という言葉以外を許す気はないだろう。
とりあえず、座って落ち着いた話ができる場所に一緒に移動してくれるよう、丁寧にお願いするところから始めなければならない。
新しい季節の始まりが、もうすぐ近くまでやって来た。