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③花は折りたし、梢は高し


タビサがまだ幼かった頃、一人で屋敷を抜けだした事がある。母が好きなお菓子をこっそり買ったらきっと喜んでくれるはず、と今となっては実に軽率な思い付きだった。弟を産んでから体調を崩しがちだった母はその日、寝台から起き上がる事もできずにいる状態だった。医者が付いてあれこれ治療していて、部屋には近づかないように言いつけられていた。


父は王城で、騎士団の花形でもある近衛を務めている。けれどもう少し家族と過ごせる時間を作るために王城を辞して、これからは領地の仕事に専念する計画が進められていた。屋敷は引き払う話が既にまとまって、使用人達も帯同する者、別の仕事先を紹介してもらう者とで誰もが忙しくしていた。

父は仕事で王城にいて、使用人達は生まれて間もない赤子と寝込んでいる女主人にかかりきりだった。


 馬車なら幾度も通った、すぐに到着できる場所である。それから当主の娘としてある程度認知されている領地と王都での違いを見落として、タビサはあっさりと迷子になってしまった。見覚えのない薄暗い路地に迷い込んで立ち尽くしていた時、後ろから声を掛け優しく手を取ってくれた人がいなければ、今頃どうなっていたかわからない。

 庇うように立った背中越しに、露骨な舌打ちをした複数の男が、忌々し気な眼差しをこちらへと向けているのが見えた。路地に立ち込める煙草の息苦しい嫌な匂いが、危機的な状況を如実に思い知らせる。人数も上背もあちらの方が勝っているのに、その人は油断なく相手を見据えているだけで、タビサを後ろに隠したままで対峙している。どれくらい睨み合っていたのか、もう一度舌打ちの音を響かせて、相手は路地の奥へと消えて行った。


 やれやれ、と言わんばかりの様子で、タビサを助けてくれた人が息を吐きだした。その時になってようやく、まだあどけなさの残る年端もいかない少年である事を知った。にも拘らず、後から思えばきっと怖かっただろうに、見ず知らずのタビサのために立ちはだかってくれたのである。


 

「ねえ、これが何かわかる? お山に住んでいる羊飼いの笛と一緒なんだけど、父上が持たせてくれたんだ。吹いたらすぐに騎士達が駆けつけてくれるから、だから怖い事なんて何もなかった。今の変な連中も、あれ以上近づいても来なかっただろう?」


 彼は紐の先に、小さな銀色の筒が括りつけられているのを見せてくれた。今頃になって状況を理解して泣き出した迷子を辛抱強く宥めすかし、タビサに家の大まかな方向を聞き出した。よいしょ、と抱きかかえるようにして歩き出す。

 そのまま屋敷までたどり着いて、血相を変えて出て来た使用人達を前にしても、ヴィンセントと名乗った少年は冷静だった。自分の所属と父親の名前を持ち出して身分を明かし、経緯を説明する。主人が戻るまで、と引き留める声は優しく固辞された。


「あ、あの……!」


 やっとタビサが出せた声に、彼の灰色の瞳が少し細められて、心得ていると言わんばかりにこちらに笑いかける。小さく手を振って、彼は屋敷を辞した。追っていった執事見習いがお菓子をたくさん買って持たせました、と後で教えてくれた。


 タビサは屋敷の外へ出たけれど、親切な人に保護されてすぐに戻って来た。相手にはお礼をしている、両親にはそのような報告がなされた。暖かな室内へ戻って来て、随分長い時間のように感じたのに、時計を確認すれば短い時間の出来事だった。

 両親はあまりタビサを責めなかった。それが逆に申し訳なくて、父には正直に全てを白状した。けれど正直でよろしい、ただし母には言わなくていいと逆に口止めされてしまった。

 

 余計な事をしでかした挙句、もう少しで取り返しのつかない事態に陥るところだった。あのヴィンセントという親切な少年を巻き込んでしまっていたかもしれない。この時の失敗が、ずっと後までタビサの考えや行動に影響を残す事になってしまった。



 領地に移ったタビサは母の看病や、弟の世話をして大人しく過ごした。母は静養に専念したのがよかったようで、体調を崩す日は減った。しかし屋敷の中はともかく、外へ出て領主の妻として他所の家との交流、というわけにはいかなかったため、しきりにタビサの将来を心配するようになった。他家との繋がりをほとんど築けないままだった事に、随分と引け目を感じているらしい。

 元から内向きな気質の娘を心配するのは、父も同じ考えだったらしい。かつて王宮で近衛として務めた時の伝手を頼って、王城に仕官するのはどうかと提案された。二年ほどの期間、娘を女官として出仕させる事にしたのである。問題なく受理されて、タビサは女官見習いとして仕事を始めた。



 王宮という、王族を中心として様々な役割の人々が集う場所は実際、華やかではあった。けれどタビサにとっては、領地で父の庇護の下に安穏としていたという事実を突きつけられた形でもある。家柄や容姿にそぐわない言動は目立ちたがり屋だと嘲笑され、物を隠されたり汚されたりするのはよくある事だった。

 優れた容貌に教養、噂話に精通している事、生家や上役の後ろ盾に仕事の出来栄え。どの人も何かしらを武器に品定めし合う空気は、どうしても好きになれなかった。女官には派閥があって、複雑な関係性は覚えようとするだけでも一苦労である。

 タビサは大して自慢できるようなものがないため、誰にも睨まれないように、ひっそりと仕事に覚える事に集中した。

 

 息を潜めるようにしていたある日、たまたま耳に入った噂話に初めて聞き耳を立てた。騎士ヴィンセントである。

 一般的な士官学校卒業生は、辺境や下町の警護任務への着任が大半とされている。彼の生家は爵位がないため、士官学校卒業と同時に近衛に入隊するのは異例の抜擢であるらしい。


 実際に城内で遭遇すれば、あの時助けてくれた少年が成長した姿に間違いない。近衛の制服を身にまとい、精悍な灰色の瞳の眼差しは悠然と、けれど油断なく周囲を見据えていた。仰々しい立ち姿とは対照的に、彼を側仕えに抜擢した幼い第三王子が肩や腕にぶら下がっており、子守り、などと揶揄されていた。


 噂はともかく、所属は違えどタビサの恩人が同じ場所で仕事をしている。その事実は幼かったあの日、まともにお礼も伝えられないままだった失態を何とか払拭できる絶好の機会に思われた。

 

「ねえ、今。誰を見ていたの?」


 尋ねられたタビサは慌てて我に返った。その時はちょうど近衛騎士が数人通りがかった時で、こちらも複数だったのでタビサ個人が誰を見ていたかについて重きが置かれなかったのが幸いである。

 王城内で花形の職務に就く彼らの話題は、常に注目されていた。女官達にはお気に入りの騎士がそれぞれいるらしく、容姿や家柄をあれこれと品評しあっている。

 色事に類する話題は広がるのが本当に早く、誤解でも相手の迷惑になるのは確実である。タビサはすっかり委縮して、不自然にならない程度に誤魔化してしまった。


 噂によると騎士ヴィンセントは他の者に比べ、家柄の割には出世が早いので騎士団の中でやっかまれているらしい。また、耳に入る限りでは彼に特別熱を上げている者は今のところいないようで、何故か少しだけ安堵した。


 そうなると、人目につかないように何とかして言葉を交わせないだろうかとタビサは思案した。しかし当たり前だが殿下がいる時には絶対に許されない。

 修練場にいる時も、タビサの父が鍛錬というのを神聖視していたので理解はできたけれど、結局声を掛ける機会はなかなか訪れなかった。どうやら近衛騎士は他の王城で働く人々とは食事の場所も別らしい。

 まだ期間はある、と言い聞かせつつも結局は勇気が出せない臆病さに打ちのめされながら、タビサはこっそりとヴィンセントの姿を目で追っていた。



 半年が過ぎようとしていた頃、第二王女が近衛兵を何故か嫌がるため、女官の一部を騎士扱いとして体裁を整える話が突然打診された。形式上は危険手当も支給されるが、実際に戦闘を要求されるのではなく、あくまで補助的な動きをお願いしたいと説明された。上役は父の伝手を把握した上で娘のタビサに話を持ってきているのだから、断れないと判断して引き受けた。

 

 たちまち、第二王女殿下への異例の体制はたちまち話題の中心になった。どうしてわざわざ立候補するのかと何度も訊ねられ、父の件で打診があったのだと説明すると多少納得してもらえた。

 けれど今の立ち位置でぱっとしないから目立ちたいのだろうという口さがない人もいて、多くの者は興味津々だった。近いうちに必要な研修もあって、近衛の誰が担当するのかと女官達は熱心にささやきあった。あの方だったらいいな、と容姿や家柄がよい数名の名が挙がった。


 とりあえず女官の中から騎士として選定された者が全部で五人、集まってよろしく、と挨拶を交わした。それから正式に指導監督役となった騎士ヴィンセントが、既に修練場付近で待機している。修練場で初回の研修を行う流れだったが、結局その日は施設内に足を踏み入れる事はなく、とりあえず座学から始まった。


 後になって、物珍しさや冷やかし目的で多くの見物人が平日の午前中から集まっていたと聞いた。騎士ヴィンセントによってその日のうちに、何名かが見せしめの如く叩きのめされたようだ。彼自身はその件については特に触れず、その後は何事もなかったように修練場で身体の動かし方、慣れてくれば護身術の基礎から訓練が始まった。



「……ただか騎士の分際で、生意気ではないの」

 

 ヴィンセントはその出来事を黙殺したが、それが気に食わない者ももちろんいた。女官の一人である、事あるごとに従兄が文官の出世頭だと自慢していた。従兄は連行され叩きのめされ面目丸つぶれだと憤っている。今に痛い目に遭えばいい、とまで言い切るのを聞いて、タビサは急に心配になって来た。


 女性騎士のために憤ってくれたであろうヴィンセントが非難されるのだけは、どうしても納得がいかない。せめて気を付けるように進言するだけでも、とタビサは修練場に制服に着替えて足を踏み入れた。他にも数人が手合わせや鍛錬を行っている中で近づくと、ヴィンセントは槍をふるう手を止めてこちらを見た。


「何か気になる事でも?」

「あの、その……何といいますか」

「……ヴィンセント殿! 今日も精が出ますな」

「ああ、どうも」


 そこへ現れたのは、例の出世頭の文官である。練習用の木剣を手に、ヴィンセントに親し気に声を掛けて来た。先日、見せしめに叩きのめされて恥をかかされた間柄とはとても思えない。


 その疑問を悟ったようで、文官は苦笑いをした。先日ヴィンセントと手合わせをした際、『他の方より動きが良い。ただの文官でもないでしょう』と指摘されたらしい。本当は武官を目指していたけれど家の方針には逆えずに結局、けれど諦めきれずに剣の修練だけは密かに続けていたのだと、どこか気恥ずかしそうに話した。


「あれ以来、騎士ヴィンセントが親切に稽古をつけて下さってね。すっかりその気にさせられてしまった。人を乗せるが上手い」

「事実を言ったまでです」


 貴殿、と感激の視線を受けて困惑しているらしいヴィンセントは咳ばらいをした。それで、と誤魔化すようにタビサに向き直り、ここへ来た用件を尋ねて来た。けれど要らぬお節介だったと悟ったタビサは、小さく頭を下げてその場を辞した。



「……女官である時と一番異なるのは、口頭で説明するのは難しいですが、とにかく後ろにさりげなく控えている事ではありません。臨時だろうと辞令が下った以上は、荒事は本来の近衛に任せるとしても、主人を守る盾として求められているのです。ですからどうか、胸を張って下さい。私も騎士として尽力します」


 最初の座学で、ヴィンセントは言葉を探しながらタビサ達に道を示してくれた。元はと言えば女性騎士の登用にも、彼は反対していたらしい。けれどそのようなそぶりは見せず、慣れない仕事に集中できるように配慮してくれた。

  

 よく考えてみれば、騎士ヴィンセントはこの王城でタビサより長い期間、近衛として務めている。それは自身の実力はもちろん、さらに上役に気に入られ可愛がられて上手にやっているのだ。主人と信条と職責にどこまでも忠実であり、人の顔色を窺って振り回されているのではない。


 それが理解できてしまえば、彼の存在はどこまでも遠く、タビサにとっては手の届かない相手なのだと思い知った。対する自分は情けない事にこの先もずっと、人の目が気になって生きていくのだから。


 けれど特別な役職を与えられていた時間だけ、タビサは職責を胸にヴィンセントの教えを忠実に守る騎士でいられた。わざわざ採用された制服を身にまとい、白い手袋を身に着ければ、憧れの人に近づけたような気がした。小さな主人を守るため、背筋を伸ばして職務に向き合う際、手本としたのはもちろんヴィンセントである。


 あの日のお礼をしなければ、という大義名分は、既にただの口実に成り下がっていた。






 

 タビサは生家にも戻る日にちが迫っていた。王城への出仕はあくまで経験を積ませるためであって、家族という観点からすれば女性は子供と帰る家を守っていて欲しい。それは両親揃ってその方針であり、タビサも異論はない。

 父は既に色々と目星をつけているが、タビサが王宮に出仕している間の事も考慮したいから、急ぐ必要はない。最後まで与えられた仕事に向き合うように、と手紙にはあった。


 

「タビサ、今までありがとう」

「私はあなた様の騎士になれて、光栄でした」


 近衛騎士恐怖症を克服した可愛い主人は、世話になった女性騎士達一人一人と話をし、本当に喜んでくれるようなお礼がしたいのだと殊勝な申し出をして、国王夫妻もそれを了承した。


 何がいいのと尋ねられたタビサは王女殿下に、どうしても挨拶をしたい者がいる、と申し出た。少しだけ時間の融通の口添えを願い出たのである。迷惑を掛けたくはないので、こっそり場を設けて欲しい。職務時間に挨拶する機会をもらえるのだと思っていたけれど、意外にも王城の外を指定された。指定された場所に緊張しながら足を向ければ、当たり前のようにヴィンセントが待機している。



「……本当に色々ありましたね、ヴィンセント殿」


 ええ、と静かに相槌を打った非番のヴィンセントはあっさりとケーキを片付けて、運ばれてきたコーヒーはゆっくりと味わっているらしい。楽しい時間はあっという間だった。美味しい物を口にして、憧れた人に今までの仕事を労ってもらえて嬉しかった。

 初めて二人きりで向かい合わせに腰かけて、当たり前だがヴィンセントは幼かったタビサとのやり取りはもう覚えていない様子である。もう随分と前の話なので、当たり前の反応だ。


 けれど、その話を切り出してしまえば本当に、彼と個人的な話をする機会は終わりになる。本当に伝えたい言葉は、知ってほしい気持ちは煩わしいと切り捨てられる恐ろしさを前に、結局いつものように沈黙するばかりだった。


 貸し切りにされた店内は静かである。香草茶と一緒に運ばれてきた砂時計の中身が底にはらはらと零れ落ち、時間をかけて降り積もるのを眺めた。それを待つ間に甘苦いチョコレートケーキを少しずつ、名残惜しむように少しずつ口に運ぶ。香草茶に入っているらしい生姜(ジンジャー)の仄かな辛みが、余韻をすっきりとかき消した。


 時間は待ってはくれないのだから、せめて無様なやり取りにならないように、タビサは声が上擦りそうになるのを抑えて、できるだけ冷静に話を切り出した。


「……実は、貴殿にずっと伝えなければならなかった話がありまして」

   

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