>> きまりました
先の予定が決まってしまえば後は早かった。
イリーナはまず父に話し、父は直ぐにナシュド侯爵に手紙を出してロデハン家にて話し合いが行われる事になった。
「すまないイリーナ……」
顔を合わせると直ぐに謝罪を口にしたナシュド侯爵にイリーナの方が焦る。
「その様なお言葉……っ、ナシュド侯爵が口にされる必要はございませんわ」
「いや、言わせてくれ。まさかコザックがあんな事をしているとは思いもしなかった……」
憔悴気味なナシュド侯爵の様子にイリーナの方が何故か戸惑ってしまう。悪いのはコザックただ一人であって、ナシュド侯爵はむしろ巻き込まれ被害者じゃないかとイリーナは思っていた。だってもう子供じゃないのだから『監督不行き届き』だという話では無い気がする。しかも当の本人が周りの目を欺いていたのだし、それを管理しようとする事の方が問題が起きそうだ……
やはりコザックが最初に筋を通しておけばこんな問題にはなっていなかったのではないかと、イリーナは思う。
「あいつは問い質した私に『自分には最愛の女性が他にいる』などとほざきおった。なのに婚約の話には一つも触れようとはせん! 婚約を破棄してその責任を取り侯爵家を抜けるとでも言えばまだ男気があったものを!」
ナシュド侯爵も気づいたのだろう。コザックが何を狙っているのかを。
愛人は居ても婚約者とはちゃんと結婚するから問題ないだろう、とコザックが思っている事は皆が気付く。気付かれたところで別に問題ないだろうとコザックが思ってるだろう事も読み取る事が出来て、大抵の人はその事にも不快になるだろう。
コザックの計画の中では婚約者であるイリーナへの配慮が一切無いのだ。
『はいはい婚約ね。ちゃんと結婚するよ。でも好きな人が他にいるから数年結婚生活送ったら別れるよ。それで彼女への義務は果たしたでしょ? 子供は恋人と作るから安心して。俺の血が入ってたら問題ないでしょ?』
コザックが態度で示している事はこういう事だ。婚約者の人生の事も、侯爵家としての世間体も何も考えている様には思えない。
そんな男を『一度の過ちを許し、その後一生寄り添って生きる』と考えられる女性は、その男を何よりも愛している女性だけだろうとナシュド侯爵は思う。
長年コザックとイリーナを見てきたナシュド侯爵にはイリーナがコザックに親愛の情はあれど恋慕の情がある様に思った事は一度もないので、この婚約はもう終わりだと理解していた。
「こちらの失態だ。全てこちらが責任を負うつもりだ。イリーナへの精神的苦痛への慰謝料は」
「ナシュド侯爵……っ!
その話をする為に今日お越し頂いたのです。まず座って頂いて……わたくしの話をさせて下さいませ……」
「あ、あぁそうだな。
取り乱すとはお恥ずかしい……」
イリーナに促されてナシュド侯爵が応接室のソファに座った丁度その時、イリーナの父ゼオとディオルドが応接室に入って来た。
「っ? ヤーゼス公が何故こちらに……?」
ディオルドの存在に気付いたナシュド侯爵が座った席から慌てて立ち上がる。それにディオルドは片手を上げて挨拶をした。
「やぁ、ナシュド卿。
今日は私も話に入れさせてもらうよ」
ディオルドが上座の一人掛けのソファに座り、それを見守ったナシュド侯爵も座り直す。イリーナの父ロデハン侯爵はナシュド侯爵の向かいの席のソファに座った。
ディオルドは二人の侯爵よりだいぶ若いが既に公爵位を継いでいるのでこの部屋では一番爵位が高い事になる。
父の横に座ったイリーナがナシュド侯爵に向かって頭を下げた。
「ディオルド様の事はわたくしがお願いしたのです。
ナシュド侯爵に話を通す前に勝手してしまい申し訳ありません」
「……一から、説明して貰えるかな」
そこからイリーナはコザックの不貞を目撃した日からの事をその場にいる皆に説明した。そして……
「コザック様が望むのなら、わたくしも“白い結婚”で構いません。
むしろ今回コザック様の不貞に先に気付けた事で、婚姻後に突然宣告されて3年後に突然放り出されて途方に暮れる未来が回避出来て良かったと思っております」
「しかし……本当にコザックは“白い結婚”にしようとしているのかい?」
イリーナの話にゼオが眉を寄せて疑問を投げかける。まだ『コザックが白い結婚について侍従に聞いた』だけだ。もしかしたら違うかもしれないという疑問も浮かぶ。だが……
「白い結婚じゃない方がわたくしは嫌です。他の女性を触った体で、わたくしに触れて欲しいとは思えません」
きっぱりと告げたイリーナにゼオは納得する。数年前に死に別れたディオルドと違い、コザックは現在進行形で女性と親しくしている。いつその女性と触れ合ったかも分からない手で、義務だからと愛情もなくあの男がイリーナに触れると考えると……父であるゼオの額にスッと青筋が浮かんだ……。
話を引き継ぐ様にディオルドがナシュド侯爵に顔を向けた。
「イリーナは白い結婚なら白い結婚で良いと受け入れた。だが、それならそれで次の事も考えなければいけない。
そこで彼女は私を頼ってくれたのだ。再婚する事になる彼女には、同じくいつかは必ず再婚しなければならない独り身の私は、一番手頃で最高の優良物件と言う訳だ」
「そ、そんな言い方はっ!」
ディオルドの巫山戯た言い方にイリーナは焦る。なんだか凄い悪い女の様ではないか?! 傷物女が爵位目当てに選んだかの様に思われそうなその言い方にイリーナはなんだか恥ずかしくなって慌てた。
だがその言い方も、意図があっての事だとイリーナも薄っすら気付いた。
コザックが浮気をしていたから、イリーナも他に男を見つけた。と、思われては困るのだ。
『イリーナは昔からディオルドを恋しく思っていた』
と、思われてはコザックの不貞と同じだと受け取られかねない。それではイリーナの沽券に関わる。
イリーナは『コザックが浮気をしていたからナシュド家を出る事を考えなければならなくなった』のであって、コザックが不貞をしていなければ、『こんな事は考えもしなかった』のだと、ナシュド侯爵や他の人たちにも理解してもらわなければいけなかった。
だからディオルドはわざとイリーナの事を軽く話す。対面的に見せる姿は『不貞を働いたコザックが不快なので親睦のあるイリーナを保護する』男の姿だ。
「……ヤーゼス公まで巻き込んでしまって……
情けなくてどうにかなってしまいそうだ……」
頭を抱えたナシュド侯爵が呻く様にそう呟いた。
そんなナシュド侯爵をゼオは気の毒に思いながら見ていた。アイザックとは長い付き合いだった。同じ親として彼が子育てに失敗したとは思えない。次男のフィザックなど跡目争いすらしようとはせずに家の為に尽くしている。何故長男だけ……と、ゼオも思った。ロデハン家の長男はイリーナの話を聞いて剣を持ち出そうとしたくらいなのに。人とは不思議なものだなぁとゼオは静かに思ったのだった……。
ゼオがそんな事を考えているなど知ることも無いナシュド侯爵が頭を抱えながらも話し出した。
「……コザックは友人との話の席で“白い結婚”の事を話題に出したと侍従から聞いている。
『白い結婚はむしろ一途な男の証明ではないか。無理矢理押し付けられた女の誘惑を跳ね除け、子種を寄越せと迫る偽物の妻から真実愛する女性の為に自らの貞操を守る男。何故世間では女の方ばかりに目を向けるのか理解出来ん。男を褒めろよ』と、言っていたそうだ……」
「まぁ……」
「う〜ん…………」
「……なんで他に女性がいる前提なんだ……」
ナシュド侯爵の話の聞いて全員がなんとも言えない顔をした。当然、部屋の隅に待機している執事や侍従や護衛にメイドたちもなんとも言えない顔をしていた。
なんとも言えない空気が流れた中、ナシュド侯爵は顔を上げた。その表情は覚悟が決まった様だった。
「コザックが白い結婚をする気でいる事は間違いがないと私も思っている。
イリーナもその事を受け入れてくれているのであれば、その方向で話を決める事に異論は無い」
その言葉にゼオが頷く。
「私もその方がありがたい。
物入りの今、イリーナも慰謝料などのやり取りで他に心配事を増やしたくないと言ってくれている」
名を呼ばれてイリーナも頷き、真剣な眼差しでナシュド侯爵の目を見た。
「わたくしが望むのは婚姻後のナシュド家でのわたくしの生活の保証と身の潔白です。子の事で周りに気をもたせる事が無い様にもして頂きたいですし、万が一コザック様が心変わりしない様にもして頂きたいですわ」
イリーナの言葉にナシュド侯爵は強く頷き返す。
「当然だ。必要な場面でない限り、コザックがイリーナに接近しないようにしよう」
「ふむ……
イリーナが嫁入り中の3年間、イリーナの側にロデハン家から護衛騎士と侍女たちを数名付けさせてもらう事にしましょうか……」
ゼオが顎を触りながらそう提案する。
そこからいくつかの決まり事が軽く話し合われた。しっかり決めて書面にするのはまた後になるが、この場にいる全員が『白い結婚』というある意味『偽装結婚』に近いものに対して前向きに捉えてくれている事にイリーナは安堵した。
その様子を見て、ディオルドも口を開く。
「こうやって私も関わってしまったのですから、3年後と言わずもう少し関わらせていただきましょう。
両家の河川事業に公爵家より出資させていただきます。事業で関わっていれば私とイリーナがどちらかの家で顔を合わせていても、昔からの馴染みでもありますし、不自然過ぎるという事もないでしょうし」
「「それは有り難い!」」
父二人は瞬時にディオルドの提案に食いついた。
その様子にイリーナは少し笑ってしまった。
イリーナの希望は伝えた。
これからまた契約書を作る時にもまたちゃんとイリーナの要望を聞いてくれるだろう。その事にイリーナは内心ホッとした。自分の父に限っては無いと思っていたが、万が一『家の為にコザックと子供を作ってくれ』と言われたらどうしようかとどうしても考えてしまっていたからだ。そんな事になってしまったらどうしようかと思っていたが、その心配が完全に無くなって少しだけイリーナの肩の力が抜けた。
後は父たちが上手くまとめてくれるだろう……
「……では、コザックたちの処遇だが……」
少しだけ明るい声が上がっていた空気が一瞬にして重くなる。
硬い声でナシュド侯爵から出た言葉にイリーナも口を固く結んでナシュド侯爵を見た。
◇ ◇ ◇
「……全て、私に任せてはくれないだろうか……
そして出来れば……
コザックにもう一度チャンスを与える許可を頂けないだろうか…………」
そう言って、座ったままだが両膝に手を着き深く頭を下げたナシュド侯爵にイリーナは驚き目を見開いた。
「アイザック……」
ゼオはそんなナシュド侯爵の姿にツラそうに眉を寄せて友の名を呟いた。
「……イリーナはどうしたい?」
ナシュド侯爵の意を汲んでディオルドがイリーナに問いかける。
その声に小さく肩を揺らしたイリーナが一瞬下を向いて目を閉じると、ゆっくりと開けてナシュド侯爵を見た。
「……コザック様に裏切られたのは確かです。裏切られた事に傷付きもしました……
ですがわたくしはコザック様に恋はしておりませんでした。ですのでコザック様が心から好きな方が出来た事は、どこか少しだけ羨ましくも思っていたりするのです……
コザック様が不貞を働いていた事、これからわたくしにしようとしていた事、……どれも簡単に許せる事ではありませんが、だからと言ってわたくしはコザック様やそのお相手をどうこうしたいなどとは思いません。
それに、離婚する事まで決まったのです。わたくしがナシュド家の人間となるのは一時。そんな者がナシュド家の今後に深く関わる問題に口出しすべきではないと理解しています。
ですので、ナシュド侯爵が思う様になさって下さって構いません」
そう思いを語ったイリーナの、その少し震える肩に手を置いてゼオも口を開く。
「アイザックよ……
私もコザックを息子の様に思っている。それに私も昔女性でちょっと問題を起こした事がある事をお主も知っているだろう?」
「あら? そのお話知りませんわ?」
「コホン……アイザックよ……
ナシュド家とロデハン家はこれからも隣家として結束していかねばならん。コザックがもし今回の事を反省しそれを挽回出来たなら、今以上に成長するだろう。
失敗を乗り越えた者は強い。人を切り捨てる事は簡単だが、なに、今から考えると時間は3年以上もあるのだ。きっと何か変わるだろう」
「えぇ……
コザック様の相手の方は平民の方でしたかしら? 平民の方は環境の所為で教育が行き届いていないと聞きますが、だからこそ、きちんと勉強出来る環境があれば成長されるとわたくし、思いますの。
コザック様がわたくしと別れてその方と婚姻されるのであれば、3年もあればきっと素晴らしい女性に成長されますわ」
イリーナとゼオの言葉を頭を下げたまま聞いていたナシュド侯爵はぐっと目を瞑ってその言葉を聞いていた。
ロデハン家は成長する者を迎え入れると言ってくれている。
一度過ちを犯した者でも許すと言ってくれている。
その言葉に報いたいと、ナシュド侯爵は思った。
「……感謝する……」
自分の父が自分たちの為に頭を下げたのだと知る事が出来たなら、コザックは変われたかもしれない。
だが、貴族の世界は『知らなかったから』という言葉が通じる世界ではない。
コザックが侯爵家の次期当主候補だったからこそ、ナシュド侯爵は言葉では教えずコザックが自分で気付くのを待った。本来なら出来て当然の事だからだ。期間は3年もあるのだ。
しかしコザックはその3年という長い時間を使っても、何も自分で気付く事は無かった。
侯爵家を預かる者がそれでは駄目なのだ……。
コザックが父から全てを知らされリルナを隠れ家に入れた時から、自分の寝る時間を減らしてでも頭を使い自分の足で人を探して自分も成長する事も考えていれば……リルナはもしかしたらちゃんと教育されて侯爵夫人として少しは近づけたかもしれないし、コザック自身も我が身を振り返って反省しすぐ側にいたイリーナに謝罪する事も出来た筈だった。
ナシュド侯爵はリルナを閉じ込める指示はしたが、コザックが自分で考え動く事の邪魔をしろ等とは誰にも指示していない。コザックが自分の目で見て確認していれば全て気付けた事だった。何もしなかったのは誰でもない、コザックの意思だ。
一度は期待外れな事をしたコザックにもう一度期待したナシュド侯爵だったが、コザックのその成長を放棄した考え方に呆れ果て……コザックに期待する事を止めた。
ナシュド侯爵に長男を切り捨てさせたのは、他の誰でもない、コザック自身だった。
◇ ◇ ◇
明日は遂にイリーナがナシュド家に嫁入りするという日の前日。
ディオルドは結婚式に参列する為にロデハン家の客室に泊まっていた。明日はイリーナ側の参列者として参加する為だ。
そんなディオルドが泊まっている客室の扉が、もう日も回ろうとしている時間に鳴らされた。
「ディオルド様」
聞こえてきたのは公爵家の騎士の声だった。ロデハン家の中で警護を付けるのはおかしいかもしれないが、万が一問題が起きた時、むしろロデハン家には落ち度が無い事を示す為にもディオルドが泊まる客室の廊下に公爵家の騎士が立っていた。
その騎士がこんな夜中に声を掛けてきた事にディオルドは警戒する。何か問題が起きたのだろう。
「どうした?」
扉に近付きディオルドがその外に居る騎士に答える。
「お休みのところ申し訳ありません。
イリーナ様がディオルド様に会いたいと」
「な?! イリーナ?!?」
騎士の言葉を最後まで待てずにディオルドは扉を開けた。そこには夜着用の厚手のガウンを着て、下を向いたまま立っているイリーナが居た。
当然彼女の侍女もその後ろに立っては居るが、明日嫁入りするという女性が来ていい場所ではなかった。
ディオルドは慌てたが、そのままイリーナを廊下に立たせている訳にもいかず、一先ずイリーナを部屋に入れた。しかし二人だけになる訳にはいかないので扉を半分ほど開けたままで自分の騎士とイリーナの侍女に扉の前に立ってもらった。
ディオルドは扉の側に立ったままでイリーナに問いかける。
「どうしたんだ……こんな夜中に……」
「………ディオルド様……」
返事をしたイリーナの声は震えていた。胸の前で組んでいる両手の指先は少し皮膚に食い込んでいて、イリーナの手に力が入っているのが分かる。
「……イリーナ?」
優しく、優しく彼女の名前呼ぶ。
ディオルドに何かを求めているからここに来たのだろう。不安で眠れないのならイリーナが眠れるまでロデハン家の談話室まで移動してそこの大きなソファに寝そべりながら話をしてもいいとディオルドは考えていた。そんなディオルドにイリーナは少しだけ近付いた。
「……イリーナ?」
戸惑うディオルドにイリーナは下を向いていた顔を向ける。
そのイリーナの表情はとても悲しげな、とてもツラそうで、瞳は潤み揺れていた。
「……ディオルド様……どうか……どうかわたくしの我が侭を聞いてくださいませ……どうか……どうか……」
震える唇でそう言うと、涙が溢れそうになったイリーナが慌てて下を向いた。
「……イリーナ……言ってごらん?」
「……わたくし……コザック様の妻になる覚悟は出来ております。お飾りの妻に、自分でなると決めたのです」
「そうだね……」
「でも明日……式では必ず誓いの口付けを皆様の前で行わなければいけません……したふりではなく、ちゃんと夫婦になる事を参列者の方に見てもらわなければならないと言われましたの……唇を合わせなければいけないと…………」
「…………」
「妻の役をやると決めたのはわたくしです。だから……分かってはいるのです……ただ唇を合わせるだけだと……一瞬の事だと、理解している筈なんです……でも……でもどうしても考えてしまって……っ、わたくしの何かを、わたくしのここに初めて触れるのがコザック様なのだと思うとわたくしどうしても体が震えてしまって……っ、、
こ、こんな事いけない事だと分かってはいるのですがっ、、許される事ではないって分かっているのですがっっ、……わたくし、この唇が触れるのは、最初に触れるのはあの方じゃなくてディオルド様がいいと、……っ、思ってしまっ」
イリーナはそれ以上喋る事は出来なかった。
涙をポロポロと流しながら自分の心と葛藤するイリーナは酷く儚く見えた。ルールだからと突き放す事は簡単だがそのルールを守って誰かの心を傷付けるのならディオルドはルールを破る事を選択する。責任は自分が取る。
ディオルドは泣きながら喋るイリーナの唇を自分の唇で塞いだ。
その瞬間体を硬直させたイリーナから一度唇を離すと
「……誰かに何かを言われたら、私に奪われたのだと言いなさい」
と、イリーナの目を見て囁き、今度は彼女の体全てを包み込む様に抱きしめるともう一度優しいキスを落とした。
「……! …………」
目を見開いて驚いていたイリーナは二度目の口付けで安堵した様に目を閉じ、自分を包み込んでくれるディオルドの体を抱き返した。
ずっと冷たくなっていたイリーナの体が温かく溶かされていく。
「…………ディオルド様……」
唇が離れるとイリーナは自然とディオルドの名を呼んでいた。抱きしめられたまま、ディオルドの肩へと頭を預けたイリーナはその温かさに目を閉じる。
こんなに安心出来たのは久しぶりだった…………
「…………」
「………………おや?」
少しの時間立ったままイリーナを抱きしめていたディオルドが体の重さを感じてイリーナの顔を覗き込むとなんとイリーナは寝息を立てていた。
「……随分緊張していたのだな……」
眠るイリーナを労る様に抱き上げたディオルドは小さな声で直ぐ側の扉の外に居る侍女と騎士に声を掛け、驚く二人を引き連れてイリーナを彼女の寝室へと運んだ。
次の日、自室のベッドで目を覚ましたイリーナが真っ赤な顔で悶えたのは言うまでもない。
◇ ◇ ◇
結婚式が滞りなく終わり、ナシュド家で行われた披露宴も中程という頃にコザックは疲れたと言って先に退席した。
イリーナはなんとなくそうなるのではないかと思っていたので驚きもしなかったが、これに怒ったのはコザックの母エルザだった。
実はまだエルザはコザックの不貞を直接的には聞いてはいなかった。ナシュド家とロデハン家との間に取り決めた秘密の約束をエルザに教えると、不貞を嫌うエルザの態度からコザックが勘付くかもしれないと思われたからだ。だからエルザは普通に新婦に対する態度が悪いとコザックに腹を立てていた。この後更に彼女の頭の血管は怒りで切れそうになるのだが、今はまだ礼儀のなっていない息子に不満を漏らす母の顔で怒っていた。
新郎が居なくなった事で、ただ飲みたいだけの人たちを置いて宴は早めに切り上げられた。参加者たちはイリーナとコザックの関係に疑問を持つ事もなく、初々しい二人の態度──に見える──に緊張しているんだな分かるよなんて笑ったりもした。
これから3年間、殆ど会う事が出来なくなるかもしれなくて、イリーナは周りにバレない様にディオルドの背中を見つめた。ディオルドとは父経由で手紙のやり取りが出来る事になっている。それでもやはり寂しくて……昨日の唇の温かさを思い出してしまってはイリーナは人知れず顔を赤くした。
既にコザックの唇など虫に刺された扱いだった。
後ろ髪を引かれながらも帰って行った父とディオルドやその他の客を最後まで見送ったイリーナは姑となったエルザに「後は任せなさい」と言われたのでお言葉に甘えてナシュド家の別邸にある自室へと入った。
披露宴用の豪華なドレスを脱ぎ、湯浴みをゆっくりとした後、本来なら寝間着を着るところだったが、まだ寝る気が起きなかったイリーナは普段着へと着替えた。
疲れているであろう侍女たちをまた着替えの時に呼ぶからと下がらせ、自室で一人になる。
これからの事を考えると少しだけ溜め息が出そうになるが、忙しくもなるだろうとも考えて、イリーナは自分の執務机へと座った。
今急いでしなければいけない仕事はないが、なんとなく机に向かう。
体も頭も疲れているはずなのに眠気は起きない。
なんとなく時間を潰すかの様にペンを走らせていたイリーナの耳にバンッという扉の音が響いてイリーナの体がビクリと揺れた。
「イリーナ!
俺がお前を抱く事は無い!!」
突然部屋に入ってきて騒ぐコザックにイリーナは驚きよりも呆れの方が大き過ぎて直ぐに反応が出来なかった。披露宴から今までコザックが何をしていたのか……まぁ知りたくもないが、新妻を放っておいてどこに行ったかと思えば戻ってきて言う言葉がこれとは、この男の頭はどうなっているのかと心底呆れてしまう。
あまりの馬鹿さ加減にイリーナはもう淑女の顔すら出来なかった。
「夜にいきなり人の部屋に来て何を言い出すかと思えば……
当然です。
気持ちの悪い事を言わないでくださいませ」
そこまで言ったらもう口が止まらなくなった。
「貴方との婚姻は政略以外の何物でもございません。
3年後に白い結婚を理由に離婚する事も決まっております。
これは両家の現当主、わたくしたちのお父様たちが正式に書面にて契約を交わしておりますわ。
……まさか結婚式の中で誓いのキスをしたから本当にわたくしが貴方に心から誓いを立てたとでも思ったのですか?
自分は嘘の誓いを立てたのに?
事前にお父上から話を聞いて居られないのですか?
この婚姻の事を何も理解しておられないのですか?
わたくしと貴方の部屋を右の端と左の端にして一番離したというのに、こんな時間にわざわざそんな事を言う為に来られるなんて驚きを通り越して呆れますわ。
なんです? わたくしが貴方に惚れるとでも……まさか、惚れていたとでも思ったのですか?
どこまで単純な思考をお持ちなんでしょうか……羨ましいですわ……
ほんと、安心して下さいませ。
わたくしが貴方様を恋しく思う事も愛する事もございません。
これは政略結婚です。
妻としての表向きのお仕事はいたしますがそれ以外をわたくしに求めないで下さい。
さぁ、理解されましたら二度とこちらの部屋には来ないで下さいませ」
途中、コザックが口を開こうとしたがイリーナはそれを聞く事はなく話し続け、イリーナの為にロデハン家から派遣されていた騎士の名を呼びコザックを部屋から連れ出してもらった。
まさか部屋に来るとは思わなかった。
夫婦の寝室が無い事にコザックは今の今までおかしいと考えなかったのだろうか?
イリーナはその事にも呆れて溜め息を吐いた。
あまりの事につい頭に血が昇ってしまった。いままで少しずつ貯まっていた不満が一気に口から出てしまった気がする……。
ちょっと……かなり言い過ぎてしまった様な気がしてイリーナは少しだけ申し訳ない気持ちになった……
だが、どう考えてもコザックの方が駄目な事をしているので、一度くらい不満をぶつけても良いわよね……と考え直してフンスと鼻を鳴らした。
コザックはきっとイリーナがしおらしく寝室でコザックを待っていると思っていたのだろう。お前を抱かないと言えばイリーナが泣いて縋ると思ったのだろう。他に女を作って婚約を解消もせずに何食わぬ顔で結婚し3年後の白い結婚を目論む男だ。そんな考えでもないと初夜に新妻の居る寝室には来ないだろう。
長年の婚約者の本性がこんなにも醜悪だったのかとイリーナは少し悲しくなった。コザックにそこまで嫌われてしまった理由に見当もつかない。
これからの3年間、大変だろうなぁ……と、イリーナは水差しの水を飲みながらそう思った……
次の日会った、舅となったナシュド侯爵にコザックに事前に知らせていなかったのかとイリーナが聞くと、ナシュド侯爵は手紙で知らせたのにコザックがそれを見なかったのだと言ったので、あぁコザックは本当に駄目になってしまったのだなぁとイリーナは少しだけ寂しくなった。