>> はじまり
※単純に「ざまぁ」話が書きたかった後のその補足の話になるので矛盾が出てくると思いますが矛盾しているなと思ってもらえると助かります(;´∀`)
「イリーナ義姉様に見てほしいものがあるんだ」
そう声を掛けてきたのは婚約者の弟のフィザックだった。
「あらなぁに?」
婚約者との親交を深める為にナシュド侯爵家で行われていたイリーナとコザックの二人だけのお茶会が終わり、イリーナが帰ろうと玄関に向かっていたところに声を掛けてきたフィザックは少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。
その表情を少し不思議に思いながらもイリーナは呼ばれるままにフィザックの後について行った。
イリーナ17歳。
後半年もすればナシュド家に嫁いでくる。既に花嫁衣裳など必要な物の発注などは終わっている。今日も婚約者のコザックと今後の話で盛り上がった。
コザックの弟のフィザックは二人の2歳下になる。少し前までイリーナより下にあったはずの顔は今はもうイリーナと同じ高さか、少し上になったかもしれない。これからまだ伸びるのかと思うと義姉となるイリーナも楽しみだった。
そんな『義弟』となる男にイリーナは警戒心なく付いていく。自分付きの侍女もいるし、そもそも婚約者の家でその弟に警戒する事は何もない。コザックと10歳で婚約してもう6年程も経つ。フィザックにも仲の良い婚約者がいるし、彼を“男”として見る機会はついぞイリーナには訪れなかった。
イリーナにとってフィザックはもう既に本物の『弟』になっていた。
そんな義弟に連れられてイリーナが入ったのはナシュド家の3階にある書庫として使われている部屋だった。日の光が入らないように閉めきられた厚いカーテンの下から仄かに窓からの光が漏れている。その光と廊下から漏れ入った光が室内を照らして暗いが見えない暗さという程ではない部屋の奥へフィザックは入って行く。本棚の間にある窓のカーテンを少し開いて外を覗き見たフィザックが「丁度良かった」と小さく呟いてイリーナを呼んだ。
「ここからこっそり下を覗いて見てください。左側の下です」
そんな事を言ってイリーナに場所を変わる。真剣なその表情にイリーナは不思議に思いながらも義弟の言葉に従った。
「? …………っ!?」
眼下に見えたものは……
庭園の生け垣の影で抱き合うコザックと女性の姿だった……
「……え? ……コザック様……???」
「はい……あれは間違いなく兄コザックです……」
後ろから返ってきたフィザックの言葉にイリーナは震えた。
自分の婚約者であるはずの男性が知らない女性と抱き合っている。体を離しても2人の距離は近く、互いの肩が触れ合う距離で話し合っている。その近さは友人だと言われたところで到底信じられるものではなかった。貴族の教育を受けているのなら尚更、異性との距離間は教えられている。まず婚姻前に異性と人目の無いところで2人っきりで会う行為自体が禁止されている様なものだ。それなのにコザックは自ら隠れて女性と会っている様にしか見えない。
しかも……
「っ!?」
イリーナの見える角度からはコザックが女性に口付けをした様に見えてイリーナは自分の口元を手で押さえて悲鳴を耐えた。
──不潔っ!!──
貴族の淑女として教育を受けてきたイリーナにはあり得ない光景だった。
「義姉様には知らせなきゃって思ったんだ。
だって酷いじゃないか、こんな事……
僕には兄上が何を考えてるのか分からないよ……」
フィザックはギリッと歯が鳴る程に奥歯を噛み締めた。実の兄には失望した。フィザックは婚約者を愛していたのでそんな婚約者を裏切る行為をしている兄が信じられなかった。
こんな事をイリーナに知らせてはイリーナが傷付くのは分かってはいたが、既に裏切り行為が起こっているのだ、それを秘密にして、無かったことにして何も知らない顔でイリーナを義姉として慕って弟の顔をする事はフィザックには出来そうになかった。
──先にイリーナ義姉様を裏切ったのは兄上だ。それを無かった事にしてイリーナ義姉様と笑い合うつもりでいる兄上を僕は受け入れられない……──
フィザックはその思いからイリーナに真実を教えた。婚姻後に兄の裏切りを知るより断然ましだと思ったから。
「……この事をナシュド侯爵は?」
「……分かりません……
父の事だから気づいているとは思うのですが……」
震える声でイリーナに問われフィザックは目を伏せながらそう答えた。自分の父なら既に知っている気がするが、まだ父が動いている様には思えない。
「フィーからは知らせていないの?」
“フィー”と実の弟の様に愛称でイリーナから呼ばれる音がフィザックは好きだった。そんな事を頭の隅で感じながらフィザックはイリーナと目を合わせる。
「僕からはまだ伝えていません」
「なら……フィーの口からはまだ教えないで……
わたくしからナシュド侯爵に伝えたいわ……」
婚約者の不貞行為を実の家族から言われるのと、婚約者本人から言われるのとではその後の立場が変わる。イリーナも侯爵家の令嬢として守る立場があるのだ。その事を感じ取ったフィザックもまた己の立場を考える。
「……分かりました。
僕は義姉様の味方です。兄の不貞の証言をこちらでも集めておきますね」
「ありがとう……」
イリーナは冷たくなってしまった指先を包む様に両手握り、胸に両手を当てて目を閉じた。寄せられた眉が声に出せない悲痛な声を代弁している様に見えた。
吐き気がする。目眩がする。体の体温が下がっていく。強張るのに震える。視界が暗くなる。
イリーナはどうしても浅くなる呼吸を静かに繰り返して自分の体を自制しようとするが何故か上手くいかない。
「…………」
「……大丈夫ですか?」
イリーナの異変に気付いたフィザックが心配げに声を掛ける。
だがそれに微笑を浮かべてイリーナは大丈夫と返した。
気丈に振る舞い一見いつもと変わらない姿で歩くイリーナの姿にフィザックは罪悪感を覚える。
やはり知らせない方が良かったのだろうか……
そんな事を考えてしまう。
知らなければイリーナ義姉様は傷付かず、今も変わらずに笑っていただろう。コザックが完璧に偽装して嘘を突き通していればイリーナ義姉様は一生知らずに笑って……
「フィザック」
暗い書庫で立ち尽くしていた義弟となる予定の男をイリーナは振り返る。名を呼ばれて後悔を滲ませた顔を向けたフィザックにイリーナは悲しげな笑みで微笑んだ。
「教えてくれてありがとう」
イリーナの言葉にフィザックも悲しげに微笑み返した。
◇ ◇ ◇
帰りの馬車の中でイリーナは考える。
長年の婚約者から裏切られていたとは思わなかった。
今日のお茶会でもいつもと何も変わらなかった。
コザックは気は利かないが悪い婚約者では無かった。問題を感じた事もない。
そういえば……と、ふとイリーナは昔の事を思い出す。
コザックと婚約者となった初めての二人だけのお茶会。お互いにそれまでただ親に連れられて会った事のあるだけの友人だと思っていたのに突然婚約者となったのだ。なんだか不思議な感じだった。
親たちがどうにかまだ10歳の二人に互いを異性として意識させようと用意した二人きりの時間に、コザックもイリーナも戸惑いながらもどうにか会話をしなければと思っていた。目を彷徨わせソワソワしながらも先に口を開いたコザックが
「イリーナ様は」
と、言ったのでイリーナはハッとしてコザックに
「イリーナで構いませんわ、コザック様」
と言った。婚約者となったのだから敬称は要らないだろう。イリーナとしてはその後『じゃあ俺の事も』と続くと自然と思っていた。しかしコザックは
「そうか、分かった。イリーナは……」
と、そのまま別の話が始まってしまった。『あれ?』とイリーナも思ったが、そのままイリーナが話を戻すきっかけを掴む事が出来ないまま、その日は終わってしまった。
その後、なんだか有耶無耶になってしまって、イリーナも今更『わたくしも呼び捨てにするわ』と言い出せずに、イリーナは未だ婚約者の事を様付けで呼んでいる。家の家格は同じなのだからその必要はないのにだ。それをコザックは不思議にも思ってもいないようだった。
そういう小さな小さな歪みが広がって今がある気がした。
お互いがお互いに“恋”をする事が無かった。
だが、だからと言って……
「他に恋人を作るのは違うわ……」
イリーナの口からポツリと言葉が漏れた。いつの間にか合わせていた両手の指に力が入り爪が皮膚に食い込む。困惑が徐々に怒りへと変化する……
「勿論ですわお嬢様。
お嬢様の事を馬鹿にしております!」
一緒の馬車に乗って向かいに座っていた侍女がイリーナの言葉を聞き取りイリーナよりも分かりやすく怒りを顔に出して同意した。彼女はイリーナの後ろでずっと見聞きしていた。コザックが不貞を働いている場面自体は目にしていないがイリーナとフィザックの言動を見てずっと密かに腹を立てていた。ウチのお嬢様を虚仮にした! 顔に一切出す事なく怒っていた。
「……フフ、ありがとう。
……この事はお父様には……」
眉尻を下げてそう言ったイリーナに侍女は頷きながら返事をする。
「分かっております。今日見聞きした事はお嬢様の指示があるまでは誰にも言いません」
その返事にイリーナは安堵して微笑んだ。
侍女にそう言ったものの、イリーナは父にコザックの事をどう伝えればいいのか悩んでいた。
コザックの裏切りは許せるものではない。
恋をしていなかったから二人は“恋人”では無かった。コザックが“恋”を知ってその相手の女性に目が向くのは仕方がないと思う。でも、だからといって婚約者が居る身で婚約者以外に恋人を作るのは絶対に間違っている。だからフィザックだって黙っては居られずにイリーナに教えてくれたのだ。あんなにツラそうな表情をしていたのだ。
何を理由付けしようともコザックがしている事は『不貞行為』だ。それを知ってしまった今、イリーナはコザックの事をもう信じる事は出来ない気がした。だが………
『コザックと婚約を解消して別れます』
と、簡単に言えない事情がある事をイリーナは理解していた……
カタン。
と、小さな揺れの後に馬車は止まった。考えに耽っていたイリーナが扉が開けられた音と共に立ち上がる。向かいに座っていた侍女がササッとイリーナの身なりを整え、扉から降りようとするイリーナのドレスの裾を持って形を整える。
ギシッ……
御者が用意した踏み台に足を下ろしたイリーナに横から手が差し出された。
「お手を……」
「えぇ……」
手を差し出した相手を見ずにその手を取ったイリーナは何も考えずにその手を支えに馬車を降りた。
だが意識して見ていなかった視線の隅に映った、イリーナの手を支えている男性の、御者や使用人が着る服とは全然違う身なりに気付いてイリーナはその人物へと視線を向ける。
そこに立っていたのは
「まぁ! ディオルド様っ!?」
「やぁ。おかえり、お嬢様」
驚いたイリーナに微笑み返す男性はイタズラが成功した事に気を良くしてイリーナにウインクして見せた。
ディオルド・ヤーゼス。
ヤーゼス公爵の現当主である男は、イリーナの父 ロデハン侯爵とディオルドの父が存命だった頃から親しくしていて昔からよくロデハン家に来ていた。今日もイリーナの父と話をしに来ていてその帰りに丁度イリーナが帰ってきたのだった。
「今日はどこへお出掛けだったのかな?」
会話のきっかけに、ディオルドは軽くそんな話をイリーナに振る。いつもの様にイリーナが楽しそうに世間話をしだすだろうと思っていたディオルドの目に一瞬だけイリーナの表情が曇ったのが見えた。それを誤魔化すかの様に苦笑して見せたイリーナが右手を口元に当てて笑う。
「今日はナシュド家に行ってまいりましたの。コザック様とお茶をして来ましたわ」
「……そうなのか。
良かったら私とも少し話をしないか? ロデハン家の自慢の庭園を見ながらね」
突然そんな事を言うディオルドにイリーナは顔を綻ばせた。
「まぁ! 是非!」
「ではお手を、お嬢様」
「フフフ、失礼致します」
ディオルドから差し出された腕にイリーナは手を添えてエスコートを受ける。年上の男性から受ける、その少しだけ遊び心を含んだ誘い言葉にイリーナの心は途端に少女の様な気持ちになる。普段なら“お嬢様”などと呼ばれる様な相手ではない。公爵閣下と侯爵家の令嬢。歳だって7歳も離れている。“小娘”と呼ばれたって反論出来ない相手であるのに、ディオルドはイリーナを時々こんな風に呼んでは楽しませる。
そんなディオルドと会話をするのがイリーナは好きだった。
◇ ◇ ◇
「いつ見てもこの庭園は美しい」
ディオルドがロデハン家の庭園を見渡して溜息をつく。
「母が喜びますわ」
一年中いつでも花が見れる様にと作られた庭園はいつ来ても花が溢れている。その中をゆっくりと歩き2人が足を止めた場所には緩やかに大輪の白い花が咲き誇っていた。
その花をディオルドは見つめる。
「……この花をネミニアは自分の庭でも咲かせようと頑張っていたんだ。でもどうにも上手くいかなくてね……今年は咲きもしてくれていないんだ……何が違うのかなぁ……」
花を見ながら呟く様にそう言ったディオルドの顔をイリーナは見上げる事が出来なかった。
「……母に、一度見に行ってもらってはどうでしょう?」
「夫人の手を煩わせては悪いかと思ってね」
「母はむしろ喜びますわ。人の家の庭園を見て、わたくしならこうするのに、ってよく言っておりますもの」
「なら頼んじゃおうかな……」
「フフ、母も喜びますわ」
そう笑って、やっとイリーナはディオルドの顔を見た。ディオルドは眉尻を下げて笑っていた。
何気無い会話の奥で小さな悲しみが揺れる。何も知らない者にはそこに悲しみの種がある事にも気づく事は無い。
だが確かに美しい花を見ている2人の心の中には悲しみと寂しさが芽生えていた。
ネミニア。
ディオルドの亡き妻。
3年前に出産時に問題が起きて子と共に21歳の若さで儚くなったヤーゼス公爵夫人。
同い年のディオルドとは子供の頃からの婚約者で、2人は幼馴染であり友人であり婚約者であり、恋人だった。
そんな2人と父の関係でイリーナも親しくさせてもらっていた。
イリーナにとって、仲の良い2人は憧れだった。
ネミニアを優しく労り愛おしげに見つめるディオルドがイリーナにとっては理想の男性だった。あの気持ちがもしかしたら恋だったのかもしれないと、恋心がよく分からないイリーナは思っている。
8歳の時にディオルドとネミニアを見てときめいていたイリーナが10歳の時に婚約者がコザックに決まった事を少しだけガッカリした事は、実はイリーナ自身も自覚していない。
イリーナにとってディオルドは憧れの男性ではあるが、出会った時からディオルドにはネミニアという婚約者がいたので、イリーナの中ではディオルドは『恋愛対象外』の人となっていたのだ。
それでも“憧れの人”であり“尊敬する人”である事には代わりがないので、イリーナにとってディオルドは家族や婚約者以外では唯一の『特別な人』の位置にいた。
そんな『特別な人』の『最愛の人』が亡くなった時、イリーナも人生で一番のショックを受けた。それも“宝”となる筈の子供と共に居なくなったのだ。まだ産まれていなかったといっても、既に彼女と共にそこに存在していたのだ。イリーナは今でもネミニアに触らせて貰ったお腹の胎動を覚えている。温かさを覚えている。どんな“人”が産まれてくるのだろうかと想像した記憶を覚えている。
それが全て一瞬で消え去った事も何もかもを覚えている。
赤の他人のイリーナでもそれなのだ。家族であった、夫であった、父であったディオルドの絶望は誰の想像にも理解出来ない程に酷かっただろう。実際ディオルドはショックのあまり骨が浮く程に痩せ細り自死を考える程になった。誰の言葉も聞こえず、ただ無くなった腕の温もりを思い出そうと必死になった。妻に、子供に、置いて行かれた事に嘆き悲しんだ。
そんなディオルドを見ていられなくてイリーナは必死に寄り添った。子供の自分が何をしても意味が無いのは分かってはいたが、何もしないでいる事が出来なかった。だが、イリーナがまだ子供だったからこそ、傷心のディオルドはイリーナを他の人達の様に邪険には出来なかった。ネミニアが妹の様に可愛がっていたイリーナを邪険には出来ず、ディオルドに必死に話しかけてくれる声に少しづつディオルドは癒やされていった。
『ニア姉様の為に』
ネミニアの為に……。同じ言葉を他の人の口からも聞かされていたのにイリーナの言葉だけはディオルドの心に届いた。生前ネミニアがイリーナの事を本当の妹だったら良かったのにと言っていたからかもしれない。ネミニアが信じたイリーナの言葉なら信じる事が出来た。
絶望にいたディオルドが前を向けたのはネミニアの性格のお陰でもあった。彼女は一人寂しく泣く女性ではなかった。幽霊話に出てくる様な『寂しいから一緒に来て』なんていって生者を死なせる様な事は言い出さないと直ぐに想像出来る程だった。
だから、ディオルドは前を向く。後を追えば彼女から『最低』と言われてしまうのが目に見えているから。
……それでも、寂しいものは寂しい。
ネミニアが居なくなった隙間を埋めるものは何もなく、彼女の好きだった物を大切にする事でなんとか隙間がそれ以上広がらない様にしていた。
「……ディオルド様はニア姉様と喧嘩した事がありますか?」
ネミニアの好きだった白い花を見ながらイリーナが呟く。それは質問ではあったが、ディオルドの耳に届かなければそれはそれで構わないという程にサラリと流れる様な声だった。
「……そりゃ……よくしたよ。
彼女は気が強かったからよく怒られたよ」
「それって“喧嘩”、なのですか?」
小首を傾げたイリーナにディオルドは苦笑する。
「一方的に怒られたとも言うかなあ。
喧嘩はどうだろ? 俺が彼女に頭が上がらなかったからなぁ……」
過去を思い出しながら話していた所為か、一人称が砕けた事にも気付かずにディオルドは懐かしむ様に微笑んで空を見上げた。
「……許せない事など……お二人の間には起こる筈などございませんわよね……」
小さな溜め息と共に溢れ落ちたイリーナの言葉を聞き取りディオルドは不思議そうにイリーナを見た。
イリーナはただ目の前の白い花をは見て思いに耽る。殆ど変わらない様な関係なのにコザックと自分はディオルドとネミニアの様な関係にはなれなかった。それぞれ違う人なのだからそれは仕方のない事なのだが、イリーナの中では虚しさが広がっていく。
コザックに恋を出来なかった自分がいけないの?
コザックが好きになれる女性になれなかった自分が悪いの?
そんな考えが浮かんでは消える。
「イリーナ」
ディオルドから呼ばれてイリーナはハッとする。数回瞬きをしてディオルドに目を向ける。思考に引き込まれそうになっていた自分に苦笑したイリーナの目に真剣なディオルドの顔が映った。
「イリーナは私の大変な時に側にいて私を助けてくれた。だから次は私の番だよ。
何かあった時にはいくらでも相談してくれ。大抵の事なら公爵家の権力でなんとでもなるから」
真剣な顔でそんな事を言う王家の次に権力のある家の当主に、イリーナは一瞬面食らって、そして直ぐに小さく吹き出して笑った。
公爵家の権力を使って何をすると言うのか。
イリーナはそんな事を言ってくれる程に、自分の事を気にかけていてもらえている事に安堵して笑う。
「ありがとうございます、ディオルド様。
何かあった時はお願いしますね」
フフフ、と戯ける様に微笑むイリーナの顔に先程まであった憂いの色が無くなった事に安堵したディオルドも柔らかく微笑んだ。
◇ ◇ ◇
「白い結婚……ですって?」
「えぇ。兄は侍従に“白い結婚”について聞いたそうです」
話がしたいとフィザックから手紙を受けて、イリーナとフィザックはロデハン家の庭で話をしていた。
イリーナはまだコザックの事を父に言えずにいた。
「イリーナ義姉様。
改めて、謝罪させて下さい。
ウチの兄が本当に申し訳ありません」
立ち上がりそう言うと頭を下げたフィザックにイリーナの方が慌ててしまう。フィザックに謝ってもらう事などではないのだ。
「フィー止めて!
貴方が頭を下げる事ではないわっ」
「いえ、兄上と義姉様の婚約は家が結んだ物です。でしたら家族である僕も無関係ではありません」
「でも……」
「兄上に付いている侍従も、申し訳ありませんでした、とイリーナ義姉様に伝えて欲しいと言葉を預かっています」
「なぜ侍従の者まで……」
イリーナは焦りながらもフィザックのその手を引いて椅子に座らせた。そして続けて言われた言葉に困った様に眉尻を下げてフィザックの目を覗き込んだ。
「どうもその侍従が私用で休んでいる間に兄上と出入りの女性とが接触してしまった様で、彼は自分の落ち度だと思った様です」
「まぁ……そんな……
…………こんな言い方は良くないかもしれませんが……
コザック様は幼子では無いのですから侍従がそこまで目を光らせるものでは無いのでは?」
イリーナの困った様なその言葉にフィザックも眉尻を下げて溜め息を吐く。
「そう……なんですよね……
侍従が付き従ってると言っても彼らはあくまで我らの補佐をする為に居てくれている存在。
彼らから父に報告が行く事はありますが、だからと言って我らは彼らに監視されている訳ではないので、兄上が勝手にやった事まで侍従の責任になったりはしないのですよね……でも彼としては、彼が私用で少し休みがちになった時に兄が相手の女性と出会ってしまった様で、自分がちゃんと仕事を出来ていればと思っている様です」
「そんな……それこそ侍従の責任が多過ぎですわ。使用人たちには使用人たちの生活があるのですから。
……わたくしたちがもっと幼ければ違うかもしれませんけれど……」
やはりその結論になってしまいイリーナは困った様に頬に手を当てて小首を傾げた。
コザックがもっと子供であれば『目を離した侍従が悪い!』と言われるだろう。だがコザックは既に成人となる。成人になったばかりだからといって『まだ本人に自覚が……』なんて守られていていい存在ではない。むしろ本人自身が侍従を欺いて一人の時間を作っているなら侍従にはどうにも出来ないだろう。
「イリーナ義姉様にそう言ってもらえて助かります。これは兄上自身で自制しなければいけない問題です。侍従の目が届いてなかったからなんて言い訳は出来ませんよね」
少しだけホッとした顔をしたフィザックにイリーナは苦笑するしかなかった。
「それで、話を戻しますが。
その侍従に兄上が“白い結婚”について聞いたのです。侍従は説明した後に何故そんな事をと聞き返したそうなのですが、兄上は笑ってはぐらかしたそうです」
「白い結婚……ねぇ……」
イリーナには馴染みは無いが淑女教育で聞いた“白い結婚”についての知識を思い出しながら呟いた。
そんなイリーナの呟きを拾ってフィザックは口を開く。
「白い結婚は、一部の男の間では『3年間も一緒に居たのに手も出されない程に女として魅力のない証拠』とか言われていますが」
「まぁ」
「本来『女性から離婚する為の正式な理由』や『純潔を重んじるこの国で再婚する女性の名誉と憂いを無くす為の証明』という扱いなんですよね。再婚の為に白い結婚だったと偽証しようとする人も居ると聞きました。
……どう考えても兄上は前者の考えで理解してそうですけれどね」
「……わたくし、コザック様に嫌われる様な事をしたかしら……」
白い結婚に対する一部の人のイメージが思いの外悪くてイリーナは顔を顰める。本来ならば淑女としてはしてはいけない表情であったが、今一緒に居るのは実の弟と言ってもおかしくない程に気を許した義弟予定の男なので、イリーナは気を張らずに振る舞えている。
「義姉様に問題があったなんて僕は思いません!
僕にはむしろ、他に恋人を作った兄上が自分の都合良く義姉様と別れたがっている様に思えます」
「なら婚約解消を……」
そこまで言って、イリーナは口を閉じた。フィザックもイリーナが言いたい事が分かって真剣な顔をして一度だけ頷いて見せる。
「兄上も簡単に婚約解消が出来ない事が分かっているのでしょう。
それに今、イリーナ義姉様と婚約を解消して意中の女性と一緒になりたいと言ったところで兄上には何も残りません。
相手の女性が貴族で、そこそこの家格の家の令嬢であれば話し合う価値もありますが……そうで無いのであれば、兄上の望む地位は手に入らないでしょうね」
そう言ってフィザックは呆れた様に肩を落とした。
兄弟だからずっと側で見てきた。貴族の兄弟としては仲は良い方だ。
フィザックは侯爵家の当主の座を欲してはおらず、早い段階から父親から伯爵位を譲ってお前を伯爵家当主とすると言われてきた。婚約者もその予定でフィザックと婚約してくれている。そんなフィザックに兄コザックは自分がこの家を継ぐのだと、次期ナシュド侯爵家当主は自分だと話していた。父の執務室にこっそり入って父しか座る事が許されていない椅子に座って笑っている兄の姿を今でもフィザックは覚えている。
そんな兄だから……“白い結婚”などと言い出したところで驚く事もなかったし、変な納得と共に、浮気で下っていた兄への評価が更に下方修正されただけだった……。
「……わたくしと結婚して、爵位を継いで、その後でわたくしと別れて想い人と再婚する感じかしら……」
呆れた声で言われた言葉にフィザックも納得する。言葉にすると想像よりも最低な事をしたがっている様に感じてさらに嫌悪感が増した。
「そう考えていてもおかしくはないですね。
再婚の時に家格まで気にしている家はあまりありませんから……」
この国には後妻に男爵家の若い令嬢を指名した侯爵家の当主や、娼館から身請けした平民女性と再婚した伯爵なんてのも居る。親族が多ければそんな行為を誰かが止めるだろうが、当主の血筋を途絶えさせる訳にはいかない家では、一瞬平民の血が混ざろうとも“本家の血筋”が残る方が大事だと考えそれを許すのだ。
だからナシュド家当主となったコザックがイリーナとの離婚後、どんな女性と再婚しても世間的には問題はないのだが…………それを身内が許すか? と問われれば、フィザックは当然ながら許さないだろうし、フィザックの父でコザックの父でもある現当主が存命の間にそれを許すとは思えなかった。
フィザックはなんだか頭が痛くなってきた様な気がしてこめかみに手を添え目を閉じた。
兄はきっと、自分が当主になってしまえばどうとでもなると思っているのだろう。事実、このまま問題が起きなければコザックが必ずナシュド侯爵家次期当主となる。コザックは仕事は出来るのだ。社交にも問題は無い。だが、浮気して婚約者を将来白い結婚で恥をかかせた上に離婚する計画を立てているであろう男をこのまま野放しに出来る程、フィザックは心無い男では無い。義姉様と慕うロデハン家の令嬢に恥をかかせる気にはならない。
どうにかして……
「白い結婚……か……」
悩みに頭を痛めていたフィザックの耳にイリーナの呟きが聞こえる。目を向けたフィザックの目を見返したイリーナが真剣な顔でフィザックを見る。
「……ねぇ……もう少しだけ、わたくしに時間をくれない?」
「……何か、考えがあるのですか?」
「もし……もしわたくしにも違う選択肢が選べるとするのなら、選んでみたい事があるの」
真剣な顔でイリーナはそう言った。
キュっと握られたテーブルの上のイリーナの白い手が何か覚悟を決めた様にフィザックの目には映った。
「……では僕はイリーナ義姉様からの連絡を待ちますね。父が動きそうなら止めておきます。義姉様の気持ちが第一ですから」
何を、と問う事もせずに受け入れたフィザックにイリーナは微笑む。
「ありがとう」
本来ならばフィザックと変わらないくらいにはコザックだって優秀なはずだった。なのに何故かそのコザックの為にイリーナたちは頭を悩ませなければいけない。
でもイリーナは少しだけコザックを羨ましくも思っていた。
──恋に溺れた者はおかしくなる──
何かの本で読んだ気がする。
イリーナにはきっと一生知る事のない精神状態なのだろうと好奇心が少しだけくすぐられる。
ただ、同じ状態になりたいかと聞かれれば、お断りするけれど。
◇ ◇ ◇
「先日ぶりだね」
ディオルドに会う為にヤーゼス公爵家を訪れていたイリーナにディオルドが笑いかける。
公爵家のテラスに用意されたお茶の席で、離れた場所には執事も侍女もメイドたちも並んでいる。婚姻前のデリケートな時期の女性と二人で会う為の配慮だ。二人で会ってはいるが、決して“二人だけではない”。これが出来ていない時点でコザックには不貞行為の言い逃れが出来ないのだ。
イリーナは自分を笑顔で迎え入れてくれたディオルドに淑女の礼と笑みで返して挨拶から軽い世間話を少ししてから本題を切り出した。
緊張で指の先が冷たくなっていたが震える事だけは抑える事が出来た。
「…………ディオルド様は、再婚のご予定はありますか?」
先程まで浮かべていた微笑みが消えて、緊張した面持ちでそう訪ねてきたイリーナにディオルドは不思議に思ったが隠す事もはぐらかす事もないので世間話をする様に答えた。
「恥ずかしながらそういう話はないんだ。周りからの急かす視線には気付いているんだけどね……
ネミニアが行ってしまってからもう3年……だけど、まだ3年しか経ってなくて…………
公爵当主として血を残さなければと分かってはいるんだけどどうしても新しい女性と一から始める気にはなれないんだ……
ほら……再婚になるだろ?
後妻にどうだって勧められる女性の大半が、問題があって離婚した女性だったり、逆に婚約者が決まる前の若過ぎる子だったりしてね……
ネミニアが儚くなったと聞いた途端に自分の婚約を解消して公爵家当主の後妻の座を狙ってきた女性とかもいてね……どうにも疑って見てしまう様になってしまったんだ……」
眉尻を最大限に下げてディオルドは苦笑した。このままではいけない事はディオルド自身にも分かってはいる。
ネミニアと結婚して直ぐの頃、彼女に言われた言葉をディオルドは忘れずに覚えている。
『わたくしに子供が出来なかったら別れましょう。貴方は公爵家当主です。貴方の血を残す事を一番に考えなければなりません。その為ならわたくしは貴方を捨てる事も厭いませんわ』
真剣な目でそう言ったネミニアは美しかった。
『俺が捨てられるのかい?』
そう返したディオルドにネミニアはフフっと笑ってこう言った。
『えぇ、わたくしが捨てて、わたくしが次の女性にディオを譲るの。貴方の為ならそれくらい出来るのよ? わたくしの愛は』
捨てるなんて言いながら愛を囁き優しく抱き締めてきたネミニアをディオルドは生涯忘れる事はないだろう。でもだからといって、“彼女の為に一生一人で生きる”とは言えないのがディオルドの立場だった。それをする気ならもうとっくの昔に爵位を捨てて平民へと落ちている。彼女を愛しているが自分の生まれた家やそれらを自分に残してくれた家族や関係者たちを裏切る事は出来ない。ディオルドは今の地位を引き継いだ時から覚悟は出来ていた。
……だが、だからと言って『子供が作れるなら次の相手は誰でも良い』なんて言えないのが心情だった。最低限公爵家の夫人としての教養とマナーがあってネミニアとの思い出を蔑ろにしなくて男遊びとかしなくて金遣いが荒くなくて子供をちゃんと愛してくれて……考え出したら最低限の条件が“最低限”にならなくて余計次の妻への条件が厳しくなって行く気がした……
「……わたくしでは駄目でしょうか?」
「え……?」
イリーナから言われた言葉が一瞬理解出来なかった。
「自分にはまだ大人の女性としての魅力が無い事は分かっています。ディオルド様からすれば全然子供だと思います。ですが3年後っ、3年後ならどうでしょうか?! わたくし、これから頑張りますので、わたくしをディオルド様の後妻に娶ってはくれないでしょうか!」
両手を胸の前で握って必死な顔でそんな事を言い出したイリーナに慌てたのはディオルドだった。
目の前の令嬢はもうすぐ結婚する予定では無かったか?! それがどうして後妻の話に?!
3年後、という期間に思い当たるものはあったが、まず冷静に一から話を聞かないと駄目だとディオルドは少し興奮気味のイリーナにお茶を勧めて落ち着かせると何故そんな話になったのかを順を追って説明してもらった……。
「……酷いな……」
イリーナの話を聞いて最初に出てきた言葉はそれだった。
浮気をしている事だけでも最低な行為なのにさらに結婚して3年も彼女の人生を縛った後に別れて自分は愛人と結婚する気でいる。貴族の世界では聞かない話ではないが、まさか自分の身近にそんな事を考える人がいるとは思わなかった。ディオルドにとってイリーナは妹の様な存在だった。だからこそ余計にコザックのしようとしている事は許せそうになかった。
「……でも何故それが私の後妻の話に繫がるんだ? まだ結婚してはいないんだ。色々違約金は発生するだろうがそんなのは全部相手側に払わせれば良い。領地が隣だからと言ってイリーナが犠牲になる事はない。ナシュド侯爵はとても尊敬出来る人だ。息子の不貞を隠して貴女の所為にしたりはしないだろう。
今からでも婚約を解消すればいい」
「それでは駄目なのです」
ディオルドの言葉をイリーナは即座に否定した。その強さにディオルドは驚いて目を見張る。
「何故?」
当然の疑問にイリーナは肩を落として下を向いた。
「ロデハン家とナシュド家は今、共同で河川工事をしているのです」
イリーナのその言葉にディオルドは苦い物を噛んだ様な顔をして理解した。
「そういえばそうだったな……」
「あの話は下流にあるロデハン家から持ち上がった話なのです。ロデハン家の領地内の川だけ整えても上流で氾濫しては被害はロデハン家の方が大きくなる。だからナシュド家の協力は絶対に必要でした。国からも援助金が出てさらに橋を掛ける事にもなりました。
……そんな事をしている時に違約金や解約料など、決して安くはない出費を出している場合ではないのです……」
「ロデハン家から持ち上がった話だからこそ、イリーナの婚約者も自分の方に利があると理解している訳か……」
「……婚約が解消され両家の仲が悪くなれば困るのはこちらです」
「いや、ナシュド家も相当痛手を負うだろう。何より婚約が解消された場合、解消理由は明確にナシュド家の令息の不貞行為だと世に知られる事となる。家の信頼にも関わる」
「……わたくしはそんな事は望みません。元々政略結婚として結ばれた婚約です。わたくしにも貴族の娘としての覚悟は出来ていますもの。
……ですが不貞行為をされたままで泣き寝入りの様な事はしたくはありません。わたくしにもロデハン家の娘としての矜持があり、それを穢す事は出来ません。
でもどうすればいいのかと思っていたところにコザック様がわたくしとの婚姻を“白い結婚”にするつもりかもしれないと聞きまして」
「あぁ、だから3年なんだね」
「はい。コザック様が“白い結婚”を望まれているのであれば、それはそれで良いのではと思いましたの。
侯爵家の娘が初婚で後妻に入ると何か問題があるのではとあらぬ噂をされるかもしれませんが、『白い結婚後の再婚』であれば、後妻に入っても“良くある話”だと考えてもらえるんじゃないかと思うのです」
イリーナの目に決意が見える。
ディオルドはその思いを真剣に受け止めた。
◇ ◇ ◇
ディオルドはイリーナの事を今は妹の様にしか見えていない。
なんたって7歳も年の差があるのだ。
ディオルドがイリーナと初めて会ったのはディオルドが15歳、イリーナが8歳の頃だった。それから家同士の付き合いもあり、ディオルドからすれば婚約者だったネミニアの次に親しい令嬢だったのがイリーナだった。
ネミニアが亡くなった後、自分を現世に引き止めてくれたのもイリーナだったと言っても過言ではない……そんな彼女を今から突然“女性”として見ろと言われると心底困ってしまうのは事実だが、かといってこのまま彼女を突き放して無視出来るかと問われれば無理だと即答出来る自信がある。婚約者に裏切られている彼女を助けたいと思う心は紛れもない本心だ。それが兄心なのかなんなのかディオルドにはまだ分からなかったけれど……
「でも私は君の7歳も年上だよ?
再婚するにしてももっと他に良い人がいるんじゃないか?」
「あら? 公爵家当主様以上に良い嫁ぎ先が御座いまして?」
お茶目な顔をしてそんな事を言うイリーナにディオルドは笑ってしまう。イリーナが本心から家格で嫁ぎ先を選ぶ事が無いと分かっているからそんな言葉もお巫山戯と取れる。
「わたくしにとって“素敵な男性”と言えばディオルド様でした。そう思う気持ちが恋心なのか、実のところわたくしにも分かりません。
ですが誰かの元に嫁がなければならないのだと言われれば、ディオルド様の元に嫁ぎたいと思うのです。
ニア姉様をたくさん愛しておられるディオルド様だからこそ信じられるのです。
……この想いが、コザック様たちの行為と変わらない不貞行為だと言われるのかもしれませんが……」
「ん? ちょっと待って?」
イリーナの言葉から不思議な言葉が聞こえた気がしてディオルドは聞き返した。
「はい?」
イリーナも何故止められたのか分からず不思議そうな顔でディオルドを見返す。
「不貞行為?? に、なるのかい?」
ディオルドは内心だいぶ困りながらイリーナに聞き返す。しかしイリーナの方も困った様にディオルドに聞き返した。
「どうなのでしょう? 『好きな人が居るのに他の人に手を出す』事を不貞行為だと言うのならわたくしがやろうとしている事もそうなのかなって???」
「……それを言われてしまうと私は誰とも再婚出来ずに後継者を作れなくなってしまうな……」
こめかみを押さえて困った様に笑うディオルドにイリーナは『やっぱり!』と言う様に焦り顔のまま口元に笑みを作って自分の考えが内心間違ってなかったのだと安堵した。
「そ、そうですよね?! どうなのかしらって思ってましたの! 良かった…ディオルド様と同じ考えで……」
照れ笑いしてフフフと笑うイリーナにディオルドは目を細めた。昔からこの子の事は可愛らしいと思っていた。だがそれは“妹”として見ている気持ちと変わらなかった。だが同時に“彼女は自分の妹ではない”という事もちゃんと理解していた。思い返せば2人の関係はとても不思議なものだった。ただ、お互いがお互いの立場をちゃんと理解していただけ……
その互いの立場が変わったのであれば、今までの関係が変わっていく事は自然な事なのかもしれない……
「……イリーナ」
不意に居住まいを正したディオルドにイリーナも姿勢を正してその目を見た。
「貴女が離婚するのであれば、その時は……
私と再婚していただけますか?」
お巫山戯の様でいてその真剣な眼差しにイリーナの心臓はトクンと小さく弾んた気がした。
イリーナが言い出した事をこんな風に男性側から申し出てくれたかの様に投げかけてくれる。
そんなディオルドの優しさがイリーナの心を包んでくれた。
「……はい……宜しくお願いいたします……」
頬を染めてはにかみながら頭を下げたイリーナにディオルドも微笑む。
まだ手も繋げない様な関係だ。
これは不貞行為ではなく次に繋げる為の約束だった。
これからコザックに裏切られて陰で笑い者にされる事が目に見えているイリーナにとってはこの約束が自分を強く持ち胸を張って前を向ける何よりも大切な心の支えとなる。