>> 中編
コザックは父に叱られた後すぐにリルナを別邸から連れ出した。
突然の事に慌てながらも不満を募らせるリルナを今だけだからと大人しくさせて人目に付かない場所に止めた馬車の中で待機させ、その間に急いで人目に付かない密会などにも使われる宿屋を手配させてリルナをそこに入れた。もっと高級な宿が良いと文句しか言わないリルナに今だけだからとなんとか納得させてコザックはリルナを隠す為の隠れ家を探す様に自分付きの侍従に指示を出した。
コザックが自分の足で隠れ家を探す訳にもいかない上に今後の事を考えなければいけない。コザック自身の仕事もある。
コザックは考える必要のなかった事が突然降って湧いた事に苛立った。
リルナを別邸内に囲えていれば家賃も食費もかからない上にリルナ自身がメイドとして雇われている扱いだった為に給料が出た。しかしそれが全て無くなった上にこれからリルナには侯爵夫人となる為の教育係を付けなければならない。
侯爵家からのお金も、当然イリーナからの援助も期待出来ない今、コザック自身が貰えるお金だけで賄うしか無い。
蓄えが少ない訳では無いが、“侯爵家夫人レベルの教養を教えられる教育係”が安い訳がない事ぐらいコザックにも想像がつく。3年でいくら使うか予想すら出来ない今、出来るだけ節約していきたいのが心情だ。
いままでリルナが望むままにプレゼントを買い与えていたがそれも出来なくなりそうだ。しかしそこは3年後の幸せの為に我慢してもらおう。
贈り物も出来ない上にコザックがリルナの為にずっと側に居て構ってやる事も出来なくなりそうでコザックはその事にも肩を落とした。別邸にリルナを囲っていられれば何時でも会いに行けたのにこれからは頻繁に会う事も出来なくなりそうだ……
少し前までリルナも商家の手伝いをしていたのだが、コザックが自分の結婚を機にリルナを別邸付きのナシュド家のメイドにさせていた事が裏目に出てしまった。こんな事ならイリーナと離婚するまではリルナに元の生活をしていてもらえば良かった…… メイドとして侯爵家に入ってもらい、別邸に住んでもらえれば何時でも会えるからと欲を出した事がこんな事になるとは…… しかし現在侯爵家の全ての権限を持っている父親から駄目だと言われてしまえば従うしかない。別邸に匿ったところで逆に不法侵入者だとリルナを排除する理由にされてしまうかもしれない。外に出してしまえば父も手を出しては来ないだろう。
コザックは侍従に色々指示を出した後、一人になった束の間の休憩時間に今後の事を考えた。
まず、誰にも見られずにこっそり会いに行ける家を見つけてリルナをそこに住まわせる。
そして、口の堅い教育係を雇ってリルナに最低限の貴族の教養を3年で身につけさせる。
……言われた時は絶望を感じたが、時間は3年もある事を考えると、そんなに難しい事でない気がしてきた。なんだ……これだけの事じゃないか……と、コザックは誰も居ない部屋で安堵の溜め息を吐いた。
「なんだ……そんな事でいいんじゃないか……」
隠れ家でリルナを教育する。
それだけなら簡単だと、焦っていた事が馬鹿らしくなってコザックは一人ほくそ笑んだ。
◇ ◇ ◇
しかしコザックが「そんな事だ」と思った事をリルナが同じ様に「そんな事」だと受け入れるかはまた別の話だ。
コザックが侍従に探させて見つけた街外れの人通りから離れた外を囲む塀は高いが家自体はこじんまりした隠れ家にリルナを連れて行くと、自分たちの家だと言われたリルナは喜ぶどころが不満と不安が綯い交ぜになった様な顔をしてコザックに不満を漏らした。
「ここに住むの……?」
「え? 勉強しなきゃいけないの?」
「メイドは? ……え? 通い?」
「え? あのネックレス買ってくれないの?」
「毎日会いに来てはくれないの!?」
それらを何とか『3年後に侯爵夫人になる為だから』と言い聞かせて納得させた。
毎日会いに来れるならコザックだってそうしたい。だがそんなことをすれば直ぐにコザックが別の家に女を囲っているという噂が流れるだろう。口の堅いメイドを数名選んでリルナの元へ通わせ、これまた口の堅い門番を雇って家の見張りをさせた。どうやらイリーナもリルナの事に気付いているらしい……万が一嫉妬したイリーナがリルナに手を回す可能性も考えられるからリルナの為に護衛も雇った。そのせいでどんどん懐に余裕が無くなる……侯爵令息である自分がお金の心配をするなんて……と情けなくなったが、これも3年の我慢だとコザックは自分に言い聞かせた。
4日に1度。7日に1度。
毎日リルナの元に通えないのは辛いが、引き離された時間がリルナへの気持ちを高めてくれる。会いに行く度に目に涙を溜めて駆け寄ってきては飛びつくように抱きついてくるリルナを抱きしめる時が一番幸せな気持ちになる様な錯覚さえ覚える。
そんな筈は無いのに……
リルナは会う度に「会いたかった」「寂しい」「勉強がつらい」「先生が厳しい」「外に出たい」「誰も私を助けてくれない」「もっと話がしたい」「つらい」「寂しい」とコザックに縋りついたがコザックはそんなリルナを精一杯抱きしめその顔にキスの雨を降らせてむずがるリルナをベッドの上で甘やかした。
リルナは拗ねているからか「話を聞いて」「やだ」「そうじゃない」と駄々を捏ねるが、直ぐにコザックのされるがままに可愛い声で鳴いた。コザックはそれに満足して心を満たされた。
身体を重ねると離れていた時間が埋められる気がする。長く離れていれば離れている程に身体を重ねた時の幸福感が高まる気がする。
コザックは通いもいいなと思った。
しかし半年もすればリルナはただ拗ねるだけじゃなく、我が侭を言うようになった。
駆け寄って迎え入れる事も、コザックに抱きつく事も、離れていて寂しかったと泣く事もなくなった。
その代わり「もう無理」「ごめんなさい」「私が馬鹿だったの」「平民でいい」「私には貴族の夫人なんて無理」「寂しい」「つらい」「苦しい」「勉強なんてしたくない」「ダンスなんて出来ない」「帰りたい」「イリーナ様に謝りたい」「もう無理」「ごめんなさい」「ごめんなさい」とコザックに縋りもせずに床に蹲って涙を流した。
これはコザックも困った。
嫌がるリルナを何とか抱き締めて宥め、「大丈夫。リルナなら出来るよ」と声を掛けしっかりと抱きしめながら慰めた。
1年ほど経った頃、ふとコザックはそろそろリルナが妊娠してもおかしくないんじゃないだろうか?と気付いた。この頃にはリルナはあまり笑わなくなっていた。そんなリルナにコザックは身体の調子を聞いた。
「……問題ないわ……お医者様にも時々診てもらえてるもの……」
「そうか……そろそろ息子の顔が見たいな」
「…………」
照れ笑いしながらそんな事を言うコザックにリルナは口を噤んだ。
コザックに何度抱かれようとも自分が妊娠する事は無い。リルナは分かっていた。
だか当のコザックは知らない。
そもそも知ろうともしない。
コザックはこの隠れ家を、自分が用意して全部自分でお膳立てしたつもりになっている。
しかしリルナを隠しているこの隠れ家を本当に管理しているのはコザックの父であるナシュド侯爵当主だった。
コザックが自分の使いだと思っている侍従も口の堅いメイドもリルナを教えている教育係も全員『ナシュド侯爵家に雇われている』者たちだと、コザックは分かってはいなかった。
◇ ◇ ◇
リルナの居る隠れ家に通っているメイドも当然雇い主はナシュド侯爵当主だ。
コザックがちゃんと自分でメイドを面接して雇っていれば雇い主はコザックになっていたが、コザックは自分付きの侍従に「口の堅いメイドを数人リルナの家に回してくれ」と指示しただけだった。
コザック付きの侍従は当然『ナシュド侯爵家に雇われている侍従』なので雇い主はナシュド侯爵当主・コザックの父だ。
だがコザックは昔から自分の言う事を聞く従順な侍従は『自分の命令を一番に聞く』と思っていた。それが当然の事だと思い込んでいたのでコザックは何の疑問も何の確認もせずに自分付きの侍従に指示を出していた。その為、コザックの指示を聞きそれを雇い主であるナシュド侯爵当主に話して指示を仰いだ侍従が雇い主の指示で選んだ『隠れ家の世話をする口の堅いメイド』たちは、自分たちの雇い主の指示をしっかりと聞き、仕事をこなしていた。
コザックが自分の金がどのように動いているかぐらい一度でも確認していればどこかで気付けたかもしれないが、コザックはそれすらもせず、『引かれているから自分が払っている』と何の疑問も持ってはいなかった。正確には『ナシュド家が雇い、その分の費用をコザックの金から引いている』だけだったのだが……
リルナが自分が妊娠しない事に気付いたと同時にある言葉が頭に浮かんだ。
『避妊薬』
何故その可能性に思いつかなかったんだろうと、その言葉が思い浮かんだリルナは自分の体から血が引いていくのが分かった。自分が何の疑問も持たずに口にしていた物に薬が混ぜられていたかもしれないのだ……いや、確実に混ぜられていた。その事にリルナは恐怖した。
この隠れ家に連れてこられた時にコザックが「ここにいれば安全だ」「この家は俺たちの家だ」「ここにいれば父もイリーナも手出し出来ないから」と言っていた言葉をそのまま信じた。紹介されたメイドに門番に護衛。この人たちが自分を守ってくれるんだと思った。自分に微笑んでくれるメイドに気を許した。美味しいお茶に美味しいご飯にいつでも飲める様に部屋に置いてある新鮮な水の入った水差しに平民では食べられない様なお菓子…… 3年後に次期侯爵夫人となる自分に与えられる当然の待遇なんだと思っていた。勉強はツラいけど働かなくても食べていけるメイドのいる生活に何の疑問も持たなかった。
なんて……バカだったんだろう……
自分が歓迎されていない愛人だという事をすっかり忘れていたなんて……
全てをコザックが用意したと言っても、コザックは所詮『侯爵家の息子』でしかない。貴族の子供は権力を持つがそれは所詮『親の力』だ。リルナはその親に受け入れられなかった。だから侯爵家の敷地内にあった別邸から出されてここに隠れて暮らしている。
そんな自分が妊娠? 正式に婚姻を結んだ貴族の令嬢である妻を差し置いて?
そんな事を侯爵家当主が許す訳がない。
そんな簡単な事にリルナは……コザックは気付かなかったのだ。
リルナは自分が妊娠しない事を不思議に思ってやっとその事に気付いた。
『避妊もしていないのに妊娠しないのは何故か』
自分の体やコザックの不能を疑うよりも先に『避妊薬』が思い浮かぶ。そしてそれが間違いじゃないという謎の確信がリルナにはあった。
だって自分は『愛人』だから。
『愛し合っている』『本命は自分』だと分かっていても、『自分の方が不倫相手』である事は変わらない事ぐらい、リルナにも分かっていた。それが自分が選んだコザックとの関係だという事も……
リルナは自分に出される物に何かが入れられていると気付いて数日は食が細くなったが直ぐに気にしない事にした。
身体に害のある毒ではないと食べ続けてきたリルナ自身が身を以て理解していたからだ。だから今更自分で食事を作りたいだなんて言う気もない。
食事くらいは作ってもらわないとやっていられない。子供が出来ないくらいなら、命を取られるより何倍もましだった。
リルナは今更コザックとの間に子供が欲しいなどと思わなかった。
ただ早く解放されたいと、いつしかそんな風に思う様になっていた……
◇ ◇ ◇
コザックと想いが通じ合った時、リルナは本当に幸せだった。
平民の自分が侯爵家の令息、それも嫡男に愛される。こんな夢物語みたいな幸せがあっていいのかと思った。
平民の女子なら一度は夢に見るだろう。貴族の王子様が自分を見初めて連れ去ってくれる事を。遠くから見る事しか許されないドレスや宝石、それに華やかな夜会にダンス。貴族の世界に憧れない平民などいない。毎日美味しいものをお腹いっぱいに食べて、更に美味しくて甘いお菓子に囲まれる。自分では何もしなくていい。それらが勝手に目の前に運ばれてきて自分は人に指示するだけ。綺麗なお風呂に毎日入って身体をメイドに洗ってもらって髪を丹念に梳いてもらう。華やかに香る香油をふんだんに使って髪を整え、美しく化粧をしてもらう。そしてそんな自分を恭しくエスコートしてくれるのはお金に困ることの無い貴族の王子様……
それが手に入ったのだと思ったのに…………
自分を選んでくれた王子様に捨てられた婚約者の貴族令嬢を心の中で馬鹿にして笑った罰が下ったのかもしれない……
リルナは今、鉄格子の無い牢屋に閉じ込められている。
平民にとっては高級なベッドがあったナシュド侯爵家の別邸から連れ出され、連れて来られた場所は平民が住むには広いが貴族が住むには廃れた、屋敷とは言えないような家だった。やけに高く目につく塀が気になったが、ここで3年間我慢すれば侯爵家当主の夫人になれるのだと言われれば舞い上がった。
平民の自分が侯爵家当主夫人!
貴族ですら無かった自分が下位貴族から傅かれる存在となる。そんな夢みたいな事が現実となる!その為なら3年間なんて我慢出来るに決まっている。たった3年我慢するだけで夢に見たお姫様になれるのだ!リルナは素晴らしい未来に胸躍らせた。
しかし現実がそんなに甘い訳がない。
リルナは直ぐに始まった“侯爵夫人となる為の教育”に全くついていけなかった。
それもそうだ。平民用の学校に通ったといってもそれは所詮読み書き計算一般常識を教える場所だった。貴族が必要とする知識やマナーや常識などをリルナは20歳になって初めて覚える事になったのだ。基礎すらない脳味噌に膨大な知識を詰め込むことなど無理以外のなにものでもなかった。しかしそれを言ってもリルナにあてがわれた教育係はリルナを冷たい目で見るだけで指導を優しくする事などなかった。
教育係はリルナに言った。
「貴女が望んだ事です」
「侯爵夫人となるのなら覚えなさい」
「貴族になるのなら常識です」
「侯爵家に恥をかかせる気ですか」
「貴女が選んだ選択です」
「貴女が」「貴女が」「貴女が」
リルナがどれだけ「違う!」「コザックが!」と反論したところで教育係たちの目が冷ややかになるだけだった。
メイドに助けを求めても同じだった。
「貴女が望んだ事です」
「貴女の為に時間もお金も掛けられているのですよ。何故喜ばないのですか?」
「貴女の為ですから」
「みんなが貴女の為に手を貸しているのですよ。平民の貴女の為に」
口元に笑みを浮かべながらリルナと会話するメイドはまさに貴族の令嬢だった。
そこで初めてリルナは“侯爵家のメイドが平民な訳が無い”という事に気付いたのだった。特にこんな場面を任せられる『口の堅いメイド』が平民な訳がなかった。
メイドだと下に見ていた目の前の女性が自分よりも身分が高かった事に気付いてリルナは絶望した。この人たちじゃ自分の味方にはならない!でもこの家には他に人が居ない!
門番や護衛の男の人に助けを求めたくて目を向けたところでその人たちは一切リルナと目を合わせようとはしなかった。それどころかリルナが庭に出ると姿を隠し、離れた所からジッとリルナの動きを観察していて怖かった。きっとリルナが近づいたら怒るのだろう。
リルナが娼婦であったならまた違ったかもしれないが、リルナは商家の手伝いをしていただけの娘だった。コザックが好きだからその身体に触れただけで、同じ事を誰にでも出来るような器用さなどリルナにはなかった。だがきっと、リルナが娼婦の様に門番に媚を売っても侯爵家に雇われている門番や護衛たちがリルナに手を出し心を許す事は無かっただろう。
下半身で物事を考える男は意外と少ないのだ。
3年間。
ただ3年間我慢すればいいと思っていたその3年間がリルナにとっては地獄なのだと、リルナはやっと気付いた。
当然リルナはコザックに助けを求めた。もうここから自分を助け出せるのはコザックしか居なかった。
しかし当のコザックはリルナの実状を理解しようとはしなかった。
リルナが何度「無理」だと言っても「たったの3年だから頑張って」と耳も貸さない。それどころか直ぐに身体に手を出してくる。
リルナはコザックと話をしたかったがコザックは会えない間に溜まった欲を発散したがった。リルナがどれだけ疲れていると心がツラいと言ってもコザックは「なら慰めてあげる」「癒やしてあげる」と言ってリルナを抱いた。リルナが泣いても勝手に『喜びの涙』だと勘違いしてコザックは喜んだ。
そんな事をされ続けてリルナの心がコザックから離れない訳がなかった。
1年も待たずにリルナの愛は死んだ。
だが「もうコザックを愛していない」と言ったところで誰もそれに耳を貸さない。最初から期限は3年間と決められている。今更リルナが騒いだところでその期限が無くなる事も短くなる事もない。
きっちり3年間、リルナはこの隠れ家に閉じ込められる。
それがリルナのした事の結果だった。
◇ ◇ ◇
ただの平民の女が2つの侯爵家の契約に水をさしたのだ。
それをどれだけコザックのせいだと言ったところで、『断るどころか自らの意思でコザックを受け入れ自ら望んで愛人となった』リルナに責任が無い訳がなかった。リルナは当事者であり、問題を起こした責任を取らなければならない。
リルナがどれだけ無知を盾に言い訳しても、貴族の契約や侯爵家の令嬢を馬鹿にしたツケは払わなければならなかった。
3年。この期間、リルナがどれだけ嫌がったところでこの期間が短くなる事は絶対にない。
白い結婚が終わるまでの3年間をリルナが楽しみに出来たのはその3年間が始まった最初の数日だけだった。
その後はただ地獄が待っていた。
リルナは覚える事も出来ない勉強を強要されてはミスをして叱られ、ダンスの基礎だという動きを強要されては出来ずに叱られ、叱られる度に躾ムチで手の甲を叩かれた。
会いに来たコザックは話も聞いてくれずにただ朝まで獣の様にリルナを抱いた。まともな話し相手も居らず、外出は一切出来ず。両親への手紙も禁止され。
聞かされ続ける言葉は
「これは貴女が望んだ事だから」
だった。
コザックが異変に気付いた時にはもうリルナは貴族令嬢の様に口元に小さな笑みを浮かべているだけの廃人と化していた。
もう侯爵当主の夫人などになりたいなどという気持ちはリルナの中のどこにも存在していなかった。
「……疲れてるのか?」
さすがにリルナの異変に気付いたコザックがソファに座った自分の横に座って貴族の令嬢の様に微笑んでいるリルナの顔を窺いながら聞いた。
リルナは表情を変えずにコザックを見る。
「……いいえ。そんな事はありませんわ」
そんなリルナにコザックは内心『リルナってこんなに静かな子だったっけ?』と思ったが、自分を心配させまいとリルナが健気な嘘をついているんだなと勝手に納得して話の話題を変えた。
「夫人教育は順調か? リルナは商人で手伝いをしていたぐらいだからな、着飾って笑ってるだけでいい貴族夫人の勉強なんてもう覚えてしまっただろ? 難しいのはやっぱり立ち振る舞いとダンスだな。あぁいうのはやはり子供の頃からの積み重ねがかなり影響するんだ。リルナは大雑把な方だから貴族の動きを覚えるのは大変だと思うが俺たちの将来の為に頑張ってくれ。
俺も今は父上の仕事の一つを任されていてな。大変だがリルナの為に頑張っているんだ」
リルナの肩を抱き寄せ、リルナに寄り添うような発言をしている気になっているコザックの言葉をリルナは変わらない表情で聞いていた。
その事に『おや?』とコザックも思わなくはなかったが、抱き寄せたリルナの匂いと柔らかな体に触れるとコザックはどうしてもムラムラとする欲求を抑えられなくなった。
リルナの肩や腕を優しく労るように撫でていた手を徐々にずらしていってもリルナが嫌がる事はない。隠れ家に来てから半年ぐらいは「話を聞いて」と嫌がられた様な気がするが、コザックが甘い声で囁き、優しく抱きしめて体を弄ってやるとリルナは直ぐに嬉しそうに甘い声で鳴いてよがるので、コザックは純粋にリルナが喜んでいるのだと思っている。
今だってリルナはコザックの手を嫌がらない。前はもっと自分の手に力を入れてリルナを宥めていた様な気もするが、今は力を入れずともリルナはコザックに体を委ねる。それが二人の心が深く繋がった親愛の証拠だと、コザックは嬉しくて自然と口元が緩んだ。
「リルナ……愛しているよ……」
愛する二人に言葉なんて要らないのだ。
コザックはリルナと愛を深める為にリルナを抱く。
涙を流して自分に抱かれる事を喜ぶリルナにコザックは幸せを実感する。
ただ身分が違うというだけだ不遇を強いられている二人だが、後2年我慢すれば幸せが掴めるのだとコザックは信じて疑わなかった。
◇ ◇ ◇
「リルナさん。今日はこれを書写しなさい」
「はい」
侯爵夫人としての知識や所作を指導する教育係が机に座ったリルナの前に1冊の本を置いて指示を出す。
リルナは言われた通りその本を開いて1ページ目の1行目から自分のノートに書き写していく。カリカリカリとリルナがペンを動かす音だけが響く部屋で、教育係は少しの間リルナを見ていたがリルナが大人しく書き写しているのを確認すると「戻ってくるまで続けなさい」と一言残して部屋を出て行った。
「…………」
リルナが部屋に一人になった時に屋敷からの脱走を企てたのは半年までだった。それ以降は逃げられない上に捕まった後に待ち受ける折檻と食事抜きに逃げた時間と折檻をされていた時間を睡眠時間を削って行われる指導にリルナはもう逃げる気を起こす事はなかった。
逃げずに教育係の指示通りしていれば躾ムチで叩かれる事も食事を抜かれる事も睡眠時間を削られる事も無い。教育係はリルナが分からない問題を無理に出して解けない罰としてリルナを叩いたりしないしリルナの体に怪我をする様な事もしない。
ただただ意味があるかどうかも分からない指導をするだけだった。
リルナも勉強が出来ない訳ではない。自分が何を教えられているのかくらいは分かる。ただそれも筋が通った話であれば、だ。『1つの教科書の最初から最後までを順を追って教えられれば』時間を掛けてリルナも覚えられるだろう。
しかしリルナにつけられた教育係たちは違う。
一人目が赤の教科書を使えば次の日に来た別の教育係は黄色の教科書を使い、一人目の教育係が次来た時には青の教科書の中程から教えるという指導を教育係たちはした。勉強の日もあればマナーの日もあり、所作やダンスの日もあった。
リルナはある意味純粋に平凡な人間だったので、そんな風にあれやこれやをバラバラに教えられたところで頭になんか残る訳がなかった。体が覚える所作やダンスの基礎などは少しずつ身に付きはしたが、『知識』に関しては殆ど覚える事がなかった。そして所作やダンスに関しては延々と『基礎』だけを教えられた。真っ直ぐ振れずに立つ事、微笑みを絶やさない事、キレイに歩く事、音を立てずにお茶を飲む事……。リルナがちゃんと出来たと思った事も駄目出しされて一からやらされる。
だがそんな指導方法でもリルナの立ち振る舞いや喋り方は貴族の女性らしくはなり、それを見てコザックは『リルナの侯爵夫人となる為の教育』は順調に進んでいると思って口出しもしなかった。
リルナが教わっているのが所詮下位貴族の令嬢の所作だとも気付かずに……
リルナがメイドや侍女になるのならばその教育で充分なのだろうが、上位貴族の夫人としてはどうだろうか? きっと夜会やお茶会などに出れば笑われるだろう。そんな教育を延々とリルナはされていた。
何故ならリルナを教育している教育係たちはナシュド侯爵家のメイドたちだったからだ。
微々たるものだがナシュド家の血を引く遠縁の下位貴族の次女や三女の彼女たちは腰掛けで侍女やメイドをやっている訳ではなく、生涯ナシュド家に仕える事が決まっている。その為、今回の様な外に漏れるとナシュド家の恥となる事を任される。ナシュド家の恥は彼女たちにとっても身内の恥となる為、絶対に外に漏らしたりはしない。その代わり彼女たちには特別手当が出る。それと同時に本家から離れたこの隠れ家に来る時は仕事以外の事はある程度自由も許されていたので、彼女たちはむしろ嬉々としてこの3年間を楽しんでいた。
リルナにとって良かった事は、彼女たちの誰も嗜虐趣味などなかった事だ。彼女たちは『分不相応な夢を見る平民』に不満を持っていただけで、だからといってこれ幸いにと『リルナをイジメ抜いて拷問紛いの事をして苦しめてやろう』なんて考えはさらさらなかった。そんな人が一人でも居ればリルナはもっと酷い目にあっていただろう。リルナがされた事は『ミスをして躾ムチで手の甲を叩かれる』『夕飯を1回抜かれる』『睡眠時間を削られる』というこの世界では子供の躾でよく行われる事と同じ事だけだった。
彼女たちがナシュド侯爵当主から言われた事は1つ。
『教育係のフリでいい。適当に君たちが知っている事をそれらしく教えてやれ』
だった。
ナシュド侯爵はそもそもリルナを、平民の女をナシュド家の次期侯爵当主の夫人にさせる気などなかった。
それをコザックがちゃんと自分の目で確かめていたなら直ぐに気付けたはずなのに、コザックは全てを自分付きの侍従に任せた。
そして侍従に言われた「リルナ様につけた夫人教育の教育係には会わないで下さい。コザック様が会ってしまってはリルナ様がナシュド家の関係者であるとバレてしまいます。平民の女性に夫人教育をしているのが分かれば直ぐにその女性の立場がどういう物なのか教育係の先生は気付いてしまうでしよう。そうなればどこから秘密が外に漏れてしまうか分かりません……教育係の方は他家から来て頂くご婦人ですので……コザック様もお分かりになりますよね?」という言葉をそのまま信じた。
長年自分の側で自分に忠誠を誓ってくれている侍従──とコザックは思っている──に諭されればコザックは疑う事すらせずにその侍従の言葉に従った。一度でも教育係の顔を見ていれば違和感に気付いたかもしれないが、コザックはリルナの教育に一切手を出す事もせず、何の疑問も持たなかった。
そしてコザックのその、侍従を信じきり自分の目で確かめることもしないその姿勢も、父であるナシュド侯爵は見ていた。




