>> 前編
侯爵令嬢イリーナ・ロデハンは長年の婚約者であったナシュド侯爵家の嫡男コザックと結婚した。
イリーナは結婚後、ナシュド侯爵家の本邸の横にある別邸にてコザックと共に住む事となる。
コザックはその事にとても満足していた。
何故ならコザックには既に愛人がいたからだ。別邸であれば親に口出しされずに愛人を囲える。メイドの一人だと言っておけばいいのだ。
コザックの愛人は彼が15歳の時に知り合った平民の娘リルナだった。コザックより2歳年上の彼女は自然の美しさを持ち、しっかりしていて包容力があり、胸が大きかった。
出入りの商人の手伝いとしてナシュド侯爵家に来ていたリルナに出会ったコザックは、その時には既に決まっていた婚約者であるイリーナを、自分と同い年にもかかわらず“つまらない小娘”としか見なくなった。イリーナはとても美しい少女だったがまだ発達途中だったその体をコザックは馬鹿にした。
イリーナとコザックは10歳の時に婚約した。当然親が決めたものだ。この国は18歳で成人となる。コザックは現段階で既に成人していたが、少し遅く生まれたイリーナの成人を待って2人は婚姻を結んだ。
今日がその結婚式だった。
コザックは皆が祝ってくれる宴の席をこっそりと抜け出してリルナと会い、誰にも見られない場所でリルナに指輪を捧げて口付けを交わした。神の下では誓えないが心はお前だけに捧げるとリルナに囁いた。
イリーナと結婚したその日にコザックは愛人リルナとも二人だけの結婚式を挙げたのだ。
「……嬉しいけど嬉しくないわ……」
涙を浮かべ悲しみに顔を曇らせるリルナの言葉にコザックはその豊満な体を抱きしめる。
「……ごめんよ……でも分かってくれ。この結婚は絶対なんだ。俺が当主になったら直ぐにあんな女と離婚してリルナを侯爵夫人に迎えるから……」
「分かっているのよ、私なんかが侯爵夫人になんてなれないって。でも……貴方が他の女の体を知る事が怖いの……」
コザックの腕の中に収まるリルナがコザックの胸に顔を押し当て縋り付いて泣く。押し付けられた胸の感触にコザックは自然と喉が鳴った。
「……安心してくれ。俺があの女を抱く事は無い」
ギュッとリルナを抱きしめてコザックはその耳元で囁く。
「ほんと……?」
涙に濡れた顔で自分を見上げるリルナの頬に手を添えてコザックはニヤリと笑って見せた。
「あぁ。あの女とは白い結婚で別れるからな。頼まれたって抱いてやらないよ」
「嬉しい! コザックの心も体も私だけのものね!」
「あぁ、俺の心も体もリルナのものだよ。
アレは“女”じゃなくてただの“飾り”だよ。飾り。“夫人”という仕事をするだけの駒だ。リルナが心配する事なんて何もないよ」
「フフ……愛してるわコザック……」
「俺もお前だけを愛しているよ……」
そう言って2人は軽い音を立てて口付けを繰り返した。
これから始まる甘い生活とお飾りの妻が一人で無様に足掻く姿を見る楽しみに心躍らせてコザックとリルナは笑い合う。
……そんな都合よく世界が回る訳が無いのに。
◇ ◇ ◇
別邸の中、コザックはニヤつく顔を引き締める事もせずに廊下を歩く。
目指すはイリーナが待つ寝室だ。
今日は『初夜』。
ナイトドレスを着て期待しながら夫を待つ新妻イリーナに現実を教えてやる。
俺の愛が貰えないと知って泣き騒ぐイリーナを突き放して笑ってやる。
コザックは沸き立つ嗜虐心に興奮する自分を抑えて真顔を作り、イリーナの部屋の扉の前に立った。
ひと呼吸吐くとノックもせずに扉を開き大股で部屋の中に入り、イリーナの顔を見て声を張った。
「イリーナ!
俺がお前を抱く事は無い!!」
新婚初夜に夫からこんな事を言われて取り乱さない女はいないだろう。
コザックは鼻の穴を膨らませて自信満々にイリーナを見下ろした。
しかし目の前のイリーナは白けた顔をして心底呆れきった目でコザックを見ていた。
絶対に馬鹿みたいな透けたナイトドレスを着てベッドに座って自分の夫となった男を期待しながら今か今かと待っていると思っていた筈のイリーナの着ていた服は普段と変わらないしっかりとした生地の普段着用のドレスだった。
その事に気付いたコザックの口からは自然と「あれ?」という小さな声が漏れた。
イリーナは盛大に溜息を吐いて執務机から立ち上がった。
「夜にいきなり人の部屋に来て何を言い出すかと思えば……
当然です。
気持ちの悪い事を言わないでくださいませ」
目を据わらせてはっきりと告げたイリーナの言葉にコザックは一瞬何を言われたのか分からなかった。
唖然とするコザックを気にする事なくイリーナは続ける。
「貴方との婚姻は政略以外の何物でもございません。
3年後に白い結婚を理由に離婚する事も決まっております。
これは両家の現当主、わたくしたちのお父様たちが正式に書面にて契約を交わしておりますわ。
……まさか結婚式の中で誓いのキスをしたから本当にわたくしが貴方に心から誓いを立てたとでも思ったのですか?
自分は嘘の誓いを立てたのに?
事前にお父上から話を聞いて居られないのですか?
この婚姻の事を何も理解しておられないのですか?」
「え? は??」
「わたくしと貴方の部屋を右の端と左の端にして一番離したというのに、こんな時間にわざわざそんな事を言う為に来られるなんて驚きを通り越して呆れますわ。
なんです?わたくしが貴方に惚れるとでも……まさか、惚れていたとでも思ったのですか?
どこまで単純な思考をお持ちなんでしょうか……羨ましいですわ……」
「なん?! そっ?!?」
「ほんと、安心して下さいませ。
わたくしが貴方様を恋しく思う事も愛する事もございません。
これは政略結婚です。
妻としての表向きのお仕事はいたしますがそれ以外をわたくしに求めないで下さい。
さぁ、理解されましたら二度とこちらの部屋には来ないで下さいませ。
ジン、旦那様を部屋までお送りして」
パンパンとイリーナが手を叩いて人を呼ぶと騎士の一人が部屋に入って来てイリーナに頭を下げた。この男がジンなのだろう。コザックはこんな騎士がナシュド侯爵家の騎士隊の中にいただろうか?と思った。
予想だにしていなかった事態にコザックは混乱してイリーナに言い返す言葉すら思い浮かばずそんなどうでもいい事を脳が考えてしまう。
そんなコザックを置き去りにして会話は進む。
「申し訳ありません、イリーナ様。
まさかこの時間に訪問者が来るとは思いもせず、席を外しておりました。一生の不覚であります。
今後二度と奥様の部屋の前を無人にしないように人員を配置致します」
「えぇ、お願いね」
「では旦那様。お部屋にお送り致しましょう」
ジンの鋭い視線に見つめられてコザックは更に言葉を発せられなくなった。じっとりと背中に汗が浮かぶのが分かる。自然と飲み込んだ唾と共に「あ、あぁ……」と小さな声で返事をしてしまったコザックは自分の後ろにピッタリと付いたジンに背中を押されるようにイリーナの部屋から出ていった。
言いたい事はたくさんあった筈なのに何も言えない。
「なんだあの騎士は!! あれが仕える者への態度か!!」
コザックがそう怒りを顕に出来たのは自分の部屋に戻ってジンが自分の側を離れてからだった。
お飾りに過ぎない妻が自分を見下した目で見てきた事が何よりも腹立たしかったが、イリーナが言った『お父上から話を聞いて居られないのですか?』という言葉が引っ掛かる。
コザックは怒りで眠れない夜を過ごすと朝一で本邸の父の元を訪ねた。
◇ ◇ ◇
ナシュド侯爵家の現当主、コザックの父アイザック・ナシュド侯爵は朝から慌ただしく父親の執務室に乗り込んできた長男を眉を寄せて迎え入れた。
時間はまだ朝食を食べる前だ。
いつもの様にコーヒーを飲みながら朝のひと仕事を片付けようとしていたところに乗り込んできたバカ息子に侯爵は呆れる。
──ちゃんと教育はした筈なんだがなぁ……──
侯爵が内心そんな事を思ってるなんてコザックは想像すらしない。
「父上! イリーナに何を吹き込まれたのですか!? 契約とは何ですか?!
あの女は初夜にも関わらずしおらしくベッドで夫を待つ事もしていなかったのですよ?! その上、自分の夫となった男に『気持ち悪い』などと言ったのです!! 信じられますか!? 長年の婚約者であり結婚したばかりの夫を気持ち悪いなどと!!
イリーナがあんな女だとは思いませんでした!!」
顔を赤くして憤るコザックが父親の執務机に両手を置いて怒りを表す。
バンっと大きな音が鳴った。
その事にナシュド侯爵は更に眉間に皺を寄せた。
「……イリーナの部屋に行ったのか?」
「行きましたよ!? 当然でしょう! 初夜なのですから!! 夫が新妻の寝床に行かない方がおかしいでしょう!?」
「普通は“夫婦の寝室”なのだがな」
「え?」
ナシュド侯爵から出た言葉にコザックは一瞬思考が混線する。
夫婦の寝室???
聞き覚えのない単語に動きを止めるコザックにナシュド侯爵は問い掛けた。
「お前には手紙で伝えた筈だが?」
「え? 手紙??」
手紙ならいくつか貰っている。それも最近の忙しさ(リルナとの逢瀬の時間を含む)の為にちゃんと読んではいなかった。父からの手紙など、本当に重要な事なら口頭で伝えてくる筈だ。同じ敷地内にいるのだから。わざわざ手紙で書いてくる程度の内容なら見る必要もないだろうとコザックは思っていた。
「なんだ? 手紙をちゃんと読んでいないのか? 執事はちゃんとお前に直接手渡したと言っていたぞ? 直ぐに目を通す様にと伝えた上でな」
ジロリと細められた父親の視線に気圧されてコザックは焦った。意味の無い言い訳が無意識に口から漏れてしまう。
「ぁ……、いや、……忙しかったので……
手紙で伝える程度の事であれば、急ぎではないと……、落ち着いたら読む予定でした……」
「お前………」
コザックの言い分にナシュド侯爵は目を見開いて驚く。自分の長男の出来がここまでとは流石に思いもしていなかった為に叱る気にすらならない。呆れから目眩がしそうでナシュド侯爵はこめかみを押さえた。
「伝えていただろう。
これは“政略結婚”だと。
そしてお前もはっきりと言っていたではないか。
『自分には最愛の女性が他にいる』と」
「そ、それは……」
「お前が何を言おうと、婚約者がいる身でありながら他の者を愛する行為は不貞だ。
不貞を働く者は何故か総じて“真実の愛”だ“運命の人”だと言ったりするが、その行為が不貞である事は何も変わらん。
愛を正当化したければまず筋を通すべきだ。
そう思わんか?」
ギロリと父親に睨まれてコザックは何も反論出来ない。
「ぁ…………」
「本来ならばお前たちの婚約はこちらの有責で解消され違約金を払わねばならなかった。
だが、あちらにも理由が出来てな、このまま婚約を継続し、二人を結婚させ、両家の契約を遂行する事で話はまとまったのだ。
有り難い事だよ。
危うくロデハン侯爵家と共に行っていた事業が頓挫する可能性だってあったのだから」
「は……? どういう………」
「婚姻は成された。その後にお前たち二人の間で何が起ころうと夫婦間での問題だ。そこに家は関わらない。
昔と違って『離婚は家の恥だ』と言われる事もないしな」
「そ、……え?」
「離婚後に後妻に入る事も後妻を取る事も周りは気にしない。好きにすれば良い。
お前が望んだ通り、3年後イリーナと離婚すれば平民の女性と結婚すればいい」
そこで言われてやっとコザックは口が動いた。
「ち、父上はどこまで知っているのですか……!?」
自分には婚約者以外の最愛の人がいると父親には伝えた。そこで父が婚約を解消すると言ってくれればコザックはイリーナと結婚する事はなかった。だが父は婚約を解消させるとは言わなかった。だからコザックは自分とイリーナの結婚は絶対に必要な事なのだと思った。
コザック自身からは一度も『婚約を解消したい』とは伝えていない。コザック自身も侯爵家の当主の妻に平民の女性がなれるとは思ってはいなかった。平民の女性がなれるのは所詮『居なくなった妻の代わりの穴埋め』という立場でしかない。それをコザックも分かっているから自分から率先して婚約解消したいなどとは言い出さなかったのだ。
コザックからすればイリーナとの婚約が解消されなかった事は好都合だった。3年我慢すれば誰にも何も言われる事なく胸を張ってリルナを妻に迎える事が出来る。白い結婚の事も『イリーナの我が侭で夜を共に出来なかった』のだとでも言えばいいのだ。男として不能だったのではなく『あくまでも閨事に怯える妻を慮った結果』だと触れまわればいいだけだ。
だがそれはコザックが考えていた事であって、誰にも伝えてはいない。リルナにだって詳しくは伝えていない事だ。それなのに父からは自分の意図を知っているかのような話が出てくる。
都合が良い。
喜ぶべき話である。
だが、だからこそ気持ちが悪い。余りにもコザック自身に都合が良くて裏があるようにしか思えない。
顔色が悪くなってきたコザックを気遣う事なくナシュド侯爵は話を続ける。
「『どこまで』がどこまでを指すのか分からんな。
だがお前の望む通りになっているであろう?
イリーナに感謝する事だ。彼女はちゃんとお前の妻の役を3年間やってくれると約束してくれている。
お前が望んだ通りにな。
だからお前も3年間、彼女と適切な距離を取り、彼女の夫としての役をこなせ。彼女をこれ以上煩わせる事はこの私が許さん」
「お、夫の役などと……、俺はあいつの正式な夫となったのですよ?」
「正式な夫がまともな神経をしていれば結婚前から愛人を囲ったりはせん」
「うっ……」
「ナシュド家がお前のせいで『浮気男の実家』としてのイメージを付けられたら私やお前の弟の名誉にまで傷が付くのだぞ。それが分かっているのか?」
「それは……」
二人の婚約が解消されていれば、周りはその理由を知りたがっただろう。
イリーナは自分の名誉の為にコザックが他の女を好きになった事をはっきりと周りに伝えるだろうし、隠したところでどこからか話が漏れてしまうのも貴族社会では良くある事だ。
ナシュド侯爵家が違約金を払ったのがバレればその流れでコザックの不貞が外に漏れ、それがそのままナシュド侯爵家と結び付けられるのは目に見えている。浮気男の父、浮気男の弟、そんな目で見られるだけで不名誉以外の何物でもない。
その事に今初めて気づいたコザックは何も言い返せずに黙り込むしかなかった。
「3年だ。3年経てばお互い自由の身になれる。
だがお前にとっては短いかもしれんな」
「はい?」
机の上で指を組んだナシュド侯爵がそれまでと違った表情でコザックを見る。その顔は呆れではなく険しいものだった。
「当然だが、お前の愛人をこの家の敷地内に置いておく事は出来ん」
「な?!」
信じられない事を言われてコザックは慌てた。
「どこから話が漏れるか分からんからな。
ナシュド家は浮気も不倫も容認していない。
私達はお前の不貞行為は知らないし、お前の『最愛の女』の事も聞いた事もない。
お前は私達の知らないところで『女を隠し』、誰にも知られない様に『愛を育んでいる』。
3年後の離婚はただ単純に『二人の相性が悪かった』。それだけだ。
政略結婚で結婚させられた男女間ではよくある話だ。話のネタに笑う者も出るだろうが、だからといって取り立てて気にするものでも無い。
不貞行為で噂されるよりは何倍もマシだ」
「っ……」
「……お前が“最愛の女性”と再婚したければ、今のまま誰にも知られる事なく関係を隠し、そして3年間でその平民女を“侯爵家の人間”として人前に出しても恥ずかしくない様に貴族としての知識とマナーを覚えさせろ」
「はぁ?!」
父親から出てきた想像もしていなかった言葉にコザックは驚いた。リルナに勉強をさせる!? 何を言っているんだ?!
「そこまで出来ればお前にこの家を継がせるかどうかを考えてやる」
さらに父はとんでもない事を言った。
「なっ!? え??! ちょ?! ま、待って下さい!? それはどういう事ですか!? この家を継ぐのは長男である俺でしょう?!?!」
話がどんどん進んでいってコザックは理解する事が追いつかない。イリーナとの結婚の話からリルナの事になってそれが何故か自分の話に変わった。コザックには意味が分からない。
しかし父であるナシュド侯爵は平然とした顔をしている。
「何も問題がなければそうだ。
長男が爵位を継ぐ。
だがお前のどこに『問題が無い』と言える?」
「り、離婚をするだけじゃないですか……!」
「『浮気』は立派な『問題』だ」
「うっ…………、で、でも周りにバレなけれな問題ないですよね!? イリーナとは性格の不一致で離縁するのですから、何も問題な」
「その後に迎える後妻が平民でなければな」
「っ!?」
「だから言っているのだ。
“3年でお前の最愛の平民女を侯爵家の人間として恥ずかしくない様にしろ”と。
お前の後妻が侯爵夫人として人前に一切出ないというのなら話は別だが、そういう訳にもいかないだろう?
ナシュド侯爵家に迎え入れた人間がマナーもなっていない獣では困るのだよ」
「そんな……っ、獣などと……!」
「この国では平民でも子供の頃に異性との接し方を教わる。婚約者が居ると分かっている男と懇意になる女に理性があるとは思えんがな。
まぁ私の息子も同じなんだがな」
「くっ………!!」
言われた言葉にコザックはカッと赤くなった。
「だが次男はちゃんと理性を持って生まれて来てくれた。婚約者との関係も良好だ。
あちらは伯爵家だがご令嬢はとても優秀だと話が聞こえてくる程だ。
浮気を続けて平民女を後妻に迎える長男と長年の婚約者である伯爵家のご令嬢を妻に迎える次男。
次期侯爵家当主夫妻に相応しいのはどちらか。比べる迄も無いとは思わんか?
貴族の夫人は人間関係を繋ぐ役割を担わなければならない事ぐらい、流石のお前でも理解しているよな?」
「ご、後妻が社交をする必要はないでしょう……」
苦し紛れに出た言葉にコザック自身も無理があると理解していた。当然目の前の父も呆れた顔をする。
「社交をしない夫人など居る意味があるのか?
それに、お前の選んだ女は侯爵夫人になった後も邸で大人しくしていられるのか?」
父の問い掛けにコザックの頭には即座に『無理だ』と思い浮かぶ。
リルナが侯爵夫人になったら直ぐに人前に出て自慢するだろう。平民から侯爵夫人だ。自慢しない訳が無い。マナーも貴族の常識も知らない女をエスコートする……その事に初めて思い至ったコザックは冷や汗をかいた。
「あ……、彼女は……」
コザックの口から出てきた『彼女』がイリーナの事なのか浮気相手の事なのかアイザック・ナシュド侯爵にはもうどうでもよかった。
今更コザックが何を言っても事態は変わる事は無い。
「お前とイリーナが3年後に離婚する事は決まっている。
イリーナが考えを変える事は無いと思え。
お前は自分が選んだ女性の教育の事を考えればいい。だがそれだけにかまける事は許さん。自分の仕事はちゃんとしろ。
そして、お前の愛人は直ぐに別邸から出せ。住まいや教育係の事はお前が自分で考えるんだ。
当然だが侯爵家の金を使う事は許さん。お前の金を使え。イリーナにも迷惑をかけるな。
それがお前が望んだ道だ。
あぁ、伝えておくが。
お前の母であるエルザは不貞を何よりも嫌っている。当然浮気しているお前の事も大変失望している。顔も見たくないそうだ。だからあまり本邸内でうろちょろするな。話が終わったら直ぐに別邸に帰れ」
父親から放たれた言葉の弾丸に気が沈んでいくのを耐えていたところに最後の爆弾を投げられて、コザックは遂に膝から崩れ落ちた。
目の前の執務机にもたれかかる様にうずくまる。
「……母様が……」
「さぁもう帰れ。
お前が望んだ3年間だが、お前にとっては長くはないんだぞ。そんなところでうずくまっている暇は無い」
そう言うと侯爵は自分の執事を呼んで項垂れたままの長男を別邸まで運ばせた。
両脇を抱えられたまま運ばれたコザックは考える事があり過ぎて逆に何も考えられなくなっていた。
──お前が望んだ3年間だ──
父から言われた言葉がぐるぐると回る。
それと同時に自分がリルナに言った言葉が思い起こされる。
『あの女とは白い結婚で別れる』
『アレは“女”じゃなくてただの“飾り”』
『“夫人”という仕事をするだけの駒』
その言葉の通りになると言われた。
──お前の望んだ通りに──
しかしそれ以外の、自分では考えも及ばなかった部分でコザックは首を締められる事になった。
リルナの処遇。母からの拒絶。自分の将来の事……。
苦痛な結婚生活を3年我慢した後には薔薇色の人生が待っていると思っていたのに、広がったのは暗雲立ち込める未来だった……
ど、どうしてこうなった???
コザックは茫然自失のまま別邸の玄関先で立ち尽くした。