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喫茶・のしてんてんへようこそ

喫茶・のしてんてんへようこそⅣ~扉の向こうは、春~

 わたしはその日、しんとした部屋の中で絵本を開いた。


 家の中には誰もいない。

 最近ではいつものことだった。

 寂しいと言えば寂しいけれど、おやつを食べながらベッドに寝転がって好きな本を読んでいても叱られないから、悪くない。


 今日はなんとなく、いつものように分厚い物語じゃなくて絵本を読みたくなった。

 持ってきたスナック菓子の袋とお茶をベッドサイドに置き、本棚の奥からお気に入りの絵本を引っ張り出した。

 幼稚園の頃、おばあちゃんにお誕生日祝いに買ってもらった『ふわふわミルク』シリーズの一冊。

 ふわふわミルクという名前の、やんちゃな白猫の男の子が主人公のお話だ。

 タイトルは『なにかな なにかな』。

 ふわふわミルクが、妹のほっこりココアちゃんと探検ごっこをするお話だ。



『ふわふわミルクはいもうとのココアちゃんをつれ、おうちのなかをたんけんします。


 しゅっぱーつ!


 あ、ここは なにかな なにかな?


 にひきは そおっとドアをあけました』



 おしゃまなココアちゃんが、たいちょう、ここはなにをするところですか?ときく。

 するとふわふわミルクが大いばりで、うむ、ここはおふろ。からだをピカピカにするところだよ、と答える。

 こわくはないのですか?というココアちゃんの問いに、こわくなんかないさ、と胸をそらすふわふわミルク。


『でもミルクたいちょう。たいちょうはときどき、あたまあらうのいやーって、ないているじゃありま……』


『えっほん、うっほん。

 あー、ココアくん。

 つぎのちょうさへすすむぞ。ああいそがしい、いそがしい』


 わたしは思わずくすくす笑う。

 この部分、おばあちゃんは声を変えてミルクとココアのセリフを読み、わたしを笑わせた。

 わたしは笑いながら、いつもちょっと、きまりが悪かった。

 その頃わたしは、頭を洗うたびに泣きべそをかいていたので、ふわふわミルクがあわてて話を変える気持ちが、すごくよくわかった。


(おばあちゃん……)


 突然、『しーん』というような、家中の音にならない音がのしかかってくる気がした。

 わたしはわざとお菓子の袋を大きな音を立てて開け、がしゅがしゅとお行儀悪く袋の中身をほおばった。

 シーツの上にお菓子のかけらがバラバラ落ちてイラッとしたけど、乱暴に手の甲で床へ落として、なかったことにする。

 お茶で口の中のしょっぱい塊を飲み下すと、わたしはもう一度、絵本に目を落とした。



 お風呂の次はキッチン。

 寝室。

 子供部屋。

 トイレ。

 ふわふわミルクはココアと一緒に、あちこちのドアを開けて探検を続ける。

 最後は玄関。


『なにかな なにかな?


 わあ、ひろーい。


 おそとだ!』


「よーしココアくん。これからさきはおそとのたんけんだ。さあ、あたらしいぼうけんへしゅっぱーつ!」


 唐突に幼い男の子の声が部屋中に響き、私はびっくりして辺りを見回した。



 絵本から突然、真っ白でふわふわしたものが勢いよく立ち上がった。

 わたしは思わずその場から飛びのいた。

 勢いあまって壁に頭をぶつけてしまったけれど、痛みすら感じなかった。

 毛むくじゃらの大きな虫が突然むくっと立ち上がった、そんな気がしたのだ。


 投げ出された絵本の上に、いつも枕もとに置いているテディベアくらいの大きさの、でもずっとほっそりしたナニかが、しゃんと立ってこちらを見た。

 目が合ったそれは……絵本の中の、ふわふわミルクにしか見えなかった。


(え?え?は?なにこれ、どういうこと?)


 頭の中がクエスチョンマークだらけになった。

 白いもこもこの、ふわふわミルクにしか見えない『それ』は、絵本の中のミルクと同じ顔でニヤッと笑った。


「なんだよボーッとして。言っただろ、出発だ。ぼやぼやしてたらおにいちゃん、お前なんか置いてくぞ!」


 絵本の中のふわふわミルク、いや、それ以上にやんちゃで乱暴な口調の甲高い声でそう言うと、『それ』はトンとベッドから飛び降りた。

 ふわふわミルクにしか見えないもこもこの毛玉は、あっという間に、半分開けたままにしていた子供部屋のドアからすべり出た。


「早く来いよ、ココア。ホントに置いてっちゃうぞー」


 ドアの向こう側でじれったそうな声が響く。私は思わず


「わ、わたしはココアちゃんじゃないもん」


 と答えながらベッドを下り、ドアをくぐって廊下へ出た。



 白い毛糸玉が転がるようにふわふわミルクらしいもこもこは、短い廊下を走り、次に階段を走り下りていった。

 わたしは追った。

 何が何だかわからなかったが、絵本の中からふわふわミルクがいなくなったら困る。

 すごく、困る。

 わたしの絵本が、おばあちゃんからもらった絵本ではなくなってしまう!


「待って……」


 わたしが階段を下りた時にはもう、ふわふわミルクは玄関のドアを押していた。


「待ってよミルク。ドアには鍵がかけてあるんだから開かない……」


 そこで言葉を呑んだ。

 カチャリ、といつもと同じ音がして、玄関のドアが開いたのだ。


(え?えええ?)


 何故? どうして?

 絶対絶対、鍵をかけていたのに。

 学校から帰ると、いつもいつも、鍵だけはしつこいくらい確認して、家へ入るのに。

 それにそもそも、ぬいぐるみほどの背丈しかないふわふわミルクは、扉のノブにさえ届かない。

 ノブを触ってもいないのに、どうしてカチャッ、って、ドアが開く、の?



 ドアが開いた途端、白っぽい午後の光と一緒に冷たい風が、ひゅうっ、と吹き込んできた。


「しゅっぱーつ!」


 嬉しそうな声でそう叫ぶと、ふわふわミルクは外へと走り出た。


「待ってったら!」


 わたしも叫び、スニーカーを履いて外へ飛び出した。

 もう細かいことになんかかまっていられない。

 ふわふわミルクを追いかけてつかまえなければ。

 つかまえなければ!



 やっぱり毛糸玉が転がるように、ふわふわミルクは道を走った。

 わたしはひたすらそれを追う。

 走るふわふわミルクは、子猫というより子ネズミみたいだった。

 ゼイゼイと息を切らしながらわたしは必死で、すばしこい白い毛玉の後を追った。


 ふわふわミルクをつかまえて、とにかく絵本の中へ戻す。

 どうやって戻すのかよくわからないけど、とにかく戻す!


 わたしの頭の中にはそれしかなかった。

 ふわふわミルクはピョンピョン楽しそうに跳ねながら駆け、角をひとつ、さっと曲がった。

 後を追って、わたしも曲がった。

 


 曲がった途端、ぞくっと寒気がしてわたしは立ち止まった。

 見回したが、ふわふわミルクはいなかった。

 なんとなく荒れた雰囲気の建物がいくつかと、枯れた草がショボショボと生えている乾いた空き地。

 あるのはそれだけ。


(ふわふわミルク、は……?)


 そろそろと進みながらわたしは見回す。

 どこにもいない。

 急に冷たい、強い風が吹きつけてきたので、わたしはぎゅっと目を閉じた。


「おやおや」


 響きのいいおじさんの声が不意に聞こえてきて、わたしは驚いて目を開けた。



 少し離れたところに、濃い目のグレーのコートをきちんと着た、白髪のおじさん(おじいさん?)が立っていた。

 やっぱり白髪の口髭が、お話に出てくる怪しい博士か怪盗みたいに、ピン、と整えられていた。


(うわあ。変わった人ぉ!)


 わたしは思わず後ずさりした。

 面白そうな目をしてわたしを見ているおじさんに、特別ヘンな感じはしなかったけれど、知らない人には十分気を付けなさいと、わたしたちは大人たちからいつも言われている。

 ましてこんな(ヘンテコリンな)髭で平気で町中を歩くおじさんなんて、あんまり信用できない。


「この辺りまで小さいお嬢さんが迷い込んでくるとは珍しい。何かお探しですか?」


 丁寧にそう問われ、わたしはちょっと身体から力が抜けた。

 子供にも丁寧に接してくれるということは、見かけよりまともでいい人なのかもしれない。


「あの、」


 言いかけ、わたしは思わず口をつぐむ。

 ふわふわミルクを知りませんか?などと訊いても、は?と言われるだけだろう。

 おまけにそのふわふわミルクというのが、実は絵本の主人公の子猫で、さっき絵本から抜け出してここまで逃げてきたのだなどと言ったら、は?では済まなくなる。

 絶対絶対、頭のおかしい子だと思われてしまう。


「あ……その。いいんです、もう。帰ったのかもしれませんし」


 目をそらしてもごもご言うと、おじさんは目を見張る。


「帰った? きみ、ここへお友達か誰かを探しに来たのかな?」


「え……えっと、そ、そう、です」


 ごまかすようにわたしがそう答えると、


「嘘ばっかり!」


 という甲高い声が突然響いた。


「お前はココアだろ、お友達じゃなくて妹じゃないか!」


 叫び声と一緒に、何故かおじさんのコートのポケットから白い毛玉が飛び出してきた。


「あっ!」


 おじさんの慌てたような声。


「お嬢さんつかまえて!逃がしちゃ駄目だ、大変なことになる!」


 おじさんに言われるまでもなく、私はふわふわミルクを追いかけた。

 転がるように駆けていたふわふわミルクだったが、ひとつの建物の前で何故か、ためらうように足を止めた。

 古そうな木の扉。

 入ろうかどうしようか、迷っているようだった。


「さあ。今だお嬢さん。その子をつかまえて抱き上げるんだ!」


 わたしは言われるまま、困ったように立ち尽くしている白いもこもこをつかまえて抱き上げた。

 きめの細かい毛の感触が、てのひらにくすぐったい。

 振り向き、びっくりしたようにわたしを見上げるふわふわミルクと一瞬、目が合った。

 ためらっていたらまた逃げられる、わたしはそう思い、しゃにむにふわふわミルクを胸の真ん中に抱え込んだ。


 その瞬間、まるでぼたん雪が溶けるようにてのひらからくすぐったい感触が消えた。

 消えた途端、ずん、と身体が重くなり、わたしは思わず片膝を突いてしまった。


「やれやれ。良かった、間に合ったみたいだねえ」


 さっきのおじさんがそんなことを言いながらこっちに来て、のんびりとした笑みを向けてきた。

 何が起こったのかわたしにはまったくわからない。

 膝を突いたまま、上目遣いでそろっとおじさんを見上げた。


「ふわふわ、ミルク……」


 つぶやくわたしへ、おじさんはほほ笑んだままうなずく。


「大丈夫。お嬢さんの大事なお友達は、ちゃんと帰るべき所へ帰ったからね。お嬢さんもおうちへ帰るかい?」


 うなずいて立ち上がろうとしたが、どういう訳か足に力が入らない。

 身体中がとにかく重くて、全身が地面にめり込んでしまいそうな気すらした。


「おやおや、ちょっとまずそうだな。助っ人を呼んできましょう」


 あまり深刻でもなさそうにおじさんは言うと、すたすたと扉へ向かって歩いて行った。

 ふわふわミルクが入ろうかどうしようか迷っていた扉だ。

 おじさんがノブに手をかけて押すと、ロリロリン、とベルの音がした。


「マスター、マスター。モモさんがいるなら申し訳ない、モモさんもお手伝いを願います。小さいお客さんが店先で急に動けなくなりましてね……」


 扉の向こう側へ向かって、おじさんは呼ばわった。



 扉の向こうからわらわらと人が出てきた。

 まず、頭に赤いバンダナを巻いた、顔の下半分が白い髭で覆われたおじいさんに近いおじさん。

 なんとなく、小柄で細いサンタクロースみたいな人だなとぼんやり思った。

 次に、白い髪を柔らかく結い上げた上品なおばあさん。

 その次はブルージーンズをピシッと穿いた、短く刈った髪が白黒半分半分にまじった、日焼けした顔のおじさん。


「おおう、こりゃ辛そうだ。肩も背中もガチガチだねえ、可哀相に」


 バンダナのおじさんがびっくりしたように言った。


「彼女、大事なお友達を追いかけてここまで迷い込んできたらしいんですよ。お友達は無事に戻ったようですが、そのせいで彼女の方が参ってしまったらしいですな」


 一番最初に出会ったおじさんがそう言うと、その場にいるみんなが、なるほどと言うようにうなずいて納得した。


「大丈夫ですよ、お嬢さん」


 おばあさんが優しい声で言うと、ちょっとごめんなさいね、と断って、わたしの背中をそっと撫ぜた。

 撫ぜる度に動くおばあさんの腕から、甘いような香ばしいようないいにおいがした。

 あ、焼き菓子のにおい、懐かしいなと、胸の中でわたしはつぶやいた。


「立てる?」


 バンダナのおじさんの声に、わたしはうなずいて足に力を込める。

 ちょっとよろっとしてしまったけれど、ちゃんと立てた。


「ああよかった、もう大丈夫だねえ」


 口々にそう言われ、わたしは曖昧に笑った。

 はっきり言って……一体何が起こったのか、そもそも何がどうなったのか、全然わからなかった。

 もっと言うと、どこまでが本当に起こったことなのかすら、わたしはよくわからなかった。

 なんだか頭がぼうっとして、上手くものを考えることが出来ない。

 でも、この人たちが困った状況のわたしを助けてくれたのだけは、理屈じゃなくわかった。


 ふわりと肩に、柔らかいものがかけられた。

 さっきのおばあさんが、わたしに白いショールをかけてくれたのだ。

 そしてわたしの身体に優しくショールを巻き付けながら、彼女はほほ笑んだ。


「寒いでしょ、お嬢さん。落ち着くまでこれをかけてなさいな」


 言われた瞬間、ぶるっと身体が震えた。

 そういえば上着も着ていない。

 半分部屋着のトレーナーと、ミニスカートと黒いレギンスがセットになったボトムスという薄着だ。

 二月の町を歩く服装ではない。

 だけどふわふわミルクを追いかける為には、着替えるのはもちろん、上着を着る余裕すらなかった。


「とりあえずお嬢さん。店に入って何かあたたかいものでも召し上がって下さい。疲れたでしょうし、身体も冷えてるでしょうからね」


 バンダナのおじさんはそう言うと、目許に皺を寄せて柔らかく笑った。

 大人たちにうながされるまま、わたしは、どこか茫然とした状態で一歩前へ進んだ。



 店の扉のそばには手書きの看板があった。


『welcome ! 喫茶・のしてんてん』


 と書かれてある。


(喫茶・のしてんてん……?)


 変わった名前のお店。

 のしてんてん、って、一体どういう意味だろう?


 そんなことをぼんやり思いながらわたしは、ドアベルの音と一緒に店内へ足を踏み入れた。



 扉をくぐった途端、ふわっとあたたかい空気に包まれた。

 甘い、香ばしい香りがただよっている。

 さっき私の背を撫ぜてくれたおばあさんの腕から流れてきたのと同じ香りだ。


「いらっしゃーい!」


 明るい声が出迎える。

 白い木綿のエプロンをした小柄なおばさんが、カウンターの向こうでにこにこしながら私を見た。


「あら。いいタイミングだよ、お嬢さん。ちょうどお菓子が焼けるところー」


 歌うように彼女が言った途端、チーン、と眠そうな感じの音が響いた。

 ミトンをはめ、おばさんは後ろを向く。


「お、大成功」


 オーブンの扉を開けて嬉しそうにいうと、黒い大きな天板を取り出した。


「『ジンさんの奥さん特製マーマレード』のせのマドレーヌ、お待たせいたしました!」


 おばさんの声に、店中の人が拍手する。


「この時期の楽しみですよねえ」


 バンダナのおじさん、このお店のマスターが言う。


「誠に誠に……」


 言いながら手を伸ばす怪しい髭のおじさんへ、エプロンのおばさんが、こら、と言った。


「つまみ食い禁止ですよ、バロンさん。大体、焼き立てのお菓子ってすっごく熱いんですから。やけどしても知りませんからね」


「おっと、これは失礼」


 ちっとも反省していない口調で言い、それでもおじさんは手を引っ込める。


「お嬢さん」


 わたしの背中を撫ぜてくれた上品なおばあさんが、優しい声で私に話しかけてきた。


「温かい飲み物を用意しますけど、何がお好みでしょうか?」


 声と一緒にふわっと、焼き菓子の甘く香ばしいにおいが鼻先にただよってきた。


「あったかい、ミルク……」


 半分無意識にわたしは答えていた。

 おばあさんはほほ笑むと、


「わかりました。甘みは蜂蜜にしましょうね」


 と言って、彼女はマスターのところへ歩いていった。



 わたしは勧められるまま、店の奥へ行く。

 そして四人掛けのテーブルのひとつに座り、お皿に盛られたマドレーヌ――使い捨ての舟形のアルミケースに入った生地の真ん中に、オレンジ色のジャムっぽいものが乗せられている――と、カップに入ったホットミルクを前に、もじもじしていた。

 落ち着いてくると、お財布を持たずにここへ入り込んだことを思い出し、ここのお代どうしようと思い始めたのだ。


「どうぞ召し上がれ」

「温かいうちに食べて下さいな、美味しいですよ」


 白いエプロンのおばさんと、赤いバンダナのおじさん――マスター――が言う。

 でもわたしはふるふると首を振った。


「ひょっとしてお嬢さん、お代が気になっているのかな?」


 隣のテーブルで嬉しそうにマドレーヌをかじっていた、一番初めに店の前で会った変わった髭のおじさんが、思いついたようにそう言った。

 わたしがそろっとうなずくと、


「ああ、なるほど。でもお気遣いはいりませんよ」


 と、マスターはニコニコしながら言った。


「お代など、後でこちらまでお持ち下さったらいいのです。さあさあ、どうぞどうぞ」


 美味しいですよ。

 彼の、目許に優しく寄った皺を見ていると、何だか心が軽くなってきた。


(……そうだね。うん、後で持ってくればいいよね)


 わたしは大人たちへちょっとだけ笑ってみせ、マドレーヌに手を伸ばした。


 一口噛みしめると、バターケーキ特有の香ばしい香りが口いっぱいに広がった。

 焼きたてのお菓子特有の、ふわふわと軽い口当たりが懐かしい。

 もっと小さい頃、おばあちゃんが作ってくれたおやつのあれこれを思い出す。


 両親共に仕事で忙しかったウチでは、ずっとおばあちゃんがわたしの面倒を見てくれていた。

 一緒に買い物へ行ったり公園で遊んだり、時々手作りのおやつを作ってくれたりもした。

 でも、もうそれも出来ない。

 一か月前の寒い朝、おばあちゃんは台所で朝食の支度中に倒れ……そのまま病院へ運ばれ、未だに目を覚まさないのだ。

 仮に、もし目が覚めたとしても以前のように元気に動けないだろうと、お医者さんから言われている。


(……考えちゃ、ダメ!)


 軽く首を振って不吉なことを振り払い、わたしはもう一口、マドレーヌをかじる。

 と、トッピングされたジャム……甘酸っぱいオレンジマーマレードの強い香りが、バターケーキの香りを包みこんで混ざり合った。

 ところどころに感じる、オレンジの皮の異物感のある食感とかすかな苦みが、不思議とマドレーヌの甘さと美味しさを引き立てている。


「……おいしい」


 思わずつぶやくと、大人たちがさざ波のように、やわらかい笑い声をあげた。

 注目されていたことに気付き、わたしは何だかきまりが悪くなった。


「美味しいでしょう? どうぞホットミルクも飲んで下さいな」


 わたしにショールを貸してくれたおばあさんが、斜め向かいの席に座りながら言った。

 コクリとうなずき、わたしは、マドラーで一度中身をかきまぜた後、金属の持ち手がついた耐熱ガラス製のカップからミルクを飲んだ。

 ほのかな甘みのある温かいミルク。

 すごく懐かしかった。

 わたしが幼稚園に通っていた頃、冬場のおやつにはいつもこんな感じに、ホットミルクが添えられていた……。



 不意に胸が詰まった。

 ミルクは美味しいしマドレーヌも美味しい。

 なのにすごく苦しくなって、涙がぽろぽろと流れ出てきた。


 誰かが私の背中に回った。

 ちょっとごめんなさいね、という声がして、あたたかなてのひらがわたしの背をゆっくり撫ぜた。

 撫ぜられるたびにどういう訳か、ここ最近堅くこわばり、何も感じなくなっていた胸が、やわらかくなってきた。

 呼吸が楽になる。

 大きく息を吸い、吐き、声を上げてわたしは泣いた。



 ひとしきり泣いた後、わたしは、今日初めて出会った大人たちへポツポツと話をした。


 小さい頃からいつも面倒を見てくれていたおばあちゃんが病気で倒れ、遠くの大きな病院で入院したまま、ずっと目を覚まさないこと。

 もちろん家族――お父さんもお母さんも――みんなおばあちゃんを心配しているけれど、いつもいつもは仕事を休めないから、目を覚まさないおばあちゃんは基本、病院に任せきりになっていること。

 おばあちゃんが入院して以来、わたしは、学校から帰ると一人でご飯を食べて一人でお風呂に入り、一人で眠る毎日を送るようになったこと。

 わがままは言えないからずっと……寂しいのを、我慢してきたこと。

 マドレーヌとホットミルクに、小さい時によく食べていたおやつを思い出し、泣いてしまったこと。


「もしおばあちゃんが死んじゃったら……『今だけの我慢』じゃなくて『ずっと我慢』になるんだなぁとか、最近よく思うの。思った瞬間、なんて悪い子だろうって反省するんだけど。おばあちゃんが病気で、おばあちゃんもみんなも大変な思いしてる時に、一人は寂しいとかそんなことばっかり考えてるわたしが、わたしは嫌いなんです」


 言った後、わたしは少し冷めてしまったミルクを飲んだ。

 唇にミルクの膜が貼りついてきてきて、不快だった。


「寂しいと思ってしまう気持ちは、決して悪いことじゃないよ。あまり自分を責めないでね」


 ごま塩頭のおじさんがそう言う。


「そう思ってしまう、お嬢さんの気持ちもわからなくはないですがね」


 口髭を撫でつけ、少し困ったように、最初に出会ったおじさんが言った。


「誰も悪くない、月並みだけどそう言うしかない事情ですなあ」


「お嬢さん」


 白いエプロンを着けたおばさんが、新しく作ってきたホットミルクをテーブルに置きながら言った。


「お嬢さんのおばあさんは、焼き菓子とかをよく作る人なの?」


 わたしはうなずく。


「そんなに、いつもいつも、じゃなかったけど。マドレーヌとかマフィンとか……ちょっと変わったアップルパイとか、作ってくれました」


「ちょっと変わったアップルパイ?」


 興味をひかれたようにおばさんは、わたしの正面に座った。


「えっと。変わったって言っていいのかな?」


 あまりに『興味津々』なキラキラした目で訊いてくるおばさんに、わたしは無意識で身体を引きながら答えた。


「パイ生地の台に、先に作っておいたカスタードクリームを敷いて。そこに薄切りのリンゴを並べてグラニュー糖を全体にかけて。その上にまたパイ生地を重ねて、オーブンで焼く……みたいな」


「へえ。美味しそう!」


 おばさんはニコニコした。


「それ、作ろう」


 あまりにもあっさりとそう言われ、わたしはポカンとした。


「元々、マーマレードを入れた手でつまめるひとくちパイ……みたいのを作るつもりで、冷凍のパイシートも用意してるんだ。お嬢さんのおばあさんは生地から手作りしたかもしれないけど、まあ、それは今後の課題として……」


 おばさんは嬉しそうにニヤッとして、わたしへ言った。


「お嬢さんも一緒に作りましょう!」



 気が付いたらわたしは、カウンターの向こう側にあるキッチンで、おばさんと一緒にお菓子作りをしていた。


「まずカスタードクリームから作りましょうか?」


 手洗いし、マスターの予備用らしいエプロンを借り、流れるように指示されるままわたしは、砂糖や牛乳、コーンスターチを計量し、たまごを卵白と卵黄を別けた。

 材料を指示されるままに混ぜ、とろ火にかけてゆっくりかき混ぜ、カスタードクリームを作ってゆく。

 最後のバニラエッセンスを加えると、懐かしいおばあちゃんのカスタードクリームと、同じにおいのクリームが出来た。


 オーブンの予熱を始め、金属のタルト型にバターを塗る。

 その後おばさんと一緒にリンゴを六等分にして芯を取り、薄いイチョウ形に切ってレモン汁をまぶした。

 柔らかくなったパイシートを伸ばして型へ敷いて整え、余分な生地を切り取り、その上へさっき作ったカスタードクリームを乗せる。

 薄切りのリンゴをびっしり並べ、まんべんなくグラニュー糖を振り、あらかじめ切れ目を入れたもう一枚のパイシートをかぶせた。


「後は溶いた卵黄を表面に塗って……それが乾いたら、オーブンへIN!…っと」


 なんだかわたしは、段々と楽しくなってきた。


(作ろうと思ったら作れるんだな、お菓子って)


 初めてそう思う。

 作ってもらう、だけじゃない楽しみ方もあるのだなぁとも思ったのだ。


「今日作ったカスタードクリームのレシピと、私がいつも作っているマドレーヌのレシピ、一応書いておくね」


 わたしと一緒に洗い物を済ませた後、おばさんはそう言いながらレジ横に置いているチラシを取り上げた。


「これはあくまでも参考にして、後はお嬢さんが調べてね」


 そう言っておばさんは、ニコニコしながらチラシの裏面にレシピを書き始めた。

 お菓子の焼ける香ばしくて甘いにおいが、ふっ、と鼻先にただよってきて……。



 わたしはハッと顔を上げた。

 自分の部屋の、自分のベッドの上にいた。


(……ええ?)


 どうしてここにいるのだろう?

 わたしは、絵本から飛び出したふわふわミルクを追いかけて……。


「あー。あはは。……なんだァ」


 乾いた声が出た。

 どうやら、絵本を見ながらうたた寝し、変な夢を見ただけ……ということなのだろう。



 床に落ちた『なにかな なにかな』を拾い上げ、本棚へ戻した。

 それから、スナック菓子の空き袋と飲みさしのお茶が残ったコップを持って、わたしはのろのろと階段を下りた。


 キッチンのドアを開けた途端、ふわりと甘い香りがした。

 ダイニングテーブルの上に、ピカピカ輝く焼きたてのアップルパイが乗っていた。

 ここにこんなものが何故あるのかわからず、わたしは長い時間、まじまじとそれを見つめた。


 その横に、漠然とスーパーのチラシかと思っていた、見知らぬチラシがあるのに気付いた。


 『喫茶・のしてんてんのお楽しみ会 VOL3』


 と書かれたチラシだ。

 何気なく裏返すと、やや丸みのある元気のいい文字で、カスタードクリームとマドレーヌのレシピが書かれてあった。


「……え?えええ?」


 わたしの頭の中が、再びクエスチョンマークでいっぱいになった。

 もう一度テーブルの上を見て、そこに他にも何かあるのに気付いた。



 10㎝角の、厚みのある白い紙。

 多分、使い捨ての紙製のコースターだ。

 注意深く、そっと持ち上げてみる。



 鉛筆で、木の扉が描かれていた。

 多分あのお店の扉だと思う。

 薄く開いた扉の間から白っぽい陽の光が差し込み、色鉛筆で描かれた桜の花びららしいものが数枚、風に吹かれて迷い込んだ……そんな感じの絵だった。

 端に、『W』だけのサイン。

 裏返すと少し癖のある字で、こう書かれていた。


『ご来店ありがとうございます。

 これは、初回来店のお客様限定の粗品です。

 どうぞお納めください。

 まだまだ寒い日は続きますが、扉の向こう側には春の足音が聞こえてくる頃だと思いますよ。

 

 喫茶・のしてんてん 店主』



 わたしはぼんやりと、テーブルのアップルパイと、レシピが書かれた不思議なチラシと、手の中にあるコースターを、三角を描くように何度も見た。


(夢じゃ、なかった、の?)


 まさか。でも。じゃあ、これは何?



 唐突に電話の着信音が鳴り響く。

 私はコースターをテーブルに置き、急いで電話に出た。


「え? おばあちゃん、目を覚ましたの?」




 その時、コースターに描かれた薄紅色の花びらがまるでほほ笑むかのように風に舞い、さらに幾つかこちら側へ吹き込んできたのだが。

 彼女が気付くことはなかった。



    【完】

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― 新着の感想 ―
[一言] 4エピソードそれぞれにカラーが違って、楽しませて頂きました。 読み終えてみると秋の3作目は結構異色だったのですね……!(`・ω・´) ホットミルクに蜂蜜、というのは読んでいてほっとします。 …
[良い点] 最後に素敵なお土産を貰いましたね。
[良い点] のしてんてんシリーズ、Ⅰ~Ⅳまで拝読しました。 どの回でも、主人公の心情が丁寧に描かれていて、共感したところで、喫茶のしてんてんが現われるような気がしました。読んでいるほうも異界へ引き込ま…
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