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短編集

皇子と守り姫の秘め事 =ザイダーンの姫1=

作者:

「ザイダーンの知の姫。俺と、結婚して下さい」

「……『お断りいたします』との、お返事です」


 今日も今日とて、おなじみのやり取りが繰り広げられている。

 ほぼ毎日のあいさつ代わりの聞きなれた会話に、二人それぞれの後ろに控える者たちは視線さえ動かさない。


「うーん、そうか……」

 

 膝をついていた青年は、いつものように肩を落として立ち上がる。彼の前で礼をとっていたザイダーン家筆頭女官アイラ・ローゼンバーグは、いつもの無表情のまま、すでに手元の資料に目を落としていた。


「で、国境警備の費用負担割合なんだけど……」


 テーブルを挟んでアイラと向かい合わせに座り、そのまま流れるようにアイラの手元の資料の説明に入る青年の声音は、いつものように朗らかだ。

 目の前の青年、レオンハルト皇子の滔々とした説明に軽くうなずきながら、アイラは無意識に左手で胸元を軽く押さえた。


(ほんっとに、勘弁してよ)


 何とか集中してレオンハルトの声を聞き漏らすまいとするが、自分の動悸がうるさくて軽く顔をしかめる。

 その表情の意味を、レオンハルトは違う意味にとらえたようだった。


「いや、これから冬に入ることを考えると、兵站の費用拡充はこの程度は……」

「いえ」

 表情を変えてしまった自分の失態に唇をかみ、アイラは彼の誤解を正そうと口を開きかけた。そこで、ざっと目を流した表のある数字が目に入る。


「食料に関する基本の取引値を、再調査させていただきます」

 吐き出された彼女の声音の冷徹さに、レオンハルトとその背後の男の背中がぴしりと伸びる。

「昨年、大陸南部の穀倉地帯で起きた蝗害について、あなた方がご存じないわけはないでしょう。今年の穀物の取引値の推計を昨年実績値で行うなど、意図的な水増しと取られても致し方ないように思われますけれど」

「あ、いや、それは……」

 レオンハルトの背後に立っていた痩せぎすな男が、明らかに焦った声音で眼鏡をずり上げる。


「サイラス。再調査を」

「は」

 ひたりとレオンハルトの目を見据えながら、アイラは短く部下に告げる。

 先ほどとは打って変わって不敵な表情を浮かべた青年は、黙って彼女の目を見返した。そこで、その日の交渉は終了となる。

 レオンハルトは立ち上がり、慇懃無礼に一礼すると、踵を返した。


 その後姿を、表情を変えずに眺めながら、アイラはそっと息をつく。


(あっぶなかった……)


 危なく、丸め込まれてしまうところだった。

 自分の動揺は、絶対に、気取られてはいけない。

 あの、あいさつ代わりに息をするように求婚を繰り返す、いつも女の噂の絶えない、宗主国の第2皇子などに。

 これ以上、隙を見せてしまったら、私がこの家を滅ぼしてしまう。

 アイラは軽く目を閉じ、それからきりりと顔を上げる。部下たちの表情に、一斉に緊張が走った。


「今日の案件の主だったものは、終わったわね。それでは、合議討論に入ります」


 彼女の声に、素早く入室し居並んだ部下たちの全員が姿勢を正して傾聴の姿勢を取った。彼らの上司の一言一句は無駄がなく、会議中は意識を研ぎ澄ませなければ、すぐに置いていかれる。

 アイラの静かな声が、しんとした室内に響きはじめる。




 エルマーのご主人さまは、ポンコツである。これは、使用人全員一致の意見であり、疑いの余地はない。

 そのことに気がつくまで、エルマーは1週間かかった。


「一言でいうと、頭がヨワいんだよ。というか、ヨワくなる。女がらみでだけ」


 見事な肢体の黒毛の馬に丁寧にブラシをかけながら、馬丁のテオが苦々しく言う。馬の水桶に水を満たしながら、エルマーはあいまいに頷いた。


「俺たち下働きの人間が、雲上人のお人柄をうんぬんするなんて、まあ罰当たりなことなんだろうけど……レオン坊ちゃまは、俺から見ても奇跡みたいないい人だよ。あんなにご機嫌が変わらない貴族様を、俺は他に知らない。俺たちや、フランツみたいな付き人が、どんな大ポカをやらかそうと、一度もお仕置きをなさったこともない」


 フランツ、というのは、屋敷の元使用人で、エルマーと同じく、孤児院から拾われた人間だ。エルマーの主人、ギズワルド皇国第2皇子レオンハルト殿下の屋敷の使用人たちは、半数程度は、同じような身の上の少年たちだった。フランツは、初めは今のエルマーと同じ、屋敷の力仕事や料理の手伝いをする小者だったが、食材の仕入れで数字に関する才能を見出され、孤児の身で、主人の金で大学まで通わせてもらった。今ではレオンハルト付の文官として活躍している、エルマーたちのあこがれの存在だ。


 とはいえ、もともとが下町育ちの身、宮仕えの窮屈さにはうっぷんがたまるのだろう。フランツは時々ふらりと屋敷の厩舎や台所に現れては、しばらく油を売っていく。その時に漏れ聞こえる主人であるレオンハルトの逸話は、いつでもとびきり面白い。


 大体が、現在この国の軍部を束ねる総帥の立場にあるレオンハルトと、百戦錬磨の王宮の官僚たちとの丁々発止のやり取りとか、宮中の晩餐会での女性陣のレオンハルトを巡るさや当てとか、そんな話だ。あまり難しいことは分からないエルマーでも、自分のご主人様が、見えないように意地悪をしてくる性悪な官僚どもをあの手この手で出し抜いたり、武術の模擬戦で華々しいご活躍をされる様子など、聞くだけで胸が躍りワクワクドキドキするものだ。


「本当に俺たちは主人に恵まれてるよ。……この一件さえなけりゃなあ」

 テオは磨き上げた黒馬の首を軽くなでながら周囲を見回し、ためいきをついた。


 エルマーたち、レオンハルトの屋敷の使用人の半数ほどは、現在、屋敷から遠く離れたギズワルド皇国の東の国境近くに滞在している。都からは、馬で1週間の、地の果てだ。

 毎年、秋の終わり、レオンハルトは共を引き連れ、この地を訪れる。現皇帝の代理として、その4人の子息が広大な皇国の各地を訪問することは、珍しいことではない。ただ、この地は、外交力にも領地運営の技量にも恵まれ、忠誠心も厚い、現皇帝の弟君に当たる辺境伯が治めており、毎年ひと月もの時間を割いて、第2皇子が出向く必要性はまるでない。


 エルマーのご主人がこの地を訪れる理由はただ一つ。この地に私領を持つ名家、ザイダーン家の当主に、翌年の取引の交渉にかこつけて会うために他ならない。


 信じがたいことに、大陸中の女性の耳目を集める最高の血筋を持つ美丈夫、エルマーの自慢のご主人様は、このザイダーン家当主に、出会ってこの方10年、求婚し続けているのだという。そして、ずっと、けんもほろろに断られている。


「脈なしとか、そういうレベルの話じゃないんだよ。このおっかない、ザイダーン家には、皇帝でさえ手出しできない秘宝を産出する鉱山と、それを守護する竜の存在がある。その家を守る『姫』に懸想したところで、なびいてもらえる、訳がない」


 ザイダーン家の持つ不思議な力にまつわる逸話は、ここギズワルド皇国では有名である。竜とザイダーン家の始祖との関係の始まりの物語や、いく度にも渡る皇国の侵略に耐えた、剣や魔法がちりばめられたこの一族の物語は、子供の絵本から市井の婦人方が喜ぶ物語本、果ては貴族相手の吟遊詩人の詩の素材まで、様々な形で人々の間に浸透している。


 ザイダーン家の現当主は、絶世の美女と謳われる、モルジアナ・ザイダーン。その両親が事故にて早逝し、幼くして唯一人残された女児は、元服に達した時点で、後見人から求められた条件全てを満たし、家督継承を認められた。男系の家督相続を前提とするギズワルド皇国において、その卓越した頭脳、秀でた武の才、そして竜の加護を受けた血の力により、現在唯一認められている、女性当主である。


「レオン坊ちゃまだって、血筋や才覚で、『ザイダーンの姫』に見劣りするわけじゃない。でも、どう考えても、相手の望みは婿養子だろ。なんでよりによって、大陸中で唯一かもしれない、絶対落とせない女に惚れるのか……」


 テオは黒馬の首を優しくたたきながら、はあ、とため息をつく。


「んでもって、おかしな方向にひたすら努力してるのも、……見てらんないよ」


 そうなのだ。エルマーはまだ“逢引き”をしたこともない子供だが、先輩使用人たちの話からだけでも、ご主人の努力の方向性が間違っていることは分かる。

 ご主人は、『姫』に振り向いてもらうために、1年のうち11か月、ひたすらに修行に励んでいるのだ。……女性経験の。


 どうして『姫』に関することだけ、聡明なご主人がこれほどポンコツになってしまうのか、エルマーは恋というものの持つ力の恐ろしさにおののかずにはいられないのだった。




 初めての出会いを覚えている相手というのは、自分にとって、何か、特別な存在なのだろうと思う。それが良いものであれ、最悪なものであれ、自分の心に波紋を起こす、そういう存在ということだ。

 

 (今日も、睨まれてしまった)


 足元にはべる女の髪をくるくると弄びながら、レオンハルトは軽くため息をつく。

 女は軽く身じろぎをし、レオンハルトの顔を見上げた。

 年の頃は20歳前後か。切れ長の黒い瞳と、滑らかな肌の美しい、女だ。どこで拾ってきたのかは、忘れてしまった。

 無言でレオンハルトの要求を聞き取ろうとする女に、彼はちらりと笑顔を見せた。


「今日はもういいよ、おやすみ」


 女の黒い瞳が微かに翳る。それから目を伏せると、女は無言で彼の前から引き下がった。

 レオンハルトは裸体にローブをひっかけ立ち上がり、テーブルのシェリー酒の栓を抜きグラスに注ぐ。


(彼女の笑顔を最後に見たのは、何年前だろう)


 目に浮かぶのは、今朝の映像。ひそめられた眉と、自分を見据える、美しいアーモンド型の目、その中で冴え冴えと輝く、黒い瞳。いつもきつく束ねられた黒髪、化粧気のない、しかしなめらかな肌。

思い出すだけで、彼の胸はずきりとする。


(今年の滞在ももう、あと3日か。いったいいつになったら、俺は彼女と結婚できるんだ)

 レオンハルトはため息をつき、シェリー酒をあおる。


 彼女に結婚を申し込むチャンスは、一日一度の交渉の場だけ。今年はもう、あと3回しかない。しかし、今日の会合でも、自分は彼女からの印象を、悪化させてしまった。

 今日の資料もまた、問題点を指摘された。自分が最終的にチェックミスをしたのだから、仕方がないことではあったが、多分彼女は、自分や自分の母国が、また彼女の家から金をむしり取ろうとしていると思ったことだろう。


(ああ、アイラ。君を俺のものにするために、俺はあとどれほど、修行を積めばいいんだ)


 彼はガシガシと頭をかく。明かりと言えば月のみの薄暗い部屋。壁にかかった鏡からは、プラチナブロンドの短髪、ローブから鍛えられた胸板をのぞかせた、皇国一と言われる美貌の男が、苦い顔でこちらを見つめている。




「おねえちゃーん、どうしよう」

 耳に飛び込んできた半べその声に、アイラは小さく息をつく。


「モルジアナ」

 部屋に飛び込んできた妹は、いつものように、ぞくりとするほど美しい。

 アイラは表情を変えずに、素早く視線を左右に走らせる。幸い、腹心の者以外、妹の声の届く範囲には人の気配はないようだ。

 背後に座るフードをかぶった男に合図を送る。すかさず、その魔術師により、アイラとモルジアナの周囲には防音結界が張られた。


「不用意にに来ては駄目だと、言っているでしょう」

「でもぉ……」

 妹は立ち尽くしながら、口をとがらせべそべそと言う。


「一人じゃ、怖いんだもの……」


 9日前から、厄介な第2皇子が館を訪問中だ。集中して行われる、一年分の皇国との交渉事や、接待に関する対応に忙殺され、妹の傍らで世話を焼いてやる暇がなかった。アイラは頭の芯に鈍い痛みを感じ、眉間に指をあてる。


「そう……ごめんね、をお前ひとりに任せて。今日は『キザ男』の、お帰り前の小さな晩餐会だったわよね。もう、あらかたの準備は済んでいるだろうけれど……何が、心配なの」


 アイラはモルジアナの瞳をのぞき込む。元服を過ぎたにしては、心配なほどに幼く澄みきった、末の妹の瞳。でも、その瞳が不安を訴える時、そこには必ず、自分たちには気づけない、看過できない理由がある。アイラはそれを誰よりも身をもって知っていた。

 妹の表情がゆるむ。首をかしげて妹の話に相槌を打ちながら、アイラは頭の中で、今日の夜の予定を組み替えていた。



 『ザイダーンの姫』が、三方に優れた非の打ちどころのない女性である、というのは、あながち間違いではない。

 久方ぶりに体感する、コルセットの容赦ない締め上げに、思わずぐえ、と息を吐きながらアイラは考える。

 自分の今の公式の名は、アイラ・ローゼンバーグ。立場は、ザイダーン家の現当主、モルジアナ・ザイダーンの筆頭侍女だ。普段は裏方に徹する立場ではあるが、今回のように必要に迫られれば、着飾って表舞台に立つこともある。ただ、最近はめっきりその機会が減っていたせいで、そちら方面の場数や気構えが、著しく退化してしまっていた。アイラは細かく息を吐きながら、深く反省する。


 自分はいたいけな妹だけに、こんな苦行を簡単に課してしまっていた。『ザイダーンの姫』の自称「頭脳担当」が、とんだ失態だ。


 『ザイダーンの姫』は、3人の異母姉妹によって成り立つ、合作の偶像である。それは、ザイダーン家内部では、前当主とその妻、つまり3姉妹の公式の両親が急逝した折から、公然の秘密であった。ただし、外部の人間でそれを知っている者は、ごく少数に限られる。

 本日来賓として迎えている『キザ男』ことレオンハルト第2皇子は、その厄介なごく少数の、『姫』の実態を知る人物だった。


 3姉妹は、それぞれの母親の利点を持って生まれてきた。頭脳明晰、冷徹無比な才女、長女のアイラ。ほとんどの者がその姿を見たことがない、武術の達人と言われる次女、セレン。そして、大陸きっての美女と謳われる、ザイダーン家現当主、3女のモルジアナ。


 コルセットの圧迫のせいだけではない胸苦しさに、アイラはもう一度、浅い息を吐く。あの一筋縄ではいかない男、レオンハルトにこの事実を握られてから、もうすぐ10年が経とうとしている。その間、あの男から放たれる執拗な矢は、常にアイラを悩ませて来た。それでもこれまで、何とか事を荒立てずに済んだのは、ひとえに相手側の余裕のある対応ゆえに他ならない。

 

 しかし。


 アイラはゆっくり息を吐く。

 もしも今宵の晩餐会で、妹の予感が的中し、何か決定的に物事が動くことがあるならば。もしかしたら自分達は、今とは違う姿で、あの男と、そしてその後ろに広がる世界と対峙するより他無くなるのかもしれない。


 ぐ、と腹に力を入れながら、アイラは来賓が登場する扉がゆっくりと開くのを見つめていた。




 初めて出会ったときのレオンハルトは、天使のように美しい男の子だった。彼が空から落ちてきた時、冗談ではなくアイラは、神様のお迎えが来た、と思った。

 どすん、と、天使にしては随分とおもむきのない音を立てて、その子はアリの行列を眺めていたアイラの目の前に降って来た。おもむろに立ち上がり、ぶつけた尻をさすりながら、えへへ、とアイラに笑いかける。


「君、この辺りの子」

「……ええ」


 その顔立ちのあまりの美しさに、思わず警戒も忘れてアイラは答える。

今日は、家に大事なお客様があるとは、聞いていた。目の前の、見かけたことのない身なりの良い少年は、きっとそのお客様の、お連れ様なのだろう。

 暖かく晴れた秋の森。頭上では、彼が落ちたと思われる木の枝の葉が、まだかさかさと微かに揺れていた。あんなしっかりした枝から落ちるなんて、この子はずいぶんと、木登りに不慣れなようだ。


「君の目、きれいだね」

 じっと見つめられ、突然放たれた言葉にアイラは心底驚いた。

 アイラの瞳は、この辺りでは珍しくもない黒色で、これまで一度も、他人から褒められたことなどない。それが、この、美神がそのまま具現化したような男の子から、綺麗と言われるなんて。


「眼の奥が、夜空みたいに、きらめいてる。……今、何、考えてるの」

 彼はじっとアイラの瞳をのぞき込み、歌うように言う。

「……分からないや。不思議だな」

 

 そこではっと、アイラは我に返った。この子は、魔力持ちだ。私は今、彼に心を読まれようとしている。


「やめて」

 自分でも驚くくらい厳しい声が出た。腹の底に力を入れると、彼の瞳の力を押し返す。


「うわ、……ごめん」

 男の子はまばたきをし、目を逸らした。


「顔をじろじろ見て、失礼だよね。そんなつもりじゃ、なかったんだ。何でだろう、急に、君の眼に、引き寄せられちゃった。……本当にごめん」


 その声の戸惑った響きに、アイラはふと笑う。


「あなた、魔力持ちよね。……気づいてないの? もしかして、人はみんな、他人が考えていることが読み取れると、思っている?」

「……違うの?」

「違うわ」


 男の子の美しいアイスブルーの瞳が見開いた。


(多分、見た目が美しすぎるせいで、周りが気づけないのだわ)

 アイラは幾分の同情を込めて、その少し青ざめた完璧な相貌を見やる。

 

「魔力。……僕が」

「ええ。大きな力ではないけれど……封じてもらった方がいいわ。余計な災いを、呼びたくないなら」

「……」

 男の子は、しばらく蒼白な顔のまま、目を伏せていた。それからついと、その瞳が上がる。


「教えてくれて、ありがとう。……多分、もう、会うこともないだろうけど。魔力があるって知られたら、僕は、二度と外には出られなくなる」

「え」


 男の子の突飛な言葉に、アイラは訳が分からず絶句する。

 彼は目を細めて微笑む。ぞくりとするような、美しく寂しい笑顔だった。


「僕のお母さんが、そうだったんだ。でも、早めに知れて、良かったよ。人を、傷つけずに、済んだから」


 どういうことだろう。彼の周りには、封じ手がいないのだろうか。確かに自分も、家の外では魔力は絶対に隠さなくてはならないと、言い聞かされている。災いだけを、呼ぶからと。

 くるりと踵を返した背中に、思わずアイラは声をかけた。


「それなら、誰にも気づかれないように、私が封じてあげる」

「――?」

 男の子がアイラを振り返る。


 アイラは男の子の右手を取ると、その薬指に、自分の指から引き抜いた指輪をはめた。

 男の子は目を見開いて、自分の右手で艶やかに光る青色の指輪を見つめる。


「身につけていれば、魔力を、吸い取ってくれるわ」


 アイラは一気に言うと、何かを聞かれる前に、素早く背後へ駆け去った。戻る場所を悟られないよう遠回りをして、自分の家の裏手の扉を目指す。


 あの指輪は、人に渡すことはおろか、近くで見せることも禁じられていた。

 でも、アイラはあの子を、どうしても、助けたかった。何故かはわからない。

 生まれて初めて禁を破った背徳感と高揚感に、アイラの胸は高鳴っていた。

 


 ――あれが、間違いの、始まりだった。

 大広間の入り口扉から現れた、今夜の宴の正賓、正装によりいつもよりさらに数割増しに美しく見える男を眺めながら、アイラはため息をつく。


 禁を破った代償は、あまりにも、大きかった。

 あの異様に美しい少年が、自分の家の宗主国たるギズワルド皇国の第2皇子レオンハルトであると知ったのは、出会いから一年後のことだ。

 自宅の庭で、目の前にふいに現れたあの少年が、恐ろしく優雅な礼をとり、自分に向かい、「モルジアナ・ザイダーン嬢」と呼びかけ求婚した時の衝撃は、忘れられるものではない。


 あの指輪は、ザイダーン家の者のみが身につけることを許される、秘宝ラピスラズリでできたもの。そして、当時ザイダーン家にいた少女と言えば、表向きは、一人だけだった。

 王族である彼は、指輪の素材がこの世のほとんどの者が知らないその宝玉であることを割りだし、いともたやすく、彼女にたどり着いた。

 アイラは、彼に『ザイダーンの姫』の秘密を明かし、口止めをせざるを得なかった。


 それから10年。男は、毎年秋の終わりにわざわざアイラの前に現れては、滞在中の10日間、毎日、『ザイダーンの “知の姫” 』に求婚を繰り返す。

 彼は毎年、繰り返し私に告げに来るのだ。――俺は、知っているぞ、と。

 そして、アイラが動揺から失態を犯すのを待っている。

 皇国の長年の悲願である、ザイダーン家の完全なる隷属を叶え、それにより得られるラピスラズリの洞窟、そして竜の加護を我がものとするために。




 辺境の地の一介の地主が催す晩餐会とはいえ、秘宝の鉱脈を擁するザイダーン家の財力を惜しげもなく投入した宴は、毎年、趣向を凝らしたそれなりに見事なものだ。


 広間の豪奢な扉が開かれる。目の前に広がる色とりどりの地方色豊かな料理の数々、笑いさざめく人の好さそうな招待客たちを一瞥で見て取り、レオンハルトはゆっくりと自分の顔に笑顔を貼り付けながら歩き出す。


 自分で望んで赴いた土地だ。歓待してくれる人々に、せめてできる限りの好印象を与えることが、今の自分にできる最後の役割だろう。

 今年もまた、何の成果もなく、自分はこの土地を後にする。

 彼女と私的な言葉を交わせたのは、毎日、交渉の前の数言だけ。10日分を合わせても、数分にも満たない。これからまた11か月、ぽっかりと穴の開いた心を抱えて、ひたすらに、足掻き続ける日々が始まる。

 胸の内の寂寥感を飲み込んで、彼は自分の役割に専念する。


 さりげなく寄って来た給仕の盆から、2杯目のシャンパンのグラスを取り上げようとした時、広間の奥の一角に目が吸い寄せられた。


(彼女だ……!)


 そこに、このような場では10年間一度も目にしたことのなかった、アイラ・ローゼンバーグの姿があった。


 書類を前にするといつも冴えた光を放っている漆黒の瞳が、今は優しく細められている。艶やかな黒髪は、今日はふっくらとつつましやかながら優雅な形に結われていた。肌には軽く白粉がのり、唇はぽってりと艶やかに彩られている。白い肌に映える、深緑色の美しいドレス。いつもに増して優美なラインを描く、細い腰。


 ちらと、彼女と視線が絡んだ。レオンハルトの喉元に熱い塊が生まれ、耳がぐわりと鳴る。周囲の音が遠くなる。

 彼は自分の役割も忘れ、まっすぐに、彼女に向かって歩を進める。




 さりげなさを装いながら、アイラは広間に目を走らせていた。この宴の中心にいるレオンハルト皇子は、交渉の場では見せることのない、ひどく上品な微笑みを浮かべ、ゆっくりとした歩調で広間を回遊している。光を背負ったような、圧倒的で華やかな空気。それでいて、相手を威圧することもなく、彼からは誰にも彼にも、同じように羽のような軽い笑顔が与えられる。アイラは思わず、嘆息した。その洗練された立ち振る舞いには、隙が無い。プロの社交師だ。まあ、言ってみれば、これが彼の本業なのだった。


 その時ふと彼の目が上がり、アイラの視線とかち合った。途端に彼は一瞬真顔になる。


(え)

 次の瞬間、皇子はぱあっと音がするくらいの全開の笑顔になった。アイラの心臓が跳ねあがる。


(ちょっと)

 仮にも、王族に列する貴公子である。社交の場で、これほど分かりやすく表情を変えるなど、あってよいことなのだろうか。

 そしてあろうことか、彼はまっすぐにこちらに向かって歩み寄って来た。


(いや待って)

 この場でのアイラの身分は、筆頭侍女。目立たなさを競ってなんぼの立ち位置である。今日は妹の護衛のため、表舞台に姿をさらしてはいるが、主賓に、ちぎれんばかりに尻尾を振る犬のように、満面の笑顔でまっしぐらに突進されてよい立場ではない。


 それにしても。どんどん近づいてくる皇子の顔を眺めながら、アイラはくらりとする。この笑顔は、反則だ。凶器だ。自分の心拍数がどんどん上がっているのが分かる。


「アイラ嬢」

 とうとう彼女の目の前にたどり着いたレオンハルト皇子の、はっきりと弾んだ声が聞こえた。胸が苦しい。背中を、冷たい汗が流れる。彼がアイラの手を取ろうとしたとき、ふいにアイラの身体がぐらりとかしいだ。


「アイラ嬢!」

 何ということ。いくら徹夜明けだからと言って、久方ぶりに本気で締め上げたコルセットを着けているからと言って、侍女の立場で参加した晩餐会で、倒れるなんて。遠のく意識の中、アイラは自分の不甲斐なさに唇をかむ。緊迫したレオンハルトの声がもう一度、自分の名を呼ぶのが聞こえた。その声は、アイラを不思議に幸福な痺れで包む。そのまま、アイラは、ゆっくりと意識を手放した。




 目を開けると、ろうそくの明かりにうすぼんやりと浮かび上がる天井が見えた。


「おねえちゃん」

 涙の混じった妹の声。途端にアイラは目を見開き、ベッドから飛び起きた。


「モルジアナ! ごめんなさい、晩餐会は、晩餐会は、どうなったの」

「大丈夫よ。第2皇子殿下とおつきの方が、上手に皆を誘導して下さって、場の雰囲気も壊れずに、無事に終わったわ。もう、皆さま、お帰りよ」


 妹は軽くアイラの手を握ると、傍らの椅子から立ち上がる。


「大丈夫そうね、良かった。……殿下が、ずっと部屋の外でお待ちなの」

「え」

 予想外の言葉に、一気に心拍数が上がる。


「ご案内しないと、このまま一晩、廊下でお立ちになり続けそうだから、……お呼びしてくるね」


 モルジアナの声には、優しさといたわりと、それ以外に何ともいえない響きがある。アイラはその意味を読み切れず、微かに首をかしげた。

 部屋を出て行く妹を横目で見送りながら、アイラは素早くベッドから降りて服の乱れを整えると、ベッド脇の椅子に腰かけた。


 再び開いたドアの向こうに、夜目にも際立つ美しいプラチナブロンドの短髪が見えた。アイラは立ち上がり、礼を取ろうとする。


 次の瞬間、自分の身体が浮き上がり、事態が呑み込めず息を飲む。


「なんてことを。立ち上がったりしては駄目だ」


 頭の上から、震える声がする。レオンハルトが、ドアからアイラの傍らまでを一足飛びに駆け付け、アイラを抱き上げたものらしい。


「そんな。もう、大丈夫です。晩餐会では良くある、ただの、脳貧血ですわ。……お恥ずかしいです」


 返答がない。レオンハルトは、アイラを横抱きにしたまま、しばらく身じろぎもしなかった。


「あの、……レオンハルト様?」

「ああ。無事でよかった」

 はっと我に返ったようにレオンハルトはアイラの顔をのぞき込むと、そっとその身体をベッドに横たえる。


「痛いところはない?苦しいところは」

「いえ、何も……」


 胸の上のアイラの右手に、レオンハルトの冷たい手が重なった。しばらく間があってから、彼の、常にない低い静かな声が響く。


「アイラ。俺が君を訪ねることは、君にとっては、負担だったのだろうか」

「それは……」

 大いに負担でした、とも答えられず、アイラは口ごもる。


「アイラ。なんというか、信じてもらえないかもしれないが……俺は、いつでも本気で、君に求婚していたんだ」

 レオンハルトの声は苦し気だった。


「それがおかしいやり方だったということは、今日、モルジアナ殿に指摘されて、ようやくはっきりと、知ることができた」

「え」

 一体あの子、殿下に何を言ったの。アイラは血の気が引くのを感じる。


「俺は子供のころから、とにかく女性に、まあその、言い寄られ続けていて。笑いかけただけで、とにかく結婚を、などと言われ続けて、自分に好きな人ができたら、とりあえず結婚するものだと、思っていた」

「まあ、それは」

 アイラはどう相槌を打ったらよいものか、分からない。


「だからその、とりあえず、結婚してもらって。それから好いてもらうためには、修行をして技を磨くしか、無いと思った。……とにかく全部、間違っていた」

 何の技かは正直あまり、聞きたくない。


「……でももう、そんなことは良いんだ」


 そこで、レオンハルトの声に、不思議と晴れ晴れとした響きが生まれる。


「今日、目の前で君が倒れた時、やっと分かった。君が健やかで、幸せでいてくれるなら、俺はそれ以上に望むことは何もない。ただでさえ大変な責務をこなしている君に、自分の隣に立ってもらい、今以上のものを背負ってもらおうなどと望んだ俺は、本当に愚か者だった」


 アイラの手を包んでいた、レオンハルトの手が離れる。

 かちゃり、と軽い音がして、アイラの手に、冷たい感触が乗った。

 それは、あのラピスラズリの指輪だった。


「これを、直接君に、返したかった。貴婦人の休んでいる部屋の前で待ち伏せするなど、あるまじき行為だったが、許してほしい」


 さらりと、レオンハルトの指がアイラの額に触れ、張り付いていたおくれ毛をすくい落す。


「俺を、生かしてくれて、ありがとう」


 レオンハルトの最後の声は、ぽつりと薄闇の部屋に広がった。 

 静かに、レオンハルトは立ち上がり、ひとつまばたきをすると微かに微笑んで、アイラに背を向けた。



 歩み出しかけたレオンハルトの動きが止まる。

 彼の袖を、起き上がったアイラの手がつかんでいた。


「レオンハルト様。……これは、あなた様のものです」


 かちゃり。アイラはひんやりとした青い指輪と、それを通した銀の鎖を、レオンハルトの右手に握らせる。彼の手は、微かに震えていた。


「レオンハルト様。……私は、初めてお会いした日からずっと、あなた様をお慕い申し上げておりました」


 アイラの静かな声に、背を向けたレオンハルトの全身が硬直する。


「あなた様が私に結婚を申し込まれるたび、それが偽りの言葉だと思っていても、私の胸がどれほど高鳴ったか。遠い都であなた様が流す浮名がこの片田舎に流れ着くたび、私の胸がどれほどの締め付けられたか。……あなた様にはきっと、お分かりにならないでしょうね」

「……アイラ。それ以上言っては駄目だ」


 呻くような、レオンハルトの声。


「レオンハルト様。たとえ、結ばれることが叶わぬ身であっても、私は生涯、あなた様をお慕い申し上げます」


 ぐ、という短い呻き声の後、レオンハルトは、アイラを抱きすくめた。

 男の唇が、貪るようにアイラの唇を覆う。

 そのままゆっくりと、アイラは背後へ押し倒され、二人の身体はベッドへと沈み込んでいった。




 次に目を開いたときには、部屋はろうそくの灯さえ消え、暗闇に近かった。

 そっと髪に触れられる感触に、アイラは横たわる自分の頭の横で片膝を立てて座り、こちらに手を伸ばしているレオンハルトを見上げる。


「まだ、夜明けまでは大分ある。もう少し、ゆっくり、やすんだ方がいい」


 慈しむようなその声は、アイラの胸を甘く満たす。

 それからふと、彼の頬を見てアイラはつぶやいた。


「レオンハルト様」

「レオン、と」

「レオン。……泣いていらっしゃるの?」

「……そうだね」


 レオンハルトは、微笑んだようだった。その目からはらはらと零れ落ちる雫が、闇の中のほんのわずかの光に、微かにきらめいて見える。


「どうして。……どこか、お辛いの」

「いや。……ただ、幸せな、だけだよ」

 そのままレオンハルトの指は、優しくアイラの髪を梳き続ける。


「あまり、見ないでくれ。さすがに、恥ずかしい。……朝には、まともな男に、戻るから……」

 自分の膝に顔を伏せて、苦笑いの声でレオンハルトは言う。


 ああ、今、彼を抱きしめてあげたい。夢うつつにそう思いながら、抗いがたい眠気に、アイラの意識は再びゆっくりと、暗闇に沈んでいった。




「アイラ。君の返事は、来年の訪問の時に、聞かせてくれ」


 出立の朝。腕の中の愛しい人に最後の接吻を与えた後、レオンハルトはささやいた。


「でも」

「君は、この家になくてはならない人だ。今、君をここから攫って行くことはできない。それくらいは、いくらタガの外れた俺にでも、分かるよ」


 それから、彼は悪戯っぽい笑顔で、右の掌を開いて見せる。そこには、青く艶めく小さな石が、二つあった。


「これは」

 見間違えようのない秘宝の輝きに、アイラは目を見開く。


「誓いの石……」

「モルジアナ嬢は俺に、1年間待ってくれ、と言った。1年間で、君が心配せずに家を出られる当主に、自分がなって見せると」

 その時の彼女の表情を思い出し、思わずレオンハルトは微笑む。


「だから俺は、一年後に、君の返事を聞きに来る」

「……あの」

 アイラはおずおずと、レオンハルトの顔を見上げた。


「もう一つの、石は……」

「ああ、これは……」

 レオンハルトは一瞬口ごもったが、それから堪えかねたように噴き出した。


「もしこれから、俺が君を裏切ることがあれば、男として使い物にならなくされると思え、と言われた」

「え」

 セレン、あの子は。アイラは、数日姿を見なかった妹の行動に驚きを通り越し呆れる。


「『ザイダーンの姫』の武術担当は、噂にたがわぬ腕だね。俺の部下の警備を、気取られもせずにくぐり抜けて来たよ」

 まだくっくっと笑いながら、レオンハルトは優しくアイラの頬に触れる。


「心配しなくても、俺が彼女のお世話になるようなことは、あり得ないよ」


 もともと、俺は、昨日まで一度も女の子に自分の身体を触らせたことなんて、なかったんだぜ。女の子の身体に、指以外で触れたこともなかった。

 『修行』は、女の子を歓ばせる技を磨くため。それ以上を迫られて部屋から追い出した女の子たち、何人にぶたれたか、分かりゃしない。

 墓場まで持っていく秘密を、レオンハルトは、胸の内でつぶやく。




「厚遇、深謝する」


 凛とした声で告げると、馬上の人は微笑んだ。光の粒をまき散らすようなその笑顔に、見送りに集まった群衆はしばし言葉を失い陶然と立ち尽くす。

 ぐるりと人波を見渡した馬上のレオンハルトの瞳が、館のバルコニーから彼を見送る、ザイダーン家当主の筆頭侍女の瞳をちらりと捕らえた。

 ふ、と彼の右手が動き、その指が、胸元に触れる。旅装の下のその場所に、密かに下げられた青い指輪の存在を、二人は静かに確認する。


「それでは、また来年に」


 馬首を巡らし小さくなっていく貴公子の背中を、再会を願う群衆の歓声が、いつまでも、追いかけていた。

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