元カノはメリーさん
最近、密かに王都で囁かれている都市伝説がある。
ーーー それは一通の手紙から始まる。
「ご機嫌よう、私メリーですわ。これからあなたの元へ参ります」
美しい筆跡でそれだけを記した真っ白な便箋は、仄かに金木犀の香りを漂わせている。
送り主も宛先もなく、切手すら貼られていない便りが届く相手は、決まって婚約者を新しく決めたばかりの若い男性貴族だ。彼らに共通点はない。もちろん、“メリー”という名にも心当たりがない。
だからそんな不審な手紙は破棄してしまうのだ。または家令や執事が主人の目に留まる前に処分してしまうケースもあるだろう。
すると、しばらくしてまた同様の手紙が届く。しかも今度は明確に自身の居場所を知らせてくるのだ。
「ご機嫌よう、私メリーですわ。ただ今、○○に滞在しておりますの」
その場所は大抵、貴族達の邸宅から馬車で3日はかかる所だった。しかしそこに滞在しているとして、こちらには全く関係ない。
そして同じ日に手紙は何通も届く。
「ご機嫌よう、私メリーですわ。ただ今、○○でお茶を頂いておりますのよ」
「ご機嫌よう、私メリーですわ。ただ今、○○の美しい湖を眺めておりますわ」
だんだん近付いている。明らかに人外の速度で。早馬でも間に合わない移動距離は、手紙を読んだ者達を震え上がらせた。
本当にこちらに向かっているのか?手紙を送ってくるのは女ではないのか?いや、むしろ人間では無いのではないか?
反応は様々であるが、時に人はパニックに陥ると悪運を引き寄せてしまう。
ある者は家を飛び出して馬車に轢かれ…。ある者は恐怖のあまり飾られていた剣を振り回して家人を斬りつけ…。ある者はあまりの恐慌状態に、気が触れたかと勘違いされて幽閉された。
「ご機嫌よう、私メリーですわ。少し飽きてしまったので、やっぱりあなたの元へ行くのはやめました。残念ですわ」
最後の手紙を開き終わるまで、無事でいられる男は残っていない。
これが今、人々を恐怖に震え上がらせる都市伝説「メリーさんの手紙」である。
一体誰がこんな悪質な悪戯を仕掛けているのか?
王都で最近流行っているものを記した友からの文通に苛立ちを隠せないのは、本物のメリーさん…ならぬ、メアリー・アンダンテだった。
地方貴族アンダンテ伯爵家の次女である彼女は、最近王都の国立学園を卒業してきたばかりだ。しかも本来ならあと1年残っている所を、優秀な成績で飛び級して抜け出したのである。難関だと有名なかの学園を女性の身で繰り上げにて卒業するのは異例のことだ。
「だからって私へのやっかみでもあるのかしら?」
暑さが和らぎだした初秋、伯爵家の離れの窓辺から見える庭には金木犀の花が咲き誇っているのが見える。元々メアリーが好んでいたため数年前に植えたものだ。
そう、金木犀は例の手紙から漂うといわれる花の香り。
「まさか、逃げ出した私への嫌がらせ?…でもこんな回りくどくて手の込んだことしても、田舎に引っ込んでいる私は痛くも痒くもないのだけれど」
そう一人呟くメアリーはモヤモヤとした感情を持て余しながら一年前からの出来事を思い出していた。
ーーーちょうど一年前の夏、無事三学年への進級を迎えようとしていた休暇の頃のこと。
(ちなみにこの国の国立学園は三ヶ所ある。その中でも王都に位置するセントラルアカデミーは王族や貴族が学生の大半を占めている。平民は高難易度の試験を突破した者でなければ通う事ができない狭き門なのである)
入学・進学を控えた数日前、アカデミーの大ホールで毎年大規模なパーティーが催されていた。
全生徒が参加しているため入学前の新入生にとっては緊張しかないのだが、在学生による歓迎を込めたパーティーであるため、公の物よりかはフランクな雰囲気がある。
何しろ青春真っ只中な学生のノリでの計画だ。基本的には教師の手を借りながらの生徒会が主催ではあるが、アルコールを抜いた立食パーティーでサークルや学部ごとの出し物も行われるので、大分肩の力が抜けた緩い雰囲気があった。
(私も初めて参加した年は笑顔も引き攣っていたわね…)
そんな事を思いながら、メアリーは入り口近くで硬い表情のまま寄り添っている新入生の少女たちを眺めた。
この学園は四年制。13〜14歳ほど少年少女が入ってくる。そこまでは各自バラバラの学校や家庭教師の元で学ぶのだから、このような大きい施設で(しかも寮生活だ)集うのは空恐ろしいことだろうと感じた。
手元の果実水が入ったグラスをいじっていると、隣から友人のアリシアが肘で突いてきた。
「ちょっと、メリー」
「ん?なに、アリス」
「あれ、またやってるわよ?いいの?」
友人同士の愛称で呼ばれて返事をすると、会場の奥を示された。思わず顔を上げた視線の先に、見慣れた顔の、見慣れたくなかった行動が映った。
「ねえねえ、君たちは一年生かな?」
「は、はい…」
「大丈夫?緊張してるよね?良かったらさ、俺たちが学園のこと教えてあげるよ。はい、これ。お近付きの印にちょっとしたプレゼント」
茫然と佇む幼さの残る少女たちと、制服を着崩した男子学生数名の対図。
ベラベラと捲し立てた青年の手には可愛らしい手作りのサシェがあった。この時のために持参したのか、手提げ袋から適当な手付きで摘み出している。
「……!?」
瞬間、メアリーは一気に頭に血が昇るのを感じた。恐らく怒りで酷い顔になっているのだろう。
「メリー、ねえメリーったら!少し落ち着いて!」
アリシアに肩を押さえられてハッとする。
「確かにあなたの婚約者はクズで酷いものだけど。ここは大勢集まりすぎてるし、その顔で怒鳴り込んでも良いことは無いと思うわ」
「ごめんなさい、あのサシェを見たらイライラしてしまって…」
そう、先程から二人の話題になっているのはメアリーの婚約者であるブライアン・タッカーだった。向こうも友人四人とパーティーに繰り出したらしく、今は片っ端から可愛い新入生を漁っているようだ。
アリシアがいうように、ブライアンは貴族とは思えない素行から“クズ”だと評判だ。
禁止されているものは兎に角やらないと気が済まない。男は殴るもの、女は侍らすものと決めているらしい。気に入らない者は無理難題をふっかけて、酷い時は権力を振りかざして学園から追い出すらしいとまで噂されている。
何様、俺様、次期侯爵様だ。
(まあ、あのご両親の元で育てばこうなるとは想像できるけど…)
ブライアンは父親にそっくりだし、母親は侯爵家唯一の男児を溺愛してやまない。メアリーは政略的なものだから仕方ないとはいえ、人身御供の心持ちで婚約者となっている。
(でもあのサシェ、私が作った物じゃない!珍しくしおらしい態度で要求してくるから、私の大好きな金木犀を使って嬉々として作ったのに…。まさかナンパの道具にされるだなんて!)
何も言わずに唇を噛み締める友人の姿に原因を察したアリシアは「あっちで風に当たろうか?」とメアリーをそっとバルコニーまで誘導してくれた。
パーティーは夕方から開催されているため、外はだいぶ日が陰ってきている。夏も終わりに近いこの時期は風も心地よい程度になってきていた。
「何か冷たい飲み物もらってくるわね」
バルコニーに並ぶベンチへメアリーを残すと、持っていた空のグラスを回収してアリシアが室内に戻っていく。そつのない動きに(アリスが彼氏だったら良かったな…)なんて真剣に考えてしまう。
…もし伯爵家が資金援助など必要としていなかったら。
…もし父が存命で、領地経営が苦手な兄を支えてくれたら。
…もし姉が病弱でなければ。
一人になる度、覆らない起こり得ない奇跡ばかりを夢想してしまう。貴族社会を見ていれば実感する、この世は理不尽なものだと。
それでもあと二年でこの自由な学生生活から牢獄に押し込まれると思うと、悲嘆にくれてしまうくらいは許してほしい。
空に星が瞬き出したのを見上げていると、瞳を覆っていた水が重力に逆らえず頬を伝い始めた。
……と、
「この雫は神への祈りかな?」
涼やかな声と共に目元を何かが押さえる感触があった。
「え…!」
「おっと失礼。淑女がお一人で休まれている所にお邪魔してしまいました。肌に触れてしまった無礼をお許し下さい」
慇懃無礼な程に丁寧に腰を折るその人は、美しく長い黒髪を一つに括って背中に長していた。室内から漏れる明かりに反射して艶々と輝いている。
「あ…の、どちら様でしょうか?」
見慣れない容姿に茫然としながら問うと、顔を上げた相手は髪と同様に黒い瞳を瞬かせて破顔した。
美しい青年だった。大人びた顔立ちが笑みを浮かべると、子犬のような愛らしい表情になる。
「すみません、あなたの横顔に光るものを見て咄嗟に飛び出してしまったもので。自己紹介が遅れました。今年三学年となります、リーウェイ・ウォンと申します」
聞き慣れない名前だった。明らかにこの国の発音ではない。しかし話す言葉遣いに訛りはなかった。
「リーウェイ…様。あの、失礼ですがお名前を存じ上げなくて。私も同じ学年ですが、自分のクラス以外の方を覚えるのが苦手なのです」
「ふふふ、大丈夫ですよ、お嬢さん。私は今年から短期留学予定の外国人ですので、ご存知ないのは当然です。以後お見知り置きを」
リーウェイと名乗る青年はまた深々と頭を下げた。
慌てて顔を上げるように声を掛けようとして、メアリーは気付いた。
「…プッ…!あ、はは!」
失礼だと思いつつも吹き出してしまった。だって、彼の髪を縛る紐に名札が付いたままなのだから。この国の字で「250バル」と記してある。安価な紐は露店ででも買ったのかもしれない。この値段ならば平民も気軽に買える値だ。
なぜ笑われているのか首を傾げるリーウェイがどことなく可愛らしくて、目尻の涙を拭いながらメアリーも微笑んだ。
「笑ってしまってごめんなさい。私はメアリー・アンダンテと申します。これから同じ学年になるのですもの、こちらこそよろしくお願い致します」
「あと、値札付いてますよ」と教えてあげれば、面白いほどに狼狽える彼が面白かった。アリシアがグラスを持って戻ってくるまで些細な会話を楽しみ、一時嫌な感情を忘れる事ができた。
新学期に入り、彼はメアリーとアリシアのクラスへの転入生だと知った。今度は値札の付いていない紐で美しい髪を結え、相変わらず仰々しいくらいのお辞儀をしながら教室の前で挨拶をしていた。
聞く所によると、三つ離れた大陸の端にある東国からわざわざ留学しに来たという。東国は授業でもよく聞く大国で、国土はこの国の三倍にもなる。
なぜそんな大国からわざわざ…と思うが、どうやら外国の文化を学びたいと思った彼が頼み込んだ所、母親の親戚が住む我が国が選ばれたらしい。
「昼食を一緒にとっても良いですか?」
「どうぞ、どうぞ」
あの日のことが縁で彼はメアリーたちとよく行動するようになった。実は東国に興味があったらしいアリシアとも意気投合し、昼は食堂に連れ立って、放課後は図書室で共に課題に取り組んだりした。
リーウェイが教えてくれる東国の話はどれも興味深く、逆にメアリーたちの日常や文化に彼は目を輝かせていた。
そんなある日。用事があるという友人二人と離れ、メアリーはいつものように図書室へ向かった。テスト期間が終了した直後だからか、その日の図書室は閑散としていた。
こんな環境の時は誰かが少しでも声を出すとよく響く。
「…あれって本当!?」
借りたい本を探していると、奥の方から少女の甲高い声が聞こえてきた。
どうやら二人で話しているようで、本人たちは声を抑えているつもりだろうが、興奮が隠しきれないその会話はキンキンとして聞きたく無くても耳に入ってしまう。
さすがに注意をしようかと近くまで行くと、かの有名な婚約者の名前が話題に出ていることに気付いた。
「うん、ブライアン様がね、私が良いんだって」
「え、だってあの方、婚約者がいたよね?」
「なんかパッとしなくて気に入らないらしいよ。親が勝手に決めただけだし、たいして侯爵家に利益もないし。だから卒業したら捨てるんだって」
「クスクス…やだぁ、かわいそー」
酷い言い草だ。だがブライアンなら言いそうな話だ。
メアリーとブライアンは同い年。あと二年もせずに卒業となる。
彼女たちの話の通りならば、卒業後に下級生であろう少女(彼のことだから、それまでに相手が変わる可能性もある)との再婚約を理由に婚約破棄を迫ってくるだろう。誰かの入れ知恵でも受けて、適当にこちらに非があるようなでっち上げを作り上げて慰謝料も払わないに違いない。
そうなったら伯爵家はおしまいだ。
…時間がない。
「どうしよう…」
最近目を逸らしていた現実が一気に押し寄せてきた。
フラフラとした足取りで、気が付けばメアリーはアカデミーの中庭まで来ていた。もう冬も間近で、周囲の木々は葉が落ちて寒々とした光景になっていた。
「メアリーさん?」
優しい声がメアリーを呼んだ。今日も夕方まで聞いていた慣れた声だ。
途端、メアリーの目から涙が滝のように流れてきた。声が出ない。胸が苦しい。止まらない涙をそのままに、立ち尽くしていた。
「え!ちょ、大丈夫ですか!?私、何か酷いこと…」
隣まで駆け寄ってきたリーウェイは、彼の服の裾をギュッと握ってきたメアリーに何も言えなくなったようだった。その手をソッと握ってくれて、しばらく隣で待ってくれた。何のフォローもないその空間が逆にメアリーはありがたかった。
どれくらいそうしていたか。薄暗くなってきたこともあって、リーウェイが無言でメアリーの手を引いた。
荷物の確認をされたため、小さい声で「図書室」とだけ返答する。まだギリギリ開いていた図書室でバッグを回収すると、リーウェイはどこへともなく歩き出す。
脱力してしまっていたメアリーは連れられるままついていった。
「メアリーさん」
再びの呼びかけに顔を上げると、そこは男子学生寮の裏手だった。針葉樹が多いこの辺りは葉が落ちることもなく林のようになっていた。
中でも一際大きな木の下にリーウェイがしゃがみ込んで呼んでいる。
「?」
近くまで寄って同じようにしゃがむ。それを待っていたかのようにリーウェイが紙切れを木の根元に落とし、何かを呟いた。
すると地面から何かキラキラしたものが浮かび上がってきた。それは小さな人の形をしていた。
「な…にこれ?きれい…」
「これは式神と言います。私の家に伝わる術で、こちらでいう精霊のようなものです。この木はそこそこの樹齢があるので、呼び寄せられました」
精霊については聞いたことがあった。ほとんどお伽噺の域だが、自然界に浮遊するといわれる不思議な存在。本当に稀に精霊を見ることができる人がいて、力を借りたり未来を聞いたりできるらしい。
そんな存在が目の前に具現化している。紙切れ一枚で呼び出したリーウェイは一体何者なのか?
驚きが強すぎて涙は引っ込んでしまった。
「良かった、涙止まりましたね」
穏やかに微笑む美青年が不思議なものに見える。
「リーウェイ様?あなたは一体…」
「唐突ですが、ちょっとだけ昔話をします」
「え…」
会話の出鼻を挫かれた。本当に唐突だ。
「東の端の国に皇子が生まれました。側室が何人いても女子ばかりが続いた皇室にようやく誕生した彼は大事にされました。ですが、母親にしか言えない秘密があったのです。幼い日に禁忌としてしまわれていた呪いの箱を開いてしまったんですね」
「呪い?」
「そう。その禍々しさに驚いてすぐにしまいましたが、呪いの欠片は彼の身を侵すようになってしまいました。母は秘密裏に国中の術師を呼んで解呪を試みさせ、彼自身にも様々な術を習得するよう教師をつけた。その中で“西の国に運命の相手がいる。結ばれる事で呪いが浄化されるであろう”なんていう神のお告げを頂いたのです」
「そんなお告げが…」
「笑ってしまいますよね。“彼はプリンセスのキスで目を覚ます”といった所でしょうか?」
苦い笑いを溢す彼を見つめ、メアリーはそれが彼自身の話で、先程から漂っている式神というものが身につけた術の一端なのだと理解した。なぜこの国に留学してきたかも。
「ここ数年、一年おきに西側の諸国を巡ってきました。けれど目ぼしい情報はなく、この身は徐々に蝕まれていく」
「痛い…ですか?苦しいの?」
「そうですね、なんと言ったらいいのか。きっとこの呪いの発端は執念深い女性だったんでしょう。夜な夜な夢で逢瀬を重ねていますよ。泥沼に沈んでいく感覚です」
「!?だ、だめ…!」
聞いている内に堪らなくなってメアリーは彼を抱きしめていた。
知らぬ事とはいえ、ずっと苦しんでいた彼が痛々しくて。どこの誰とも分からぬ女に彼が奪われてしまうと思って。どこか嫉妬に似た感情が彼女を突き動かしていた。
「いや、だ。いなくなっちゃ嫌」
先程とは違う涙が溢れてくる。自分でもよく分からない気持ちを持て余しながら、何度もリーウェイの名を呼んでいた。
「メアリーさん…。…ッメアリー!」
不意に呼び捨てにされて、相手からも強く抱きしめ返された。
「君なんだ、メアリー。私の運命の相手はメアリーなんだよ。あのパーティーの夜に君を見つけて気付いてしまった。自分勝手にも、まだ出会ってもいない私のために神に祈って泣いているのかと勘違いしてしまいました。本当の理由も知らぬまま…」
「リーウェイ様…」
「急なことで驚いたでしょう?君がまた涙を流しているのを見て堪えきれなくなったんだ。君を泣かせるものが許せない。原因が何か知りたい。…メアリーを愛しているから」
誠実な告白に顔が紅潮していくのが分かる。自分から抱きついてしまった事への気恥ずかしさがそこに重なり、一旦落ち着こうと彼から腕を離した。
しかし相手の腕は離れようとはせず、より一層力がこもったようだった。
「リーウェイ様。ちゃんとお話しますので、少し離れても良いですか?」
「あっ…、申し訳ない」
リーウェイも顔を真っ赤にさせて離れた。
「私はアンダンテ伯爵家の次女です。家庭の事情でブライアン・タッカー侯爵令息と婚約しています。…ブライアンのことは知っていますか?」
「タッカーくんか、何となく風の噂でね。かなり横暴な次期当主だと聞いていますが、それはあっている?」
「はい、お聞きになった通りの男ですよ。私は一応婚約者ではありますが、ほとんど交流もないですし蔑ろにされています」
最初の頃は婚約者の言動を注意していたせいか、その内に交流する時は仄暗く睨むような目付きで見られるばかりになった。
「さっきは図書室で下級生の子たちが囁いていた内容にショックを受けて…。卒業したら私との婚約を破棄するという単純なものでしたが、きっとあの侯爵家のことだから、こちら側に不利な条件を突き付けてくると思ったんです。そうしたら負債を抱えて、病の姉もいる我が家はもう終わりだなって…」
また胸が苦しくなってくる。こんな話、リーウェイにするべきではないのに…。
するとリーウェイが両手でメアリーの頬を優しく包み、顔を上げさせられる。
「メアリー、私の運命の人。必ず君を救うからあと半年だけ猶予をくれませんか?私は一時故郷へ帰国して色々と手続きを済ませてきます。必ず迎えに来るから、一緒に東の国へ来てくれませんか?」
突然の告白の後に突然の求婚。
けれど嫌ではなかった。暗い未来から目を逸らしたいと理由もあるけれど、リーウェイのために生きられるならついていきたいと思えた。
メアリーを見つめるリーウェイの瞳はあまりに優しくて、こちらも微笑みが溢れる。
「はい、喜んでお供します」
ーーーその二日後、リーウェイは本当に風のように国へ帰っていった。元々お忍びだったようで彼が皇子だとは誰も知らなかったし、浅い付き合いの者ばかりだったために騒動にもならなかった。
唯一の親友アリシアにだけは理由を伝えた。リーウェイの立場や呪い、半年後にメアリーを迎えに来る事を。
「そう、良かった。本当に良かった…」
ブライアンやタッカー侯爵家のことを誰よりも心配してくれていた彼女は、心から喜んでくれた。もちろん、仲が良かったリーウェイが呪いなどという苦しみを抱えていたことに驚き、気付いてあげられなかったことを悔しがってもいた。
彼女が友人で本当に嬉しい。
「それでメリーはどうするの?」
「え?」
「プリンセスはただ待っているだけ?」
打って変わって悪戯な笑みを浮かべたアリシアに、メアリーはしばし思考した。確かに指を咥えて待っているだけではリーウェイにも実家にも悪い気がする。
「…うん、そうね。どうせだったら来年の夏には卒業してしまおうかしら」
「あら、勇ましいわね」
元々メアリーは侯爵家に嫁ぐ身としてふさわしくあるよう、成績は上位を維持していた。それがここで活かされることになるとは。
更にこのアカデミーには飛び級制度や全ての学業を優先的に修了するための試験が設けられている。
本来ならば爵位を継ぐ令息が何らかの理由で早めに卒業せざるを得ない時に活用されるものだが、特に男女で分けられているわけではない。世間的に男子にとって“卒業”は必須であるが、女子は結婚してしまえば肩書きなど不必要となるので途中退学する者が一般的だっただけだ。
「そうと決まればガリ勉コースまっしぐらね!ちゃんとフォローはするから頑張って。幸せは自分で掴むのよ!」
「うん、ありがとう」
有言実行。
その晩からメアリーの勉強漬けの日々が始まった。食事と寝る以外は全て机に向かう時間に費やしたと言っても過言ではないくらい集中した。
時々、(私はどこに向かっているんだろう?王室の文官でも目指しているのかしら?)と着地点を見誤りそうになるほどだった。
翌年の春、メアリーは念のため飛び級試験と学業修了試験の両方を受けた。
教師陣には「試験を受けることは他の学生にも家族にも知らせないでほしい」と伝えた。どこからか漏れてブライアンの耳に入るとまずい。教師側もメアリーの立場を理解してくれているらしく、何も聞かずに準備をしてくれた。
万が一を危惧して、試験日は休日に行わせてもらった。
「っうあー!終わったぁ!!」
全ての試験が終わり、自室のベッドで久々に昼間からゴロゴロと寝転がる。開放感が凄まじい。
結果は三日後だ。
後は神頼みしか無くなり、メアリーは感慨深く目を閉じた。そうすると自然と眠気が襲ってくる。
ーー「メアリー、ただいま」
ーー「おかえりなさい、リーウェイ様…」
ーー「メアリーに話したい事がたくさんあるんだ」
とても幸福な夢を見ていた気がした。
ふと顔を上げると、部屋の中はすっかり真っ暗になっている。
そんな中、見覚えのあるキラキラとした光が窓際の机の上を彷徨っていた。
「もしかして…」
飛び起きてライトをつける。そこには予想通り、以前リーウェイが見せてくれた式神が飛び回っていた。
手には何やら手紙を掴んでいる。
恐る恐る手に取ると、式神は一瞬にして姿を消した。その場には人の形をした紙片が舞い落ちる。
「私が手紙を受け取ると消える仕組みだったのかしら。本当に不思議だわ」
驚きながら真っ白な手紙を見れば、表の中央に綺麗な筆跡で「運命の君へ」と書かれている。その瞬間、あの日リーウェイに抱きしめられて感じた温かさを思い出して、胸が熱くなった。
手紙にはシンプルに一行だけ「1週間後にお会いしましょう」と記されていた。
ーーー約束の日、メアリーは一日授業を休んだ。アリシアに“急病”の伝言を託して。
向かったのはリーウェイと最後に会った男子寮裏の林。時間も場所も指定されていないし、約束もしていなかったからだ。
長期戦を覚悟してランチボックスと読書用の本も持参した。
だいぶ陽気も暖かくなってきたため、初めて式神を見せてもらった木に寄りかかって座る。
…と同時に、フワリと風が吹いた。
「メアリー、ただいま」
「……!おかえりなさい!」
振り返るとあの優しげな笑みをたたえた東の国の皇子が立っていた。
「メアリーに話したい事がたくさんあるんだ!」
これは夢の続きだろうか?
リーウェイの笑顔を眩しく見つめながら、メアリーはこの半年空っぽになったような胸が満たされるのを感じていた。
「私もリーウェイ様に伝えたい事があります。アカデミーの卒業資格を得たの!今年中にはあなたと一緒に心置きなく旅立てるわ!」
驚きで目を瞬かせる彼に、アリシアがしたような悪戯っぽい笑みを送ったのだった。
ーーー思えば怒涛の一年だった。
意識を実家の離れに戻して、メアリーはため息をついた。二人でこの家に飛び帰ったのがついこの間のことのようだ。
リーウェイはメアリーが試験を受けて合格したことに大層喜んで、その足でメアリーと共に伯爵領へ向かった。
本来ならば馬車で丸一日かかる所を、リーウェイが不思議な術式を組み込んだ馬に乗ると飛ぶように進んで二時間ほどで着いてしまった。かなりの速さに目が回ったが。
いきなり帰宅した末っ子と美青年の登場に実家は騒然となり、更に青年が大国の皇子で、婚約者がいるはずのメアリーを娶りたいと言い出したために大混乱となった。
メアリーが飛び級で卒業することになった話などさらりと流されてしまったくらいだ。
「彼女を娶らせてもらうためには誠意を見せなければ」
そう言ってリーウェイは懐からとんでもない額が書かれた小切手を引っ張り出した。この国の銀行に持っていけば同額を引き出せるとの東の国公認の保証書まで付いている。
また、病気の姉の元へも挨拶に寄り、その場で「もしかしたら気の流れを調整すれば…」と呟いて手を翳す。すると真っ青だった姉の顔色がぐんぐん改善し、普段全く食が進まないのに、午後には空腹を訴えてお茶菓子を三人分は食べた。
あまりのことに、当主である兄は床に平伏して
「どうか妹をよろしくお願いします!」
と叫んでいた。
問題は現婚約者の方だ。身分差でこちらから婚約破棄はできず、男連れなのを見ればこちらに慰謝料を求めてくるはずだからだ。
とりあえず卒業するまではこの事は黙っておくようにと言い含められたメアリーは、先日静々と卒業生として式に参加していた。しかも卒業生代表として答辞を読んだ。
そこでブライアンは初めて婚約者が一足先に卒業することを知ったのだ。
答辞を読むメアリーに一瞬驚いたものの、すぐさま顔を怒りで赤く染めて立ち上がっていた。
「おい、てめぇ!なんでそんな所にいやがるんだ!あぁ!?てめぇは在校生だろうが!」
あまりの剣幕にその場は騒然とするが、メアリーは極力落ち着きを崩さずにブライアンを見た。前だったら恐怖が先に立って直視できなかった憤怒の表情も、今なら堂々と眺めることができる。
「お静かに。ここはめでたい卒業の式場ですよ、ブライアン様。私はただあなたより先に学業を修了できただけですよ。嫁になるものが優秀であれば侯爵家にとっても益となるでしょう?」
「ふざけるんじゃねぇ!そこは夫を立てて大人しく程々の成績で卒業するもんだろうが!俺の顔に泥を塗りやがって…。てめぇなんかとは婚約破棄だ!!」
勢いよく怒鳴り散らされた内容に思わず顔が綻びそうになった。理由はどうあれ、自由を勝ち取れそうであったから。
危機感を募らせた教師陣がすぐさま騒つく会場に分けいって、いつまでも吠えるブライアンを無理矢理外へ連れ出してくれた。その後は式も筒がなく進行し、時間通りに寮に戻る事ができた。
てっきりブライアンが式後にでも怒鳴り込んでくると思っていたが、その様子が見られず拍子抜けしたのだが。
「あの男には忠告しておきましたよ。これまで散々やらかしていたあれこれをレポートにまとめて王家に提出しておいたとね。実際、“見聞を広めるために訪れたが、貴国の学園には随分と自由な校風があるのですね”と国王陛下にお伝えしたので」
例の林に誘われてリーウェイが爽やかに告げたのは完全なる脅迫だった。ただ、それが功を奏してタッカー家からの理不尽な請求はなく、穏便に婚約解消に至れそうだ。
「これでやっと君を母国に連れて帰れますね。本当に嬉しい…。愛していますよ」
顔を綻ばせてメアリーの耳元で囁くと、リーウェイはそっと啄むように優しく口付けをした。触れるだけの感触が唇から離れると、メアリーは全身を真っ赤にさせてリーウェイを見上げる。
視線の先には同様に頬を染めて恥ずかしそうにしている彼がいた。
「あとはメアリーを迎え入れる準備だけしてきますので、秋まで家族水入らずで過ごしてください」
その好意をありがたく受け止めて、メアリーはしばらくの間実家でのんびりと過ごしていた。まだアカデミーにいるアリシアと文通をやりとりし、家の手伝いをして過ぎる日々。
そんな中で知った王都での都市伝説騒ぎだった。
一部ではやはり「メアリーが首謀者ではないか?」と心ない噂も飛び交っているらしい。もしかしたらその噂自体、こちらを恨んでいるタッカー侯爵家が流しているのでは?と疑っている。
このままでは実家に迷惑がかかって、心起きなく他国へ移ることなどできなくなってしまうではないか。
メアリーの不安を予見したかのように、離れの戸をノックする音と陽気に澄ました声が聞こえてきた。
「失礼、メアリー・アンダンテさんはご在宅かな?」
「リーウェイ様?いらっしゃったんですね!」
急いで扉を開けると、そこには見慣れない姿になった彼が立っていた。
「え!お髪…どうなさったんですか!?」
そう、美しく流れていた黒髪がバッサリと切られていたのだ。襟足で揃えられた髪型は凛々しく見惚れるようだったが、驚きは隠せない。
「うん、あの髪は呪いから身を守るための一環で伸ばしていたものだから。君と口付けを交わした日にどうやら解呪が叶ったようだったんですよ。それで今後の決意も込めて景気漬けに切りました」
「呪いが解けたんですね!良かった…」
「プリンセスのキスは偉大でした」
冗談めかして笑うリーウェイの言葉にあの日のキスを思い出して、また赤面してしまう。
ふと、メアリーが読んだままテーブルに広げていた手紙に気付いたリーウェイが興味深そうに眉を上げた。
「アリシアとやりとりしているんですか?」
「はい、アカデミーや王都での様子を送ってくれるんですよ」
「変わりはないようですか?」
「ええ、アリス自身は元気そうです。ただ…」
「ただ?」
言い淀むと心配そうにリーウェイが見つめてくる。こんな話、伝えても良いものだろうか?
「メアリー、私は君の憂うものなら何でも知りたいんだ。頼ってもらいたいし、力になりたい。教えてくれませんか?」
「…はい。あの、今王都で流行っているという都市伝説についてなんです…」
請われるがままに「メリーさんの手紙」の話をする。
すると徐々にリーウェイの表情が翳ってきて、最終的にはその場にしゃがみ込んでしまった。首を垂れて小さく「…すまない」と呟いた。
「それは恐らく、私に憑いていた呪いです」
「なんですって?」
「以前に呪いの元が女性だと話したでしょう?夢で会っていた彼女の名前はマーシー。自分のことをメリーと呼んでくれと話していました。彼女自身も私から解き放たれて自由に動き回っているのかもしれません」
「そ、それじゃあ、この状況は続いてしまうのでしょうか?」
「いや、人命もかかっていますし、他国に我が国の呪いを持ち込んでしまった私の失態です。ちょうど手練れの術師を一人連れてきているので、回収しに行ってきます」
一度ギュッとメアリーを抱きしめて飛び出していく彼を見送る。
まさか呪いの女性も「メリー」だったなんて。
もしやメアリーが呪いに嫉妬したように、マーシーというその呪い自体もリーウェイを奪ったメアリーを妬んだのではなかろうか。それでこんなことを…。
「悩んでも仕方ないわ。とりあえずアリスには噂は噂に過ぎないとアカデミーで広めてもらうように伝えないと」
メアリーは友人への折り返しの手紙に集中することで意識を逸らした。
ーーーその後、リーウェイと術者は無事に呪いを回収…どころか浄化させて帰ってきた。
聞くところによると、なんと被害にあった男性貴族はブライアンとその友人たちだった。それぞれがブライアンの威光を背に背負って好き勝手してきた者ばかりで、婚約者となった少女たちはほとんど脅されて契約していた。
また、今回の騒動では誰も重症を負ったり亡くなったりしていないのが救いだった。
リーウェイが呪いの足取りを追って辿り着いたのは、最後の被害者となるタッカー邸だったそうだ。
灯が消え、人の気配も疎らな屋敷に足を踏み入れると、正気を失って目が虚なブライアンが剣を持ったまま玄関ホールで立ち尽くしていた。側では腰を抜かして動けないでいる侯爵夫妻が転がっているだけ。恐らく暴れたブライアンに恐れをなして、使用人はことごとく逃げおおせたのだろう。
「ブライアン・タッカー?」
その呼び名に反応がない。ならば…
「マーシー。……メリー?」
呼んでくれと言われた名で“彼女”に呼びかけると、ようやくブライアンの顔がふらりと持ち上がる。
「ああ、リーウェイ、やっと呼んでくれたね。あの娘に取られちゃったから、もう会えないと思ってた」
「君は…メアリーへの当て付けでこんな事を?」
「…それもあるけど…あたしが個人的にこいつらの事を許せなかっただけだよ。あたしを弄んで殺した奴らにそっくりだったから、あたしみたいな女の子を増やしたくなくって。でももう満足した。これで復讐は終わりにするよ。バイバイ…」
そう言うと、本当に満たされた表情をした少女の姿がブライアンに重なって見え、糸が切れたようにブライアンはその場に崩れ落ちた。肩が上下しているため、ちゃんと呼吸はしているようだ。
しかし恐らく精神は蝕まれている事だろう。
ここまでの話を聞いて、メアリーは詰めていた息を吐いた。呪いの彼女に思いがけずメアリーの復讐を手伝ってもらってしまったようだ。
「噂は自然と消えていくと思います。彼らの家にはメアリーが原因じゃないって広めるよう通達してまわったしね。ついでに…」
額にリーウェイが口付ける。
「君が私の婚約者だってふれて回ったよ」
「え、ええ!?」
額を押さえながら動揺するメアリーを愛おしそうに見つめるリーウェイは、呪いや二人を阻むものが無くなって強くなったように思えた。
ようやく彼との幸せに向けて一歩を踏み出せることを噛み締めて。
ブライアンの元カノ「メリー」だったメアリーは、リーウェイの元カノ「メリー」だったマーシーに感謝しながら新たな婚約者を抱きしめるのだった。
初投稿です。お目汚し失礼します。
某動画生配信のチャットで盛り上がったフレーズをそのままタイトルに付けました。ただのネタです。
生暖かい目で見てやって下さい。