第33話「田中 菊栄(きくゑ)」
「じゃあ行ってくるね、ソラさん」
「ああ、アケミさん。ボクの事はソラと呼び捨てしてくれて構わないよ。周りの人間は皆そう呼んでる」
「そうか」
「まあ、父さんはボクの事を溺愛してるから、目の前で呼び捨てにすると、ぶっ飛ばされるけどね」
「君の父さんも、この給油所に顔を出すのかい?」
「大体は会社の研究所に入り浸ってるんだけど、たまにフラッとボクの顔をのぞきに来るよ。こんな格好してるけど、一応は一人娘だしね」
そう言うと彼女は、オイルで少し汚れた作業服を指さしながら笑った。
「ぶっ飛ばされるのは嫌だから、ソラさんと呼ぶことにするよ」
多分、いいお父さんなんだろう。僕は母から手をあげられた事はないが、怒ると手当たり次第に物を投げつけてくる人だったから、余計に始末が悪かった。鍋釜辺りは日常茶飯事で、金魚鉢を投げつけられた時には流血騒ぎになって救急車で運ばれた。勿論、金魚も全部死んだ。
母は泣きながら僕に謝っていたが、「だったら、最初から投げなきゃいいのにな」と幼い頃の僕は何度も思った。勿論、そんな気持ちはおくびにも出さなかった。会うどころか、声も聞かなくなって10年以上になるけれど、今だに母は、僕にとって恐怖の対象でしかない。
「ところで、誰に会いに行くの?」
「田中角栄という名前の事業家だ。この辺じゃ結構有名な人だと思うんだけど、知ってるかい?」
「いや、知らないな。『かくえい』ってどういう字を書くの?」
「角栄」と、僕はメモ用紙に記した。
「んっ? これって、もしかしたら、菊栄さんの写し間違いじゃないかい?」
「きくゑ?」
「ああ。直接の面識はないけど、とても綺麗な女の人だってお客さんからは聞いてる。時々、お付きの人がガソリンを入れに来るよ。うちのは混ぜ物をしてないからね」
「女の人だって?」
「ああ、元々は東京の生まれで、こっちの人じゃないらしい。成り上がり者だって嫌ってる人もいるけど、うちにとっては良いお客様さ。確か、今度の総選挙にも出るって聞いたな……」
「……」
角栄の妻は、確かに東京の生まれだ。だが、名前は『はな』だし、取り立てて美しい女性でもない。彼女は出戻りで、角栄が借りていた事務所の家主の娘だった。彼女の父は土建業者で、角栄は結婚によりその事業を受け継いだ。その事務所を改組して出来たのが、今も現存する田中土建工業である。
史実の角栄は、理研コンツェルンの総帥である大河内 正敏に見いだされ、大きく飛躍を遂げる。事業を受け継いでから、僅か二年足らずで、年間施工実績で全国50位入りするまでに、田中土建工業を急成長させたのだ。
もし、きくゑという女性がこの世界の角栄だとすると、元々の角栄は一体どこに消えてしまったのだろう?
「それにしても、きくゑさんと繋がりがあるんだったら、まずは彼女を頼ればよかったじゃないか。心配して損しちゃったよ」
ソラさんは少し拗ねたような顔をして、僕に言った。
「ところが、そうもいかない事情があってね」
「どういうこと?」
「字は角栄で間違いない。そもそも、僕は彼の事をよく知ってるけど、向こうは僕の事を全く知らないんだ」
「じゃあ、会いに行っても無駄じゃないか」
「かもしれないね。まあでも、それが自分の性分なんだから仕方ない。勿論、きくゑさんともまったく面識はないんだ」
「君はなんだか、少し父さんに似てるよ……」
ソラさんは呆れた声でそう言った。勿論、僕も門前払いは覚悟の上だ。それでも彼を探してみるしか、僕の若き日の闇歴史を現実にする方法はない。とにかく動いて、何かチャンスを掴まなきゃ、ソラさんに借りたお金も返せないのだ。
「紹介状でも書けたらいいんだけど、お付の人しか見たことないしなあ……。払いはしっかりしてるから集金にも行けないし、次にいつ給油に来るかもわからないしね」
「そんなこと気にしなくていいよ。要するに、君がお金を貸してくれて、僕は本当に助かったんだ」
「それこそ気にしなくていいよ。ボクは自分のお金を使って、このコンロを、ちょっといじってみたかっただけだ。これは正当な取引であって、どっちが恩に着るとかそういう話じゃない」
そう話す彼女の口ぶりは、どこかDJ君に似ている気がした。彼は自分の損得よりも、フェアであることを大事にする男だった。彼はいつも周りに気を使い、いつだってニコニコしていた。
今にして思えば、もっと感情を露わにしてくれれば良かったのにとも思う。笑顔は究極のポーカーフェイスだ。だから僕は、【あの事件】の後、彼の心が静かに壊れつつあることに気づかなかった。
「じゃあ、いくか」
車に乗り込み、エンジンをかけようとした瞬間、僕は急に嫌な予感に襲われた。ソラさんという強力な援軍を得た今、無理してきくゑさんの元に顔を出す必要はないかもしれないと、思い直したのだ。
勿論、角栄を探すことを諦めた訳じゃない。だが、この世界での角栄が女性かもしれない事は、ユキさんにとっても想定外の事象のはずだ。ユキさんの助力を得るためにも、彼女に一度報告してから事を進めた方が良いかもしれない。
「どうしようかな……」
きくゑさんが、角栄に繋がる可能性が一番高い人物であることは間違いない。なにしろ彼女は、史実で角栄が最初に出馬した選挙に立候補しているのだ。いくら性別が違うからと言って、新潟2区から出馬する田中性の人物を、他人だと決めつけるのは無理がある。
もう既に選挙は公示されていて、選挙戦は終盤になればなるほど激しくなっていく。アヤを付けるなら一日でも早い方が良い。僕は少し考えて、箱と全力さんを、ソラさんに預けてから行こうと決めた。
「ねえ、全力さん。悪いけど、今日はここで留守番していてくれないか?」
「なして? ゼニはもう手に入ったんやろ? アサリの味は悪くないけど、ボクはこう見えてノーブルな生まれなんよ。同じものを二回も連続で食うのは嫌やなぁ……」
「いつも、同じカリカリばっか食ってるじゃん」
「カリカリは別格やけんね……。あんたの相場と同じよ」
「わかったわかった。ちゃんと何か、おいしいお土産を持って帰ってくるからさ。とりあえず、今日のところは頼むよ」
「絶対やでー」
僕がこの場所を明かさなければ、たとえどんな事態に巻き込まれようと箱は無事のはずだ。ソラさんが、猫を嫌いじゃなければいいけど……。
「今からソラさんに、君の事を頼んでくる。その辺で少し遊んでてくれ」
「ほな、腹ごなしでもしてこかー」
全力さんは車から飛び降り、藪の中に消えた。僕も車を降り、もう一度、事務所に向かった。




