第20話「旅立ち」
「自分の人生がマンガみたいだと言いましたが、どうしてそう思うんですか?」と、猫のユキさんが不思議そうな顔で、僕に尋ねた。
「普通の人間は、10代で仕手の片棒は担がないし、相場操縦の嫌疑でガサを食らった上に、そこから逃げ出したりしないだろ?」
「それはそうですけど……」
「君の話を聞いてはっきり分かった。赤瀬川さんに見初められたことや、剣乃さんの最後の弟子になれた事も、偶然じゃなかったんだ。未来から来た僕に、若い頃の二人が会っていたとするならね」
「かつて出会った貴方の面影を、駆け出しの頃の貴方に見たという事ですか?」
「その通りだ。その事に気づいた瞬間、『箱の力を使わない』という選択肢は完全になくなった」
僕は少し語気を強めてこう続けた。
「僕はこれから、若い頃の二人に出会って、彼らの仕事を手伝おうと思ってる。このループがいつ始まったのかは分からないが、確実に言えることは、最初の誰かも【きっとそうした】ってことだ」
「蓋然性が高い推論ですね。それで正しいと、私も思います」
「だろ? 二人はきっと、その時の恩を返すために僕を弟子に取ったんだ。そう考えれば、全てのつじつまが合う」
「あり得ない話ではないです」
もし全てが僕の勘違いだったとしても、僕が二人の手伝いをしなかったら、別の世界線の日銀特融はご破算になるかもしれない。そしたら師匠は、間違いなく海の底に沈む。当然、その世界に生きる僕が、赤瀬川さんに見いだされる未来も無くなる訳だ。
「いくらこの世界の歴史とは無関係だといっても、師匠は師匠だし、僕は僕だ。助けられるのに助けない選択肢は、僕にはない」
僕がそう捲したてると、ユキさんは静かに言った。
「少し説得が必要かと思っていましたが、理解が早くて助かります。では早速、車に向かいましょう。勿論、フォールド後も、出来る限りのサポートはするつもりです」
テストの時とは全く違うユキさんの態度に、僕は少し違和感を感じた。だが、過去に飛ばないという選択肢がない以上、彼女の好意を受け入れるより他はない。もし今回のフォールドが彼女の企みだったとしても、利害が一致している限り、僕とユキさんは協力し合えるはずだ。
僕は猫のユキさんを抱えて、事務所の階段を駆け下りた。
「では、箱の中に入っているものを全て取り出して、私の体を箱の中にしまってください。蓋を閉じても、私の声は聞こえるはずです」
「わかった」
僕は中に入っていた衣服を取り出し、猫のユキさんを中に入れ、蓋を閉じた。
「ありがとうございます。では、運転席に座って、エンジンをかけ、ギアをニュートラルに入れてください。万一の事態があった時に、この場から直ぐに脱出できるようにするためです」
「わかった」
「これから、この箱を中心とする半径3メートルの空間を、1965年の東京に飛ばします。フォールド中にこの空間から飛び出すと、時の狭間を無限にさまようことになりますので、指示するまでは、絶対に車を動かさないでください」
「地面がえぐれたりはしないのかい?」
「一瞬えぐれますが、すぐに元に戻ります。外部からは、車だけが突然消えたように見えるはずです。必要のないものを飛ばすのは、エネルギーの無駄ですので……」
ユキさんがそう答えた瞬間、CR-Xの後部から大きな爆発音がした。びっくりして振りかえると、箱からは青白い光が漏れている。もしかしたら、フォールド・システムには、何か放射性の核物質が使われているのかもしれない。
「まさか、こんな所でチェレンコフ光をみることになるとはな……」と僕は思った。爆発音がした時、ユキさんの説明はまだ途中だった。多分、フォールドは失敗したのだ。
爆発音は更に続き、車体は空中に大きく跳ね上げられた。全力さんも箱から放り出され、宙を舞っている。「もしかしたら、これで死ぬのかもな」と思った瞬間、時間がゆっくりと流れ始めた。脳が猛スピードで回転を始めたのだろう。いわゆる、走馬灯モードだ。
「悪い知らせが二つあります。結構厳し目の奴と、そうでもない奴です。どちらから先に聞きますか?」
音声というより、直接脳に響くような感じで、ユキさんの声が聞こえた。
「じゃあ、あんまり厳し目じゃない方で」
「わかりました。箱の力を使わないと所有権がなくなるといいましたが、あれはウソです」
「ええっ!」
「赤瀬川さんと会うと、箱の話になるかもしれないので、直ぐに出発させるために嘘をつきました。ごめんなさい」
「箱の話はしたかもしれないけど、箱の持つ力の話はしないよ。約束したんだから、そこは信じて欲しかったな」
「はい。ですがそれは、赤瀬川さんのためでもあったんです」
「赤瀬川さんのため?」
「確証はないですが、赤瀬川さんは箱の秘密を知っていたと思います。だから、『片隅に生きる人々』を、真実として発表することを嫌がったんです」
「日銀特融の秘話が漏れることよりも、剣乃さんの持つ箱の秘密が公になることを恐れたって事かい?」
「はい、そうです。そして彼は、【貴方を再び過去に戻すため】に、作品の公表に反対したんだと思います。もし真実だと認められたら、貴方が過去に飛ぶ動機がなくなりますから……」
「そんな……」
ユキさんの推測が確かなら、あの箱は確かに剣乃さんの遺品で、師匠は実際に箱の力を使っていたということになる。だから僕にも、箱の事は一切話さなかった。そう考えれば、一応のつじつまは合う。だが、所有者であったことはともかくとして、あのプライドの高い師匠が箱の力を使ったりするだろうか?
「考えても結論の出ないことは、考えるのを止めよう。なんか、状況はあまり良くないっぽいし。じゃあ、厳しめの方は?」
「大変申し訳ありませんが、座標の固定に失敗しました。どの時代にフォールドするのか、私にも全く分かりません。下手したら、宇宙空間に放り出される可能性すらあります」
サーっと、血の気が引いていく音が聞こえた気がした。大抵の不幸には慣れているが、これはホントにシャレにならない奴だ。
「これは私にも、まったく想定外の事態です。本当にごめんなさい」
それが、僕の聞いたユキさんの最後の言葉だった。車は空中で横転し、真っ逆さまに落ちていく。運よく爆風では死ななかったようだが、このCR-Xは、かつて【走る棺桶】と呼ばれたほどの超軽量ボディだ。地面に叩きつけられば、間違いなく死ぬだろう。
不思議なことに、「死にたくないな」とは、まったく思わなかった。ずっと相場の世界で騙しあいを楽しんできた僕が、下手を打って自滅する。それだけの話だ。相場が原因じゃないことが少し残念だけど、今更そんなこと言ったって仕方ない。
全力さんは意識を取り戻したのか、「何? 何なの?」と言いたげな顔で、空中をプカプカ浮いている。僕はその様子を見て、少しだけ笑った。あんまり良い人生でもなかったが、全力さんのおかげで笑って死ねる。それだけは良かったなと思った。
地面が目前にまで迫っている。僕は覚悟を決め、静かに目をつぶった。そしてそれが、この世界線における僕の最後の記憶だ。
(続く)




