第16話「日銀特融」
師匠のアイデアに【大義】があると見抜いた角栄は、その類まれなる記憶力で旧・日銀法25条と、関連する条文の全てを暗記した後、会談に向かった。遅刻した角栄は、最初は黙って彼らの話を聞いていたが、『取引所閉鎖もやむなし」という消極的な案にまとまりかけた時、こう叫んだそうだ。
「そんなことをして、手遅れになったらどうする! お前らそれでも銀行の頭取か!」
この角栄の一喝が会合の空気を変えた。角栄は日銀法第25条に基づいて日銀が特融を行うことを主張し、全員がそれに同意したのだ。
「日本の中央銀行が、民間の証券会社にたいして、無担保・無制限に融資する」という前代未聞のアイデアを、角栄は自らの責任で政治決断したのだ。証券不況に苦しんでいた、日本経済を救うために……。
角栄のこの決断は、『日銀特融』と呼ばれるようになり、彼の偉大な業績の一つとして、後の世に語られるようになる。もしあの時、角栄が師匠のアイデアに乗らなかったり、並み居る頭取たちの説得に失敗していたりしたら、師匠は間違いなく海の底に沈んでいただろう。
「兄貴から、会談が目論見通りに終わったことを聞いた俺は、すぐさま村岡さんに報告しに行ったよ。だがそれは、結局、俺の金星にはならなかった。その日のうちに、角栄が記者会見を始めてしまったからね」
「はい。だけど、師匠と村岡さんは、勝負には完全に勝ちました」
「そうだな。おかげで俺も、命を落とさずに済んだ」
若き日の剣乃さんを村岡会長に繋ぎ、組の金を突っ込むことを説得したのは赤瀬川さんだ。そして、村岡が児玉に繋がらなければ、そもそも、師匠のアイデアは角栄に届いてない。そういう意味では、今僕の目の前にいる初老の男が、この国を救ったともいえる。
その日の夜。そう、取り付け騒ぎが起こった【その日の夜】だ。深夜、23時30分、田中蔵相と日銀の宇佐美洵が、特融に関する記者会見を行った。会見の中で、田中は何度も、『無担保・無制限』である事を強調した。対面上、日銀が都銀に融資したうえで、山一に再融資するという形にはなったが、この融資が、『中央銀行による私企業の救済』であることは誰の目にも明らかだった。
この発表により、週末のわずか二日間で取り付け騒ぎは完全に沈静化した。特融も結局、山一と大井証券の二社だけで済んだ。
後に角栄は、この日銀特融(過去に前例のない、日銀法25条の発動)が、自分の政治史上で一番印象に残った出来事だと回想している。日銀特融は単なる民間救済策ではなく、『証券業界全体の信用秩序の維持』を目的としたものだったからだ。
この田中の政治決断をきっかけに、1000円割れ寸前だった平均株価は反転し、1970年7月まで57か月続く、「いざなぎ景気」がスタートする。赤瀬川さんは金星を取りそこなったが、師匠と村岡会長はその後の戻り相場で大金を得た。そして、師匠の取り分は、そのまますべて角栄に流れたのである。二人の関係はここから始まり、角栄が言葉を失ってなお変わることはなかった。
もし、角栄が権力の座から引きずり降ろされてなかったら、平成の失われた30年はなかっただろう。彼はきっと、再び特融という切り札を切り、二度にわたって日本経済を救った英雄として、人々の口の端に上っていたはずだ。
「資本注入が、結果的に2社だけにとどまったことは、師匠のアイデアが正しかったことを物語っています。だが、行動が適切でも、それが人の心に響かなければ意味がない。角栄はそのことを知り抜いていたからこそ、その日のうちに会見を開き、何度も何度も、『無担保・無期限』であることを強調したんでしょう」
「ああ、そうだな」
「師匠のアイデアと、角栄の行動力がこの日本を救ったんです。二人はいわば、第二次高度経済成長の産みの親だ」
僕は少し力を込めてそうった。だが、赤瀬川さんは僕のその言葉に興奮することもなく、静かにこう答えた。
「確かにそれは、俺たちだけが知る歴史の真実だ。だがな、アケミ。俺たちは所詮、この世界の片隅に生きる人間だ。世界の真ん中で生きてる堅気より、偉いと思っちゃいけない」
「どういうことですか?」
「お前が兄貴の事を書くのはいい。だがそれは、あくまでも『物語』ということにしておけ。もし兄貴が生きてたら、あの人もきっとそういうはずだ」
「何故ですか? この件については、僕は何も嘘をついてないですよ」
僕がそういうと、赤瀬川さんは諭すようにこう言った。
「いいか? 日銀特融の奇跡は、兄貴が死ぬまで支え続けた田中角栄の偉業なんだ。あれは本当に、日本が恐慌に陥るか否かの瀬戸際だった。もし山一が倒産して、取り付け騒ぎが連鎖していたら、お前の言う通り日本の高度経済成長はあそこで終わってたよ」
「だから僕は、その事実を世に知らしめようと……」
「逆だアケミ。その偉業の少なくとも半分が、ヤクザ絡みの人間のおかげだと証明されたらどうなる?」
「えっ?」
「真実がどうであろうと、日銀特融は、『ヤクザを儲けさせるための、角栄の私的な働きかけだった』と世間から見なされるだろう。もしそんなことになったら、俺はあの世で、兄貴に顔向けできねえよ」
「……」
長い長い沈黙が続いた。師匠が法的には堅気にも関わらず、決して表に出ようとしなかったことは、僕もよく知っていた。全ては田中派に迷惑をかけないためだ。
「赤瀬川さんの気持ちは理解できます」と、僕はとりあえず、そう継いだ。
「でも、角栄が亡くなって、もう30年近く経つんですよ? 関係者の大半が生きていた当時ならともかく、今それを公にしたからって、被害を被る人間はいません」
「だからこそ、だ。俺とお前が口をふさいだままこの世から消えれば、角栄の偉業は伝説になる。角栄をもう一度男にすることが、剣乃さんの夢だった。その夢を壊す権利は、俺たちにはない」
赤瀬川さんはそう切って捨てた。
「歴史というものは、真実であることを意味しないし、真実である必要性もないってことですか?」
「そうだ。力ある者に語られたことが歴史となり、伝説となる。お前はヤクザじゃないが、かといって堅気でもない。色んな意味で、兄貴と同じだ」
赤瀬川さんは少し間を開けた後、こう続けた。
「お前は、暗闇の中に輝く一凛の花だ。日の当たる場所に出るべきじゃないんだよ」
「……片隅に生きる人々のために生きろ、という事ですか?」
「そうだ。ロッキード事件も、あと数年もすれば、全ての公文書が公となり、角栄を嵌めるための陰謀だったことが証明されるだろう。命の取り返しは付かないが、歴史の取り返しは付くんだ。暴くべき真実と、葬ったままの方が良い真実があると、俺は思う」
そう語る赤瀬川さんの目には強い意志を感じた。師匠の義兄弟である彼の気持ちは理解できる。ここは一旦、引くしかないだろう。
「分かりました。納得はいきませんが、赤瀬川さんの言うとおりにします。この作品をこのまま、世に問う事はしません。『親の言う事には絶対に逆らうな』と言うのが、師匠の口癖でしたからね」
「そうだ、それでいい。どうせなら、もっと面白おかしく書いてやれ。その方が、余計な腹を探られずに済む」
そう言って赤瀬川さんは、僕の手から『片隅に生きる人々』の原稿をひったくった。
「フィクションとしてなら、楽しく読ませてもらうよ。悪いがこれから大事な会合があるんだ。夜には体が空くから、久しぶりに酒でも飲もう。まずは、久しぶりに猫と遊んでやれよ」
そう言って、赤瀬川さんはどこかに行ってしまった。