47.浴場
喫茶店から出て、いつもはあまり通らない方向から訓練場へ向かう。
じっくりサンドイッチを味わって、あまつさえ紅茶まで飲んでいたから、時間も十分に経っている。そろそろ夕方になる頃だろう。
(……満足……)
今まで、食事に関して味と量以外を気にするような余裕もなかったので、雰囲気というものの重要性を再確認出来た一時。
俺は道すがら、異世界で経験した中で1番優雅な昼食の余韻を感じていた。
こういった文化的な食を楽しんだ今ならば、自然溢れる森での食事をより楽しめるだろう。まあ、今更森に戻ってまで自然の恵みを味わうつもりはないが。
生前も恐らくはそういう店に行った事はある……と思うけど、比較するような思い出はない。知識として喫茶店やらを思い出す事は出来るものの、食べた記憶は無いのは悲しい所だ。
(そして結局、自分についてはわからずじまいなんだけど……)
過去を知る事を諦めかけていた所に、自分の事を知っている人が現れた……と思ったら、結局勘違いだった。
下げて、上げて、下げる。やり方としては非常に悪質な方法で肩透かしを食らった俺だが、喫茶店での食事がショックを薄れさせている。
取り敢えず、美味しい物を食べれば元気になるんだと思う。自分の事だからこそ投げやりになれるだけかもしれないが、少なくとも今の俺は満足だ。
(ほんと単純だな、俺……)
絶対に食欲に負けたりなんてしない、と広場で意気込んでいた俺はどこへやら。
やっぱり、人は食べることを疎かにするべきではない。今度、この前見つけた焼き鳥屋みたいなの探すのもいいか……なんて思いながら部屋に戻ると、コルチが椅子に座って机に向かっていた。
「姉御、おかえりっス」
「ただいま」
何か本を読んでいたのだろうか。内容は気になるが、分厚いそれを見る限り手軽に読めるようなものでも無さそうだ。
黒髪ツインテールの彼女は本にしおりを挟んで畳むと空間魔法に突っ込み、両手を前にして伸びをした。
「……。珍しいっスね、この時間に帰ってくるの」
「ん、まあな。依頼が早く終わったからちょっとぶらついてただけ」
なんだかんだ、コルチとこうして起きて会う事って少ないんだよな。
同じ部屋の同じベッドで寝ているから朝起きた時には見るが、俺の方が早起きだったりするせいかお互い関わりが無い。
彼女は立ち上がって椅子を姿見の前に戻しながら、嬉しそうに話しかけてきた。
「丁度良かった。一緒に身体洗いましょ、姉御」
「……えっ」
突然の提案に少し考えるも、何が丁度良いのか分からないので困惑の声を漏らすと、コルチは部屋のドアを開ける。
「明日、ギルドの手伝いなんでしょう?清潔にしとかないとダメっスよ」
「まあ、そうだけど……」
そういえば、コルチも手伝いをするとか言っていた記憶があるな。
とはいえ、いくら若いとはいえ女性と一緒に入るのは未だに少し抵抗がある。
「えーと……先入ってて貰って大丈夫だぞ」
「なんでわざわざ別々に入るんスか。そもそも姉御、1人で身体洗えないでしょう」
「む……ぅ」
失礼な言い草だが、最初に入った時の事を思い返すとあながち反論出来ないのが辛い所だ。
「とにかく行きますよ」
俺の手を引いて部屋を出るコルチ。街でも1度手を繋いで歩いていた事はあるが、こうしていると完全に子供になった気分だ。気分、というか実際11歳の子供になっているのだが。
流石に振りほどいたりする程ではないものの、今の状況にどことなく居心地の悪さを感じていると、いつの間にか訓練場の反対側に着いていた。
「姉御、櫛は使えます?」
浴場の手前の部屋で、脱いだ服を畳みながら話す。
「別に手で良くないか?」
「そりゃ洗えない事はないっスけど……綺麗に出来ますか?」
髪の毛とかはどうでもいいと言えばどうでもいいのだが、汚れたままになるのは困る。
特に、俺の場合は邪魔な物が頭についているのでブラシ等は自分で使えないから、手伝って貰った方がいいのも確かだ。
「でも、流石に悪い気が……」
コルチはブラシや石鹸含め色々持っているが、俺にはそういった準備はしていない。何から何までして貰うのも、流石に悪いとは思っている。
身体を拭くタオルくらいは自前で用意しようとも思ってはいるが、そもそも用意する場所すら知らないからお風呂に入る度申し訳なくなる訳で。
「好きでやってる事っスから、気にしないで下さい」
「……なら、お願いするよ」
本人な善意だと言われてしまえば、俺に断れる理由はない。ここまで来てしまった以上、断って変に拗れるのも避けたいし、洗ってもらおう。
了承を得た事をきっかけに脱ぎ始めたコルチから目を逸らし、自分も下着を降ろす。流石に、何度か経験しているので嫌でも慣れる。
人間、慣れれば何でも出来るようになるとは言うが、今はその慣れに感謝している所だ。
(というか、訓練場に備え付ける物かなあ……これ)
相変わらず転生者にも優しい造りの……というより、ほぼ記憶にある造りの浴場に入る。
訓練してすぐ洗えるというのは正しいと思うのだが、そもそもこの訓練場が浴場を完備していると知っている人間がどれだけいるのだろうか。
そもそも多くもなかった部屋の家具の配置だって、前見た時とほぼ変わっていないように見える。
(まあ、俺が気にする事でもないけど……)
風呂の中に置かれた椅子に腰掛ける前に、シャワーの栓を――。
「ふにゃっ!?」
――捻ったのだが、シャワーヘッドの方向を気にしていなかった俺は、突然出てきた冷水に飛び跳ねそうになる。
「とと、大丈夫っスか!」
「……大丈夫だ」
この体になってから感覚が少し鋭くなったのだろうか。急な刺激につい声が出てしまった。とはいえ、この前入浴した時は大丈夫だったので、気が緩んでいただけかもしれないが。
「ふぅ……」
暫くして温かくなってきたお湯を浴びながら、落ち着きを取り戻す。
……こんな些細な事でも驚ける余裕が出来た、という事にしておこう。
「じゃあ髪洗ってあげますから、そこ座って下さい」
「ん、ああ」
気を取り直して軽く身体を流していると、コルチが椅子を示す。俺は促されるまま椅子に座ると、彼女は髪を梳かし始めた。
「猫亜人の方って結構、髪が傷むの気にするらしいっスよ?」
「ん、そうなのか?」
「……やっぱり姉御は違いそうっスね」
「まあ、あんまり……」
「記憶あってもそんな感じっぽいですもんねぇ……」
背中越しでも彼女が苦笑いしているのが判るが、事実だから仕方ない。髪を大事にするのは悪い事ではないと思うが。
ただ、猫亜人が特に大事にするというのは初耳だ。そもそも、猫亜人なんて存在自体慣れ親しんだものではないのだが。
「……それにしては、綺麗な髪なんスよね。勿体ないっスよ姉御」
「つっても、コルチだって十分綺麗な髪だろ」
「えっ。……あ、ありがとうございます」
普段ツインテールの彼女も、先程見た時は髪を下ろしていた。髪の毛の善し悪しはよく分からないが、結ぶと髪にクセがつくという話もあったはずだ。
流石にまじまじと見てはいないが、黒髪は癖なく伸びていた記憶がある。
綺麗な髪、と言われて素直に喜ばない程卑屈ではないが、コルチの方が綺麗な髪をしているのではないだろうか。
「……えへへ」
小声で笑う声と共に、彼女は上機嫌で俺の髪を流し始める。というか、こうやって頭を洗われているとなんとなく眠く……。
「姉御、背中も洗いますね」
「……!ああ」
一瞬まどろみかけたが、コルチの呼びかけではっとする。
今日の話で気疲れしたのか……若しくは、久々に満足感のある食事をしたからだろうか。依頼に行くよりも疲労が溜まっていたのか、このままだと寝てしまいそうだ。
「しっぽ触りますよ」
「ん、ああ」
流れで背中も流して貰っているが、身体を洗ってくれている最中に寝てしまうのは避けたい。
身体が疲れるような事は殆どしていないのだが、連日の疲れが溜まっていた可能性もある。今日はゆっくり休もう。
「あー、この前洗って無かったんスか?結構汚れてるみたいっス。ちょっと櫛かけますよ、姉御」
コルチはそう言って俺の尻尾に触れ、シャワーのお湯をかけてくる。温かいお湯が少し気持ちいい。
そして、少し何かが触れる感触と共に――背筋を駆け抜けるような感覚が襲ってきた。
「っ……!?」
「姉御、痛かったりしたら言って下さいね」
「大丈夫、痛くない、平気、だ」
片言の様になりつつも、平常を装う。
なんとか声は抑えたものの、冷水を被った時とは違った意味で耐え難い刺激。くすぐったいという訳でもなければ、痛くもない。
多分、尻尾を櫛で梳いているだけなのだろう。だが、優しく撫でられるような感覚は耐え難いものだった。
「……っ……!?」
生前は存在しなかったはずの部位が、触れる物を感じている。
掴まれた時に飛び跳ねるくらい驚いた事はあったが……あれは心の準備が無かったからだと思っていた。だが、今ならそれが間違いだったと判る。
――この身体、尻尾の付け根が敏感なんだ……!
「あー、背中も一緒に洗うべきっスね……」
「……ぁ……!?……」
念入りに洗われているのか、背中から尻尾の付け根との境目を洗われる。
多分、撫でているのではなく泡か何かで洗われているとは思うのだが、今の俺にとってそんな事どうでもいい。
身を捩らせたい気持ちだけはなんとか堪えられている。だが、確認していないが恐らく表情までは隠せてない。
というか、これ以上やられると、声が――。
「――はい、終わったっスよ」
「は、ぅ……?」
身悶えしないよう気を張ろうとすると、もう既に殆ど洗い終わっていたようだ。身体を洗われていただけなのに、何故か妙な倦怠感がある。
「……。身体も洗いましょうか?」
「……い、いや。ありがとう。気持ちだけでいいよ。コルチも洗わないとだろ」
耐えるのに必死で殆ど身体を洗っていなかったからか、それとも俺がぼーっとしていたからか。コルチがそんな事を言ってきたので、俺は焦って返事をする。
(今は、どこ触られても変な声が出そうだ……)
今度から、尻尾とかは自分で洗おう。そう心に誓いながら、俺は身体を流し始めた。