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アイシア  作者: ユーカリの木
善悪の波浪
2/19

第一章:ASU警備部警護課 1

 その日、十一歳になる更科那美さらしななみは地獄の淵にいた。


 埼玉県川口市にある児童養護施設の一室。施設長室の隣にある古風の畳部屋には、一組の布団が敷かれていた。夜だというのに明かりは灯されておらず、開けられた障子から窓越しに舞い落ちる月光のみが唯一の光源だった。


 毛布が剥ぎ取られた布団の上には、巨漢の中年男が胡坐をかいていた。中年男は興奮した目をギラギラと光らせて、宵闇の中を真っ直ぐに見つめている。


 そこから約畳一畳分ほど離れた位置に那美はいた。絹のような輝く長い髪に、濡れた瞳、血色の良い艶やかな唇は十一歳とは思えぬほどの妖艶さを醸し出していた。体つきは細いが女を感じさせる丸みを帯びており肉感的で、その手の趣味の持ち主には心をざわつかせる何かを持つ、そんな少女だった。


「来なさい」


 中年男が声を上ずらせて言った。その口元はひたひたと這うように笑っていた。那美は中年男――施設長が恐ろしく、己の身体を抱きしめて後ずさる。その様をじっくり眺めた施設長は、ゆっくりと立ち上がると躊躇のない足取りで那美に近づいてきた。那美はそれが大鬼が襲い掛かってくるように感じ、より一層怯えを強めた。


 那美は知っていた。施設長は、たびたび気に入った幼女をこの部屋に連れ込んでは、何かいやらしいことをしているのだ。被害者は脅されているのか誰ひとり口を割らず、何かに怯えるように身体を震わせるようになった。不信に思った那美は消灯時間の過ぎた施設内を徘徊し、この場所を突き止め、中で何が行われているのかを知った。


 大鬼に組み敷かれた友人は、口元を縛られて声を出せないようにされ、裸に剥かれて大鬼の身体を打ち付けられていた。


 地獄だと思った。


 その後、怖くなった那美はすぐにその場を去って自室に戻り、布団を被って朝まで怯えて過ごした。誰にも言えなかった。誰も信じてくれないと思った。施設長は人気者で、誰からも愛される人で、那美とて施設長のことが好きだったからだ。まさか中身が鬼であるなど思いもしなかった。


 そして今日、那美はその地獄に連れ込まれた。教育係の人に来週の勉強について呼ばれ、消灯直前に部屋を出た途端に意識を失い、気づけばここにいたのだ。それが偶然なのか計画的であったのかは那美には分からない。だが、そんな彼女にもひとつだけ理解できることはある。


 地獄はすぐそこにあった。


 施設長が下品な笑みを浮かべてやって来る。那美もじりじりと下がるも、その動きが止まる。背中はもう壁だった。那美がそれに気づいたときには、施設長に腕を掴まれていた。反射的に引いた手を無理やり引っ張られ、強引に抱きしめられる。かつて温かく父性を感じたふくよかなお腹が、今や気持ちの悪い肉塊に思えた。じっとりとした汗が絡みついてきて思わず叫んだ。


「やめ――っはっ……」


 那美の声が聞こえるや否や、施設長が腕に満身の力を込めた。必然的に、腕の内側にいる那美の身体が締め付けられる。背骨が折れるほどの力で圧迫された那美は息を詰まらせ叫びを止める。


「黙っていなさい。女の子はこうやってみな女になるんだ。那美もその日が訪れたということだ。怖いことはない。黙って受け入れなさい」


 施設長の優しい声。だが、その裏に秘めた欲望が隠されていることに那美は直感的に気づいた。


 施設長は、なにか自分を徹底的に破壊することをしようとしている。逃げろ。早く、早く!


 訴えかけてきた本能に従って暴れようとするも、大人の力には敵わなかった。


「暴れるんじゃない。暴れる子はこうだぞ」


 ひときわ激しく身体を締め付けられる。強烈な圧迫感と息ができない苦痛が全身に駆け巡った。動物のような鳴き声が漏れた。身体が潰れてしまうかと思って恐怖感で絶望しそうになった。そんな中でも、冷静な部分が掃除のときによく使う雑巾が絞られたときはこんな気分だろうかと思った。


 施設長がくつくつと喉の奥で笑みを転がす。地獄の窯の底に存在する鬼の笑みだ。


「声を出してはいけない。出したらもう一度同じことをするぞ。分かったら二回頷きなさい」


 あと一度だってあんな体験はしたくなくて、那美は必死で二度首肯した。満足そうに大きく頷いた施設長が、那美の背に這わせていた両手を柔い肩に置く。一瞬逃げられるかと思ったが、指が肩に食い込むのではないかと思うほどの力で掴まれて、痛くて身体が竦んで動けなかった。


 施設長が唾を啜る気色悪い音を鳴らす。


「さあ、大人になる時間だぞ。那美」


 あっという間に身体を持ち上げられると、那美はそのまま布団の上に組み敷かれた。怖くて声が出なかった。その様を眺めていた施設長は愉しそうに頷き、那美の寝間着に手を掛ける。下半身が急激が重くなる。施設長が那美を逃がさないように鬼の尻を乗せていた。


 本能が大音量で警鐘を鳴らす。逃げろ! 早く! 今すぐに逃げろ!


 なのに身体が動かなかった。ただ怖かった。圧倒的な恐怖が那美の身体を縛り付けていた。指先ひとつ満足に動かせなかった。


 施設長がボタンをひとつひとつ外していく。歳不相応に成長した胸部が外気にさらされる。施設長の興奮が高まる。那美はただ涙を目じりに溜めることしかできなかった。


 施設長が那美の頬を撫でる。気持ち悪い。施設長が那美のズボンに手を伸ばす。吐き気がする。施設長の荒い鼻息が近づいてくる。嫌だ。施設長の舌が那美の頬を這う。逃げたい。鼻で息を鳴らした施設長が上半身を上げて那美を舐め回すように見下ろす。誰か助けて。こんなのは嫌だ。怖い。誰か。誰か。誰か……!


 那美は縋るように視線を飛ばす。


 鎧があった。


 床の間に飾られたそれは、施設長が大切にしているという、日本の昔の鎧だった。手入れを欠かさずにしているからか汚れひとつなく、月光に照らされて美しく輝いていた。肉の欲望が支配するこの場には似つかわしくない、あまりにも鮮烈な姿だった。


 思わず那美は口の中で叫ぶ。


 ――助けて!


 そのとき、鎧の目が翡翠色に光ったように見えた。


 那美は錯覚だと思った。


 錯覚ではなかった。鎧は緩慢な動作で動き出すと、飾られていた日本刀を持って右で抜き放ち、一瞬にして施設長の傍まで跳んで刀を振り抜いた。


 斬閃。


 ごとり、と施設長の両腕が転がる。切断された腕から鮮血がほとばしった。生臭い血が那美の顔に振りかかる。


 鬼の絶叫。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 腹の底を絞って出したような凄絶な叫び。その場に仰向けに倒れた施設長が、芋虫のようにのたうち回る。


 むっとするような血の泉の中で、那美は放心状態で鎧を見ていた。翡翠色の淡い光に包まれた鎧は、施設長をじっと見下ろしていた。そして、命令を待つ忠犬さながらに那美の様子を伺っているようにも見えた。


「……わたしを、助けてくれたの?」


 施設長の叫びに混じって消えそうな那美の声。だが、鎧は確かに聞き取った。鎧が那美の言葉に呼応するように頷いたのだ。


 急に心に力強さが宿った気がして、那美は腕に力を入れて上半身を起こす。施設長を見ると、喉を潰しながらもまだ畳の上で転がっていた。


 ふと、施設長がこんなにも叫んでいるのに誰も来ないことに思い至った。誰かが来たらまずいことになる。那美の脳裏にそんな言葉が過った。


 しかし、その不安を鎧が打ち砕いた。鎧が握った刀で四方を指した。その先を追っていくと、この部屋を覆うように翡翠色の光が煌めいているのが見えた。鱗粉のように淡い光をまき散らすそれは、血なまぐさい現場にあっても幻想的だった。これが外へ声を漏らさないようにしているのだと那美は感覚で理解した。


「わたしは、魔法使いになったの?」


 鎧が再び頷く。


 こんな場面なのに、その事実が那美の心を躍らせた。


 魔法が欲しかった。なにもかもを覆す魔法があれば、両親を交通事故で失った自分も幸せになれるかもしれない。そんな藁にも縋る思いが通じたと思った。


「たす……たすけ、て……」


 いつの間にか、叫ぶことを止めた施設長が那美の下へ這ってきていた。先刻まで虐げる側だった鬼は、いまこの瞬間助けを乞う弱者に堕ちた。


 気持ち悪い。吐き気がする。いっそ死ねばいいのに。わたしを、わたしの友達を壊そうとした奴は、死んで消えてしまえばいいのにと、那美は強く思った。


 そして、鎧が動いた。


 鎧が日本刀を横に薙いだ。空気すら切裂かんとする速度で持って放たれた斬撃は、施設長の首を容易に切断した。


 紅の雨が吹き荒れる。命の灯よ散れというように。血の飛沫が花弁となって降る。降る。ここは地獄とばかりに。


 紅い雨滴、血の匂い、ねっとりとした感触、すべてが那美には非現実的に感じられた。まるでこの瞬間が嘘のようで、物語の中にでもいるように現実感が曖昧で、とても刺激的で高揚感に支配される。


 施設長の首。血の海の中をごろりごろりと転がっていく。


 全身で血を浴びた那美は、鮮烈な姿となって月光に照らされていた。血化粧に彩られた十一の少女の黒い瞳が鈍く光る。


 気づけば那美は口元を吊り上げて笑っていた。


 それは、先ほどまで嫌悪していた施設長と同じ、狂気の笑みだった。




 ◇◆◇




 埼玉県大宮市にある大病院の一室、ベージュを基調とした落ち着いた個室には、プラチナブロンドが眩しい少女がベッドに腰かけていた。十二月に入り季節はもう冬だというのに、額に汗を浮かばせた少女は、長い髪を振り乱し、両手をわさわさと上下に動かしていた。話しかけている相手の青年がうんともすんとも言わないから怒っているのだ。


「……づる、弓鶴! ちゃんと私の話を聞いてる⁉」


 ぼうっとしていた弓鶴の耳元で、突然大砲が鳴った。そんな風に感じるほどの声量で訴えかけてきたのは、少女ホーリー・ローウェルだった。


 弓鶴は思わず顔をしかめた。


「聞いてる。だから病室で騒ぐな。隣の部屋にまで聞こえるぞ」


 密やかに、けれど訴えるよう弓鶴は言う。


「だからここからが面白いのよ! 恵子けいこったら、いつも通り私がベッドにいないって思ったんでしょうね。ため息しながら、きっと丸まった何かが入っているであろう布団をがばって引っぺがしたのよ! そしたらびっくり。中に居たのはいるはずのない私ってわけ! そして同時に私が「キャー変態!」って大声で叫んだもんだから、あっちこっちから色んな人が来て大騒ぎよ! ホント笑っちゃったわ」


 わっはっは、と大口を開けたホーリーが快活に笑った。対する弓鶴は頭が痛くてたまらない。


 また病院の先生からどやされる。この天真爛漫娘は、病気だというのに体力の底がないのか、次々と新しい悪戯を考えては、病院の先生や看護師を罠に嵌めて悦に浸るはた迷惑な患者だ。そして、恵子というのは、病院が抱えるこの疫病神を専門とする哀れな生贄看護師だ。


 ホーリーとはただの友人関係である弓鶴であったが、両親が他界している彼女にとって、唯一の関係者だ。だからこそ、専属看護師である恵子へまた迷惑を掛けたのかと思うと心が痛い。


「ホーリー、頼むから病院では安静にしていてくれ。できれば、他の患者や先生らの心臓を穏やかに保つために、四六時中眠っていてくれると助かる」


 あら、とホーリーが心外だといわんばかりに目を見張る。


「弓鶴は私に死ねっていうの? 酷い! 三年もほったらかしにして、言うに事欠いて死ねっていうの! 三年もしたらポイ捨てってわけね⁉ なんて酷い男!」


 無関係の人間が聞けば誤解を招きそうなことを、歌うような暢気な表情なのに、よく通る大きな声で言う。勘弁してほしい、と思いながら弓鶴は訴え続ける。


「三年間ほったらかしにしたのは謝る。というかその話をまだ引っ張るか。今年の四月には戻ってきただろうが。それに俺とお前は男女の関係じゃないだろ」


「まったくね。こんな面倒な男とお付き合いするなんて天地がひっくり返ってもあり得ないわ」


 ふん、とあっけらかんと言ったホーリーは、ころっと表情を変えて再び悪戯のことを話し出す。


 ホーリーと出会ったのはいつのことだったか。弓鶴は彼女の話を聞きながらも昔を思い出す。


 そう、確か父親が魔法使いの事件に巻き込まれて重傷を負ったときだ。


 父親の下へ毎日この病院へ通っていた弓鶴に、隣の病室にいたホーリーと出会ったことがきっかけだった。確か最初の言葉は「辛気臭い顔してんじゃないわよ」だったか。仮にも意識不明の重体で生死の境を彷徨っていた父親を見舞いに来た弓鶴への言葉がそれである。弓鶴も何か言い返したことは覚えているが、なんと言ったのかまでは覚えていない。


 そこから、父親へ見舞いに行くたびにホーリーと話すようになった。それは父親が亡くなってからも続き、いまではこんな有様だ。


「つまりよ弓鶴。私も魔法使いになりたいわ! だから魔法を教えて!」


 いつの間にか話題は悪戯から魔法に変わっていたらしい。弓鶴はため息する。この話題になるとホーリーは、決まって無茶苦茶なことを言い出すからだ。


「あれは才能の一種だ。なりたいからってなれるもんじゃない」


「弓鶴も使えるじゃない」


「俺には才能があったみたいだな」


 皮肉を込めて弓鶴が言うと、ホーリーがこれ見よがしにむくれてみせた。


「あんたが使えて私が使えないのって不公平だと思うの。毎日元気に外を飛び回ってるあんたと病室に閉じ込められた哀れな私。どちらに魔法が必要かなんて一目瞭然じゃない。神様って私のことをちゃんと見てるのかしら」


「見てるだろ。だから少しは落ち着けよってことで魔法をくれなかったんじゃないのか?」


「理不尽ね!」


 うがー、と唸ったホーリーが枕を叩きつけてくる。この行動の方が理不尽だという自覚は彼女にはないのだろう。だがそれもすぐに飽きたか、枕を抱きしめて話始める。


「それにしてもまさか弓鶴がASUに入るなんてね。まったく想像もしなかったわ」


 弓鶴が魔法統括連合(ASU:The Association of Sorcery Unification)に入ったのは、いまから今年の四月だ。魔法適正検査で陽性となった弓鶴は、国際魔法機構(ISIA:The International Sorcery Intelligence Agency)の職員に勧められるままに魔法社会に身を投じた。


 それから約三年。ASUの空中都市にある魔法使い育成機関で徹底的に魔法運用を叩きこまれた弓鶴は、ASUの職員として日本の関東支部に配属された。それが今年の春のことだ。つまり、弓鶴は一年目のぺーぺーという訳だ。


 ところで、とホーリーが話を振ってくる。


「魔法ってなんなわけ? 世界は便利になったみたいだけれど、私にとってはこの病院だけが世界だからあまり実感が湧かないのよね」


 二〇一五年に世界で魔法が観測されてから、魔法は瞬く間に社会に侵食した。あらゆる技術が等比級数的に高度な産物になり、SF小説さながら世界はより便利に、より快適になった。


「世界の新たな法則だな。物理法則とは別の魔法的な法則が出来たと思えばいい」


「その説明で分かると思ってるならあんたは絶望的に人にものを教えるのが下手だわ」


 ホーリーはいつだって的確に本質を突いてくる。だから弓鶴は彼女に頭が上がらない。


「例えば、外国に行くのに以前は何時間もかけて飛行機に乗って空を飛ぶ必要があった。いまじゃ転送装置を使って一瞬だ。手続きに多少時間は掛かるけどな。空を飛ぶ車も出来たし、《第七天国》なんていう時間の流れが遅く流れる仮想空間なんてものも出来たくらいだ。とにかく、科学技術じゃ到達するのに何百年と掛かるものが三十年足らずで実用化して運用に乗ってるってことだな」


「つまり便利になったってことね。あたしは全然実感ないんだけど!」


「病院にだって魔法は組み込まれてる。外傷だったらどんなに大怪我をしてもすぐに治るようになったし、病気だって今までもよりも格段に治癒期間が短くなった」


「あたしずっと入院してるんですけど⁉」


「かなりの重病ってことだ。だから大人しく寝てろ」


 ぶーぶーと唇を突き出したホーリーが不貞腐れる。


 ホーリーは、医者曰く心臓に疾患を抱えているそうだ。定期的に投薬をして経過を観察しなければならない程度には重篤な病に罹っているはずなのだが、彼女を見ると医師の診断が嘘に思えてくるから困る。


「あんたの魔法で治せないの?」


 ふと浮かんだのであろうホーリーの疑問に俺は首を振って答える。


「俺の魔法体系じゃ無理だな。俺はどちらかというと、資材とか建築とか、そっち向きの魔法体系だからな」


 魔法は万能ではない。全十二体系存在する魔法だが、弓鶴が扱う魔法は治療関係とは絶望的に相性が悪い。


「ならなんでわざわざ悪と戦う魔法使いなんてものになるのよ」


「ASUの警備部だ。正義の味方みたいに言うなよ。恥ずかしい」


「ISIA日本事務局関東支部ASU警備部警護課だっけ? 肩書が長ったらしいのよ。こんなの言ってたら噛むわよ。あとASUとISIAって何が違うのよ。わけわかんないわ」


 ASUは魔法使いの中でもとりわけ実力に特化したエリート集団だ。大まかに役割はふたつで、独自に行われる魔法研究、そして犯罪魔導師を取り締まることだ。


 ISIAは、魔法使いの全人事権を一極集中させた国際機関だ。各国の要望や世界情勢から必要数を算出し、それに応じた魔法使いを送り込むことが主な役割である。だからASUに所属する魔法使いはISIAの職員でもある。つまりはお役所的な肩書というわけだ。


「このまえ説明しただろ。それで我慢してくれ」


「あんたの説明は下手くそなのよ。分かりづらいったらありゃしないわ」


 ふん、と荒く鼻息を鳴らしたホーリーがテレビをつける。丁度海外のニュースをやっているようで、フランスで震度六弱の大地震が発生したことをキャスターが読み上げていた。


「最近世界的に地震が多くなったわよね」


「この前は確かロシアだったか? あまり地震が起きるイメージが無いところで発生してるな。専門家も頭を悩ませてるらしいが」


「やんなっちゃうわよ。入院中に大地震が起きないことを祈るわ」


 そのとき、弓鶴の端末が鳴った。反射的にズボンのポケットから端末を取り出し応答すると、耳に直接若い女性の鋭い声が届く。


「弓鶴。招集だよ。五分以内に来て」


「了解」


 やり取りはこれだけだ。同時に端末にメールの着信。今回の招集理由である事件概要が添付されていた。弓鶴はそれに一度目を落とし、眉間に皺を寄せるとホーリーに向き直った。


「悪い。事件だ。すぐに行かなきゃいけない」


「分かってるわよ。ほら行った行った。善良な市民を守ってちょうだい」


 しっし、と手を振って不貞腐れているが、それがホーリーなりの激励だということは分かっていた。行ってくる、と答えて弓鶴は病室を出ると、出口に向かって足早に歩きながら端末を操作する。右目だけにメール画像を転写させて再度内容を確認する。


 昨夜未明、埼玉県川口市にある児童養護施設光の森で殺人事件が発生。職員四名が斬殺され遺棄されているのを同施設の子どもが発見。本日午前六時四六分に警察へ連絡をした。事件当時子どもたちが犯行に気づかなかった点や、殺害方法が特殊な方法で用いられたと推察されることから魔法使い事案の可能性が考えられるため、警察はASU警備部に緊急要請。本局はこれを受諾。


 ここまで読んで、弓鶴はあまりの血なまぐささに吐き気がしそうになった。魔法は世の中を便利にしたが、個人に巨大な力を与えるようになった。それこそ、ひとりで小国となら戦える程度にだ。今回もその延長だと思うとやるせない気分になった。


 病院を出ると同時、弓鶴は肩に抱えていたバッグから深紅の靴を取り出す。それは、明らかに通常の靴とは違う前衛的なデザインをしたものだった。金属でできたかのように表面が光沢に覆われ、燕の翼さながら側面に四枚の羽根があしらわれており、「飛燕・紅」と白文字で描かれている。靴底には丸い穴が開いており、紫色の結晶がはめ込まれていた。


 弓鶴はその靴に履き替えると、端末で連絡を取る。


「本部、こちらASU警備部警護課の八代弓鶴だ。AWS起動許可をくれ」


「要請受諾。確認しました。使用を許可します」


 端末から応答。それを受けて弓鶴はAWSを起動した。


 AWS:Air Wave ShoesのSルータが仮想空間へ魔法接続を開始。魔法情報がマテリアルを介して現実世界へ干渉。波動体系の魔法が発現し、AWSが波動を捉える。


 魔法とは、現実に十二存在する魔法世界の定義で世界を記述した結果だ。AWSは波動世界の法則を使用することで、誰でも手軽に空を飛ぶことができる靴になるのだ。


 弓鶴の身体が浮く。その場で足元を蹴ると、一気に身体が上昇した。大宮の街並みが眼下に広がっていく。身体全体で大気の流れを感じながら空中で膝を曲げて伸ばす。大気の流れによって生み出された波を捕まえたAWSが、弓鶴を一直線に前方へ飛ばした。時速百キロを超えた弓鶴は、すぐに目的地に到達する。


 タワーマンション型ビルの一階に降り立つと、その足で駆けて中に入る。エントランスを通り抜けて目的の転送室まで走った。転送室のドア上部のランプが緑であることを確認し、部屋の前まで行くと自動ドアが開く。その僅かな時間すら惜しく感じながら転送室に駆け込んだ。


 約二メートル四方の小さな部屋の中央には、人ひとりがすっぽり入るほどの大きさの円柱状の機械が中央に置かれている。装置の中に入ると、体内に埋め込まれた生体IDが弓鶴の身分を明かし、転送装置が認証する。


「ASU警備部警護課に繋いでくれ」


「承認します」


 弓鶴が告げると機械の音声が応答し、目の前が白く染まる。視界が戻った頃には、まったく同じ転送室に弓鶴は立っていた。転送装置から降りて自動ドアが開くと、そこはマンション内部ではなくではなくASU警備部警護課に続く廊下だった。


 明るく照らされた廊下には、ISIAからの出向社員や同じ警備部の魔導師が足早に歩く姿が見て取れた。弓鶴も人の流れに沿って廊下を進む。警備部のフロアに入り、いつもの会議室へ向かった。六人掛けの円卓テーブルには、既に弓鶴を除く四名が揃っていた。


「早かったね。休みのところ申し訳ないけど、割と緊急事態だよ」


 最初に声を掛けてきたのはショートボブの女性。銀糸に茶色のメッシュが入った変わった髪色を持つアイシアだ。フランス人形を大人にしたような愛らしい彼女が、弓鶴が所属する班の長である。要するに上司だ。


「やあ弓鶴。災難だったね。久しぶりの魔法使いが絡んだ大量殺人事件だ。担当は刑事課なんだけど警護課も駆り出されることになったよ」


 次に発言したのは、緑髪に小学生程の小柄な身長をした、一見すると少年にしか見えないブリジットだ。実年齢は二十八歳であり、魔法で肉体を幼くしている変わり種だ。


 パンパン、とアイシアが両手を叩いて注目を集める。


「はいはい、おしゃべりは止めて。早速会議をするよ」


 アイシアが端末を操作する。円卓テーブルの中央に置かれた映像機器が、立体映像を映し出す。


 映像の中身は児童養護施設内部だ。最初は和室が表示される。異常なのは呆れるほどに血が飛び散っていることだ。そして部屋の中央には布団。そしてそこに寝転ぶように中年男と思わしき首なし死体があった。首はそこから二メートルほど離れた場所に転がっている。人間パズルでもやっていたかのように右腕と左腕も離れた場所に落ちていた。


 画面が切り替わる。男子便所。切り替わる。多目的室。切り替わる。事務室。


 すべてが血に塗れ、被害者は首を斬られて殺害されている。あまりにも鮮烈な殺し方だった。


「メールに記した通り、埼玉県警から情報と共に協力要請があり、本部はこれを受領した。つまりは警察との共同戦線だね。ASUはこれを魔導師犯罪と認定。即時犯人の身柄確保に動くことが決定した」


 ここまでに何か質問は、というアイシアの問いにブリジットが答える。


「魔法使いが関与した根拠は?」


「事件当時同じ施設内にいる子供たちに被害がなかったこと、また犯行に気づかなかったこと。後者は恐らく観念結界でも張って防音でも付与してたんじゃないかな。それから、床の間に飾ってあったっていう鎧と刀が一式無くなっている。たぶん元型魔導師の仕業だね」


「外部犯か?」弓鶴が問いを重ねる。


「その線もあるし警察もあらゆる可能性を探っているけど、ASU本部は内部犯と考えてるね」


「というと?」


「保護した児童の中に、一名行方不明の女の子がいる。誘拐か、はたまた彼女が犯人なのかは分からないけれど、状況から後者が濃厚かな」


 相変わらずASUの即断即決具合には頭が下がる。ASUは魔法使いが犯罪を犯したと分かった途端、即時殺害を選ぶほど過激な組織だ。ISIAが無ければ犯罪魔導師の死体で山ができるだろう。


 なんにせよ、女子児童による大量殺人という訳だ。朝から頭が痛くなるような事件だった。


 アイシアが自身を抱きしめて続ける。


「日本では自己申告でない限り魔法適正検査は毎年高校二年の冬に行われる。だから、推測になるけどその子はISIAが関知していないところで魔法に目覚めたってことになるね」


「なるほど、警護課が引っ張り出されるのも納得だ。捕まえて保護しろってことかい?」


 ブリジットの問いにアイシアが頷く。警護課は、魔法適正検査で陽性となった魔法使いの卵をISIAへ引き渡すまで警護することが主任務だ。今回の相手が新たに生まれた魔法使いであるならば、警護課が出張る理由も納得できる。


「そういうことになるね。捕まえた後はいつも通り身柄を警察に引き渡して状況終了かな」


 今まで黙っていた金髪を撫でつけたポニーテールの青年、オットーが口を開く。


「動機は何でしょう?」


「さあ、それは警察の仕事。私たちは警察からの情報を元に対策を立てて犯人を捕まえる。なるべく穏便にね」


 ブリジットが茶化す。


「それは無理だろうなあ。相手は幼女と言えど魔法で男性職員を全員殺した犯人だよ? とても話し合いができるような精神状態じゃないだろうけどなあ」


「魔法犯罪は基本的に生死を問わない。分かっているだろうけれど、変に情を入れて見逃すなんてしないように」


 アイシアの注意に全員が頷く。対魔法使いの戦いでは、ほんの一瞬隙を見せただけで殺される。魔法使い同士の戦いにおいて、命など飴玉ひとつの価値すら存在しない。


 そこで、いままで黙っていた白金髪の美女ラファエルが、ぼそりと口を開いた。


「……顔写真は?」


「各端末に転送するよ」


 アイシアが端末上で指を滑らせる。瞬時に端末にメールが着信する。画像を開くと、十一歳とは思えぬ大人びた少女の姿がそこにはあった。どこか浮世離れした雰囲気の少女で、早くも身体は女として成長していて丸みを帯びている。メールを見ていくと、現時点での最重要容疑者の名が記されていた。


 更科那美。二年前に両親が交通事故に合い、身寄りもなく児童養護施設に引き取られたのだという。年齢不相応に利発で全国小学生模試では常に上位をキープしているようだ。


 経歴を見るとこの女子児童の未来が暗澹としているように弓鶴は感じた。もし犯人であるならば魔法犯罪である限り極刑は免れず、誘拐されているのならばすぐに助けなければならない。唯一の救いは、被害者であった場合、身柄はISIAへ移され魔法教育を受けられ、社会に復帰できるということだ。その可能性も、現段階では低いだろうが。


「魔法に狂ったか、あるいは何か引き金を引くことでもあったのか、単純に狙われたか。なんにせよ救いがないね」


 メール文書を一瞥したブリジットが笑いながら言った。アイシアが眉を顰める。


「鎧を操作しての殺人、防音結界を張る行為、年齢にしては扱う魔法が高度過ぎますね。これはあれですか、いわゆる天才という奴では?」


 オットーがポニーテールを弄りながら疑問を口にする。この場の長であるアイシアが注意を入れた。


「オットー。一応まだ犯人は確定してないよ。あまり事前に推測し過ぎると、土壇場で間違っていたときに死ぬよ?」


「これは失敬」


 オットーが肩をすくめた。


 ここまでのやり取りを見れば分かるが、どいつもこいつも曲者揃いだ。ブリジットはにたにたと笑っているし、オットーはふざけている。ラファエルに至っては興味がないのか欠伸をしていた。ここら辺の非常識さ具合が、魔法使いが魔法使いたる所以だ。


 魔法使いは頭のネジが数本外れているような人格破綻者が非常に多い。それは偏に魔法が使えるからというだけでなく、知覚の半分を魔法世界に置いているから、価値観が現代人と異なるのだ。


 魔法使いは、常にふたつの視点を持って生きている。ひとつは一般人と同じ物理法則に支配された世界。もうひとつは、自身が持つ魔法体系の世界だ。魔法体系の世界は、それぞれ現実とは法則が全く異なる。


 例えば、弓鶴の錬金体系は、ありとあらゆる現象が物質であるように見え、万物の元となる原初の物質がゆるやかに流れている世界だ。手を伸ばせば簡単に触れられ、イメージを作って握れば、力量に比例するもののあらゆる物質を具現化できる。


 つまり、魔法使いと一般人では見ている世界が違う。これはそのまま、人生観であったり価値観であったり、思考体系の違いに影響する。端的に述べるのであれば、一般人と魔法使いは、姿かたちこそ同じであれ、その考え方はまったく異なる宇宙人だ。


「……県警と合同会議するんじゃないんです? 早くこれ終わらません?」


 眠そうな顔でラファエルが言った。より正確に言葉をなぞるのであれば、どうせ同じことを話すのだから面倒だしさっさと終わらせろということだ。さすがのアイシアもため息していた。


「エル、私たちとしても共通認識を持っておきたいの。だからこの時間は無駄じゃないよ」


「……そう」


 早速意見を引っ込めたラファエルはやはり欠伸をしていた。ぼそっと、「お昼はカルボナーラが食べたい」と言っていたのは聞かなかったことにする。彼ら彼女らの発言や態度にいちいち反応していては埒が開かない。この数か月で弓鶴はそれを良く学んだ。


 生まれてすぐに魔法が使えるような生粋の魔法使いはクズばかりだ。そう思えば心にさざ波を立てなくて済む。


「じゃあこれから埼玉県警に行くよ。ASU刑事課の魔法使いも一緒になるから、無駄に衝突しないようにね」


 アイシアが声を張る。彼女も同じ生粋の魔法使いだが、従軍経験があるからかいくらかはまともだ。


「刑事課の連中って我らのことすぐ見下すんだよなあ。魔法使いの保護なんて赤ちゃんの仕事だろうとか言うんだよね。向こうが頭を床に擦り付けて謝罪するなら少しはマシな対応をしてあげるよ」ブリジットが口端を吊り上げて言った。


「相変わらず私のことを間諜扱いしてきますからねあの連中。神罰でも下ることを切に祈ります」オットーが恨み事を口にする。


「さっさと行ってお昼食べたい……」ラファエルの頭の中はもはや昼食のことしかないらしい。


 ぞろぞろと会議室を出て行った三人を見やってから、弓鶴も立ち上がる。アイシアは頭痛でもするのか頭を押さえていた。


「弓鶴……君だけが頼りだよ」


「俺にあの連中をしつけるのは無理だ」


「四年前に君に目を掛けた理由がいまなら分かるでしょ?」


 弓鶴は四年前に魔法使いだと発覚した際、アイシアに警護された過去がある。そのとき、彼女に同じ部署で働かないかと誘われたのだ。それがこんな変人な巣窟だと知っていたら進路は変わっていたかもしれないと思うと、少しはアイシアに恨みはある。


「なら四年前に事情を説明してくれ。それなら来なかった」


 アイシアが苦笑する。


「だから言わなかったんだよ。君は魔法使いにしてはまともだからね」


 もっとも、たとえ知っていたとしても来ただろう。弓鶴はアイシアの強さと正義の魔法使いぶりに憧れたのだ。だからこれはただの憎まれ口だ。


 アイシアが会議室の入口を見やって肩をすくめる。


「それじゃあ行こうか。引率者がいないとあの三人が何をするか分からないからね」





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