序章:Intro
八代弓鶴が魔法使いに助けられたのは、四年前の高校二年生の冬だ。学校で行われた魔法適正検査で陽性になった彼は、魔法使いになるのが嫌でひとり学校を抜け出した。でなければ国際機関の職員に捕まって魔法使いになることを説得させられるからだ。
弓鶴は冷たくなってきた風に身を震わせながら、埼玉県大宮市の街をとぼとぼ歩く。時刻はまだ正午前で駅前の人通りはまばらだった。いつもの癖で持ってきてしまった竹刀袋で肩を叩きながら当てもなく彷徨う。
職員は既に撒いていた。家に帰ると母親に怒られるだろうから、適当にマンガ喫茶で時間を潰そうと思った。それとも、友人の見舞いに病院に行くのも良いか。
父親を魔法使いによって殺された弓鶴にとって、魔法使いは悪で、悪は罰せられるべき存在だ。そんな者になどなるかと憤っていた。だが、同時に高揚も感じていた。
約三十年前、世界は魔法が存在することを知った。《連合》と名乗っていた魔法集団が、当時の技術ではできない立体映像を全世界各国の空中に映し出したからだ。これによって、世界は魔法の存在を知り、瞬く間に世界を覆った。
しかし、魔法を使えるのは神に愛された人間だけだった。なろうと思ってなれるものではなく、完全に才能がものをいう存在だった。だから、弓鶴にとっても魔法は憧れだった。
きっかけがあればいいと弓鶴は思った。魔法使いは嫌いだ。だが、悪いのは魔法使いではなく罪を犯す魔法使いだ。
そんなことを考えていたからかもしれない。
人通りが完全に掃けた裏通りを歩いていると、突然目の前に黒いバンが突っ込んできた。絶妙なドライビングテクニックで横付けされる。弓鶴が驚いて身を固まらせると、バンのドアが開いて全身黒づくめの男たちが現れた。全員が目元と口元だけが開いた強盗たちが使うマスクを被っていた。
弓鶴は咄嗟に持っていた竹刀を両手で握った。これでも剣道には自信があった。小さい頃からやっているのだ。
すぐさま正眼に構え振りかぶる。コンマ一秒後に振り下ろされる軌跡は、確実に眼前の男を捉えていた。
寸前、腹部に鈍い衝撃。回り込んでいた男に横腹を殴られたのだ。文字通り脇が甘かった。
弓鶴は息が詰まってその場でうずくまる。男たちが弓鶴の口元をガムテープで塞ぎ、両手両足を紐で縛ってバンに放り込んだ。完全にプロの手口だった。
「捕獲完了。出せ」
男の一人が運転手に声を投げると、すぐにバンは発進した。一瞬の出来事だった。剣道など何の役にも立たなかった。
芋虫状態になった弓鶴は、なんとかしようと両手両足を使って暴れる。今度は腹部に鈍痛。胃液が鼻から零れた。後部座席の男に殴られたのだ。
「大人しくしていろ。死にたくなければな」
首筋に冷えた感触。弓鶴の脳裏に嫌な理解が訪れる。ナイフを首筋に突き付けられているのだ。暴れれば頸動脈を切られ殺される。
急に恐ろしくなって弓鶴の身体が固まった。
悔しかった。あまりの情けなさに涙が滲んで頬を伝った。
弓鶴は今朝学校で聞いたことを思い出す。魔法使い候補者は、犯罪組織に狙われることがあるため注意する必要があると、国際機関の職員が言っていた。CMでもよく流れていることだ。
つまり、弓鶴はその犯罪組織とやらに捕まったのだ。毎日メディアニュースで、更に今朝も言われたのに、全然危機感がなかったのだ。
そして、そんな阿呆に待っているのは、どこかの国で魔法使いとして奴隷と同じように酷使される未来だ。束の間の希望が一気に絶望に入れ替わる。やっぱり魔法使いなんて最悪だと心の底から呪った。
――そんなときだ。彼女が助けてくれたのは。
不意に、路地裏を走っていた車が急ブレーキを掛けた。慣性に従って後部座席の中を転がる。運転席の後部に顔面をしたたかに打つ。脳が揺さぶられて頭がふらふらした。
「どうした⁉」
後部座席の男が叫ぶ。運転手が即座に怒声で返した。
「ASUだ‼」
男たちの動きは素早かった。即座にバンのドアを開けて外に躍り出たのだ。中にいる弓鶴には何が起きているのか分からなかった。そして空気が破裂したような破壊音が耳朶を叩く。視界に紫電が撒き散らされているのが見えて、雷でも落ちたのかと思った。次々と人が倒れる音が聞こえた。
突如、騒音が凪に支配された。
足音。
誰かバンにが近づいてくる。
「対象を無力化完了。候補者は命に別状なし」
弓鶴の耳に声が届いた。耳を撫でるような柔らかい少女の声だ。
視界に少女が映った。歳の頃は弓鶴と同じくらいか。目を惹いたのはショートボブに切られた銀糸の髪。陽光に輝く銀糸には、ブラウンのメッシュが入っていた。その下にある顔は精巧にできたフランス人形のようで、一輪の花のように可憐な表情だった。まるで有名な絵画から現実世界に抜け出したかのような、現実味のない美しい容姿だった。
少女は派手な深紅のローブに身を包んでいる。よく見れば、学校で見た国際機関の職員のひとりだった。
少女が優しく微笑む。見る者の心を穏やかにする、睡蓮の笑みだ。
「もう大丈夫だよ」
少女が弓鶴に手を差し伸べる。
「ようこそ、魔法使いの世界へ」
きっかけはこれだと思った。弓鶴の目の前にいま、正義の魔法使いがいた。自分がなるべきものはこれだと思った。
声も出せず身動きできない中で、弓鶴は彼女と同じ職場で働くと心に誓った。