最終章第8話 絆か肩書きか
学校の成績が張り出された日の放課後。教室、2-A。リーフェルトが帰る支度をしていると、近くの席に座っていたクラスメイトの男子二人の会話が耳に入る。
「よ。これからデートだよな、山形君?」
「ん……おう」
「お前んち来るんだっけ?」
顔を上げて表情を見なくとも、同じ男ならばどんな表情をしているのかわかる――そんな嬉々とした口調で山形の友人、浜松が確認を取る。
「なんだよ……ニヤニヤして」
「祝、脱DTってやつ? アユカ……さん、だっけ?」
鞄に教材を詰めていたリーフェルトの手がぴくりと止まる。
顔を上げた二人の男子たちは、そんな彼の心境など知らず会話を続ける。
「美人な子だったよなあ、しかも胸デカイし」
「汚れた目で見んな……」
「お前だって男だろ。お前のとこ共働きだし兄弟もいねーしスカしたお前もケモノに早変わり」
「うるせー」
「羨ましいなあああああオイ!! 山形君よぉ!! 羨ましいなああ!!」
「うるせーっての」
『あゆか』という名前で、胸が大きいという数少ない特徴だが、行方知れずの元彼女が頭をよぎる。
(別の女の子……だよね……?
彼女には、コフィ君がいるんだし――)
というより、もう別れたのだ。彼女とは。
彼女がどこで誰と付き合っていようと、自分にはもう関係ない。
浜松は山形を変なテンションで教室の外へ送り出した後、はーっ、と長い憂鬱そうな溜め息を吐き出し、踵を返して一人「いいなあ……」とつまらなそうにぼやいた。
その際にたまたま視線がかち合い、慌ててリーフェルトは帰り支度をしていた鞄を見下ろし俯いた。
「お前も聞いてたろぉー、ガーシェル」
「……な、なにが……!?」
まさか声をかけられるとは思っていなかったため、ぎくりと自分の肩に手をおいてきた浜松にぎこちなく再びリーフェルトは顔を上げる。
「美人で巨乳の彼女と放課後不純交遊だってよお。なあ? いーよなあああ? 顔のイイヤツはよお」
「な、なんで僕にそんなこと……」
「海外じゃフツーだろ? 進んでんだろぉ? どーせ小学生で金髪美女とそーいうこと済ませてんだろ。お? くそがふざけんなよお前」
「そ、そんな。どういうイメージで……」
「なんかさ。猥談とかねーの? すっげー濃いやつ」
「わ、猥談……!?」
「日本じゃなかなか聞けねーような……ほら。盗み聞きした罰ってやつ?」
「そういやガーシェル、年上の彼女いるとかって噂だったよな?」
別方向からそういう言葉が聞こえて振り返れば、クラスメイトの眼鏡男子、澤野が自分を見ている。
浜松は口許をメガホンのように手を添えてクラスメイトたちに叫んだ。
「おーい、ガーシェルが海外仕込みの猥談トーク披露するってよ!」
「えっ、ちょっと。そういうことは一言も……」
「あ、私も聞きたい!」
「女子禁制な!」
「なによそれ!?」
「屋上行こうか。な……?」
澤野が後ろから優しく戸惑うリーフェルトの肩に手を置き、悪い笑顔で囁いた。
澤野、澤野の友人の前崎、浜松の三人の男子に連れられ、屋上へ。
四人だけの空間になるなりすぐにワクワクした顔で三人に質問攻めされるが、彼らを満足させられる会話など持ってはいない。経験などまったくないことをハッキリと伝えたら、最初は半信半疑だった彼らは拍子抜けした顔になっていく。
ヴァンパイアの超人的な力で抵抗は無論できた。が、ここまで大人しくついていったのは、教室のなかで自分はまだ童貞だなどと発表できるほどの度胸はリーフェルトにはなかったからだ。
「え……マジでなんもねーの?」
「えー……童貞なのお前」
「ないわー……」
リーフェルトはガッカリしていく男子三人に、だから言ったのに――と思う。
「もーいいや。明日山形から聞こ」
「山形?」
「放課後あいつの家に彼女来るんだとさ。しかもあいつの両親共働き」
「ぅおー、マジか! そりゃ祝ってやらねえとな!」
「事情聴取のついでにな!!」
リーフェルトへの興味をすっかり失い、三人は屋上を後にしようとする。
そんな三人の背中を暫し見つめていたリーフェルトだったが、三人が彼を置いて屋上のドアを閉める前に、躊躇いながらも浜松の名前を呼んだ。
「? なに?」
「あの。山形君の、彼女って」
「……??」
「その。『アユカ』って名前――だったっけ」
「鮎川さん?」
「……えっ?」
「お前、鮎川さんの知りあい? 他校の子だけど。海外にいたんじゃ、山形たちと同じ中学でもねーだろ??」
「……ああ。うん……アユカワさん、か。そっか……! ごめん……」
どうやら聞き間違いだったようだ。
リーフェルトは慌てて作り笑いをして、浜松に謝った。
後。今度こそ一人取り残された屋上で、彼はぼんやりと閉められたドアを暫し見つめる。
高さゆえの強い風の音が、冬に片足を突っ込んだ季節故のその冷たさが、胸にしみる。
自分はなにがしたいのだろう。
別れへと導いたのは、自分自身。彼女の行方を探ってどうする。
家を捨てきれない自分が、してやれることなど何もないのに。
「リーフェルト」
一人きりだとずっと思い込んでいたところで後ろから声をかけられ、驚いて振り返る。
いつのまにかそこには、友人が、陽人が立っていた。
「……陽人」
「悪かったな」
突然謝られたことで、一体なんのことだろうかと戸惑う。
リーフェルトが頭のなかで心当たりを探そうとする前に、
「お前に、歩花が女だって話すんじゃなかったな」
と、静かに陽人は続ける。
「いつかは流れでお前が知ることだったとしても、俺がお前に伝えたことでお前には荷が重かったな。
だからもう歩花のことは忘れて、前向いて生きろ。
お前は家族に愛されてるし、恵まれてる。彼女や婚約者なんて、また作りゃいいさ」
普通の他愛のない話をするように陽人は軽く笑って、彼もリーフェルトの横を通りすぎて屋上から去っていった。
登校して朝の挨拶をするようにさらりとした口調ではあったが、それだけに友人の科白が胸の主な部分を深く抉られたような気分に陥る。
まだ怒りのままに、彼女を幸せにできなかったことを罵倒された方がマシだった。
学校から家への帰路を辿りつつ、自らの今までの行いと陽人の科白を思い起こす。
――陽人が歩花のことを自分に話したのは、自分への期待と信頼からだ。
仕事の相棒だったが故に、一人の男として女の歩花を支えるという陽人にはできないことを、きっとリーフェルトにはできると考えていたからだったのに、よく考える必要もないことだったことを、どうして自分は今まで意識しなかったのだろう。
歩花との絆を切り、真優に怒られ、陽人からの信頼も失い、ガートルードに呆れられ、最近では自分と合わせる小夜の目さえ、どこかぎこちない動きをするようになった。
話すときはみんないつも通りなのに、そういった変化が自分の胸を詰まらせる。
(ああ、そうだ。新しいノート買わないと……)
もうすぐ世界史のノートの残りが少ないことを思い出し、そのまま駅に寄る。
コンビニでもノートは売ってはいるが、自分が使用していたものとはまた違うものだ。駅近くにしか、自分が愛用しているものは販売されていない。
ノートを購入し店を出た頃には気温はめっきり冷え込んで、リーフェルトは少し身震いする。
今になって何故か意識した――夏だった頃と比べれば、陽が落ちるのがこんなに早いだなんて。
(……ここは、どこだろう)
すっかり自分の目に馴染んだ場所なのに、何故だかそんなことを彼は思ってしまった。
なんだか、一人だ。
(でも、僕は王子だから)
自分は人間ではない。どうせ人間界から遠く離れた異世界へ帰る。だからなにをしでかしたところで、友人をなくしたところで、すぐにどうでもよくなってしまう。
しかし、それでも少し考えてしまう。
友人や、その信頼を裏切ってでもすがろうとしている『王子』という肩書きとは、自分にとって一体なんなのだろう――と。