最終章第7話 捨てられぬ絆、捨てた絆
安いビジネスホテルの一室。過呼吸発作から立ち直っても、左一と茜から何度も謝られても、歩花は普段とはまったくの別人のように座って頭を垂れたまま機械的に「ごめんなさい」と「すみません」を繰り返すのみだった。
動揺する夫婦にハロウィーンは間に割って入る。
「今日はここで帰っとけ。できるなら、しばらくは距離置いたほうがいい」
ハロウィーンは歩花を見下ろし、ぼんやり自分を見上げている彼女に膝をつき、紫がかった頭に手を置いた。
「よく頑張った。だから、もう頑張らなくて良い」
催眠の魔法をかけられた歩花は、そのままぐらりと眠りにつく。頭が床に放り出される前に抱き留められ、そのままハロウィーンにベッドに寝かされる。
せめて落ち着くまではと一週間分の宿泊代をビジネスホテルに左一が払い、転移魔法で次の仕事先へ向かったらハロウィーンを除く皆が重い足取りで帰路を辿る。
皆が黙り混んでいる間、真優は「あのさ」と、リーフェルトの名を口にした。
「歩花のご両親に、何か言うことない?
……だって、歩花は不貞をしたって誤解されて殴られたんなら、貴方はどうなの。……ひょっとして、殴られたのが歩花でホッとしてる?」
「……」
「まず結婚を前提にって言い寄ったのは貴方だよね。私が歩花なら、本当に自分がみじめだって思うよ。
どれだけ不満があっても、歩花は一度も私の前で貴方を悪く言ったことはないけどね」
リーフェルトに目を合わさず真優は早口で言い捨てるなり、一人、前へ早足で突き進んでいく。
それを見ながらつい足を止めるリーフェルトに、左一、茜、陽人も足を止める。戸惑い気味に親友とリーフェルトを交互に目を配りつつ、小夜が一旦真優のほうへ付いていったものの、何か言われたのかすぐに着いていくことをやめてこちら側に戻ってきた。
リーフェルトは遠くなっていく少女からやがて目を外し、左一と茜に頭を下げる。
自分がリリアーヌと歩花の前でしたことも、歩花がその時のことをずっと引きずっていたことも、包み隠さずすべて話した。
リーフェルト一人がビジネスホテルに引き返し、歩花が泊まる部屋の扉を叩いたが返事はなく。ハロウィーンが魔法をかけたことでまだ眠りについていることを思い出し、塵化し扉の隙間から入室する。
「……あ?」
先程皆で部屋に入ってからそう経ってはいないはずなのに、塵化状態から普段の姿になったリーフェルトの背後から声が聞こえて振り返った次の瞬間、鉛のようなものに横殴りにされてベッドに眠りについている歩花とは別方向へ、不意打ちで吹っ飛ばされ壁に激突する。
「何をしに来たのだ? ああ゛!??」
全身が砕けるのではないかというほどの衝撃に呻く自分の胸ぐらを掴み上げられて、初めてまともに目が合った。
歩花の従兄のセノフォンテだった。まるでゴミを見るような目で、今度は先程とはうってかわって静かな声で彼は問うてきた。
「この俺がなにも知らんとでも思っていたのか?
……あの養父どもは、娘に事実確認せずお前の言い分のみを飲み込んだのだな」
「……それは、僕のせいです。だからさっき、謝罪してきました」
「謝罪? それがなんの役に立つのだ?
歩花の娘としての立場も女の自信も、とうに取り上げられた。もうどうにもならん。出ていけ」
「……そういうわけには――」
「今更愛情からのキスやセックスが貴様にできるのか?
無理に決まっている。どうせ今のお前にあるのは愛ではない! 自分が悪者のままでいたくない気持ちだろう!!
出ていけ!! お前ごときの命を救ったばかりに、歩花が構築してきた親子の絆もすべて水の泡だ!!
なんの取り柄もない、大層な肩書きだけの無能不能が!!」
すべてセノのいう通りだ。それだけに胸を大きく抉られる思いで彼からの台詞を受け入れる。
それでも、まだ歩花に対する愛情は確かにある。まだ守れる。自分が今のうちに家族と彼女の間に入れば、取り持てる。
恋人として傍にいることはたとえ無理でも、まだ――
「貴様の兄弟に言うぞ」
しかしセノの端正な唇から割って出てきたその一言がリーフェルトの脚をすくませた。
足場がガラガラと崩れ、一方進めば底無しに落ちていきそうな恐怖に途端に心が沈められてしまう。
自分の王子としての立場が、消える。兄弟、家族からの今までの信頼さえも、見据えてきた未来も、一陣の風で消える蝋燭の火のように、呆気なく、跡形もなく。
気づいていたらその場から逃げ出していた自分に、リーフェルトは家に帰って己の最低さに悔しさを覚えて奥歯を噛み締めた。
彼女の家族を裂いたくせに、自分は家族の絆を彼女のために捨てきれない。自分の卑怯さに、一人玄関に背を預けたまま崩れ落ち、嗚咽を漏らすのみだった。
目覚まし時計よりも早く起床し、リーフェルトは身体を起こす。
スマホのLINE新着を知らせるランプ点灯に気付いて一番に確認するが、暇潰しにやっていたアプリゲームからのメッセージに、ため息を吐いた。
歩花からは勿論、陽人、小夜たちとのLINEグループの流れも、あれから時を止めたままだ。
歩花は、数週間経っても学校に来ていなかった。
『あいつは自分のこと話さねえからな』
『私も、全然聞いてない。そういえば左一さんのことお父さんって呼び出したの、高校に入る前くらいだった、かな……』
数日前学校の廊下で偶然会ったときに、どこかぎこちなく交わした陽人、小夜たちとの会話。
『歩花は昔から、なんていうか、平等じゃないっていうか。
喧嘩とかしたことないの。幼馴染みなのに。私が何を言っても冷静に指摘したり、流されたりして。仕方ないなって顔で、言われるままっていうかね。
だから辰弥――歩花が君と話してるとき、すごく楽しそうだったし、女の子の姿でイッチと話してる時、普通に怒ったりへこんだりしてるの……あんなところ、初めて見た』
一人で登校しながら、意識したことのなかった別の元恋人の知らない顔を思い出す。
ぼんやりと歩いていたら角を横切ろうとした女性の自転車にぶつかりかけて、慌てて謝った。
彼女は今、どこで何をしているのだろう。
二階堂家には帰っていないのは確かだ。茜から一昨日電話が来た。歩花がそちらに泊まったりしていないか――と。その際に自分が暫く彼女に会っていないことを教えると、そう知らされた。
どうやらビジネスホテルからもとうに歩花は引き上げていたらしい。
スマホも変えられたらしく、GPSで探ることもできない。
「リーフェルト!」
「……?」
「成績、張り出されたってよ! 見に行こうぜ!」
登校はしたものの、今日も授業にも身が入らず、結局時間を浪費させただけだった。
いつのまにか昼休みになっていて、同じクラスのガートルードに声をかけられて我に返る。
曖昧な返事をして彼についていけば、陽人と小夜の姿もそこにある。彼らと会うのも、随分と久しぶりな気がした。
「お――。お前四位? 珍しいな」
リーフェルトにそういったガートルードは、今回も一位だった。
順位が落ちているのに、何故だか悔しさもいつもよりはない。
いつも五位以内にあるはずの歩花の名前は、当然見つからなかった。
「小夜、頑張ったじゃん」
「ああ。うん」
学年三十九位の陽人が、自分と少し上くらいだったはずの成績だった小夜が学年十一位を獲得したことを素直に評価する。
リーフェルトもそれを見つけて称賛すれば、小夜は苦笑いのような表情を浮かべた。
「……勉強、教わってたからね」
「?」
「辰弥に。……いつ学校に戻ってきても、今度は私が教えてあげたいなって」
「――……」
「ま。暫く勉強はいいんじゃねえか? 辰弥の奴。結構頑張ってたしな」
「まあ、そうだな。未来のダンナのために恥かかせねーようにって勉強に気ぃ張ってたし、別れりゃそんな頑張ることもねーわな」
小夜に相槌を打つ陽人、頷くガートルード。
「え」と声を出して戸惑った自分に、三人は一度視線を集めた後で顔を見合わせると、何事もなかったかのように自分たちの教室に戻っていく。
歩花はただ勉強が得意で、五位以内に入っていたのだと思っていたのに――。
一人廊下に取り残されて、呆然と立ちすくんだ。