最終話 願い
十年後――フィンランドの夜。誰もいない街の中を息を切らし、ブロンドの男が必死に逃げ惑う。
男の背に複数の影が迫ってくるのを何度も振り返り、ジグザグに走って彼らを撒こうとするが、体力を無駄に消費しただけだった。
「どうして――」
まだ若いハリのある男の目頭に涙が浮かぶ。理不尽な自分の運命を口の中で呪い、それでも生きるために逃げ続ける。だが路面電車の線路に足を取られ、転んだ。
慌てて身体を起こし、後ろを見れば白い服の集団がすぐそこまで来ていた。「くそ」と毒づき、男は尻を引き摺って後退る。
「お、俺は、誰も傷つけてない! 誰も傷つけてないぞ!!」
「これから先も、絶対にそうだと言いきれるか?」
「好きでこんな身体になったわけじゃない!」
「そうか。それば運が悪かったな」
淡々とした言葉と共に、白い服の男たちが構えたのはサイレンサーの付いた純白の銃。優れた夜目でそれを見るなり、追われていた男は頭を抱えて縮こまることしか、自らを助ける術を知らない。
痛みを覚悟し両目を固く瞑った。
だが、どれだけ身を固くしても、覚悟していた痛みなどいつまで待ってもやって来ない。
恐る恐る男が、自分の頭を抱えた腕の間から彼らの様子を窺うと、まさか――そこには誰も立っていなかった。
「……?」
否。皆地に倒れてしまっているのだと男が気づいたのは、遅くも分に及ぶまでの秒が経過し、目の前にいつの間にか立っている人影に声をかけられてからだった。
「大丈夫ですか?」
穏やかな声に顔を上げると、声に似合う穏やかな灰色の瞳と目がかち合った。
「夜分にごめんよ」
リーフェルトがマンションの一室をノックしたドアから、三十代の眼鏡をかけた細身の黒人男が現れる。
「貴方と同じです。明日はシフト入っていませんでしたよね? 多分一緒に働くことになるだろうから、説得お願いできますか? マーティンさん」
リーフェルトの小脇に抱えられている白人男の額には退魔の札が貼られ、身動きができないようだ。碧眼は人間不信に満ち、まるで捨てられて荒んだ野良猫のようだ。
マーティンと呼ばれた男は察した顔で白人男を一瞥してから、「わかりました」と応えた。リーフェルトは笑って、マーティンの部屋の中に白人男をそのまま転がす。
「リーフェルトさん。エクソシストの仕事にも熱心なのはいいんですが、家に帰らなくていいんですか? 明日飛行機ですよね?」
「ええ。早めに帰ります。明日から一週間、店の方お願いします」
「任せてください」
マーティンは自分が住み込みしている部屋のドアを閉めてから、さて、と床に転がりこちらを睨み上げている男を見下ろした。
彼は膝を折り曲げ、白人男に自己紹介すると、友好的に微笑みかける。
「初めまして。多分君と一緒に働くことになる、ジャパニーズレストラン『AKARU』の店員、マーティンです。よろしく」
自分と同じ境遇の若者に、マーティンは一方的に話し始めた。
翌朝――フィンランドの一般家庭の一つの住宅。夫婦の寝室で、アラームより一時間早く目が覚めたリーフェルトは、天井を見上げて瞬きをする。
「おはよう」
気だるい声が横から聞こえてそちらを見やれば、紫がかった髪を短く整えた妻が、ぼんやりとした目でリーフェルトを見ていた。
「眠れた?」
「……あんまり。明日だって思ってたら、緊張して」
妻の歩花は大きなあくびを一つ洩らした。
そういえば自分たちの結婚式の朝も、そんなことを言っていたっけ。とリーフェルトは小さく笑う。
そのとき何気なく一瞥したのは、夫婦の部屋の壁を飾る、羽織袴と赤い着物を着た、若かりし頃の自分たちの結婚式のときの写真。
「もう一眠り、しようかな……一時間あるし」
「……もっと頭がすっきりする方法があるよ、歩花」
「いやだ」
「まだなにも言ってないよ」
「君は一回じゃ終わらない。絶対に」
「じゃあ、我慢するから」
「信用してない。おやすみ」
自分に背中を向けてシーツのなかに潜り込んだ歩花に、子どものように期待した顔をしていたリーフェルトはあからさまにガッカリした顔になって、再び天井を仰いだ。
二日後――東京。
「新婦の登場です」
結婚式当日。結婚式参列のためドレスアップした、リーフェルトと歩花たち夫婦、そして新郎新婦を祝う他の参列者たちが、拍手でもう一人の主役を歓迎した。
割れるような拍手の中、リーフェルトと歩花に挟まれた幼い彼らの子どもが、自分の母親に耳打ちする。ブロンドに灰色の目をした、父親似の息子だ。
「ママ。しんぷってなに」
「お嫁さんのこと」
答える歩花の目に映るのは、父親に連れられ、華奢な身体にウェディングドレスを纏った黒髪の花嫁。奥に待つ新郎のもとへゆっくり歩いていく。
新郎に引き渡され、共に歩く二人の背中を見ながら、リーフェルトは二人を見守る妻の横顔にも目を向けた。
「ママ? 泣いてるのー?」
息子の声に、歩花は答えなかった。
リーフェルトの胸にも熱い想いがこみ上げてくる。前を見て、式の進行を見届けた。
「誓いのキスを――」
神父の前で愛を誓った二人を遮っていたウェディングベールは持ち上げられ、新郎と新婦が直に見つめ合う。
陽人と小夜が口付けを交わした瞬間――リーフェルトは、神聖な気持ちでそれを見守りながら、なんとなくだが、強く感じた。
止めどなく頬から流れ落ちる妻の涙。
嗚呼。長かった歩花の戦いが、これでようやく終わったのだと――。
晴れた青空の下、披露宴会場に赴く前に、新郎新婦と参列者が記念写真を撮る。撮影準備の間、リーフェルトたちは左一や茜、学生時代の顔馴染みたちや同業の退魔師たちと会話に花を咲かせる。
「歩花ー」
「真優」
「どう? 最近お店の方は」
「まあまあやってる。真優は……えーと。一妻多夫……だっけ」
真優の後ろにいるミリーとシュガーに目配せし言う歩花に、真優は「違う違う。こっちは愛人」とシュガーを指差した。
「後ろの二人にも他に愛人いるしね。シュガー君はまだ本妻なしだけど」
会話に興味なさそうにそっぽを向き始めたミリーとは反対に、シュガーが「そうそう」と真優と歩花の間に入る。
「だから、今日せっかく来日したことだし? 旦那さんに内緒で、ほら。歩花ちゃん、ワンナイトでちょっと火遊びくらい――」
「今日は素晴らしい天気ですねコフィ君。ちょっと陽射しも強いですし、夢魔も気を抜いたら塵になるかもしれませんね」
シュガーの肩を親しげに横から叩いたリーフェルト。しかし目は笑っていない。だがシュガーは気圧される様子もなく「夢魔流の挨拶だよ」と女性のように愛らしく笑った。
「ほら。僕たち寿命長いし。よかったら僕と真優ちゃんと君たちご夫婦でよん――」
「最近は朝まで眠れておりませんので、お構い無く」
シュガーの言葉は、彼の両のこめかみを掴んだ歩花の片手によって最後まで続くことはなかった。
ちなみに『朝まで眠れていない』とは、夜を誘われたときの夢魔流の断りかたらしい。
ミシミシと頭蓋が軋む音と痛みにもがくシュガー。を救ったのは、「よ」、とリーフェルトとシュガーの背後からかけられた男の声だった。
「ハロウィーンさん」
「おう。ラン君大きくなったな」
正装姿の、きちんとした男の姿と声で片手を挙げ男らしく挨拶してきた魔法使いに、リーフェルトたちの息子であるランはそそくさとハロウィーンに挨拶した歩花の後ろに隠れる。
「こら、ラン。挨拶しなさい」
「いい、いい。恥ずかしがってるだけだろ」
「すみません」
苦笑し息子の無礼を謝る歩花を笑って許していたハロウィーンだったが、前のめりに片足を前に踏み込み、突如「いっ、て!」と声を上げた。
「やーい! オカ魔女ー!!」
「なにやってんだお前!! 戻ってこい!! 謝れ!! すみません! 本当にスミマセン!!」
ハロウィーンの尻を蹴飛ばしたらしい小さな男子に、その父親らしい田井村が息子に怒鳴り、必死にハロウィーンに頭を何度も下げる。
痛がる顔で犯人を理解したハロウィーンは「よし、鍋で煮てやる!」と叫んで捕まえにかかるふりをしたのに、田井村の息子はギャーッと声を挙げて笑いながら逃げた。
微笑ましい光景に、ついリーフェルトたちが口もとに笑みを浮かべていると「っしゃあ!」と可愛らしい声が聞こえ、次いでランの悲鳴が上がった。
少し目を離した隙に、ドレスアップしたお姫様のような女子が、ランの背後からチョークスリーパーを仕掛けている。
「久しぶり! ラン! おっきくなったね!」
「あ゛ぁああぁ――」
悪意なき満面の笑みの少女の行いに、顔がどんどん青ざめていくラン。女子の父親であるガートルードと、リーフェルトが慌てて少女を止めに入った。
「撮影準備ができましたー」
カメラマンの声にみなが顔を上げ、参列者たちは同じ方向を一斉に向いた。
写真撮影が終わり、またあちこちで再開される雑談の花。
披露宴会場への移動を開始し始めた時。ハロウィーンはふと思い立った顔になり、隠すように、身体の後ろに自身の右腕を回した。
なにもない場所から、ロッドを取り出し右手で握る。
「そういや、日本は紅白がめでたいんだったか――」
ハロウィーンの手の中のロッドが、光った。
列の先頭にいる四引汲や狭山、早海ら参列者が話ながら式場の人間の後をついて移動を始めだし、室内に続く扉をくぐろうとした時――後ろに続く者たちが騒ぎだしたのに気づいて、何事かと振り返る。
そしてなにかが空から降っているのに気付いて、目を丸くした。
頭上から降ってきたのは、花びらだった。
桜の花びら程度の大きさの、一枚一枚に瑞々しい美しさが宿った赤と白の花びらが、快晴の空から雪のように参列者たちの頭上に舞い降りる。
四引汲らはまた室外に出て、その見事な光景に見とれた。
「綺麗」
「ああ」
美央の口からこぼれ落ちた感激に、言葉短く相槌を打つ里央。彼らの傍らには父、カレヴァと、大人になったヴェルナーやみやびたちの姿もある。
ロッド仕舞ったハロウィーンは、上を見ている『子供たち』の笑顔を一人ずつ時間をかけて眺める。
歩花。陽人。リーフェルト。小夜。そして、彼らが愛し合い生まれてきた子供達――
『私のロッドを、あの子に……私の意志と共に……』
歩花がランを見下ろし、親子で笑い合う姿に、ふと孤児院にいた自分に優しく接し、魔法を教え導いてくれた魔女、アラーナを思い出してハロウィーンは浸る。
「子供達に、愛と平和の祝福がありますように――」
きっと師がこの場にいたなら言っていたであろう言葉を、ハロルドは誰にも聞こえぬ声で一人呟いた。
「……いいのかな。一晩預けてしまって」
「お義父さんとお義母さんのところなら大丈夫だと思うよ」
その夜――結婚式で疲れきったランが二階堂家で早く寝てしまった後、茜と左一のすすめで、一泊遊んでくればいいと言われたリーフェルトと歩花は夜の街を歩いていた。
「どこ行きたい?」
「……まあ。一晩といえば、行く場所は……」
「しばらく子供に気を遣って、なかなか……だしね」
リーフェルトは隣の歩花の腰を片手で引き寄せ、彼女の頬にキスを落とす。歩花はいきなりの密着に「こら」と少し怒った顔をして
「公衆でそんなことをしない! みっともない」
「大丈夫。外国人だし許してもらえるよ」
「私は半分日本人だ」
そう言って渋い顔をしていた歩花だったが、ホテルを前にした途端に彼女の表情は一変する。
瞳が少女のようにキラキラと輝きだしたのを見て、やっぱり夢魔だな――とリーフェルトは笑いを噛み殺した。
初めて彼女とこういった場所に入ったときと同じ、ドキドキとした期待に胸を躍らせながら、リーフェルトは歩花と手を繋ぎ足を踏み入れる。
まだまだ、お互いに退屈することはなさそうだ。
これからの長い寿命。この幸せと欲の形が変わらないことを願いながら。
まだ若い二人の夫婦は、白い波間に互いにの愛を刻み合う――