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最終章第33話 人魚が笑っていた理由

 一年前――春。歩花と陰で親しくしているというインキュバスが二階堂家に訪ねてきたあの日、真実を聞いた。

 定紀とレインの真実を訃報をニュースで聞いたときは、確かにいくつか疑問点があった。が、乗っていた車がガードレールを突き破り、転落死するなど――人の死などそんなものかと、左一は妻の茜と共に無理矢理自分を納得させ飲み込んだのだ。


 生き残った歩花は、とうの昔に真実を知っていた。その上で、そのインキュバスを許していた。父親がしたことだ、息子の彼には何の罪もないからと。



 二人の死の真実に気付けなかったことも。歩花が今までどんな気持ちで生きてきたのか気づけなかった自分も。不甲斐ない自分への苛立ちを若いインキュバスを殴り付けて晴らしても、自分の未熟さが更に自分の胸を後に深く抉るのみ。虚しさだけが残った。




『本気でバレたくなければ男の姿のままでいろと何度も俺は言ってきたが、歩花は大和撫子らしくと願う狐の母親に気遣っていた。ではバレたらどうするとかと聞いたら、その時はその時だと。

 おそらく歩花は、舌でも噛んで自害すればそれでいいと本気で考えていたのだろうよ。夫への愛を貫き死んだサキュバスの母親のように。純潔を守り通し死ぬことが、何より美しいと――』




 棺の中で眠る歩花を傍らに、インキュバスは、男だったらよかったのにと願った養父と、日本女性らしく清らかにと願った養母、歩花は二人の願いを無理矢理同時に叶えようとした結果、自分の人生のあり方を歪めてしまったと話す。すべては、養父母への深い愛情故に。




「――帰ってくれないか、左一」




 退魔道具も使えず、痛めつけられるだけで血を流し、ボロボロの状態で両膝に両手をついて激しく息を切らしている左一に、定紀の姿をした幻が初めて喋った。

 よく歩花が実父の声を知っていたものだと驚いたが、そういえば定紀とレインの結婚式を記録したDVDがあったのを左一は思い出す。形見分けの際歩花のためにと取り寄せたそれを、幼い歩花が時々引っ張り出して再生していた。





「歩花は頑張ったんだ。最期は、家族だけで静かに過ごしたい」





 大きく上下していた左一の肩が止まる。そんな彼に、幻覚は更に続けた。




「もういいんだ。歩花のために、これ以上短い人生を無駄にすることはない。歩花を思うなら、本当の家族のもとに行ける歩花を笑って送ってやってくれないか」




 逞しい無駄のない筋肉のついた両肩の間で、左一は両膝を支えにした姿勢のまま、瞳は地面に向けたまま、過去の記憶を暫し見つめていた。




『娘さんだけ無傷とは……奇跡としか思えません』




 事故の後、病院に運ばれた赤子を抱きしめ泣いている茜と、それを見つめている自分に話す医者の声。

 左一は瞳だけを持ち上げ、幻を鋭い眼光で睨み





「ナメてんのかテメエ」





 静かな怒気を含ませ、「ふざけるなよ」と吐き捨てた。





「自分の娘の死を願う父親がどこにいる」








 小夜の腕の中にある聖書が輝き、身体中の骨を砕かれた小夜の身体が癒されていく。

 聖書が発する聖属の恩恵は、小夜とはまったく別の場所で戦っていた左一の両手にも届き、彼が愛用しているガントレットグローブとなった。


 しかしここで自分と小夜が戦い勝利したとしても、歩花は目覚めないだろうと左一は理解していた。自分たちは人間だ。人外の歩花に比べれば寿命は遥かに短く、彼女の孤独に寄り添うことはできない。

 人間だった定紀は、レインと子を成すことで自分の死後も妻の孤独を癒すと約束し結ばれたが、既に妻を持つ左一は、歩花を一人の女として愛すことはできない。


 自分たちの戦いが終われば、唯一歩花と共に未来を生きることができるリーフェルトに賭けるしかない。




 左一と小夜は、歩花の過去を癒すために。

 リーフェルトは、歩花に未来を見せるために。





(結婚式の段取りなんざ面倒くせぇもんだと思ったが……今思えば馬鹿にはできねえな)





 父親が娘を、新郎に託すように。

 今自分がやっていることはきっと、そういうことなのだろう。










 先の見えない、幻覚の暗い深海をリーフェルトは泳ぎ続ける。呼吸が可能とはいえ、随分と長く泳いでいるのにまったく疲れないのは不思議な感覚だ。とはいえ、光がまったく届かず闇だけの景色に、進んでいるのかいないのかがわからない。

 少しでも気を抜けば気が触れそうになるのを堪えて歩花の姿を探し続ける。



<おい。ずっとこの調子じゃ持たねえぞ>



 ガートルードに急かされて少しリーフェルトは考えた後、息を吸って歩花の名を叫ぶ。




「話がしたいんだ! 少しだけでいい……出てきてくれないか?」




 しかし、歩花は現れない。

 リーフェルトはもう一度叫んだがなにも起こらない。これまで泳ぎ探し回ってもなにも起こらなかったことを考えて、もうできることはこれだけだと、望みをかけて何度も彼女を呼び続けた。

 そうしていると、突如今まで取り込めていた酸素が海水へとすり代わり、液体が肺の中へ勢いよく流れ込んできて息が出来なくなる。このまま死ぬのかと思ったとき、痛いほどの酸素が胸を一気に満たす感覚にリーフェルトは両目を開いた。


 呼吸が再び可能となったことで冷静さを取り戻し、景色が変わっていることに彼が気付いたのは、数秒遅れてからだった。薄暗い水の中にいることは変わらなかったが、同時に建物の中でもあった。

 前に大きな十字架が飾られ、縦に細長いステンドグラスが水中で揺らめいている。どうやら教会の中のようだ。


 十字架の下、地上ではないのに、足元のヴァージンロードの中心に彼女は確かに立っていた。頭を飾る白いヴェールを優雅になびかせて、たっぷりと床に引きずる純白のウェディングドレスを身に包んでいる。身体のラインを太腿まで強調するマーメイドドレスが、グラマラスな歩花の体型を際立たせていた。

 歩花はリーフェルトを振り返る。肩出しのドレスはシンプルでありながら美しいが、十七歳の少女が着るにはやや大人すぎるデザインだ。それだけに少し不似合いではあるが、ルージュを整った唇に乗せた歩花は美しかった。



「リーフェルト」

「歩花――」

「私、素直に生きたよ。だからもう、大丈夫」




 口を割った歩花の声は死ぬ間際とは思えないほどに、清らかで穏やかだ。




「リーフェルトも。隣にいるのが私じゃなくても、生きていける」

「そんなことないよ」




 リーフェルトは、はっきりと否定した。歩花の愛情の中身を知った今なら、何故自分が彼女が隣にいることで変われたのか理解できる。

 彼女は自分の悩みに寄り添って、自分がどうすれば自身を好きになれるのか一緒に考えてくれていたのに。



 

「僕は、君をずっと見ていなかった。抱えている悩みが似ているから一緒に変わっていこうって、僕にそんな寄り添い方をしてくれた人は君だけだった」

「うん……」

「……だから、歩花も――」

「私。サキュバスらしい女の子じゃなかったでしょう?」




 『一緒に変わろう。僕も傍で支えるから』と言おうとしたリーフェルトを、穏やかに微笑み遮る歩花。




「私、人のために頑張ったよね?」

「……え」

「自分の欲より誰かのために生きて、誰かのために死ぬ。

 夢魔の血が入っていても、立派だったでしょう? 人間にはなれなくても、誰かのために生きてきた」

 



 嬉々と彼女は、眼鏡をかけていない透き通った瞳を持ち上げ、距離の空いた位置にいるリーフェルトをまっすぐ見つめる。




「私ね。人間になりたかった。だけどなれないから。せめて人魚姫のように笑って死ぬの」

「人魚姫……?」

「私、思うの。化け物は、誰かのために死ねないんだって。でも、人魚姫は泡になっても幸せそうに笑ってた。

 初めてお義母かあさんに読んでもらったときは不思議だったけど、それはきっと、自分のことしか考えられなかった化け物が、王子様を殺せず自分が消えることを選ぶことができたから。人間の気持ちに近づけたから、人魚姫は嬉しかったんだって。

 ずっとずっと、憧れてたの。やっと叶う。ずっと願っていた夢が。あの子に、私はなりたかったの!」




 目を爛々とさせ熱を込めている様はまるで別人のようで、普段の歩花らしくない。今の彼女の目は、見覚えがあった。過去にリリアーヌが、自分が属する反王族組織のことを語っていたときに似ている。

 目つきがおかしい。どこかいってしまっていた。リーフェルトは嘘だと声を上げた。




「歩花。君は夢魔だ。君が願っていたのは、そういうことじゃないだろう?」

「そういうことだよ。だって、普通の女の子が望んだら許されることが私には許されない。父親に抱っこもしてもらえない。恋人からフレンチキスもしてもらえない。夢魔だから、いやらしい、汚らわしいって拒まれるから。

 だからせめて人間に近い、誰かのために生きた崇高な夢魔として、綺麗な身体のまま死ぬの。そのために私は生まれてきたんだって、今ならわかるから。私は、もう満足。私の寿命はここまで」




 歩花の純白に覆われた足元が無数の泡に包まれ、たちまち彼女の身体を昇りまとわりつく。




「君は生きてね。君は、沢山の人に愛されているんだから――」

「違う! 歩花――」




 リーフェルトは手足を必死に動かし、泡に隠れた歩花の身体に触れようとしたが、跡形もなく消えてしまった。



 自分は、羨まれるほど愛されてなどいない。歩花も愛されていないわけではない。

 その叫びも届かず、伸ばした指先は水中を掻いた。










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