最終章第3話 暴かれた欲
初期設定から変えられていないシンプルなライン画面に、吹き出しに似た表示が次々と連なる。
『で。どうだった?』
『なにが』
『フレンチ。してもらえた?』
『……まあ』
『まあってナニよ』
『フレンチだけね。真優の喜ぶ内容じゃないけど』
『え、でもやったじゃん!』
『やったって』
『やっといて良かったでしょ?そりゃ。ずーっともやもやしてるよりいいよ』
『まあね』
(そっかあー、やったんだぁ……歩花、あの二人……協力して良かった!)
(濁したり拒否されたとか正直に言おうものならリーフェルトが悪いように取られるかもしれないし、愚痴り場になりそうだからしたことにしとこう……)
各々の自室でスマホを片手にガッツポーズを取る真優と、暗い瞳で長いため息を口から漏らす歩花。
所詮は文だけのやり取り。互いの温度差など、歩花の顔を見られない真優には察することなど不可能であった。
「はああ? バッカお前、何そんなんで引き下がってんだよ」
二年A組教室。登校しHRが始まるまでの間、昨日放課後で『義務感からのキスはいらない』と言われたとの報告を聞かされたガートルードは、リーフェルトを彼の前の席に腰かけなじる。
「そういうときは強引に後頭部引っ付かんででも奪っちまうのが正解なんだよ! ボケ!」
「男の姿でも?」
「あのな。お前は本当に俺達をわかってねえ。俺達を突き動かすのは欲なんだよ、ヨ・ク!! ロマンチックなシチュエーションとかそういうのは二の次! 流れとか金とか雰囲気とかっていう王族思考捨てろ」
次いで「二階堂も二階堂だな」と頭を抱える。
「あいつそんな卑屈な女だったか? 馬鹿女が。大和撫子でも気取ってんのかあ?」
「うー……ん」
「なんだよ、『うーん』ってのは」
「僕が本当にしたいってときにしかしたくないってことなら、君に言われて無理矢理やっても逆効果なんじゃないかな」
「はああ? お前、あいつのこと好みだから結婚とか言ってたんだろうが。そういう、ムラムラした気持ちだとかにはなんねーのかよ」
「……そりゃ……」
「だったらそういうのをいつもより前に出しゃいいんだよ。引っ込みすぎだ。旅行中のゲームの時みたいにシラケさせるよーなことすんな」
「あれも、なんていうかさ。誰かにしろって言われてするものじゃないだろ……?」
「はーっ……」
呆れ返ったように大きな溜め息を長く吐き出し、ガートルードは席を立った。
一体自分のなにが悪いのか、何故匙を投げられたのか理解できないリーフェルトは怪訝な顔をして、自分の席に戻った夢魔の友人を見送ることしかできずにいた。
夜。最寄の駅近くでリーフェルトと見たDVDを返却した足で歩花は辰弥の姿でCDショップに寄る。
今日は好きな歌手の新譜の発売日だった。同年齢が集まるJPOPコーナーを通りすぎ、演歌のコーナーへ一直線に彼女は向かう。
目当てのものを見つけてそれを手にした瞬間、
「やっぱり」
割りと近い距離からそんな声が耳に入り何気なく振り返れば、暫く、ある意味一番会いたくない人間がそこにいた。
心の中で「ああ……」と絶望しても、それを顔に一切出すことなく、女子高制服姿の真優の名を口にする。
「私たちの年代でこんなところにいるの、辰弥くらいだもんね」
「……まあ、そうだな。君は何を――」
と言いかけたところで、私服姿の褐色の男子がこちらに歩いてくるのに気付く。
「なんだ、デートか」と言うと真優はあっさり否定し、
「まず付き合ってないし。……おすすめの音楽を教えてくれって言われたから」
「成る程……あわれだな」
「え?」
「なんでもない」
『付き合ってないし』と真優が発したところでジロリと彼女を後ろから見下ろしたミリーへの歩花の感想は、ぼそりと真優の耳に届くことなくただの独り言として終わった。
ミリー・バークスがいるなら良かった。そう思って歩花は軽く手を挙げ、「じゃあ」と言い残し真優たちの前からそそくさと逃げるように去ろうとする。
「えっ、なに? 折角会ったのに冷たい」
「折角の二人っきりを邪魔するわけにはいかない。どうぞ、若い者たちだけでごゆっくり――」
「いくつよアンタ、老婆心!? じゃなくって、報告することあるでしょう? 私に」
「……いや、僕は君になにも頼まれていない」
「やったんでしょ? ほら。詳しく教えなさいよ♪」
ニヤニヤしながら人の腕をパンパン叩いてくる真優こそ、老婆心とか人のことを言う割りになんというか噂好きの主婦を連想させる。
こういう流れになるのが嫌だったのだ。と、歩花はげんなりした。
「女のときにな」
「じゃあジャージ貸したげるから! ね! そこのトイレで着替えてガールズトーク」
「断る」
「なによ。本当に堅いんだから。ほら、今ならミリー君もいるし、アドバイスとかもらったりしたら?」
「いらん」
「……ヤった? そいつがか??」
首を捻り、何故か会話に参加してくるミリー。
関係ない第三者が一人増えたことに、いい加減踵を返してすぐさま逃げ出そうかとさえ歩花は考える。
「フレンチキスのほうね。けど、大した進歩じゃない? この消極的な歩花には」
「……」
「……」
楽しそうな真優の話を余所に、ミリーは眉をひそめ、何かを見透かそうとするような目で歩花を見つめてくる。
「何だ」と不躾な彼を咎めたが、彼は歩花に応えることなく彼女から目を外したかと思えば、真優と目を合わせ
「――」
なんの問いも合図もなく。
ミリーは自然に、流れるように、真優の唇に自信の唇を重ねた。
一体何が起こったのか、それを見ている歩花とキスされた真優は目を見開きその場で硬直する。
ただミリーだけが、瞳を伏せて味わうように、自身の唇を真優のものに何度も這わせ直し貪り尽くす。
逃げようと彼の身体を押そうとした真優の後頭部を大きな男子の一方の手で捕らえて、ストレートの黒髪を乱しながらミリーはもう一方の手で彼女の腰に手を添えた。
柔らかい、ゆっくりとした動きに合わせて歩花の鼓膜に時に触れる、唇と唇の間から漏れる淫靡な水音。
強気な抵抗の意志があった真優の瞳がみるみる潤み、白い頬が紅潮していく様を見て、歩花は嫌でも察した。
(ああ。気持ち良いんだ――)
と。
ようやくミリーに解放され、腰を砕かれた真優がそのまま崩れ落ちそうになる。それをしっかりと抱き留めたミリーは歩花の方を見て、思いきり噴き出した。
「ひっでーツラ」
そしてミリーは声を挙げて大笑いし、
「本当はなにもして貰えなかったんだろ! じゃなきゃそんなツラできねーよ!!」
目尻に浮かんだ涙を拭って、歩花を笑った。
二階堂家。
深夜――母が寝静まった頃、歩花は真っ暗な自室にて本来の少女の姿で布団に潜り、瞳を開けたまま自分の爪に歯を立てる。
あれから自分がどんな顔で、家にどうやって帰ったかは覚えていない。
そんなのは、どうだっていい。
ただひたすら喉が乾くような、腹が空くような飢餓感のようなものが胸を満たし、そしてただ、ひたすら口が寂しかった。
――眠れない。
爪をかじりながら、歩花が青く灯った瞳で見つめていたのは、目の前にある暗闇ではない。
恋人と他の女との、かつての深いキスシーンと、先程見た友人と夢魔の男子とのキスシーンが、歩花の脳内で何度も繰り返し再生される。
その光景を眺める彼女の爪と指の間から、赤い血がベッドに滴り落ちた。