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最終章第29話 空白の意味

 歩花の意識に入って間もなく、リーフェルトは夢を見た。



 歩花の部屋の中にある机の中の引き出しを開け、小さな紙を手に取る、夢の中の自分――リリアーヌたちヴァンパイアたちと対決した後に魔女の女王から貰った用紙だ。


 そこに自分は、ペンの先をすらすらと走らせる。その内容は、『二階堂茜が完全な妖怪になりますように』と書かれていた。



 頭の中に最後に浮かんだのは、歩花の養父母である左一と茜が、茜を抱いた赤子を囲み幸せそうに微笑む、美しい一枚絵のような光景。


 夢から覚めると、薄暗い水の中に一人、リーフェルトは漂っていた。




(……死んでいく自分の代わりに、僕にそれを叶えろっていうのか……?)




 妖力の高い狐の一族に生まれながら身体が弱かった茜は、修行し妖怪になることでしか命を引き延ばせなかった。だが人間の左一に恋をした彼女は、彼に身を寄せるため百年以上かかる修行を途中で放棄したことで妖怪になりきらないまま山を降りてしまった。


 食事も人間と同じものをあまり口にできず、いつも一人だけ味付けされていない焼いた肉とサラダを食べていたし、長い間人間に変化し続けることも身体の負担となる。人間と交わり子供を作ることも無論不可能なことだと歩花から聞いた。




(新しく子供を設けて、自分を忘れて生きろって、そういうことを言うのか……)




 棺に横たわる歩花に顔を埋めて泣いていた茜のことなど知らないで。


 リーフェルトは水の中で呼吸が可能だということを知るなり、彼女の姿を探すために泳ぐ。




 伝えなければ。茜の涙も。皆が心配していることも。そして、自分のこれからしたいことも、すべて。










 一足遅れて入ってきた左一も、リーフェルトが見たものと同じ夢を見せられた。その後にテレビの番組を切り替えるように一変した景色には、小夜の父親と話している昔の自分の後ろ姿があった。


 おそらく左一たちが立っているのは、家の外だろう。玄関の扉を少し開けた隙間から、自分たちを意識の主が低い視点から覗いていた。





『女ってのはなあ……あいつが男だったらだいぶマシだったんだが……』





 扉から覗いている人物に気付かず、ぼやいたのは若い頃の左一の背中。隣に立っている小夜の父親がふと振り返り、意識の主と目が合う。そのまま玄関が閉められ視界が真っ暗になる。そして左一は夢から覚めた。




『左一さん……貴方が幼い頃からされてきた扱いを、歩花にしていることに気が付かないんですか……!?』




 歩花の棺が今ある和室で、テーブルを挟みながら離婚を言い渡してきた妻の泣き顔を思い出し、上を仰ぐ。

 嗚呼――どこを見てもどこまでも真っ白で、何もない空間だ。



 あの日から自分の在り方を恥じて、変わろうと思った。

 娘を思いやるありふれた父親を、小夜の父親や他の父親を見て、自分もそうなろうと自分なりに努めたつもりだ。


 だがそうしようと自分が考えたときには既に、歩花は親に甘えたい時期を過ぎていた。

 期待するより諦めたほうが楽だということを悟り、今も昔と変わらず親子というよりは師と弟子と呼んだほうがしっくりくる関係だ。



 当然だろうと思う。自分が歩花だったら、親子ごっこがしたいなど、一体何を今更と鼻で笑うだろう。


 父親の温もりを求めて、子供心に夢魔の誘惑を使ってでもだっこを要求した歩花の気持ちも考えず、殴り飛ばしたのは自分なのに。

 夢魔なんて皆が皆、同じなわけではない。歩花の母親、レインもそうだった。女の魔を惹きつける自分の特異体質に、唯一彼女だけは惑わされず母親か姉のような顔をして節介を焼いていたことをよく知っていたのに。


 幼い歩花を偏見で汚れきった目で見ていた今までの自分は、父親などではなかった。



 だが、探さなくては。父親として。いつまでも甘えてはいられない。甘えた結果、その代償を失ってから気付き後悔しているのは自分がガキのままだったからだ。

 ここに茜も来たがったが、妻はよくやってくれた。自分の意を汲んで歩花との仲を取り持とうと尽くしてくれた。今度は自分だけの足で娘のもとへ行き、自分だけの言葉で娘と話さなけば。












 一方――眼鏡の少年の姿をした幼馴染と対峙している小夜。『辰弥』は、男の制服姿でポケットに両手を突っ込んだ姿勢で小夜に問う。

 どこまでも真っ白で、なにもない空間。壁などないのに、少年の声は静かでも小夜の耳に届いた。



「何故わかった」

「……イッチから聞いたことがあったから。……イッチがバークス君から聞いた話、夢魔が他人に見せる幻は、実際に夢魔が経験したことじゃないと難しいって」



 学校帰りにたまたま駅で会い、喫茶店でお茶をしたとき、本当にこの話を聞けたのはたまたまだったが。


 

「実際に体験したことのないことや見たことのないものを幻覚として見せるのは、想像力が相当豊かじゃないと駄目だって。

 ……歩花は、ガーシェル君としか付き合ったことないでしょう? 星野尾先輩から、ガーシェル君がいつも使ってる整髪料の匂いなんてするはずない」

「そうか。それは迂闊だった」



 さらりとしたその口調は優しいが、侮りのようなものもどこか含まれていて、小夜の胸にどこかひっかかる。

 思い返せば、辰弥と話す度いつもそうだった。別に、辰弥より優位に立ちたいわけではなかったが、苛立ちのような、寂しさのような、そんな気持ちがいつも沸き上がる。

 小夜は今も抱いているその気持ちの種が何かを探るが、その正体はまだ不明瞭なのは、やはり、自分が忘れてしまっているからなのだろう。



「小さかった頃の、私の記憶は?

 『私が』忘れたの? それとも、『歩花が』忘れさせたの?」

「……」

「何があったの? 歩花が辰弥になったのは、私が関係しているの?」



 歩花の部屋にあった、途中のページまで抜かれたアルバムの写真。きっと抜かれていたのは、おそらく幼い頃少女として生きていた歩花の姿だ。

 忘れたいなにか。出来事があったのだろう。それを機に、過去のすべてを切り取るかのように。



「……?」



 刹那、景色が変わった。意識の中に入ってきたのは、夜の空と細い三日月。

 腕に鈍い激痛が脳を直撃すると共に元の景色に戻る、


 今まで感じたことのない刺激に脂汗が身体中から吹き出し、目を落とせば腕がありえない方向に曲がっている。それを見た小夜の喉から、ひっ、というひきつった声が漏れた。



「無理はしないほうがいい」



 辰弥の声は優しい。

 普段自分を子供扱いし侮る態度を見せても、本当に困っているときや辛いときは心から心配し、気遣ってくれる。


 嗚呼、そうだ。そんな幼馴染が、恋愛感情とは別だが自分は大好きだった。

 細やかな気遣いができる、兄のような彼が自慢だった。その分だけ、辰弥に恋人ができないのがいつも不思議だった。



「無駄に傷つく必要はない。たとえ逃げたって、恥じゃない。

 誰も君を笑ったりなんかしないよ」



 そう。いつも彼はそう言う。人には向いてること、向いていないことがある、と。

 大丈夫、無理に誰かに合わせて自分の気持ちを殺すことはないと、好きになる男子を間違えるたびに諭してくれた。別れを自分から切り出して、そんなことで別れるのか、ワガママだと非難されて別れに応じてくれなかった元恋人に悩んでいた自分を励ましてくれた、



「怖いなら、逃げてもいい」



 その言葉に、甘えそうになる。


 怖いから。恐ろしいから。痛みが、壊れた自分の腕が、自分の命を脅かす恐怖が、おぞましい。



 複雑に絡む負の感情の中、それでも小夜の脚を留まらせたのは――小夜が歩花の過去に触れようとした問いの後に見えたもの。




 嗚呼……そうだ。小夜は気付く。





「……ねえ。歩花。

 どうして歩花の部屋のアルバムの写真、抜いた状態でそのままにしてあるの?」





 本気で忘れたいなら、新しいアルバムでも買って辰弥として生き始めた当初からの写真でまた一ページ目から埋め尽くせばいい。

 なのに忘れたい写真の空白を残してあるのは、何故だろう。


 そして一瞬の夜空と三日月の意識……ふと見えたあれは、歩花の過去の一部だろうか。だとしたら、なにかを思い出しかけて、それが小夜の意識に干渉してきたのだろうか。


 もし、そうなのだとしたら――





「『無理に誰かに合わせて、自分の気持ちを殺してる』って。

 それは、本当に私のこと?」





 きっと歩花は、あのアルバムの空白にまだ囚われている。ふと、そんな気がしたから。




「……逃げないよ」




『この件が終わった後も、借りを作ったまんまでまた引きこもるっていうなら、大したクソガキよ! アンタ!!

 ちょっとは借りを作ったら返してやるっていう、プライドを持った感謝をしてみなさいよ!!』




 自分よりも年下の退魔師に頬を本気で張られたときの痛みと、その重みを、今の痛みと共に奥歯で噛み締める。





「もう、逃げない。私にだって、プライドくらいあるから」





 子供の時間は、もう終わり。


 言葉だけの感謝のみで、歩花の最期を見送ることなどできない。

 勝手なワガママだということは、わかっていてもだ。





「歩花。……貴方を、絶対に連れて帰る」





 聖書が輝き、光に包まれた小夜の腕が癒えた。











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