最終章第21話 彼女が自分を愛した理由
『君は弟のどこが好きになった?』
『勇気があって、優しいところです』
弟の恋人と二人で言葉を交わしたあの日――まっすぐにそう言った彼女を見下ろす瞳の感情の色を少しも変えることなく、アゼリアは『そうか』と相槌を打つ。自身が次期ヴァンパイア王となることをさりげなく会話に匂わせても、目の前の少女、二階堂歩花の態度には微塵の変化もない。財欲や名誉に目が眩むような女なら、アゼリアと出会った瞬間から媚びる態度を取るなり声のトーンが高くなるなり、どこか変化がみられるものだが。
しかし、何故多くいる男の中から自分の弟を選んだのか。きちんとした理由があるよりも、ただ王子という肩書きに惹かれただけという可能性の高さに、アゼリアは弟のために一度は確認する必要があった。涼しげな面をしたヴァンパイアの貴族の女たちでさえそうなのだから。
『……しかし、守る者のために戦ってきた君のこと。今まで多くの猛者と出会ってきたはずだ。兄の私が言うのも何だが、弟はまだ未熟で弱い。君にとって頼りなく映ることだろう。何故、弟を選んだのかな?』
『好きになるのに、理由はありますか?』
『まあ。そういう好意もあるだろうな』
『そうですね。彼はまっすぐで純粋だから、そういうところに惹かれたのかもしれません』
『君が嘘をついているとまでは言わない。が――君が弟を好きになった理由とは、そうまでして隠す必要のあることなのかな?』
『……』
『勿論、理由によっては別れさせもする。あれは私の大事な弟だ。だが、弟の選んだ女性なら、なるべく尊重はしたい』
『……思っていましたが、随分と甘いのですね』
『うん?』
『兄姉である貴方がた。そして、王である貴方がたの父親も。……何故、相手が夢魔の女という時点で別れろとお命じにならないのか、私は不思議です』
『……』
自嘲もなく、皮肉めいた調子もなく、夢魔の女というだけで卑下されて当然だという事実を、『ただ真実を述べている』といった様子で静かに少女はこちらを見据えている。その瞳を見つめ返しながら、アゼリアは自分より先に彼女と出会った自身の父母の話を思い出していた。
『父上。どうでしたか? リーフェルトの意中の少女は――』
リーフェルトが彼の恋人を連れて帰省し、既に人間界へ発った後のことだった。
次期王になる勉強のため伯父が治める南地域の視察からようやく戻り、たまたま父と城を歩いている時に周囲に誰もいない隙を見、興味のままに尋ねたあの日。父であるダリア王は『ううむ』と、どこかはっきりしない反応を見せていた。
『……? 印象はあまり……ということですか』
『いや。思っていたより悪い娘ではない。私の目から見ても、同じ女である妻の目から見てもな。ただ』
『ただ?』
『なんというかな。あの歳ではなかなか珍しい。……特に、目があまりにも』
『目……ですか?』
『静かすぎるというかな? リーフェルトと話しているときは年相応だが、彼女の仕事であるエクソシストの話をしているときになると、あの目がとても“静かに”なるのだ』
ダリアは少し唸ってから『あの娘は危うい』と続ける。
『死神に手招きされれば、すぐにその手を当然のように取ってしまうような危うさがある』
『……それは。彼女は、友人のために常に戦いに身を置いていると聞いていますし』
『そういった理由だけならいいのだがな。ある意味では、同じように守られ平穏に暮らしている貴族の娘たちと結ばれた方が、気の弱いリーフェルトにとって幸せかもしれぬ』
十二月初旬。
カーテンの閉め切られた安い木造アパートの一室、普段ほとんどは市販の水を保存する程度にしか役立っていない小型冷蔵庫に貼られた紙に、無感情な顔で歩花は目を落としている。
『家の用事で数日留守にするから、おかずは中に入れておく。すぐに戻るから』
見慣れた文字で綴られた、名前のない貼り紙。夕方まで眠っていた彼女はやや青白い唇から息を洩らした。
「どうせ――」
呟かれた小さな声は紡がれず、静寂に溶けて消える。その時歩花はふと外の微かな違和感を読み取り、冷蔵庫からアパートのドアへ目を移す。
少年の姿になってドアを開きすぐに目に留まったのは、安アパートの前に停車している場違いなほど真っ赤な高級車だった。
(……随分と遅い迎えだったな)
まああれだけ住む家が破壊されれば、どちらかといえば早い方なのかもしれないが。
抗わない。だが、屈服するつもりもない。一度家に引っ込んだが、顔を凛と上げて歩花は透き通った瞳で唇を引き締めた。
自分が守れる者には、限界がある。だが、できる限りすべてを最低限守れるくらいの狡さは備えている。
小夜のように純粋で、嘘を知らぬ、素直な女性には結局なれなかった。だから自分は、誰にも愛されなかった。だけど、きっとこれでいい。
幼い頃なりたかった夢をようやく思い出せた今なら、自分はすべてを受け入れられるだろう。
実家である城内を歩きながら、余計なことをと、褐色の肌をした姪を恨む。
幼馴染の姉のパーティーになど出る気はなかったのに、勝手にOKを出されていたこと――しかも城兵づてにそれを知らされたことなどからも――リーフェルトは普段の彼らしくもなく、城を歩いている時でさえ周囲の目を気にする余裕なく怒りをその顔に露にしていた。
婚約自体は本人の意思に任せされているので強制されていないといっても、長年メイトランド家と親しくやってきた親の顔を考えれば、容易に参加を不参加に覆すことなどできない。だからやむを得ず、歩花を置いて帰省するしかなかった。
パーティーに参加するだけして、早々に帰ってしまおうと決めていたリーフェルトの耳に、涼やかな声が飛び込んでくる。
聞き慣れた声に足を止めて振り返れば、姉である王女、パルディローズが美しいその顔を除き、城兵の鎧姿で凛と立っている。
「おかえりなさい」
「……」
「挨拶くらいなさい。マナーは?」
「戦いの訓練は、今回はなしです」
反抗的な弟に、しかしパルは「当然でしょう」とあっさり肩を竦めた。
「守るもののない貴方に教えることなどなにもないわン。疲れてイライラしているようだけど、お母様とお父様、アゼリアお兄様に挨拶くらいしなさい。勿論、今のような無礼な態度は慎むように」
「……わかっています」
長兄は実家にいるらしい。自分とよく似た顔をした兄の居場所を確認してから、執務室に向かう。
ノックを何度かすると、ドアの向こうから声が帰ってくる。許可を得て部屋に入ると、長兄のアゼリアは三男のストックと共に机の上の書類を挟んで椅子に腰かけていた。
「ああ、お帰りリーフェルト」
「ただいま帰りました。アゼリア兄さん。ストック兄さん」
「丁度きりがいい。ストック。休憩にしよう」
「はい」
手に持っていた書類を机の上に置いて、ストックはリーフェルトの横をすれ違うように執務室を出ていく。
アゼリアは一度立ち上がり乱れていた書類の束を整え、執務室の椅子の中に仕舞い込むと、自分の側近に部屋から出るように命じる。二人きりになり、「かけて良いぞ」という声に言われるまま椅子に座ると、兄もリーフェルトに対するように座り直す。
「調子はどうだ? 弟よ」
「いつも通りです」
「そうか。それは何よりだ」
帰省する度にいつも交わす挨拶の会話。それが終われば、すぐに雑談に切り替わり談笑の華を咲かせるのに、それきり会話が途絶えてしまう。
「どうした? お前にしては珍しく、ひねた面をしている」
「……そんなことは」
顔に出さないようにはしていたのだが、見透かされ否定したが、「良い」とアゼリアは口許に笑みを称える。
「お前の年頃はいろいろあるしな。俺もそうだった」
「……」
「カーヤ嬢がお前に会いたがっているそうだ。気の知れた女性と話せば楽になる。彼女はとても気立てがいい。お前の良い相談相手になるだろう。彼女になら安心してお前を任せられる」
まるで婚約者はカーヤだと既に決定しているような言い様に、口を閉ざすリーフェルト。
サルビアからとうに聞いているのだろう。自分と歩花が別れたことを。
「……すみません」
「ん?」
「パーティーが終わったら、すぐに人間界に行きます」
「何故だ? ゆっくりしていけばいい。もうそのまま冬休み中家にいてもいいくらいだ」
「……」
自分の胸のうちをどう口で切り出すべきか、わからなかった。リーフェルトは俯いたまま、両膝の上に置かれた両手を握り締める。
「……ぼ、くは」
「お前は、お前に似合う女と幸せになるべきだ。……二階堂歩花もそう願っているのに」
「――」
灰色の瞳を持ち上げると、アゼリアの静かな眼差しと視線がぶつかった。
机を挟んでいるのに、この時、やけにその双眸が近くに感じられる。
「やはり、納得のいく別れをしたわけではなかったか。お前を見ていればわかる。俺もかつてはお前と同じだった」
「だが」と続けるアゼリア。
「あの娘はお前に似ている。王子という立場に縛られるお前と、夢魔という種族の血に囚われる娘。
お前があの娘に惹かれたのは、ヴァンパイアほどではないにしろ長い寿命を持ちながらも強い意志を持ち続け、自らが納得できる結果を得るため、偏見を打ち破り周囲から認められるため戦う強さを持っていたからだ。臆病なお前が命を懸けて戦えるほどに変われたのは、そんな彼女に触発されたのだろう
しかし、大きくかけ離れている。彼女は、自らが納得できる自分になるためなら、他人の説得に耳を貸すことなく命さえ簡単に放棄できる。比べてお前は優しく、流されやすく感化されやすい。兄の俺が恐れているのは、お前が彼女の生き方の巻き添えになることだ」
そう言ったアゼリアの科白の後、ノックの音が響く。アゼリアが応えると、彼の側近が顔を覗かせた。
「なんだ。呼んでいないが――」
「ストック様がお二人にと」
「そうか。頂こう」
一番アゼリアが信頼を寄せている側近のこと、疑わずアゼリアは執務室に彼を入れる。
テーブルの上に置かれていくソーサーを横目に、再び兄は形の良い唇を開いた。
「『私とリーフェルトは似ている。傷の嘗め合いになるかもしれないが、少しでも彼が自分を好きになって、自信を持つ手伝いができたらいい。似ているからこそ、たとえ最後に彼が私を選ばなかったとしても、私はきっと彼の幸せを心から祝福できるだろう』――。
彼女は、初めて俺と言葉を交わしたあの夜、そう言っていた。そしてあの娘は、自分の生き方にお前を巻き込むつもりなど端からない。
お前は、確かに愛されていたのだ」




