最終章第19話 淫魔の葛藤
実家の二階堂家から数駅離れた古い木造アパートに一人暮らししている彼女は、数日間リーフェルトが学校が始まる前か終わった後、毎日作ったおかずを届けに行くと大体眠っている。最初は自分と会いたくなくて狸寝入りでも決め込んでいるのかと考えたが、そうではないらしい。本当に、しかも相当深く眠りこんでいるらしく、少しの物音では起きる気配さえ見せない。
訪れてから五日目となる今日も、塵化を使って部屋に入れば、冬とは思えぬ薄着ですやすやとベッドで眠りこんでいた。
彼女が仕事の時に着ていたらしい脱ぎ散らかされた男物のシャツとパンツが床に散乱した中で、最低限だけの物だけがある狭い部屋で瞳を閉じている彼女にリーフェルトは布団を身体にかけてやる。
陽を嫌うヴァンパイアの血で寒さに相当強くはなっているはずだが、風邪をひかないわけではない。着替える気力もないほどに疲労しているのだろうかと心配するが、歩花の寝顔はかつて見たことがないほどに幸せで満たされているように見えた。
彼女が使っている安く硬いベッドに腰を下ろし、暫しその寝顔を見つめる。栄養不足からか、少しパサつき毛先の乱れた紫がかった黒髪を辿り、リーフェルトの目は歩花の肩から細い身体の線をなぞっていく。また、少し痩せたようで彼の胸に不安が更に兆した。
「……おかぁさん……――」
それでも、血色の悪い唇から不意に洩れ出たか細い声からは、幸せの音。養父、養母と離れ一人になっても、今夢を見ている彼女は父母の夢を見て笑っている。
やはり一人にはしておけない。痛々しい気持ちで、リーフェルトは彼女の青白い頬に指で触れた。
しかし、その決意が揺らいだのは、おかずを届け始めた初めての日曜日のことだった。
休日故学校はなかったが、その日はいつもの早朝に起きて彼女のためにおかずを作り、弁当も付けた。
部屋に入り、鼻腔をかすめた匂いにリーフェルトは靴を脱ぐのも忘れて駆け出した。かすり傷や転んだ時のような出血よりも、ずっと濃い出血の匂いがしたからだった。
彼女の名前を呼んで安否を確かめるため辿り着いた光景は、傷だらけになった両腕両脚の血だまりの中で片手にカッターを握っている歩花の姿だった。
小学二年の頃――まだ女子として、二階堂歩花が表を生きていた時だったか。
当時たまたま隣の席だった男子を中心に他の男子たちが群れを作り、少年向けの漫画を眺めているらしい光景を見たことがある。
自分の隣の机なので、嫌でも会話は耳に入る。話の内容は胸が大きいとか下着が際どいだとか、そういう年相応の男子の会話だった。が
『このキャラすげえエロい』
『“さきゅばす”っていうんだって』
『“さきゅばす”?』
『エロいことするオンナのアクマ』
養母に幼い頃教えられた自分の種族の名前が思わぬところで耳に触れ、つい彼らに目を向ける。と、同時に男子たちとは逆方向の場所から
『男子ってさいてー』
『えっちなハナシしてる。きもちわるー』
『ちょっと! 二階堂さんがこまってるじゃん! やめなよね!』
そんな女子の罵声が飛び、ひどく戸惑ったのを覚えている。
『最低』、『気持ち悪い』――女子たちは自分ではなく、男子に言ったのだというのはわかっていても、それは長年、今でも自分の胸にしこりを残すこととなる。
『あかねちゃん。わたし、きもちわるい?』
『いいえ、歩花。どんな種族であろうと、気高く生きれば気高い女性になれるものよ。
貞淑であり続けなさい。貴方のお母様が望んでいた、大和撫子になれるように』
母の願い。養母の願いを叶えるために。養父に拒絶されないために。自分と同じ種族であり親族であるセノなどの少数を除き、劣情を暴かれることは歩花にとって耐えがたいことだった。
休日だからか、早朝から聞こえる隣の男女の行為の声が木造の壁の向こうから聞こえてくる。夢魔故にそういった欲に触れて敏感になる自分に嫌悪し、両目を真っ赤に染め上げながら、歩花は自分に『仕置き』をしていた。
そうやって『仕置き』を施していると、血を見ると不思議と安心する自分に気付いた。夢魔である自分も、人間と同じ色の血が流れるのだ――と。
「歩花!! 何をやっているんだ!!」
手の中のカッターを突然取り上げられたことでやることがなくなった。茫然と宙を見つめる。両肩を揺さぶられて怒鳴られたことで、我に返る。
「歩花!! 本当に死にたいのか!? 君は!!」
「……」
歩花は、必死なリーフェルトの顔をぼんやりと見上げるのみだ。彼の怒声で男女の声が止んでいることなど意識しないまま、人形のように瞬きもしない。
リーフェルトは辺りを見回して苛立ったように溜め息をつき、アパートから出て行ってしまう。その間、アパートに置いていかれたレジ袋を歩花は見下ろし――タッパーの積み重ねられたそれを、やがて光のない双眸で睨み付けるようになった。
十五分ほどして戻ってきたリーフェルトの手から落ちた新しいレジ袋の中身が、床に散らばる。消毒液、包帯――それらをすべて、リーフェルトに向かって刃のしまわれたカッターを投げつけた歩花が拒絶する。
「出ていって!!」
「っ……歩花!!」
「どうして、どうして、どうして、余計なものばっかり!!
欲しいって言っても何もくれなかったくせに!! くれるのは、いらないものばっかり!!」
『ディープキスがしたい』
欲しいと声に出す勇気を振り絞って、拒絶される恐怖を乗り越えて、ようやく声に出してねだったのに。それを受け止めてくれると信じていたのに。
『君は他のサキュバスとは違うだろう?』
裏切られた。彼は他の女とはできたのに。
抱っこをねだったときに自分の頬を殴り付けた養父と同じ目をしたくせに。
気持ち悪いと思ったくせに。やはりただの淫魔かと、自分を軽蔑したくせに。
「高い宝石も、私がいつ欲しいって言ったの! 命をかけて守ってくれたことだって、いつそうして欲しいって言ったの!! 毎日ご飯作ってって、誰が言ったの!!
リリアーヌが欲しいものは叶えたのに!! 本当は、私が死んでリリアーヌに生きてほしかったとか思ってるんでしょう!!」
「それは、違う!!」
「同じヴァンパイアだから! 私は生きてるだけでいやらしくて気持ち悪いから!! 君はいいよね、家族やみんなに愛されてるから!!」
呆れられるだけなのはわかっていた。今の自分がどれだけみっともなく不様なのかもわかっていたが、歯止めが利かない。
養父や養母にもさらけ出したことのなかった胸の内を、今までの我慢が堰を切ったように止めどなく、今も愛しているはずの少年にぶつけた。
「……出ていって」
「……歩花」
「出ていって!!」
自分に触れようとする白い手を、声を荒げて止める。
「出ていってよ!!」
血だまりの中心。膝を抱えて声を殺し泣きじゃくる。ずっと見せたくなかった、自分の負の感情。
(……私が、欲しかったのは――)
何も言わず、アパートを出ていくリーフェルトの気配に、歩花はようやく声を上げた。
(私が欲しかったのは。君だったのに……)




