最終章第17話 フィクションの登場人物を見るかのような彼女の他人事
リーフェルトが拳を叩きつけていた結界が一部剥がれ、幻で偽られていた大きな家も一部、露になる。襟を無造作に掴まれ、リーフェルトは結界内に引き入れられた。
聞き慣れた声の主が投げた札により、再び結界は外界と内を遮断してしまった。顔を上げれば、頭から血を流しているガートルードが前を見据え、また彼の目の先には巨大な黒い靄があった。
まともに対面した瞬間に悪寒が駆け巡り、身体中から冷たい汗が大量に吹き出る感覚に息を飲むリーフェルト。ヴァンパイアという強靭な身体を持っていても、あれは恐ろしいと心底思う。どう見ても人型でもない、何らかの怪物でさえない。まず生き物なのかどうかさえ疑わしいあれは、一体何なのだろう。
「あれは――」
「おい。あいつ避難させろ」
「……?」
「敵の右」
ガートルードが言葉で指した先に夜目を凝らし、見つけたもの目掛けてリーフェルトは全力で駆けた。天井の瓦礫を驚異的な力で放り捨て、下敷きになって力なく伏せていた辰弥の姿の歩花を助け起こした。
半ヴァンパイアの彼女でも気を失うほどの強い衝撃を受けたのだろう。だが、抱き上げた瞬間に驚き戸惑う。ヴァンパイアの腕力でも衝撃を受けるほどに、男の姿していても歩花は異常とも言えるほどに軽かった。避難させるためにそのまま彼女の両膝裏を片腕で支え、もう一方の腕で彼女の腹部を自分の一方の肩に委ねさせ移動している間も、あんなに肉付きのよかった背中はごつごつとしていて骨張っていた。
『戦いに必要なのは体調と体重管理だ。戦いかたを覚えたいなら、そこもしっかりな』
そう自分にかつてアドバイスをしてくれていた歩花が、暫く見ない間にこんなに痩せ細っている。
そこまでして、何故戦う道に拘るのか。
(やっぱり、木塚さんのために戦っていた歩花とは全然違う……一体今、どうして、何のために――)
しかしわかっているのは、彼女が変わってしまったのは間違いなく自分のせいだ。
比較的周りに壁などのない庭だった場所の隅に彼女を下ろして脈と呼吸を確認する。死んではいない。出血もそこまで酷くはないが、病院に見せなければ。
唇まで青ざめた歩花の顔を指先で撫で、痛感する。歩花がシュガー・コフィと上手くやっているだろうなんて、それはリーフェルトの幻想だということを。
自分が歩花から家族も女の自信もすべて取り上げた。そのことを認めたくなかったから、彼女がシュガーと上手くやっているんだろうと思いこみたかったのだ。遊園地をきっかけに、歩花がリーフェルトからシュガーに乗り換えただとかいう形で彼女を悪者にして、責任逃れをした。
もし歩花が愛されていたなら、こんな風にはなっていなかっただろうに。
屋敷の壁が大きく崩れる音が鼓膜を震わせ、リーフェルトは歩花の傍らに膝をついたまま振り返る。行いを悔いるよりもまずやるべきことがあると我に返り、ガートルードの支援につく。
辿り着き目に広がったのは、巨大な靄から生えた日本刀の先をガートルードの喉元に押している『なにか』と、結界に押し付けられ背中を焼きながら、首の皮を削がれつつもトンファーでギリギリ堪えている彼の姿。リーフェルトは全力で走る勢いを殺さぬまま拳を振り切って、靄を殴り飛ばした。
ガートルードは敵と距離をとることができたことで一息つける暇に尻を地に付け、敵から目を離さず呼吸を整えた。
「……いいか、リーフェルト。あらかじめ言っとくが、あいつは俺達じゃ倒せねえ」
「……は……?」
「死んだ人間の魂だとよ。一応聖属加工の俺の武器は効いてるみてえだが、敵の質量がでかすぎて浄化が間に合わねえらしい。歩花の呪い加工のハンマーやお前の拳は牽制程度ってところだ」
「じゃあどうするんだよ、あれ!」
「引き継ぎの専門の霊媒師をこちらに向かわせるらしいが、最悪の場合、あいつが活動できなくなる時間まで粘って朝帰りコースってとこだな」
「ま」と、リーフェルトを見もせず立ち上がるガートルード。手袋に覆われた彼の手の中のトンファーがくるりと回った。
「俺達が朝まで持ちこたえられたら。の話だがな」
しかしガートルードとリーフェルトは、これが絶望的な状況下だとわかっていた。リーフェルトがアミュレットの邸宅に訪れたのは十八時半。あれから希望的に考えたとしても三時間程度しか経っていないだろう。初冬の季節、陽が昇る時間など考えたくもない。あと何時間戦えばいいかなど頭に浮かべた瞬間に戦意が喪失しそうになる。
「こいつを結界内に放置しても、あのパワーと執念じゃ今日中に破られちまうだろうな。それに結界破られたら、あの馬鹿をまともに護衛できる奴がいねえ。
あのまま星野尾たち帰らせたのは間違いだっ――」
話の合間に猛スピードで突っ込んできた靄に、リーフェルトたちは集中力を瞬時に高めて構えた。左右に避ければその巨大さからは不自然で不気味なほどに音もなく刹那のみ停止し、
「ドコへ……ドコヘ、イッタ……ドコ……ヤッタ、どこ……!」
地の底から這うような、恐ろしく静かな声で呟きながらガートルードを執拗につけ狙う。
羽を広げて攻撃を数回回避した末に胸の中心に突き出された日本刀の先をかわしつつ、肘にまで及ぶ手甲がわりに彼はトンファーを構えることで擦らせ反らす。自然と距離をも縮めることに成功したことで、もう一方のトンファーを靄に叩き込んだ。
動きが一瞬止まったのを好機に、手甲がわりとしていたトンファーの柄から棒のほうへ握り直して、ハンマーのように殴り付けようと腕を振り下ろそうとした直後に、靄はいつの間にか消していた、前方に構えていたはずの刀身をガートルードの腹の中心目掛けて生やし突き立てようとした。
「っべ――」
肝を冷やした彼を救ったのは、再び靄目がけて突き出されたリーフェルトの右の拳。大して態勢を崩す様子も見せない靄に、左腕を塵化して追撃する。しかし無数の塵の刃は確かに敵に触れているのに、手応えがあまりない。拳でさえ、クラスメイトの言うように牽制程度。というか――効いているのかどうかさえ疑わしいのに。
リーフェルトは左腕を戻しつつ距離を詰めようと走り出した。向こうもようやくリーフェルトを見、今度は彼目掛けて突進してくる。
結局残された選択肢は、打撃一択しかないらしい。
暗闇の中で、少女が泣いている。彼女を振り返った自分は来た道を戻り、その小さな手を握って前に進む。
自分の前を歩き、振り返らない養父と養母の背中を見つめながら、後ろを付いてくる少女の前を歩き導く。
しかしいつしか、そのことに疲れた頃。一人の少年に自分は縋った。自分一人では少女を支えきれない。愛しきれない。無償を与えきれなかったからだ。少年には少女の空いたの手を繋がせて、今度は三人で歩いた。
どれだけ傷だらけになっても、どれだけ疲れても、自分たちは少女の手を決して放しはしなかった。
少年は自分の隣をすり抜けて、少女の手を引いて自分の前を歩く。気づけば別の少年が自分の手を握り、隣を歩いている。
自分はその手を握り返し、時々こちらを振り返る幼馴染二人の背中には微笑みを返し、エールを送った。
かつては、そうだった。それでも今は。
今。自分の手には何のぬくもりも残っていない。自分の前を歩く、養父と養母。幼馴染二人。ブロンドの少年。
隣には誰もいない。誰も、自分を振り返らない。
『歩花』
誰かに呼ばれて、立ち止まった。
遠く離れていく親しかった者たちから目を離して、声の主を自分は探す。
『歩花』
愛しげに、優しく呼ぶその声に、歩花は踵を返して走り出す。前を歩く者たちから背を向けて。
意識が回復し、ゆらりと立ち上がった歩花の瞳は、子どものようにどこまでも澄んでいる。
ちかり、ちかり、ちかり――信号機のように、魔力を使用時に発光する彼女の双眸は、青、赤と色が変わり、また、青。そして赤く闇の中で輝いた。
戦いに身を投じてから、どれくらい経っただろうか。
きっとそれほど時間は経っていない。外に出さぬよう、結界を刺激せぬよう身体を張り続けて、その結果地にへたりこみ立ち上がれずにいるガートルードの代わりにリーフェルトは一人戦っていた。
邸宅だった建物は崩壊が進み、瓦礫の中で自分の体の上に乗った黒い靄と睨み合う。地に横たわったリーフェルトの本来首のあるところには、刀の刀身が床だったフローリングを貫いている。リーフェルトが死に至っていないのは、体の一部を塵に変化させ急所への一撃を免れていたからだった。
靄を鞠のように蹴り飛ばし、すぐさま立ち直る。天井だった場所に悪霊は張り付いて、リーフェルトに襲いかかった。
それがリーフェルトの身体に触れる前に、横殴りに靄が吹っ飛んだ。驚きその原因を彼の頭で理解する前に、庭に非難させたはずの彼は得物の大槌を振りかざし、力の限り霊を何度も殴り付けている。
「歩花――」
疲労に掠れた声を絞りだし彼女の名を叫ぼうとしても、カラカラに乾ききった喉は潤いを求めて咳を出す。
何度も、何度も、歩花は敵を殴り付けた。リーフェルトの存在などまるで見えていないかのように。
やがて短い黒髪がさらりと揺れて長くなり、長身が小柄な身体に変化した次の瞬間。歩花の身体の中心から、真っ赤に彩られた刀の刀身が生えた。
「――」
黒い靄が平然と身を起こし、ずるりと刀身から貫かれ地に転がる彼女の肢体。
未だに理解が付いていかない頭で、呆然とリーフェルトは見下ろす。
地に広がる体液、投げ出された無気力な四肢、虚ろな赤い両目。血の紅で彩られた唇は、それでも柔らかい弧を微かに描いている。
彼女は少女の姿で微笑んでいた。それもどこか、満ち足りたように。
靄がシャリン、シャリン、と金属の擦れる音を奏で、こちらに迫る。
リーフェルトの身体が震えた。しかしそれは、恐怖ではなかった。絶望や恐怖をとうに越えた、憤怒――
握りしめた拳を鉤爪のように開き、耐え難い感情を靄にぶつけようとした直後。予期せず黒い炎がリーフェルトの行く手を阻んだ。
「っ――!?」
「はわぁ~ん……感動感激っ♪」
状況にそぐわぬ緊張感のない気楽な声が静寂に響く。
禍々しい炎の影から現れた三つの人影に、リーフェルトは目を凝らす。
「誰かのために命をかけて、戦う……これこそ、魔法少女のジコギセイ――」
「お前にはできねえ芸当だな」
「そんなことないよ。ちあみ頑張ってるもん! 魔法少女として!」
頬を膨らませ、従者の一人である女の悪魔レジェスにむくれている少女の小さな手には、黒いオーラを纏った厚い黒魔術書。
「ねー? ちあみ頑張ってるもんねー?」といきなりこちらに話を振られても、突然の介入者に反応のしようなどなく、リーフェルトは戸惑う。
「ちあみさん」
「んん~?」
もう一人の紳士服の男の悪魔、リゴベルトに促され前をちあみは前を向く。そこから一拍の間もなく飛んで刀を振り下ろす靄に対し、あっさりと彼女は魔術書を広げて悪霊を叩き飛ばした。
そうしてある程度の距離を取ると、ちあみは小首を愛らしく傾げて
「んー、うん。中心の霊は理不尽に殺されはしたけど、元々は怨霊じゃないからオトモダチにはできないかなあ?
恨みを持ったわんちゃんとかネコチャンとかの霊がお餅についたあんこみたいにくっついておっきくなった感じ?」
ちあみは「よし!」と明るい声を上げて、黒魔術書を悪霊目掛けて放り投げた。
リゴベルトがぱちんと指をならすと黒魔術がひとりでにバラバラとページを捲り黒い光を纏ったかと思うと、黒い閃光を解き放つ。それを浴びた靄はぶるぶると激しく震えだし、刀身を天に向けて仰向けになるように転げると、ぶるん、ぶるん、と痙攣を始めた。
おぞましささえ感じられるその奇妙な痙攣に合わせて靄が弾け、べちゃり、べちゃりと生々しい音を立てて分解されていくように靄が四散していく。
見ていることしかできず立ち尽くすリーフェルトの目の前、リゴベルトが艶かしく舌なめずりをした。黒魔術書から爪の伸びた巨大な両腕が生えて、四散した黒い魂をむしゃむしゃと貪り片っ端から補食し――
「はい。おーしーまい」
最後に残ったのは、しなだれている歩花から少し離れた場所に転がる、動物霊を剥がされ剥き出しになった人間の魂のみだった。
「美味しかった?」
「人間の魂以外は食べられたものではないですね」
「そっかあ」
気楽な声でリゴベルトとの短い雑談の後にちあみは満身創痍のガートルードの身体を見つけ、レジェスに彼を止血するように頼む。
リーフェルトは過酷だと思っていた呆気なく終わったことに暫し茫然とちあみたちを静観していたが、回復ができるのだと希望に目の光を取り戻してちあみに声をかける。
「ちあみさん……! 歩花を――歩花の傷も、癒してください。お願いします」
必死のリーフェルトに、ちあみは歩花をちらりと一瞥する。
今回復させているガートルードよりも明らかに重症だ。そのはずなのに、何故かちあみの口から出たのは、なんと「あー、無理っぽい」という一言だった。
「私ができるのは回復じゃないから。身体の状態だけ時を止めて血を止めるくらい」
「そ――……でも、じゃあ、血を止めるだけでも」
「なんで?」
「……は……?」
訳がわからず聞き返す。
ちあみはあどけなく瞳を瞬かせて、死に行く一方であるにも関わらず穏やかな歩花の顔を指差した。
「生きたいって思ってないよ。この人」
「……」
「何かを恨んだり、誰かを恨んだり、そういう気持ちだって全然ないみたいだし。ここで死んだらカッコイイと思うけどな――」
頭から血の気が引き、目の前が真っ暗になった。




