最終章第1話 役割が決まった音
二年生初冬休日。二階堂歩花は顔を少し赤らめて両手で露出した太股を抑える。
「スースーする……気がする……」
膝白に近い灰色を基調とした色に黒いチェック柄のミニスカート。胸もとを見せすぎない程度だが、V字ネック白いトップ。タイツを穿いているのでそこまでではないにしろ、冬の冷気が腿を頼りない肌着越しに撫でていく感覚は慣れない。
(……でも。今日は伝えなきゃ――)
彼女の決意は、数日前に遡る。
『ぶっちゃけさ。歩花はどう思ってるの?』
『……何を』
『ガーシェル君の、あれ。他の子とディープキスしたって話』
先週日曜日。珍しく市辺真優、木塚小夜と、本当の意味で女三人で喫茶店で雑談している最中に突如振られ、歩花は固まる。
『なんか、許してる、気にしてないみたいな感じを装ってたけど。本当に堪えてないわけなの?』
『……別に。わざととか、浮気心があってやったわけじゃないし』
『……って。なんとか自分に言い聞かせて平静を保ってるってとこ?』
さっくりと真優の口から出てきた切れ味の良いナイフが歩花の胸を貫通する。
一瞬言葉を詰まらせてしまった歩花に『やっぱりね』とミルクティーの入ったカップを傾ける真優。
『私も他人のこと言えないけど、歩花って可愛くないよね。素直に妬いてるなら妬いてるって言えば良いのに』
『……まあ。可愛くないのは、自覚してる』
どちらかといえば男たちは、自分とは正反対で素直な気質の小夜のような娘のほうを好むだろうということは、歩花自身自覚はある、のだが。
『王子様ってところだけで競争率高いんだし。最悪、演出の上手い計算高い女に掠め取られたりとか――』
『ちょっと。言いすぎだよイッチ』
『少しは女として素直になるとか可愛く見せる努力とかしとかないと』
小夜に制止をかけられたが、真優は頬杖を突いて、
『まあ妙な不器用さがあるから、かえって好印象なところもあるだろうし、そこが歩花の良いところだと思うけど。
嫌でも別の自分を演じなきゃいけない、飾らなきゃいけない場面が大半。ガーシェル君と一緒にいたいってことはそういうことだって、今のうちに覚悟は決めとかないと。
わかるでしょう? 私の言いたいこと』
敢えて――といったように歩花の胸を更に刺す。
たとえリーフェルトが王になるわけではなくとも、王族の彼の体裁とイメージを守れるほどの、妻としての品位、社交性、話術、教養エトセトラ。
一般家庭に生まれ育った歩花には無縁だったものが大半だ。特に女であることを隠していた彼女にとって女同士の水面下での戦いなどに対する免疫はさっぱりない。『好き』という気持ちだけではどうにもならないだろうというのがやはり現実だろう。
『ってことで。まず歩花に必要なのは?』
『……演技力?』
『それ以前! 女の自信!! ほら、立って! ショッピング!!』
――と、いう流れで普段使わないミニスカートと胸もとの開いた服を買わされた。
本当は黒タイツじゃなくもニーソックスを履けと言われたのだが、流石に下着を見せながら歩くのは歩花にとってハードルが高すぎたのだ。
『モヤモヤするくらいなら、可愛くおねだりしてぶちゅっとフレンチかましてきなさい。ついでに最後までやっちゃってもいーから、下着はしっかり上下揃えるのよ』
『……それは、真優が猥談を聞きたいだけじゃないか?』
『当然それもあるけど、このままじゃ歩花も嫌でしょ? ちゃんと言う練習よ。練習』
(バークスとつるみ始めてからセクハラじみた科白が更に多くなった気が……というのは、気のせいだと思いたい……)
そういえば真優は、ミリー・バークスとはどうなったのだろう。バークスが真優を気にしていたので関係はどうだと自然な流れで遠回しに触れたが、誤魔化された。
真優はバークスのことを相変わらず『お友達』だと思っているのだろうか。
(付き合うだけならいいが、将来を見据えるなら少し難しいかな。人間と夢魔、寿命も違うしな。真優はそういったところとか悩みそうだ)
昼食の入ったサンドイッチバスケットを片手に、恋人の住むマンションに向かいながら重い息を吐く。
……他人のことよりも、自分のことを考えなければ。と。
恋人の訪問を心待ちにしていたリーフェルト・アップルガースは、インターフォンの画面に表れた歩花の顔の声に応える。一階のセキュリティを抜けて自分の部屋に辿り着いた彼女を中へ迎え入れた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
部屋でデートするのも、随分と久しぶりな気がする。彼女が部屋に来ると、改めて思う。リリアーヌたちヴァンパイア討伐のため、自分たちは必死だったのだから仕方ない。
歩花はリビングに上がるなり、昼食にと彼女が作ったというサンドイッチをテーブルの上に置いた。
「お昼まで何しようか」
「DVDレンタルしてきたから、一緒に見よう」
歩花の提案に、当然乗るリーフェルト。
彼女のバッグの中から取り出されたディスクを受け取り、早速DVDをセットする。先にソファに腰かけた歩花の隣に身体を沈めて、暫し始まった映画に没頭する。
アクション、SF、コメディなど今まで二人で色々観てきたが、今回はラブコメディ系だった。高校に入りたての頃によくCMにされていた映画で、プライドの高さゆえに素直になれず、友人もいない、恋でも振られ続けの女性が、会社に新しく入ってきた男性との出会いをきっかけに、素直さを学んでいく。ざっくり言うならそんな内容。
「ああいう女性をどう思う?」
鑑賞が終わった後はテーブルの椅子に着いてサンドイッチを一緒に食べながら、映画の内容で大いに盛り上がっている流れで歩花に問われ、瞳を上に泳がせてリーフェルトは考える。
「うーん……ああいう素直になれない女性っていうのは、どうしてそういう風になるんだろうね」
映画の中の女性は、ストレートに言えばすぐに伝わることも、遠回しに助けてほしいヒントを小出しにして、自分を理解してもらおうとする癖を持っていた。それ故に相手に伝わらず、そのことにやきもきして、昔の恋人に理解されずいくつもの別れを経験した。
対して最後に結ばれた男は、心優しく、彼女からの複雑なヒントを察し、どこまでも彼女の理不尽を受け入れられる器を持っている――というわけでなく。
それどころかどこまでも辛辣で、物腰柔らかというよりは喧嘩腰。コメディらしく最初は犬猿関係でいがみ合っていたが、互いを意識し合うようになり、最後には結ばれハッピーエンドで締めくくられた。
作品としてはなるほど、科白回しも笑わせてくれてなかなか面白かったが、欲を言えば主人公の女性側にもう少し感情移入できる場面が欲しかった。
「なにか望みがあるなら、やっぱり素直に言った方がいいよね。本人のためにも、他人のためにもさ」
「うん。まあ、そうだな」
サンドイッチを二人で食べ終えた後、いつものようにリーフェルトが食後の紅茶を淹れにキッチンに立った。
その間ソファに座り直しテレビを見ている歩花に背を向けつつ、昼食を食べた後何をすべきかを悩んだ。
オセロとかチェスとかトランプ? 少し外に出るのもいいかもしれない。それから外で夕食を取ってもいい。
悩むと言っても、なんとも幸せな悩みだと口許が弛む。
「どうぞ」
紅茶を乗せたソーサーを歩花の前まで運び、差し出してやれば、テレビ画面から彼女の瞳がこちらに動く。
小さな唇から漏れたお礼を笑顔で受け取り、小さな机を挟んで
彼女の向かいのソファにリーフェルトは腰かけた。
「……今日は……」
「……?」
「……ううん、ごめん。なんでも」
なんだか今日は彼女の服が……なんというか露出が多い。
そこまで気になるほど丸出しにしているというわけではないにしろ、いつも控えめなぶん新鮮に見えてドキドキする。いや、悪くない。決して悪くないけれど。
歩花と目が合ってしまい、彼女の身体――正確には服だが――を不躾に眺めてしまったことを恥じて、リーフェルトは謝った。
結局お茶をした後は遊びをするでもなんでもなく、なんとなくの流れで昼ドラを見ながら腹を二人で休める。甘やかなキスシーンから、リーフェルトと歩花の間にもそういった雰囲気へと切り替わり、そっと彼女の手に自分の手を重ねると、小さな肩が跳ねたのが感覚でわかった。
歩花の紫がかったサラサラとした髪にそっと唇で触れれば、彼女も少し身体をリーフェルトにもたれさせて、顔を少しこちらに向けてくる。自然な動きで恋人同士という気安さから、互いに顔を覗き合って、静かな触れるだけのキスへ。
唇を離し、丁度エンディングが流れたテレビ画面の電源を落として再び没頭する。優しく、柔らかく、労るようなものから、彼女の唇の感触を何度も追い求めるものへと変わっていくが、すぐに物足りない飢餓感が押し寄せてくる。
波のように寄せては引き、やがて引くことを忘れた本能からの欲望は津波のようにリーフェルトの胸に覆い被さった。
ああ、噛みたい!
「あ、あっ……」
白いニットを汚さないように、絆創膏二枚におさまるような傷ですむように吸血をと思ったが、白い滑らかな肩から声を出した歩花に瞳を戻す。
「あ、あの……あのね」
耳まで真っ赤になって、何だか、なにかを必死に伝えようとしている。
それならばと、彼女がそれを言葉にできるまで待つことにした。
「でぃ……っ」
「……うん?」
「ディープキスがっ……したい……です!!」
舌を縺れさせ彼女が叫ぶように言った科白に、ぴしり。と、リーフェルトの身体が固まった。固まると同時に、彼の中の何かにヒビが入る。
ひび割れたのは自分の一体何なのかは、よくわからなかった。
「……えっ……?」
つい、耳を疑う。
純情な彼女が。身持ちの固い彼女が。一体何を言い出すのだろうか、と。
「……あ、の。……えっ、と。どうしたの……?」
「……う……、い、嫌……?」
「嫌、っていうか……」
ふとそこで、まさかと思った。
今日露出が少し高いのは、ひょっとして……と。
準備してきたということか? 『そういうこと』をするために?
「あの……歩花」
どうしたものか。一体どうしてしまったものかと溜め息が喉から漏れそうになるが、堪えて飲み込む。
だが、頭のいい彼女ならわかるはずだ。そういう女性じゃないと、自分は信じている。
「そういうことを簡単にしようとか。そういうのはやめた方がいい」
「……それは、わかってる。君の性格も理解したい、けど。今日だけ。一回だけ、それだけでいいの。お願い……」
自分のシャツを掴みすがる彼女の小さい手を優しくほどき、リーフェルトは手で包んでやんわりと押し返してやる。
そういうのは好きじゃない。そういうことはもっと、厳かに。もっと静かな気持ちで始めて終えるべきだ。自分はそう考えているが故に。
「歩花。君は、普通のサキュバスとは違うだろう?」
歩花の頭の中で、かちりと大きな音が鳴り、切り替わった。
「……ねえ、リーフェルト」
「……?」
「リリアーヌにキスされたとき、突き飛ばしたりしなかったのは、どうして」
「……え」
「失礼なことを言うけど、私の目から見て、君、ちょっと満更でもなさそうだったから。……気持ち良さそう、だった」
「……――。……いや――」
「こういう服とか、好きなのかなって。リリアーヌの着てた服とか、色々思い出して買って……今日の服がそれなんだけど。
……ねえ、リーフェルト。ひとつきいていい?」
「……」
「私がちゃんとしたヴァンパイアか人間だったら、ディープキス、してくれた?」
夕食後。歩花の家への帰り道、途中まで彼女を送っている間の会話。
リーフェルトの家で遊んでいる間は、キスをリーフェルトが断った後もニコニコといつものように笑ってくれていたのに、俯いて横髪で表情を隠しながら、歩花はぽつり、ぽつりと胸の内を口から漏らしていく。
すべてのことをそこで理解したリーフェルトは、慌てて「じゃあ!今……」と言ったが、
「また明日、学校で!! おやすみなさい」
とリーフェルトの声を遮り、歩花は明るい笑顔を彼に見せて走り去っていった。