データⅧ(ワードⅡ)
*意識のハード・プロブレム*
意識の難問とも呼ばれる問題のこと。
生物の脳から、どのようにして主観的な意識、そしてクオリアが生まれるのかを究明する目的で提示された問題である。
普通、人の意識は脳によって生み出されると考える者が殆どである。
しかし、人の脳に意識を生み出す部分は医学的に見て、肉体にも、脳にも存在しないとされている。
運動指示を行なったり、各種物質を分泌する役目を司る部分や、五感と呼ばれる感覚の元となる信号を生み出す部分は存在している。
だが、それらは脳内で起こる物理的・化学的・電気的反応のイージープロブレムであり、意識を生み出す発生器官とは成り得ない。
脊髄、小脳、中脳、大脳、それぞれが別々の役割を持たされている。
個々の部位が様々な役割を通して刺激を神経系からの信号としてキャッチし、脳内に統合するというプロセスを得て意識の元となるような情報を記憶、保存している。
直後、神経発火によって交感神経や運動神経を経由した情報の出力により、各種肉体運動を行なっていることは周知の事実である。
上記の工程から、刺激による情報……つまり、意識の材料が脳内を初めとした全身に伝導していることが分かるだろう。
脳内に限定しても話は同じである。
生命中枢の無条件反射や大脳辺縁系による情動反応、大脳皮質が行なう認知、思考など、意識の……クオリアの元となるような代物は大量に存在するのだ。
しかし、それらの情報からどう意識という謎の現象に変化していくかが解明出来ていないのである。
では、人間の意識とはどこからきているのか?
生物は神経を全身に張り巡らせている。
神経は五感という感覚を通して人間の行動を決定させている大きな要因である。
痛い、眩しい、暗い、美味しい、不味い、ざらざらする、音が聞こえるなど、それらの感覚は刺激を受けた器官から信号が脳へと伝達され、受信した情報が処理された結果である。
なので、事の発端は刺激を受け取った神経の発火からというのは基本的に疑問の余地はない。
しかし、神経の発火から痛かったり眩しかったりするという極めて主観的な感覚への変換機能は脳には備わっていない。
生物の意識と呼ばれているものが、脳内にて直接は発生する現象でないのであれば、これは全身の神経の相互作用から生み出されたものだと説明されなければならない。
例えば、感動する映画を見たとする。感動する映画の内容を捉えた網膜が化学反応を起こし、視神経を興奮させる。
そして感動する映画の情報が興奮として視神経を通じて送られ、それは脳の視覚野に入力されていく。
その後脳内の神経細胞が発火し、運動神経などに対して出力され、感動の際に拍手したり涙を流したりする条件が整えられる。
だが、それは条件が整えられただけで、まだ実際に拍手したりすることを決定したわけではない。
涙を流したり拍手したりする動作の決定権を決めるのは、体ではなくまず自分の意識、そして心なのだから。
人間は無意識に拍手することはないのだから。
自分の意識が、心が感動したと判断しなければ、拍手をすることはないわけである。
感動する映画に本人が感動するためには、神経細胞の発火を感動したという想い……つまり意識として、神経内で変性させなければならない。
つまり、意識というのは肉体外からの情報を元に、神経内で形や性質を変えて存在しているのだ。
プロセスは未解明であるが、それは実際に現象として存在する。
人の意識は、外界からやってきた情報から構成されているのだ。
しかし、それらの情報が人の意識と言う高等現象を生み出しているということなのである。
……人の意識を言い換えるとするなら、魂という言葉が適当なのではないだろうかという意見は心身二元論者に顕著である。
しかし、全く物体性を持たない魂が目視可能な物体である肉体に影響することが不合理な話であるということは、エリーザベト・フォン・デア・プファルツによって既に発言されている。
心身二元論は根本的な問題点を抱えているのだ。
……しかし、ビフレストでは魂の存在は可視化されている。
霊的存在と物理的存在を繋ぐ、エーテルを初めとした心身二元論の問題点を解決する物体も存在している。
上記の事実から、魂、そして意識やクオリアとは、肉体が受け取る刺激や経験を元にして神経発火から作り出された結果として発生するモノ、或いは成長するモノだということである。
それを理由として、ビフレストの魂達は単体で成長することはないことが分かる。
何故なら、情報を意識に変性するための肉体がないからである。
そして肉体という器がなければ、魂が生み出されることもないのだ。
まず最初に魂がビフレストに漂うオーロラ……アニマから自然に創出され、そこから肉体に宿るというプロセスを踏んでいるわけではないのである。
故に、肉体の刺激から魂を構成する以上、肉体の遺伝子情報や特性に意識が影響されてしまうということはなんら不思議ではない。




