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知らないほうが幸せか ④

 鼓膜(こまく)を揺らし脳でその意味を成した浩司の言葉が、(すさ)まじい衝撃(しょうげき)(ともな)い、キノの心の奥を(つらぬ)いた。


「希由香が…あなたを忘れる…?」


「そうだ。俺に会ったことも愛したことも、全てな」


 そこに渦巻いていた不安と得体の知れない恐怖が一瞬で停止し、キノの心は奇妙な静寂の真っ直中に()ち入った。安穏(あんのん)とはほど遠い、嵐の前の静けさのような、いつ(くず)れ落ちても不思議のない不安定な均衡(きんこう)


「何のため…に…?」


「あいつの心から俺を消すことが出来れば、いつか…ほかの男を愛して、幸せになれるだろう」


「愛せる人に…出会わなかったら…?」


「このまま俺を愛し続けるよりはマシだ」


「…本気で言ってるの?」


 手元に視線を落とす浩司を凝視(ぎょうし)しながら、キノがつぶやく。


「あなたに会わない方が幸せだなんて…どうしてわかるの? あなたに会わなかったことにするのが、希由香のためだなんて…本気でそう思ってるの?」


 握り締めた(こぶし)をもう一方の手の平で固く包み、浩司が顔を上げる。


「俺は、ただ死ぬために生きて来た。人とのかかわりは()けられなくても、誰かにとってマイナスの存在にだけはなりたくないんだ」


「あなたに会えたのは、希由香にとって幸せな出来事なの。別れて悲しんだ…それでも、会わずにいるよりはよかった。ずっと愛し続けるかどうかを決めるのは彼女よ…あなたじゃない」


 キノは目をつぶり、深呼吸をする。もうこれ以上、心の(せき)は感情の流れに持ちこたえられない。


「あなたと過ごした記憶を消す? 希由香にしてやれるひとつのことがこれ? 私になら理解出来る?」


 開けたキノの目に涙はない。まず始めに湧き上がった浩司への(いきどお)りが、その()を強く染めている。


「浩司…私は希由香の代わりに護りを見つけたよ。だから、彼女の代わりにしたことのその先も、知らん顔は出来ない。望まないどころか、希由香がやめてって泣いて頼むようなことを、彼女のためだなんて言わせない。私が納得しなくても、あなたは発動出来る。そうするって知ってる。だけど、せめて…あなたがそう望む理由を教えて。私にわからせて。私が反対出来ないような理由があるんだって…」


 キノが深い息を吸い込む。


「もし、それが無理なら、ほかの望みがないなら…呪いを()いてよ。希由香を愛さなくてもいい。だから…あなたとの記憶は消さないで…」


 一気にまくし立てるキノを見つめ、浩司は何を観念したのだろう。


 言わなくて済むなら言わずにおきたいこと、知らせずにおけるなら悲しみを重ねずに済むことも、真実を()う者の前でそれを隠し通すことは、(いつわ)りと同等の深い痛みを持つ(にせ)の優しさだと、気づかずにいられたら。


「俺を忘れることが希由香のためだと思ってる。だが…自分の苦しさを消したいというのが本音だな。無為(むい)に終わるはずの俺が、希由香の心に居座(いすわ)ったまま放っておくのは…辛いんだ。あいつにとっての自分の存在に、悔いを残すことがな」


「でも、それは…どの恋愛にだってあることじゃない。浩司がそう思うのは、やるだけやって終わったんじゃないから…自分の意思だけじゃないからよ。シェラの呪いのせいで…そうでしょ? だから、呪いを()いた上で、希由香を愛さないなら…不自然な苦しみもなく…」


 キノはふいに言葉を止めた。ためらうように視線を()せ、すぐに上げる。


「浩司…呪いを()くのが無意味なのは、どうして? 希由香は、あなたの闇を感じてた。救い出したいと願ってる。もし…たとえ自分じゃなくてもいい、誰かを愛して寂しさの中にいなくてもいいように…」


 慎重に言葉を選ぶように、キノがゆっくりと声に出す。


 聞かなくてもわかってると思ってたことがある。返って来る答えは…一番先に、希由香が聞くべきものだって。だけど今…それを聞かずに、確かめずにはいられないことがある。浩司のくれる答えが何だとしても、どうしても…。


「なのにどうして…意味がないなんて言うの? 希由香を愛さないのは…呪いのせいじゃないの…?」


 浩司が答える前に、キノがもう一言つけ加える。


「嘘はなしよ」


 浩司はほんの一瞬涼醒を見やったが、キノの視線は動かない。今のキノに、話の始めの方に二言三言(ふたことみこと)口を開いたきりずっと無言でいる涼醒を気にする余裕はなかった。


「俺は…呪いがなくなったら、自制出来る自信がない。そして、そばにいたら…そう遠くないうちに、俺はあいつを悲しませることになる」


 浩司の声が震えているような気がする。それは、彼の思いがキノの心に濾過(ろか)され伝わるせいだろうか。


「そんな…先のことなんてわからないじゃない。誰だって…」


「確実に、わかってることだ」


 キノの反論をさえぎり、浩司がきっぱりと言いきった。浩司から次の言葉が発せられる前に、涼醒が深い息を吐く。まだたきをも拒否するキノの()が熱くなる。


「リシールの継承者が、34歳まで生きることはない。愛する者が死ぬ悲しみを与える…それがわかってるのに、あいつのところに戻る。そんなことは…俺には出来ない」


 開きかけたキノの口からは、ただ震える息だけが抜けていく。今いるこの空間ではなく心に開いた空洞(くうどう)を、(こお)りつくような風が吹き抜けていく。


「キノ…」


 一切(いっさい)の感情の()れを遮断(しゃだん)した(ひとみ)で、浩司が微笑む。


「これ以上悲しませずに、希由香の幸せを願う…俺に出来るのは、ここまでだ」


 自分以外の心音さえも聞こえそうな静寂の中、キノの目から涙が流れる。静かに泣けるようになった分、そのしずくは熱く声なき叫びを(よう)すものだと、キノは今、身を(もっ)て実感していた。


 キノのぼやけた視界の遠く、希由香の寝顔が思い浮かんだ。それと同時に、ほんの一瞬、願わぬ思いが心を(かす)める。


 安らかな表情で眠る希由香が、あのまま()めなければいい。閉じた(まぶた)の向こうで見る夢が、幸せなものならばと。



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