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チェイス③

 階段は向こうの(はし)…下まで行けば、出口の前に支払いの窓口がある。ホテルの人がいるところは安全だと思いたい。後は、外に出てどうするか…。


 コの字型の廊下を曲がろうとしたキノは、階段の手前にあるエレベーター付近からの人声に足を止めた。


 まさか…!


 考えている暇はない。キノは途中にあった自販機コーナーへと引き返す。幸いにも、そこには廊下から死角になる空間があった。


 キノが身を隠すのと同時に、一組の男女がその前を通る。


 入口で会った女かどうかはわからない。そして、これからセックスをするような雰囲気の微塵(みじん)もないこの二人の姿を、キノは目にしていない。けれども、キノは彼らが自分を追ってきたリシールだと確信する。


 キノが部屋を選んだ時点でこのフロアは満室であり、この20分足らずの間に退室したカップルがいる可能性は低い。


 私がいた部屋に向かったなら、ここは見えないはず。落ち着いてゆっくり…早く、外に出なきゃ…。


 キノは深呼吸をし、再度廊下に忍び出た。(ささや)き声とともに聞こえて来る(かす)かな金属音を背に、()け出したくなる気を抑え歩いていく。


 何度も後ろを振り返りながら階段を降りきったキノは、早過ぎる退室を殊更(ことさら)(いぶか)しがられることもなく出口を通った。




 タクシーは、ここに呼ばない方がいい。せめて隣のホテルか、どこか別のわかり(やす)いところに…。


 薄暗い駐車場を急ぐキノの目が、路地に一番近い場所にある車に()まる。

 一瞬、キノも車内にいる二人も、自分と目を合わせている人物が何者かわからず、ただじっと互いを見つめ合う。

 次の瞬間、キノは(さと)った。


 この人たちも…リシールだ!


 (きびす)を返し()け出すキノの耳に、車のドアを開閉する音が相次いで聞こえる。リシールたちも、キノが誰かを認識したらしい。

 自分たちの探す、護りを持つ者であると。


 建物の(わき)を全力で走っていたキノは、垣根(かきね)の前で足を止めた。

 石や鉄の塀ではない。密集して植えられた庭木で作られた垣根なら、通り抜けることは出来る。平たく刈り込まれた2メートル強の高さの木々は、隣のホテルを囲んでいるものらしかった。


 向こう側が見えぬほどに茂り合う枝を()き分け、キノは頭を下げて身体(からだ)を押し込んだ。肌を()く荒い枝先から目だけを守り、隣の敷地へと抜ける。

 そこは建物の裏手にあたり、いくつかの物置と駐車している車の列、そして、ホテルへの入口に路地へ続く道と、身を隠す場所も逃走路も様々にある。


 キノは斜め前方を見やった。


 あそこに…。


 ひりひりする頬を気にもかけず、キノはもう一辺の垣根に急いでもぐり込む。


 間一髪で、リシールたちが垣根を超えてくる前に、キノは更に次の垣根の向こう側に消えていた。足音を忍ばせてその場を離れるキノの後ろで、キノを見失った二人が何かを言い交わす声が遠くなる。


 キノは静かに大通りへと走り出した。




 タクシーを呼んで…時間を稼ごう。そして、護りを…。


 人気のない通りを横切り、キノはN橋に下りる土手沿いを行く。


 N橋のところに下りて、ラブホテルの向かいの土手の前にタクシーを呼んで、来るまで下で待ってれば…見つかる前に乗れさえすれば、何とかなる…。


 キノが大通りへと出た路地は、入った横道の一本手前だった。ラブホテルを右前方に、キノは昨夜のタクシー運転手が言っていた階段を左下に探す。


 早くしないと…。


 60メートルほど先、急勾配の芝生の土手の間に、人口の岩肌で作られた階段が見えた。

 それと気づかぬうちに明度を増して行く闇の中。白に近い灰色のコンクリートが、青白い光苔(ひかりごけ)に覆われているかのようにうっすらと浮かび上がっている。


 あった…あれだ。


 ほっとして緊張を緩めたキノの表情が、またたく間に凍りつく。

 ホテルに続く道から飛び出して来た一台の車が、キノの斜め前方に停車した。路肩に(うずくま)った車体の両脇(りょうわき)から降り立った二つの人影が、キノを正面に見据える。


 逃げ…なくちゃ…。


 咄嗟(とっさ)に振り返ったキノの身体(からだ)が硬直する。後方に、ライトを消した黒い車が停車しているのが見えた。


 今から呼んでも、警察は間に合わない。人通りのない、車も滅多に通らないここで、どうしたら…。


 キノは呆然と辺りを見まわした。


 後方の車のドアが開けられ、車内ライトが点灯する。運転席に一人を残し、助手席の一人だけが降りてくる。


 ごめんね…涼醒。せっかくいっぱい助けてくれたのに…私、考えが甘かったみたい…。


 通りを横切って来る二人も、後方からやってくる者も、もう急いではいなかった。


 (おび)えて足を(すく)めるか弱い獲物。傷を負って動けない哀れな獲物。ただ静かに悠然(ゆうぜん)とそれに手を下す強者のように、ゆっくりと近づいて来るリシールの猟者(りょうしゃ)たち。


 このくらいの高さなら、飛び下りてもきっと平気。逃げ切れる可能性はほとんどなくても、N橋を突っ切って…館に向かいたい。そして、(つか)まった時は…。


 暗い土手を見つめながら、キノは覚悟を決める。


 護りはラシャに戻るよ。でも、発動は出来ないかもしれない…。浩司、ごめんなさい…!


 足を踏み出そうとしたその時、視界の(はし)(よぎ)った白いものを、キノは反射的に目で追った。

 薄れ始めた朝の闇を、白い車が疾走している。高回転に(うな)るエンジンの音を響かせながら、ホテルの先にある交差点を、(すさ)まじいスピードで右折してくる。

 キノからそれぞれ30メートル足らずの場所にいた3人のリシールたちも、突進(とっしん)してくる車に目を見開き足を止めている。


 路上の二人が、叫び声を上げて進路から飛びのいた。それと同時にキノの前を通り過ぎた車が、ブレーキランプを(あか)く点灯する。タイヤが路面に摩擦(まさつ)する悲鳴が一声、朝露(あさもや)の湿気を帯びた空気を切り裂いた。

 ヘッドライトの明りが半円を描くように路面を()め、その車体が、放心したように立ち(すく)むキノの目前で停まった。


「キノ! 早く乗れ!」


 開かれた窓から聞こえたその声に、キノは一瞬のためらいもなく助手席のドアノブをつかんだ。

 中を(のぞ)き込んで確認する必要はない。今、このヴァイの地において、キノを『希音』ではなく『キノ』と呼び得る唯一(ゆいいつ)人の者。


 キノはこの声を知っている。


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