チェイス①
「こんなに朝早くからお騒がせして、本当にすみませんでした」
9階から下降する四角い箱の中、キノはホテルのサービスマンに頭を下げた。二人を乗せたエレベーターが、チャイムの音とともに一階に到着する。
「いいえ。お客様にお怪我がなくて何よりです。お気になさらずに」
サービスマンは吸い込まれた扉を背にしてキノを先に促し、微笑みを浮かべる。
彼が10分前にキノの客室に駆けつけた時から、ドアの前にいたリシールたちはどこかに消えていた。やはり、警察を呼ばれる事態を引き起こす気はないのだろう。キノだけならば気を失わせ連れ去ることも可能だが、ホテルの者がいてはそれも出来ない。
リシールに部屋のドアを開けられてしまう前に、キノはフロントにコールした。
「緊急な用事で今すぐチェックアウトしたいので、ホテルの入口にタクシーを呼んで置いてほしいんです。それから…」
慌ただしい口調でそう言った直後、派手な物音をたてながら受話器を床に叩き落とし、通話を切った。
「電話しながら身支度をしていたら、コードを引っかけて…電話機とライトを落としてしまっただけなんです。ちょっと気が動転していたので…」
何事かと取り急ぎやって来たサービスマンは、申し訳なさそうに事情を話すキノに咎める瞳などは露ほど向けず、宿泊客の無事に安堵した。従業員の教育は行き届いているらしく、よけいな詮索もして来ない。そして、落ち着かない様子のキノを気づかい、ロビーへと同行してくれている。
奏湖に脅されるまでもなくキノにとっても、ほかに打つ手がなくならない限り、警察沙汰は避けなければならないことだった。部屋の前に怪しい者がいるとコールしたり大声で助けを求めたりした場合、リシールに捕まることは免れても、後々面倒なことになってしまう。
ホテルの外にも追っ手はいるだろう。けれども、このままタクシーまで辿り着ければ、キノはとりあえずこの窮地を脱することが出来る。
「いろいろとありがとうございます。助かりました」
キノは再び頭を軽く下げ、笑顔でエレベーターを降りた。
ロビーの前にもエントランスホールにも、制服姿の従業員しかいない。
ホテル内にいるリシールたちが何気なく現れるのを警戒しながら、キノはフロントにキーを返す。
「タクシーはご用意出来ております」
「ありがとうございます。今日はせわしなく出ることになってしまったけど、今度来る時は、ゆっくり朝食をいただきます」
「ありがとうございます。またのご利用をお待ち致しております」
3時間前と同じクラークが、同じ笑みでお辞儀をする。キノは微笑みを返すと、入口のガラス扉へと足を進めた。
ドアマンの見守る中、キノの乗り込んだタクシーのドアが閉まる。
「どこに行きます?」
運転手の明るい声が車内に響く。
「お客さん?」
即答しないキノを振り返る顔には、微かに訝し気な表情が浮かんでいる。この時間にタクシーを呼ぶのだから、明確な行き先に急ぐのだと思うのも無理はない。
「えっと、とりあえず…駅前の大通りに出てくれる?」
まだ暗い早朝の街の風景がゆっくりと動き出すのを見て、キノはようやく深い息をついた。
この後どうするか、今最優先させるべきは何なのか。
キノは涼醒の言葉を思い出す。
『どうなるかは、まだ決まっちゃいない。最後まで、諦めなくてもいい』
後ろを振り向いたキノの目が、ホテルの駐車場と、一本奥の路地から出て来る2台の車を捉えた。視線を前に戻すと、閑散とした大通りが見えてくる。
「運転手さんなら、この街の道に詳しいはずだし、運転にも自信があるよね?」
「そりゃ仕事だからね。悪者に追われてでもいるのかい?」
バッグミラーの中でキノと目を合わせ、運転手が笑った。
駅の裏手にあるビジネスホテルに向かって、タクシーが加速する。後ろを走る車との距離が開いていく。ついて来る車は、1台だけになっていた。
「さっきと同じように、入口の手前で停まって、後ろの車がギリギリまで追いついたら、ゆっくり走り出して」
昨夜入ったビジネスホテルの前でタクシーを止めさせてからここまでずっと、キノは後部座席に身を屈めたままだった。
キノは運転席のシートに腕を突っ張り、急ブレーキからの反動に備えた。前に押される力が落ち着いて程なく、発進による緩やかな振動が、息を潜めるキノの身体を揺らす。
「お客さん、もう頭を上げて平気だよ。追って来る車はいなくなっちまった。結構引っかかるもんだね」
運転手がそう言うと、キノは上体を起こして後ろを向いた。バッグウィンドウの向こうに、通りを照らす街灯以外の明りはない。
「5秒停まれば、人が降りるのには充分だもん。追いつくまでにもう5秒もあれば、ホテルに入ったのか脇道に逃げ込んだのか、わからなく出来るでしょ? 辺りを確かめずにそのまま追って来るなら、別の方法を考えなきゃと思ったけど…」
キノは、首を回して身体を伸ばす。
「降りたかもしれないって疑問を残したままじゃ追えない。そういう人たちで助かった。2組だけだったのも」
「後ろにいる車を撒きたいのって言われた時は、正直無理だと思ったよ。こんな朝早くて道がガラガラじゃとてもね。まあ、うまくいってよかった」
「ありがとう。見えないように停めてくれたんでしょ? 暗いうちで助かったし」
タクシーは駅前の大通りへと戻った。
始発電車の発車を告げるベルの音が、時をつくる雄鶏のように聞こえて来る。それは徐々に寝静まった街の目醒めを誘い、やがて東の空に太陽を呼ぶ。
「ありがとう。理由も聞かないで、言う通りに走ってくれて…」
「人の事情はいろいろだ。逃げる方にも追う方にも言い分はあるだろうけど、悪いことをするんじゃないかぎりは、乗せたお客さんの側に立つのが筋だ。その方が安心出来るなら、特別料金は貰っておくよ」
タクシーは、駅のロータリーに停車していた。すぐ前には客待ちのタクシーが数台いる。
「じゃあ、気をつけて行くといい」
「運転手さんも」
気さくな運転手の笑顔に別れを告げ、キノはタクシーを降りた。そして、素早く前のタクシーの窓をノックする。
開いたドアの中に滑り込んだキノは、行き先を尋ねる運転手に即答する。
「N橋のところまで」




