ひとりに①
キノは黙り込んだまま、洒落た丸テーブルの上で照明を照り返すガラスの灰皿の角を、ぼんやりと見つめている。
「希音…聞き分けてくれ」
今にも灰を落としそうな煙草を、涼醒がキノの指先からそっと外す。
先程のビジネスホテルから大通りとデパートを隔てた場所にある、高級ホテル。広めの室内に置かれた肘掛け椅子に身を沈めるキノは、3本目の煙草を二口吸ってからのこの5分間、身動きひとつしていない。
キノと涼醒は、通りに出て最初に目に留まったこのホテルに、別々にチェックインしていた。
発信器のある場所の近くにいることに多少の気がかりはあったが、とにかく身を隠すことが先決だった。土曜の夜と言えども、最終電車の通過した後の駅前は人影もまばらで、いつまでも歩いていたら、二人を探す者の目に容易く留まってしまうだろう。交通量の少なくなったこの時刻にタクシーで街を走り回るのも、得策とは思えない。
90余りあるホテルの客室が8割方埋まっているというのは、身を潜める者にとって都合がよい。そして、深夜に宿泊客を装って素通りするのが困難だと思われる、大仰なロビーもありがたい。
一人でフロントに向かうキノを追い越すように駆け込んだ涼醒が、先にカウンターに肘をついた。
何があっても誰にだろうと、午前1時頃にチェックインした若い男がいることを口外しないでほしい。そう言って金を渡そうとした涼醒に、初老のクラークは慇懃な笑みを浮かべ断言した。
「当ホテルは、お客様のプライバシーを脅かすような者を雇用致してはおりません。どうかご安心を」
リシールたちがキノたちのいる部屋に辿り着くために、ホテル側からの情報は期待出来ないだろう。ただし、彼らが正規の客としてここの廊下を歩くことが可能なのは、言うまでもない。
「奴らが、このドアの前を通ってからじゃ遅いんだ。早く上の部屋に行ってくれ」
涼醒はキノの傍らに立ち、静かな口調で説得を続ける。
「希音がここを動く気がないなら、俺が出て行く。この部屋に俺がいる方がいいが…仕方ない」
涼醒の溜息に、キノが顔を上げる。絡み合う視線の先にある顔は、二つとも同様の憂いに満ちていた。
「とっくに納得はしてるはずだ。護りを持って帰りたいんだろ?」
「…離れない、そばにいるって言ってくれたじゃない。なのに今…こんな時に、私をひとりにするの?」
責めるようなキノの言葉が、か細く途切れがちな声によって哀願へと変わる。
「涼醒がいなかったら、怖くてたまらない。守ってくれなくてもいいから…ひとりにはしないで…」
泣きそうな目に力を入れ、キノは涙を瞼に留める。けれども、まだ希由香のように上手くはいかなかった。
「守るために…今は離れなけりゃならないんだ。俺にとって一番大事なのは、おまえ自身の安全だ」
涼醒は、伏せたくなる目を押える。自分が流させているキノの涙を見るのは辛いことだった。けれども、焦点をぼかすことなく真直ぐに見つめる瞳から、思いを伝えられると信じている。
「もし、護りが明日の発動に間に合わなくても、俺はかまわないさ。たとえ力の護りとおまえと、どっちかしか守れなくてもな。だけど、希音はそうじゃないだろ? 俺と一緒にいてほんの少し安心することを選びたいわけじゃないなら、行くんだ」
キノが俯いて頭を振った。それが肯定なのか否定なのか、本人にすらわかってはいないのかもしれない。
「どうしても嫌だって言い張るんなら…警察に匿ってもらおう。それなら、希音も護りも無事だ。ただ、浩司が降りて迎えに来るまで出られなくなる。俺たちは自分を証明出来ないからな」
キノが再び顔を上げた。その瞳には新たな苦悩が見える。
「リシールは、警察に行ったらまずいんでしょう? 涼醒だって…」
「ほかにどうしようもないなら、行くしかないさ。だけど、それは本当に最悪の事態になった時だと思ってるよ。まだ…その時じゃないだろ?」
涼醒の落ち着いた声が、キノの心に響く。
「館の外にいるのが大人数だったら、そのうちここにも来る。俺がいる部屋を奴らは感知出来るが…俺ひとりが見つかっても何でもない。かえって希音は別の場所にいると思わせられるさ。あと3時間だけだ。4時になったら、館に向かおう。一緒にな」
キノは表情を緩めた涼醒を見つめる。そこにあるのは、もう自分のすべきことを決めている瞳だった。
「離れるのは、少しの間だけ…? 二人で館に戻れるよね…?」
そう言いながらも、キノの心を騒つかせる不安の塊は一向に大人しくならない。
「たぶんな」
涼醒がつぶやく。
「必ずとは言えない」
「…大丈夫だって言わないの?」
見開いたキノの瞳を見る涼醒の顔が、痛々しい表情になる。
「今は…もしもの場合も考えなけりゃならないんだ。希音の無事は大丈夫だ。でも、俺がそばに戻るのは…先になるかもしれない」
「どういうこと…?」
「もし、奴らがここに来たら、間違いなく俺を見つける。そうなれば、俺はどうにか逃げるしかないが…希音はこのホテルから絶対に出るな」
「そんな…じゃあどうするの?」
「浩司がラシャの者と降りるか、ラシャの者がイエルからの継承者を連れて降りるまで、部屋で待つんだ。ヴァイのリシールたちがこんな状況になっちまってる以上、希音が一人で館に戻るのは危険だ」
キノが眉を寄せる。
「護りは…? ラシャに降りるのが、2日3日後になるなら、浩司の祈りは…諦めるしかないの…?」
涼醒はテーブルに腰掛けて、キノを正面から見つめる。
「希音。よく聞いてくれ。最後の手段として、ジーグから言われてることがある。今回の発動可能期間が終わるまでに、ラシャに戻れないのがわかったら…おまえが護りを発動するんだ」
「え…?」
「浩司の祈りは、それが何か知らなけりゃ発動しようがないけど…何か発動すれば、護りはまたおまえ以外には見えなくなる。その方が安全だろ」
「でも…何を?」
困惑するキノに、涼醒が真剣な眼差しで続ける。
「おまえが決めていい。その後で奴らに聞かれたら、護りをラシャに戻すことを発動したとでも言えば諦めるさ。祈りが何だろうが、もうどうしようもないからな。万一、奴らに奪われそうになった時は、すぐに発動しろ」
「決めていいって…私が?」
「間に合わなくて無駄にするより、意味のある発動をした方がいい、希音に決めさせろとシキが言ったらしい」
「…何でもいいの?」
「無理なこともあるさ。現存するもの以外からの創造は不可能だし、ラシャを脅かす祈りは受けつけない。それに、過去に手出しも出来ない」
しばし宙を彷徨っていたキノの視線が、涼醒へと戻される。
「でも…まだ、間に合う可能性はあるでしょう?」
「もちろんだ」
「…ギリギリまで、発動はしない」
「そのためには、今どうするのがいいか…わかってるよな?」
キノが立ち上がってうなずく。
「奏湖さんに電話する前から、こうするつもりで…携帯を二つ買ったの?」
涼醒は微笑み、そして、その顔を歪める。
「俺は…希音のそばにいて、守りたいよ。離れるのは不安だ。おまえに何かあったらと思うと…おかしくなりそうだ」
額を両手で覆い目を閉じる涼醒に、キノがゆっくりと手を伸ばす。
「涼醒…大丈夫って言って」
キノの指先が、涼醒の髪に触れる。
「私、ちゃんとしっかりするから。自分が何をしなきゃならないか、何をしちゃいけないのか、忘れたりしない。だから、大丈夫だって、そう言って笑って…」
突然、涼醒はキノの腕をつかみ、自分の胸に引き寄せた。
「涼醒…?」
強い力で抱き竦められ、かろうじて発されるキノの声に、抗おうとする響きはない。
「頼む…少しだけ、こうさせてくれ」
抱き締める涼醒の腕は温かく、震えてはいなかった。
キノは涼醒の胸に額をあてて目を閉じた。自らの不安に、涼醒のそれが重なるのを感じる。
けれども、この獰猛な不安の塊が幾度心壁を打ち破ろうとしても、決して崩されることはない。確かな意志が心を強固なものにしているかぎり、二人が自分を見失うことはない。そして、その心が導くものを選んでいけるだろう。




