夢への手がかり①
仕事から帰ったキノが手を洗っていると、携帯電話のベルが鳴った。
「お姉ちゃん?」
「友理? 昨日はありがとう。ちょうど今帰って来たところ。私も電話しようと思ってた
んだ。どうしたの? 何かあった?」
「ううん。私は元気。また…見たの?」
友理の声の調子がおかしい。
「今朝の夢、2000年の大晦日の夜。二人で新年を迎えてた」
「4年前…来世じゃなかったね」
呟くように言う友理の声が、やはりどこかいつもとは違う。
「どうしたの? まさか…きみも見たの?」
「違うよ、全然そんなんじゃなくて…本当は、言いたくない。何か胸騒ぎがして。でも、きみが心配だし…」
キノは黙ったまま先を待つ。続く友理の言葉は、意外なものだった。
「橘湶樹ちゃんって憶えてる?」
「きみの同級生の?」
「そう、中学校まで一緒だったけど、その後会ったことはなかったんだ。なのに突然…昨夜電話が来たの」
「何て?」
「…きみに会いたいって」
「え?」
キノは耳を疑った。
「お姉さんに話したいことがあるから、30日の夜に行く。そう伝えてほしいって」
「明日?」
「どうして?って聞いたら、最近お姉さんに変わった様子ないかって…私、びっくりしちゃって。それから、きみに知らせておきたいことがあるって。彼女…何か知ってるみたいだった」
「…あの夢のことかな」
「私も一緒にって言ったんだけど、二人だけで話したいって。真剣な声だった」
「会うよ」
キノは迷わずに言った。
橘湶樹は、キノが不思議な夢を見続けていることを知っているのかもしれない。そして、話したいことがある。それが何か、キノには全く見当もつかないが、直感で思った。自分が知っておかなければならないことなのだと。
「ここに来るの? 住所教えた?」
「…聞かれなかった。知ってるのかな」
短い沈黙。
「何かあったら電話する。きみは、あんまり悩まなくていいからね」
「心配くらいさせて」
「ありがとう。じゃあ、またね」
通話を切ったキノは、湶樹の姿を思い出そうと試みる。
知っているのは小学校の頃までだった。小さな校庭で一緒に遊んだ記憶の中の湶樹は、妹と同じ歳とは思えないほど静かで大人びていた。端整な顔に、ほかの子とは少し違う空気を纏っていた少女。
あの娘が、何を…?
30日の夜。仕事から真直ぐ部屋に戻ったキノは、落ち着かない気分で来客を待っていた。集中できない本を閉じて覗いた窓の外には、街灯に照らされた歩道にいくつかの人影が家路を急いでいる。
今朝も夢を見た。浩司の部屋で二人、夕食を取り、抱き合って眠った。
浩司といる時、希由香は幸せそうだった。キノもそう感じている。けれども、それ以上に切なかった。現実にいる今でさえ、キノの胸は切なさに痛む。頭では様々な矛盾を抱えながらも、心が浩司を思っている。
キノの目が、こちらに向かって歩いて来る一人の女性に留まる。その姿がアパートの入口に消えると、キノは玄関に向かった。階段を登る足音が聞こえる。
チャイムが鳴る前に開いたドアの前で、キノは橘湶樹を出迎えた。
「橘さん?」
聞くまでもなく、キノは彼女を認識した。幼い頃の面影を残したままの湶樹が頷く。
「お久しぶりです」
キノは湶樹を中へと促し、キッチンにある椅子を勧める。キノのアパートの部屋は、リビングを兼ねるキッチンと寝室しかない。
「コーヒーでいい?」
「ありがとうございます」
二人はテーブルを挟んで向かい合った。
「私に、話があるって? 友理がびっくりしてた」
「突然来たら希音さんを驚かせてしまうと思って、友理ちゃんに伝えてもらったんです。それも、ちょっと強引でした」
「敬語じゃなくていいよ。キノでいい。子供の頃、遊んだじゃない」
湶樹が微笑む。
「私は、湶樹と呼んでください。キノさん、変わりませんね。明るくて気さくで。元気そうでよかった」
「湶樹ちゃんも。でも最近悩み事があるの。知ってるんじゃない? 昔話をするために来たんじゃないんでしょう?」
笑顔でそう言うキノの瞳は、真剣だった。
「キノさんに何が起きてるのか、具体的にはわからないけど、何かが起きてる。それが何故かは知ってるわ」
湶樹の瞳が真直ぐ前を見つめている。その先には、見開かれたキノの目があった。
「キノさん、私の話すこと、信じてください。どんなに信じられなくても、ばかばかしく思っても…本当のことだから」
キノは湶樹の瞳を見つめた。
信じられる。これから何を聞こうが、それが何だろうが、私は信じるってわかってる。だって、あの夢の意味を探してたのは、この私なんだから…。
キノはゆっくり深呼吸をする。
「話して」
「…世界はひとつだと思う?」
「え?」
唐突な問いに答えられずにいるキノに、湶樹が驚くべき言葉を続ける。
「三つあるわ。でも、ひとつはもう長い間時を止められたままなので、とりあえず、今は二つだと思ってください。もうひとつの世界とここは、もとはひとつだったの。暦は同じ日から数えられていて、時差が9時間あるだけ」
湶樹がテーブルの上の時計を見る。
「今、ここが2004年の9月30日の午後10時25分だと、むこうは10月1日の午前7時25分」
キノの目も時計へと向けられる。
「文明や技術の進歩も、こことほとんど変わらないらしいわ。行ったことはないけど」
「なのに、あるってわかるの?」
「私たちにとっては、普通のことだから。空に星があることや、地球が回ることと同じ」
湶樹へと戻されたキノの目は、驚きを隠せない。けれども、そこに疑いの影は差していなかった。
「私たち…?」
「リシールと言う…特殊な一族ね。二つの世界の間にラシャがあって、リシールはこの世界とラシャを繋ぐ道を守っているの。ラシャは空間にある塊のような場所で、高い精神エネルギーと力を持ち、地球を見守る者たちがいるわ。リシールにも力を持つ者はいるけど、人間よ。でも、ラシャの者は違う。人の姿をしてはいるけど…」
湶樹が不安気にキノを見る。
「こんな話して、頭がおかしいと思われても仕方ないかな…」
一旦、湶樹が言葉を切る。
「二つの世界が存在すること、間にラシャが在り、その道をリシールが守ってること。まずはそれだけ、信じて欲しい」
「信じるよ」
キノが即答する。突拍子もない湶樹の話を無条件に信じられるのは何故か、キノは自分でもわからない。
「続けて」
「一世紀以上前にラシャから失われた護りの石が、むこうの世界にあることがわかったの。でも、まだラシャに戻ってはいない。石の在処がわからなくて…。ラシャは、その場所を知り得る人間がこっちの世界にもいることを知って、探し、見つけたわ…キノさんを」
沈黙が流れる。
破ったのは、弱々しく頭を振るキノの溜息だった。
「護りの石なんて知らない。人違いだよ。今の話は信じる。きみが嘘を言ってるとは思えない。ここ以外に別の世界があって、人間じゃない何かがどこかにいて、石を探してる。それは本当かもしれない。でも、その石の在処がわかるのは、私じゃないよ」
黙ってキノを見つめていた湶樹が、ゆっくりと言った。
「ラシャが…キノさんの記憶を刺激しているわ」
キノの表情が変わる。
「あの夢を見せてるのは、きみ達なの? あの二人は誰なの?」
「あの二人…?」
湶樹が眉を寄せる。
「私にその夢の内容はわからないけど、それは…護りの石の記憶を呼び覚ますために見ているもののはずだわ」
「どうしてわかるの?」
「ラシャが、キノさんが知っていると確信する理由を私は知らない。ラシャは必要なことしか私達に言わないから。でも、私にもわかるの。キノさんが…石を見つけるわ」
キノが言葉を発せずにいると、湶樹が今まで以上に深刻な顔をして言った。
「キノさんに、どうしても知っておいてほしいことがあるの。石を見つけると言うラシャの意に背くことになるかもしれないけれど、キノさんは知っておくべきだと、私は思うから…そのために来たの」
キノの瞳が先を促す。
「護りの石は、力を持っているわ。この世界を壊せるほどの強い力を。ずっと昔は、石の力だけじゃそこまでは不可能だった。だけど、今の石には、それだけの力があるはずよ。その護りの石で、ラシャは世界を守って来た。石がラシャに無いこの百年余りの間は、ラシャの者の力を使って…でも、それには限界がある。だから、どうしても石の力が必要だって、彼らは言ってる。それだけが理由じゃないとしても…」
湶樹が長い黒髪を揺らす。
「彼らは、護りの石をラシャに戻そうと必死だわ。その力で何をするつもりなのか、私にもはっきりとはわからない。だけど、不安なの。恐怖と言ってもいい…感じるの。護りの石は、いずれ世界を変えてしまうかもしれない。キノさんには、それを知っておいてほしい。石を…見つける前に」
キノは、話の全てを理解してはいない。けれども、湶樹が自分に伝えたいことはわかる気がした。
キノに、護りの石が見つけられるかどうかではなく、キノが、その石を見つけるか見つけないかが重要なのだと。
キノが静かに言った。
「私に…選択権はあるの?」
「ええ。キノさんに、何も知らずに重大な決断をさせたくなかったから来たの。ラシャの者は嘘を言わない。でも、真実を全部話すわけじゃない。私にもわからないことは多いの」
「もし、私にその石の在処がわかるとして、それはなんで? どうして私が?」
「…そういう運命だと、思うしかないわ。私がリシールとして生まれたように」
二人は互いを見つめ、どちらともなく微笑んだ。
「湶樹ちゃんは…どうして、私が石を見つけるってわかるの? 」
「未来は人が作る。その中で、ほんのわずかに予感できるものがあるの。ほとんどの場合、感じるのは気配だけよ。直感に近いわ。闘者が相手の動きを読むように、鼠が沈む船を見捨てるように、起こるかもしれないことを事前に察知する。確実な未来を予言することは、滅多にないわ」
湶樹が、一度伏せた目をキノに戻す。
「近いうちに、ラシャからの使いが降りる。ここに来るわ。彼が話してくれるはずよ。キノさんの見る夢が何なのか。彼が何のために来たのか」
「ここに? そんな…」
「私が道を開くの。でも、私は来れない。彼らは、私たちがキノさんにかかわることで、石を見つける妨げになるのを案じているから」
「私に話してよかったの?」
心配そうに聞くキノに、湶樹が頷く。
「ラシャが護りの石を見つけられる人間を探し当てて、それがキノさんだと知った時、私に説明させてくれるように頼んだの。いきなりラシャの者が行くより、まず、彼女を知ってる私に話をさせてって。必要なこと以外は話さない方がいいって言われたけど」
肩を竦めた湶樹が時計を見やる。23時を回るまであと数分。
「そろそろ帰らなくちゃ。話を聞いて、信じてくれてありがとう。護りの石のこと、忘れないで。世界を左右するほどの重責を負わせてしまうかもしれないけど…よく言うでしょう? 運命は、持てない荷物をその背に乗せはしないって。私もそう思ってる」
湶樹が腰を上げる。
「会えてよかったわ」
「遅くなっちゃったし、送ってくよ」
「弟が迎えに来てるから、大丈夫」
湶樹が指さした窓の外に、彼女とよく似た青年が立っている。キノは湶樹に双子の弟がいることを思い出した。
「ありがとう」
玄関で湶樹を見送るキノが笑顔で言う。湶樹は少し驚き、微笑んだ。
「さようなら」
閉まったドアを見つめたまま、キノはしばらく呆然としていた。
考えることがあり過ぎる。わからないこと、聞きたいこと、知りたいこと。不安なこと。そして、今はまだ自覚するには到らない使命。頭の許容範囲を越えていた。それでも、キノがパニックを起こさずにいられるのは、精神力の強さだろうか。
キノの運命の謎を解くべき者が、もうすぐやって来る。