狩りの始まり①
涼醒は、険しい瞳で窓ガラスの外を凝視している。
「どうかしたの?」
キノが小声で尋ねる。
「朝通った道と違うな…。本当にN橋に向かってるのか?」
疑いの声を上げる涼醒をサイドミラーに捉え、運転手が笑った。
「タクシーは抜け道を通るもんです。心配しなくても、もうすぐそこだ。で、どっちにします?」
「どっちって、何がだよ?」
「お客さんたち…ラブホテルに行くんじゃないの? あそこに行きたいカップルは皆、N橋のところって言うからてっきり…」
「N橋の近くの家に用があるだけだ。女を連れ込む時だったら、もっと楽しそうな顔してるさ」
鏡の中で涼醒と目を合わせた運転手が、苦笑した。タクシーを路肩に停め、二人を振り返る。
「もうここがN橋だけど…この辺りでいいんですかい?」
キノは辺りを見まわした。
10メートルほど行った先の右手に、2、3軒あるラブホテルのネオンサインが煌々と光っている。けれども、館のある丘へと続く森どころか、橋らしきものの姿さえも見当たらない。
「橋はどこなの?」
キノの言葉に、運転手が微笑む。
「お客さん、地元の人じゃないね。N橋ってのは、昔あった湖にかかってた橋で、今はもうないんですよ。その跡地のことを、この辺の人間は何故かそう呼んでるんです。桜やなんかの木が植えられてて、春は賑わいます。池もあってね」
「それがここ?」
「そこに土手を降りる階段があるが…何せ広い場所でね。お客さんの行きたい家の近くに、ほかの目印はないの?」
「丘があって…そこを下りた大通りにあるバス停が、N橋って書いてあったから、近くにそんな名前の橋があるんだろうと思ってたの。その家の人も、N橋って言えばわかるって」
「ああ、そりゃあっち側だ。ここからじゃ建物に隠れて見えないが、向こうに小高い森がある」
運転手は左前方を指差した。
「私の早とちりから遠回りすることになっちまって…すいません」
「ううん、平気よ。無事に着けば、問題ないよね?」
キノが隣を見ると、涼醒は無言で前方に目を凝らしている。
「涼醒?」
「前の車…何か気になるな」
タクシーの30メートル前、ラブホテルの真向かいの路肩に、一台の車が停車している。
「バス停は、この反対側なんだろ? そこに行く前に、あの車の横…出来るだけゆっくり通ってくれないか」
涼醒がそう言うと、運転手は怪訝そうな顔でうなずいた。
「希音、頭引っ込めてろ」
キノは言われた通り、運転席のシートの陰に身を屈める。涼醒も同じように頭を下げ、左に目を向けている。
発進したタクシーは、しばらくの間のろのろと走り加速した。身体を起こす涼醒を見つめながら、キノもそれに倣う。
「涼醒…?」
「…リシールが二人乗ってた」
キノと涼醒は同時に後ろを振り返った。追ってくる気配はない。遠ざかる車が、闇に飲み込まれて行く。
「あの車がどうかしたんですかい?」
二人の様子を見て、運転手が尋ねる。
「何でもないんだ。喧嘩してる友だちの車に似てたから、会いたくない奴らが乗ってるかと思ってさ。でも、違ったらしい」
涼醒は前に向き直り、息をついた。運転手がおかしそうに笑う。
「お客さんたちくらいの、若いカップルでしたよ。ホテルの前まで来て、喧嘩でもしたんでしょう。そういや二人とも、じっとこっちを見てたな」
キノと涼醒の視線が絡む。
「大丈夫だ」
口を開きかけたキノの手を優しく握り、涼醒が囁いた。
5分足らずで、今朝奏湖の車で通った大通りに出た。見覚えのあるバス停留所の標識が見えて来る。
「バス停のところでいいのかい? 何だったら、その家まで乗せて行きますよ。回り道したお詫びにサービス料金で」
タクシーの速度を徐々に落としながら、運転手が言った。
「…その先を右に入って、少し行ったところで停めてくれ」
涼醒の指示した場所で停まったタクシーの左手に、鬱蒼とした森へと続く道がある。そして、その先には、闇への入口のような門があった。
鉄柵で出来たその黒銀の扉は、わずかに口を開けているように見える。
「あの門…夜は閉まってるって、奏湖さん言ってたよね…」
キノが静かにつぶやいた。その心が感じているのは、嫌な予感ではない。目前に迫るつつある危機への警告だった。
「この後はどうします?」
呑気な声で尋ねた運転手が、窓の外を真剣に見入っている二人の姿に眉を寄せる。
「お客さん?」
「運転手さんなら…この辺りの地理には詳しいはずだし、運転にも自信あるよな?」
涼醒が、努めて自然な調子で言った。
「そりゃあもちろんだが…いったいどうしたっていうんです?」
「少しここで待っててくれないか? すぐに戻る」
「何かまずいことでも?」
「仲間とゲームをしてる。捕まらずに、早く家に着いた方が勝ちなんだ。鬼がいないかどうか…見て来るだけさ」
「…揉め事は困りますよ」
「それなら心配要らない。警察を呼ぶようなことは起きない。ただの鬼ごっこだからな。金は今払う」
涼醒が多めの金を手渡すと、運転手は呆れ顔で笑い、後部座席のドアを開けた。
「すぐ出せるようにしときますかい?」
「そうしてくれ…。馬鹿げた遊びにつき合わせて悪いな」
タクシーから降りた涼醒は、キノの手をしっかりと握る。
「希音、奴らがいたら、全力で走れ」
「わかった」
それが道のどちらに向かってなのか、確認の必要はなかった。
この暗闇の森の中、追っ手を躱しながら2キロの道のりを館まで走り抜けることが可能だと思うほど、キノの思考は不安に冒され麻痺してはいない。




