記憶の中で①
★★★
濡れた髪をタオルで拭きながら、希由香は洗面台の前に立っていた。
鏡を見る希由香の目には、見慣れた自分自身の姿が映る。けれども、キノにとっては初めてしっかりと見る希由香の顔。
血が繋がってるわけじゃないし、歳も離れてるけど…顔の造りも違うのに…何となくどこか似てる。そう思わせるのは何? 魂の他に希由香と私に共通するところが、確かにあるような気がする…。
希由香はドライヤーの温風に煽られる髪を指で梳く。
髪が…短い。いつから? 浩司といる頃は、長かった。彼にかかる栗色の髪を憶えてる。もう…あの指の感触を知る髪はないんだ…。
乾いた髪に櫛をあてると、希由香は鏡の中の自分を覗き込んだ。化粧をしていない青白い顔が、正面からキノを見返している。
瞳は静かだ。心も…。どんなに切なくても、浩司を思って泣く夜は、もうないのかもしれない。それは、彼への気持ちを忘れる覚悟が出来たからじゃなく…彼を愛する自分の心を無理に変えることなんて不可能だって…認めたから。自分の中にあるかぎり、心だけはいつだって自由で、そして…手には負えないものだから…。
ずっと無表情だった希由香が、ゆっくりと微笑んだ。
希由香…。
キノはその笑顔を凝視する。
自分に笑いかけることは…私もする。頑張ってる自分を褒めて労ってあげると元気が出るし、笑顔は、それを見る人と笑う人両方の心を癒す効果があるって聞いたこともある。だけど、今の希由香が微笑んでるのは、そのためだけじゃない。それは…。
突然、目の前の鏡が何か強烈な光でも反射したかのように、キノの視界が眩んだ。
希由香ではなく自分自身の額に燃えるような熱さを感じ、キノは震撼する。閉じられない瞼の向こうが暗くなる。
熱い…何で…!?
わけのわからぬままラシャにある自らの身体に戻りかけたキノの意識が、再び希由香の記憶に同調する。
視界が…戻った!? ここは…?
走り去るバスの姿を目で追っていた。見上げた空から、雪の結晶が落ちて来る。厚い雲の切れ間には、まだ低い位置にある白味を帯びた太陽が見える。
さっきの熱さ…今はもう消えてる。希由香のじゃなく私自身の額に感じた…。記憶は途切れたけど、また戻れたってことは、大丈夫なの…?
肺に取り込む空気の冷たさに、希由香が身震いする。
今の時期、上空から地上に戻る水分のほとんどが白い固体へと姿を変えるこの地の冷気は、希由香にもキノにも馴染みのないものだった。
真冬の朝。肌を刺す風も髪を撫でる雪もまるで気にする様子はなく、希由香は黙々と歩いて行く。
ホテルを出てから、まだそんなに経ってないはず…。真直ぐ帰らないとは思ってたけど、どこに行くの…? 海とは逆の方向みたい…。
駅前から南に延びる大通りを脇道に入る。車両の往来も道行く人の姿もない、閑散とした住宅街。
ここはどこ…?
希由香は左右に目をやりながら、路肩に固まる雪を踏み締め続ける。時折、家々の間に四角く真白い絨毯が現れる。それらはまだ当分の間日光を浴びることのない空き地に代わり、寂し気な銀色に光っている。
行き先に…あてはあるの?
来た道を引き返したり、道の途中で立ち止まったままぼうっとしたりする希由香に、キノは少し不安になる。
希由香の心に接近し過ぎたら、また倒れそうになるかもしれないけど…今何を思ってるのか知りたい…。
キノがそう思い始めた時、希由香が足を止めた。ある家の門の手前で立ち竦む。
そう…だったのか…。
コートのポケットに入れた手の先が、ひんやりとした小さく硬いものに触れる。
浩司を…愛してる。自分の代わりに誰かが彼を救ってくれることを祈った。そして、自分の代わりに彼を守ってほしいと願い、これをここに…。
石垣に囲まれた敷地の開かれたところ。石柱の門の内側の植え込み。自らの手から離す直前に今一度口づけた小さな石を、希由香はそっとそこに置いた。
どうして…浩司が今住んでいるあの部屋じゃなくここなんだろう…。浩司の闇はここから始まったって…希由香は知ってたの? それとも、たとえどこに住もうと、彼の心を苛む何かはここにあるって…感じてたの…?
黒い光を放つ小石が、希由香の目に映っている。発動された力の護りは希由香の手を離れ、今は白い雪の積もる石塀の陰にある。
とうとう見つけた…護りはここに置かれて…今もここで、発動が終わるのを待ってる…。
踵を返して歩き出した希由香が振り返る。一見、取り立てて変わったところのない普通の家を見る。けれども、希由香にとってはまわりのどの家とも違う、特別な場所。
護りの眠るその家の入口には、『榊』の表札が掛かっていた。
浩司、見つけたよ…あなたの家に、護りが…。
一瞬、まるで焼けた鉄製の火掻棒を押しあてられたかのような痛烈な熱さが、キノの額を掠めた。
熱い…! さっきも感じた、この熱さはいったい何なの!? 浩司に何か…?
額に受けた熱の衝撃が、キノの視界を二重にする。雪のちらつく白い景色を、たちまち闇が覆い尽くす。
キノの額の熱が消えた。
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