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ラシャの使い

      ★★★


「必要って何だよ。俺がいなけりゃ息も出来ないとでも言うのか?」


 浩司の言葉に、希由香が激しく頭を振る。その目から(あふ)れる涙が、次々に頬を伝い落ちていく。


「俺がいなくなったら生きていけない女になるなら、もうここには来るな」


 希由香は声を出さずに泣いていた。込み上げる嗚咽(おえつ)の全てが涙に変換されているかのようなしずくを、ただ静かに流し続ける。


「浩司に少しでも必要とされるものに、なりたかっただけ…」


 声の震えを抑え、希由香が言う。


「セックスの道具にしようが、寒い夜の暇つぶしにしようが、それだけだ」


「かまわないよ」


 明け方の薄暗い部屋。濡れた希由香の二つの(ひとみ)が、弱々しい光を放つ。


「おまえには無理だ。俺を愛さない女…気が向いた時だけ気楽に、お互いをただのオモチャに出来る女。そういうものに…おまえはなれない」


 目に映る浩司の姿がぼやけて行く。希由香は(まぶた)を強く閉じ、涙の(まく)を払う。


「嫌になったら、すぐに言って」


「…なったらな」


「どうして今言わないの?」

 それには答えず、浩司は背を向けた。希由香が両手で顔を覆うと同時に、キノの視界が暗転する。


      ★★★

 



 コウの声が聞こえて来る。


「キノさん、大丈夫ですか?」


 キノが目を開けると、浩司の顔が飛び込んで来た。けれども、(ゆが)んで見えるその()は、ついさっきまで見ていたものとは違う。


「コウ…」


 自分自身の頬も濡れていることに気づき、キノはティッシュで顔を(ぬぐ)った。


「私、ずっと泣いてた?」


「はい」


 すっかり定位置となったキノの向かい側の椅子に、コウが腰を下ろす。


「何度か、途中で止めようかとも思ったんですが…」


「いいの。気にしないで続けて。そんなことしてたら、この先きりないよ」


 キノは目をつぶり、目頭に指をあてる。


「もうすぐ…終わるの?」


「はい」


「浩司からの情報もあるって言ってたよね。コウは知ってるんでしょう? いつどうやって、二人が別れたのか」


「…大体は」


 言いづらそうな口調でコウが言う。キノが目を開けると、コウは伏せていた目をゆっくりと上げた。


「浩司が護りを探すのに協力する理由は? 何か知ってる?」


「わかりません。ただ、自分でなければ出来ない、すべきことをするのだと」


「今、どこで何をしてるのかな…」


 そうつぶたいたキノを、コウは無言で見つめている。


「今日で3日目か。あと3日経ってわからなかったらどうするの? 当日まで、更に3日あるんでしょ?」


 沈黙が二人を包む。


「聞かされてないってどういうこと? またラシャから誰か来るとでも言うの?」


「わかりません」


 (うつむ)いたコウの顔に、疲労と苦悩の色が浮かんでいる。キノは溜息(ためいき)を飲み込んだ。


「あと3日あれば思い出せる。コウのおかげよ。役目は果たしてるじゃない」


 キノの作る明るい声に、コウが微笑む。


「もう遅い時間です。休んでください」


「コウこそ、この3日間ちゃんと寝てないでしょう? ベッド使っていいって言ってるのに」


「優しいですね。私は大丈夫です。普通の人間とは違いますから」


「でも、疲れてる。横になった方が楽だよ。一晩中ここに座ってると思うと、何か…いたたまれなくて」


「浩司の姿は、影響力が大きいですね」


「そんなんじゃないよ。コウ自身のことが心配なの。無理はしないでね」


「わかりました」


 キノが笑顔で立ち上がる。


「おやすみなさい」


「よい夢をと言いたいところですが、夢は見ないはずです。安心して眠ってください」


「ありがとう」

 

 キノが寝室に消えるのを見送ると、コウはキッチンの灯りを消した。流しの横にある小さな明かり取りの窓を見つめる。数時間後に迎える朝陽はまだ遠く、目隠しガラスからの街灯の光が、室内を陰鬱(いんうつ)に照らしている。


 およそ1時間が経とうとする頃、彫刻のようにじっと座り続けるコウの視界が背後から明るくなった。コウが振り向くと、開いたドアの前にキノが立っている。


「どうしました?」


「コウ…」


「どこか具合でも?」


「…今夜だけ、一緒に寝て」


 立ち上がったコウの目が、キノの視線を真正面から(とら)える。その()は、痛々しいほど真剣だった。


「私は浩司じゃありません。それでも?」


「目をつぶると、浩司の(ひとみ)が浮かんで来るの。冷たくて暗い、闇の()が…恋しいのに、怖い…でも、もうすぐいなくなっちゃうのは、もっと怖いの」


 コウが、静かにキノへと近づいて行く。


「私には、何も出来ません」


「わかってる」


 キノの前で足を止め、コウは四角い銀灰色の窓を振り返った。そして、キノへと視線を戻す。


「もう一度だけお聞きします。今でも、浩司に会いたいと思いますか?」


 ひと呼吸おいて、キノがうなずいた。


「わかりました。あなたのそばにいます」




 コウは、(かたわ)らで眠るキノを見ている。閉じた(まぶた)の奥に強い(ひとみ)(よう)するとは到底(うかが)い知れない、あどけなさの残る寝顔。キノが世界を左右する使命を身に負うのは、誰が導く運命なのか。

 静寂の中、時計の針が時を重ねる音だけが響く。


 規則正しいリズムにカチッという異音がひとつ紛れ込むと、コウはその発信源に目をやった。午前5時丁度。暁が近い。

 ベッドから降りようとしたコウは、身を(まと)う布が引かれていることに気づき微笑んだ。その(すそ)を握るキノの手をそっとほどき、ゆっくりと立ち上がる。


「コウとしてあなたの前にあるのは、これが最後です」


 そう(ささや)きながら上体を(かが)め、コウはキノの額に唇をあてる。


「さようなら…幸運が、あなたとともにありますように」 


 無の眠りの中で、キノが(かす)かに身じろぎをする。コウはキノから離れると、静かに寝室を後にした。




 キッチンは、昨夜と同じ闇の中にあった。開け放つ窓から、ひんやりとした空気が流れ込む。コウは微動(びどう)だにせず、明けの(きざ)しを東の空に待つ。


 30分余りの時が経過した頃、太陽に先駆(さきが)けて、街を覆う空の(はし)が夜明けの色を映し始めた。濃紺から薄紫へ、そしてピンクから黄銀へと、見事な朝焼けが、コウの瞳を染め変えて行く。

 突然、コウの身体が震え出した。2、3歩後退(あとずさ)りながら、頭を抱え床に崩れ落ちる。そして、その足下に陽が影を作るまで、コウは(うずくま)ったまま動かなかった。


 ふらふらと立ち上がったコウがようやく椅子に落ち着くと、ドアの向こうで目覚ましの音が鳴り響いた。コウは頭を振って顔を上げる。

 開かれたコウの目は、その(ひとみ)の奥に、暗く深い、浩司と同じ闇を宿していた。




 キノの携帯電話がメールの着信音を鳴らしたのは、夕方の休憩から戻る途中だった。友理からのメッセージに、電話番号が添えられている。 


『湶樹ちゃんの家の電話番号だよ。もう少し詳しいこと、聞いてみた方がいいと思って。何かわかったら連絡してね』


 キノは近くの壁に寄り掛かり、画面に並ぶ数字を見つめる。


 そうか…何で思いつかなかったんだろう。彼女に聞きたいこと、いっぱいある。そう言えば、私、湶樹ちゃんが普段何してるかも知らない…。とにかく、帰ったらすぐ電話して…でも、コウが何て言うかな。確か湶樹ちゃんが言ってた…ラシャはリシールがかかわるのをよく思っていない、とかって。コウは、ダメですとは言わないと思うけど、やっぱり…。


 キノは携帯をバッグにしまい、ぼんやりとした()で歩き出す。


 今朝のコウ、何となく様子が変だった。わざと目が会うのを避けてたみたいで…気のせいかな。私が、そばにいてとか言って困らせたから? でも、昨夜(ゆうべ)は本当に、ひとりでいるのが怖かった…。


「キノ!」


 店の前で、美紅が手を振っている。隣にいる男が振り返る。


 誰? どこかで見たような…。


「もう休憩は終わり?」


「うん。でも、今お客さんいないから、少しなら大丈夫」


 美紅に答えながら男の顔を間近に見たキノは、アッと声を上げた。


「きみは…湶樹ちゃんの?」


「はい。ちゃんと会うのは初めてだな。涼醒(りょうせい)です」


 キノは、笑顔で頭を下げる涼醒(りょうせい)をまじまじと見つめる。双子と言っても一卵性ではないはずだが、湶樹とよく似た端正な顔立ちをしている。そして、涼醒の(まと)う雰囲気は湶樹のそれ同様、独特のものだった。


「キノの店の前通りかかったら、涼醒(りょうせい)君が中を(うかが)ってウロウロしてたの。聞いたら、キノを探してるって言うから、一緒に待ってたんだ。知り合いだなんて、びっくり。彼、この間の合コンで大人気だったんだよ」


「美紅さんの眼鏡には(かな)わなかったみたいだけど」


「お互いにね。キノに用事なんでしょ? 私は店に戻るから。キノ、今度ゆっくり話聞かせてよ」


「ありがとう。またね」


 美紅の後ろ姿が消えると、キノは改めて涼醒(りょうせい)と向き合った。


涼醒(りょうせい)君、だよね。私に用って…湶樹ちゃんが何か?」


「あなたが話したがってるみたいだから、聞いて来てほしいって頼まれた。仕事の後で時間があるなら、俺が連れてくよ」


 キノは驚きで声が出ない。湶樹に電話しようかと考えたのは、ついさっきのことだった。リシールの持つ力とはいったいどういうものなのだろうか。


「どうした? 湶樹に話があるんだろ?」


「何でわかるの?」


 涼醒(りょうせい)が鼻先で笑う。


「あいつの力は特別だからな。俺なんかとは違って。とにかく、来るのか来ないのか、どうするか決めてくれ」


「えっと…どこに?」


「俺たちが住んでる家さ。湶樹は当分の間、そこから離れられない」


 新たに湧き上がる疑問を、キノはとりあえず無視するしかなかった。今聞き出したら、止まらなくなってしまうだろう。


「私…湶樹ちゃんと話したい」


「わかった。何時に退()ける?」


「今日は早番だから、7時半には出られる」


「その頃、裏で待ってるよ」


 涼醒(りょうせい)が去った後、キノはしばらく呆然と立ち尽くしていた。


 やがて我に返ったキノは、コウのことを考える。

 一度家に帰り、湶樹と会うことを知らせてから行くべきか。あるいは、内緒にしておく方が、リシールである湶樹には都合がいいのだろうか。けれども、それはコウを裏切ることになりはしないか。


 考えることがあり過ぎる。あっという間に7時を回った。

 デパートの店員ほど、時間の経つのが遅く感じられる仕事はない。ほんの2週間足らず前までそう思っていたことが、今のキノには嘘のようだった。


 キノは手早く着替えを済ませ、足早に通用口へと向かう。その先にはリシールが、そして、長い夜がキノを待っている。


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