36日目. 引越し、まだ終わってないですよ?
「いらっしゃいませー……あ、お待ちしておりました! どうぞこちらに!」
「ありがとうございます」
STBの吉岡さんはかなり分厚くなっている書類の束を手に持っていた。
吉岡さんに言われるまま僕たちは席に座り、同じく吉岡さんが入れてくれたお茶をいただく。外では風が吹き身体が冷えていたため、この温かさは骨身に染み渡った。
「さて、と。今回はまず重要事項の確認ですね」
吉岡さんは資料を僕たちに手渡し、物件の概要を説明してくれた。隅っこにいる猫の絵が可愛らしく良いアクセントとなっている。(ただしこのイラストは本物件とは一切関係ない模様)
「えっと、秦野さんの購入物件はこれですね。近鉄奈良駅から徒歩20分の5LDK一戸建て」
「改めて見ると凄い物件ですよね」
「本当ですよー。立地も悪いですし事故物件だしと悪条件が重なりに重なってて……「こんな物件誰が買うんだ!」って上司に言われ続けてたんですけどまさかすぐに買ってくれる人が現れるとは思ってなかったです」
「仕事場から近かったのと、何よりお値段が安かったですから」
「それでもあんな事故物件買わないですよね。今まで買った人は全員転居したっていわく付きの物件なのに」
「あー……そうですねー」
僕は視線を遠い宇宙へとぶん投げた。その事故の原因が隣に座る少女だとは夢にも思うまい。
「? あの家なら昔電話を」
「メリーさん、湯呑の中に茶柱が立ってるぞ」
「あ、本当なの!」
余計なことを口走りかけるメリーさんの関心を茶柱に向け何を逃れる。
「お、新居購入前に演技がいいですねー! 続けて物件情報言っていきますね」
「あ、話を折ってしまってすみません」
「いえいえ。で、お値段は940万円のところ、特別に900万円でとの指示が入ったので900万円になります」
「えっと……値引きして頂くことは非常に嬉しいんですが、その指示は一体誰から……?」
「野村さんからですね」
「あぁ……」
あの店長、職権乱用しやがって! とここで言えるはずもなく、僕は頭を抱える。絶対貸しを作るためだけにここまでしている気がしてならない。
その借りの返し方は先日送られてきたメールから推して知るべし。有無を言わせぬやり方には一周回って清々しさを感じるほどである。
だが、ずっと店長の企みにうなされている訳にもいかないため、吉岡さんに説明を続けてもらう。
「一応事前確認は以上ですね。ここまでで何かご不明な点はありませんか?」
「いえ、問題ないです」
「ではこの物件をご購入になる、ということでよろしいですか?」
「はい、購入させていただきます」
「分かりました。ではこちらの書類にご記入の方よろしくお願いします。ちなみに印鑑証明書の方はお持ちですか?」
「はい、これでいいですか?」
こんなこともあろうかと印鑑証明書は予め取っておいたのだ。
「大丈夫です。あとはそこに実印を押していただいて、はい、これで売買契約は成立ですね。手付金と仲介手数料だけいただけますか?」
「了解です」
僕は封筒に入れておいた現金(数十万円)を手渡す。吉岡さんは金額を確認すると「はい、ちょうどですね。これで売買契約は成立です」と笑顔で言った。僕は胸をほっと撫で下ろす。
が、それはまだ許されなかった。2つ目の関門が僕たちの前に立ち塞がった。
「あと必要なのはローン審査ですね。野村さんからの推薦もありましたが、一応確認は取らさせてください」
「え、いきなり仮契約に行くんじゃないんですか?」
友人の話ではそうだった気がする。
「あぁ、そんなことするのは今どき悪徳業者くらいですよ。普通の会社はお客様と手を取り合って物件をお選びするのが基本です。なんといっても、我が社のモットーは『お客様第一』ですから」
「なるほど……」
僕がアパート契約した際は大家さんと直接契約したからなぁ……物件購入なんて初めてで勝手が分かっていない。……あと僕の友人が急に可哀想になってきた。元気でいてくれと願っておく。
「という訳でこちらの用紙をご覧下さい」
僕は吉岡さんから資料Part2を受け取り、内容を確認する。
確認事項は年齢、収入、就職先、健康状態、家族構成、借金の有無の6つだ。
「ではまず年齢から。年齢は29歳でよろしいですか? 確認のため身分証明書を提出していただきたいのですが」
「えっと……はい、免許証でいいですか?」
「ついでに保険証も出していただけるのありがたいです」
「あ、分かりました」
僕は免許証と保険証を渡し、吉岡さんは確認し終わるとすぐに返してくれた。
「はい、では次は収入と就職先なんですけど、こちらは野村さんから事前に書類を受け取っているので大丈夫です」
「あ、はい」
こんな所でも根回ししやがって! とはやはり言えない。ここまでくると視察以外にも仕事を押し付けられそうである。
そんなこととは露も知らない吉岡さんはローン審査について話を進める。
「健康状態は……問題なさそうですね」
「去年の健康診断の用紙は持ってますけど」
「確認します……問題ないですね。OKです」
ちなみに少し痩せ気味なだけで他は至って健康優良児である。
「では家族構成ですね。一応その子は……」
「はい、弟子ですね」
「一緒に住んでるの!」
「前々から思ってたんですけど、何の弟子なんですか?」
「えっと……旅行業務取扱管理者もとい旅行の師弟関係といいますか」
あ、吉岡さんの顔が少し曇った。
「あの、別にやましいことはなくてですね! ただの師弟関係ですから!」
「師匠は凄いの! 色んなことを知ってるし、私にも色々なことを教えてくれるの! おかげで毎日の生活が楽しいの!」
「えっと、最寄りの児童相談所は、と」
「吉岡さん!? 今の言葉のどこを取ったら児童相談所へ電話しようって考えになるんですか!?」
吉岡さんの手元のスマホをどうにかして押さえ込み、何とか宥めようとする。傍から見れば僕がスマホを奪い取ろうとしているようにも見えなくもないが、今はそんなことを言ってる場合ではない。僕が犯罪者扱いされるかされないかの瀬戸際なのだ。
「……秦野さんの人柄は野村さんからよく聞いてますし、彼女の親からの了承があればOKにします。ちなみに彼女の親はどういった方なんですか?」
「仲夢外務大臣ですね」
「………………え?」
吉岡さん、目が点になった。そりゃ誰でも驚くでしょ、目の前の子が外務大臣のご子息だったら。僕も初見ならおそらく驚く。
「……本当ですか?」
「本当ですよ。電話致しましょうか?」
「いえ、やっぱり問題ないです。次行きましょう次」
吉岡さんは食い気味に話題を変更してきた。そんなに嫌なのかな。……と思ったが、嫌というよりも怖いというのが本音だろう。僕も嫌だというより怖い。
「あとは借入の有無ですね。今現在他に借金などはしてますか?」
「一応今住んでいるアパートに家賃は払っています」
「その契約書はありますか? あと無いとは思いますが滞納等は……」
「契約書契約書……あ、これですね。滞納は一切ないです。大家さんから言質取ってきました」
「おお……これは御丁寧にありがとうございます」
苦笑いしながら契約書を確認する吉岡さん。別に笑うことは無いだろうが、確かに少しやりすぎだったかもしれない。
「……はい。これでローン審査は合格ですね。ローンは30年のものと35年契約のものがありますけど……どうしますか?」
「30年の方でよろしくお願いします」
「分かりました。ではここに実印を押していただいて……はい。これでローン契約も完了ですね」
ここでようやく僕は胸をほっと撫で下ろすことができた。メリーさんは……さっきから熱心に本を読んでいるみたいだ。勉強熱心な弟子である。
「後は引渡だけですね。半月後にまたここで鍵を渡して、それで契約完了です。残金と仲介手数料の半額、それに固定資産税の精算金を忘れずに持ってきてくださいね」
「分かりました。ありがとうございます」
「ありがとうございますなの!」
「いえいえ、ではまた半月後に」
店内から外に出ると、春の奈良では珍しく雪が降っていた。メリーさんは袖の中に指を入れて暖を取ろうとしている。
「こんなに寒かったっけ?」
「天気予報では7℃って言ってたの」
「そうだっけ……」
奈良で雪が降るなんてよっぽどの事がないと有り得ないんだがなー。やっぱり今日は寒かったのか。
って、そんなことは今はいい。
「他に何しなきゃいけないんだっけ? 引越しの家具はそのまま持っていくし……」
「小学校なの!」
「あっ………………忘れてた」
……何とかなってくれ。僕は責任を天に放棄した。
「……責任は師匠がとるものなの」
「はい、すいません」
メリーさんの鋭い視線が突き刺さる。……やっぱりダメでした。
物件購入なんて今までにしたことがないので色々調べながらの執筆作業になりましたが、間違い等あれば言ってください。全力で直させて頂きます。
あと、18話以降でメリーさんっぽさを出すためにちょこちょこっと改稿をしたので良ければ見ていってください。
次回は日曜日投稿予定です。




