バートリ・エルジェーベトの一途
“こんにちは”かしら。それとも“こんばんは”でしょうか。
いつも私は、あなたへ向けるあいさつに迷ってしまうんです。
久し振りにあなたに向けて手紙を書いています。
本当に何ヶ月振り……いえ、もう一年以上も書いていなかったような気がします。あの頃と違うのは、私が手にしているグラスに満たされているのが紅茶ではなく赤ワインであることと、私自身の変化くらいでしょうか。
通信手段も様々に発達している昨今、贋物を防止するための書類ですら電子化されているというのに、紙にペンという前時代的なツールをわざわざ使って私信をしたためるなど、よほどの趣味人でもなければしないでしょう。
こんな時代にあえて私が手紙を書いて送っていたのは、あなたの生活を邪魔したくないという気持ち、そして私があなたの視線に晒されるのをいまだ恐れているということ。それから、私との会話によってあなたの感情を損ねた様子を知ることのないように――少なくとも、手紙ならお互いの表情は見えませんから――そういった私のわがままな事情によるものでした。
あなたと私は学生の頃――そう、まだお互い未成年だった頃に出逢いましたね。
それから私はずっとあなた一筋。なのに恋人としてはよそよそしい態度しか取れず、あなたはいつもそれを不満に感じるようでした。
特に私には対人恐怖症というのか、人に話し掛けられたり、または私の顔を見られたり声を聞かれたりすることを苦手としており、恋人であるあなたに対しても、そのせいでよそよそしく距離を取ってしまうのです。
あなたは決して口には出しませんでしたが、いつまでも清い交際であることを不安に思っていましたよね。私もそれは申し訳なく感じていましたが、何しろ恐怖の方が強くてどうしても一歩踏み出すという勇気が持てないのでした。
「お互い燃え尽き果てて、真っ白な灰になるのもいいものだろうな」などと時々、あなたが面白おかしく語る男女の仲のことは、私がそれに対して恐怖を抱いていると思ったからなのでしょう。
こんな私のことが、それでも好きだからと言ってあなたは数年お付き合いを続けてくれましたが、就職という名目で遠く離れた地へ移動することになり、私を置いて行ってしまいました。
その時も別れるとははっきり口にはせず、私が住所を訊いても特に嫌な顔などせずに書きつけて渡してくれましたね。
私は月に一、二回手紙を書き、あなたはたまにそれに返事を送って来るという生活が始まりました。
その頃は私も事務職に就いていましたが、やがて私は就業時だけではなく出退勤の間に感じる他人の視線にも疲弊してしまうようになり、次第に部屋から出られない状態になって行きました。
とにかく人の眼が怖いのです。
人の多い昼間に働くことは無理だとようやく自覚し、医者からもそのように診断を受け、人の少ない夜間にできる仕事を探しました。
とはいえ水商売などは当然人目に晒される商売ですので、私には無理です。
そこで運送業の倉庫などの人員として面接に行きましたが、そこでも同僚の――特に男性から――声を掛けられるたびに苦痛を感じていたのです。
制服は硬い生地の作業服ですからあまり体型もわからず、比較的気にしないでいられましたが、視線恐怖症とでもいうのでしょうか、私はこちらを見られること自体が恐ろしく感じられて、やがて伊達眼鏡を掛けるようになりました。
あなたがそれを聞いたら笑ったことでしょう。いつも私のことを「鼻梁が低いから眼鏡が似合わない。視力を落とすなよ」と言っていましたよね。
しかも、あなたが一番似合わないだろうと言っていた黒縁の伊達眼鏡です。
でも似合わなくていいのです。見苦しければ見苦しいほど、人は私の顔など見なくなるでしょうから。
それでも多少減ったというだけで、相変わらず作業中、休憩中に関わらず声を掛けられることはありました。
やがて、同僚のうちの誰か――多分、私に声を掛けて来る同僚の男性のことを密かに想っているような女性の誰か――が、人事部に報告したのでしょう。私ひとりが人事部に呼ばれ、『風紀を乱すな』というような意味のことを言われました。
でも上司も、部屋に入って来た私をひと目見て困惑したようでした。
「きみは――」と言ったきりしばらく値踏みするような視線で私を眺めまわし、当然私にはその視線も苦痛でしたが、上司ですから、必要に迫られての確認なのだと自分を納得させてその数十秒を耐えていました。
上司はマニュアルを読むような説教をひと通りしたのち、コホンと咳払いをひとつしてから、最後に「――きみも、誤解を受けるような真似は慎むように」と言って私を追い返そうとしたため、私から部署の異動を申し出てみました。
「人目にあまり晒されないような部署はないのでしょうか?」と訊くと、上司は少し眼を丸くし、「なるほど……」と考え込んでしまいました。
身の程知らずだったかと恐縮し訴えを下げようとした私に、上司は片手を上げて言葉を止めると、「きみに合うかどうかはわからんが、いつも人手不足の部署があるので、そこへ異動してみるかね?」と提案してくださったのです。
私の顔があまりにも蒼白だったため、案じてくださったのだと思います。
その部署は、大雑把に言えば荷物の配送員でした。
私たちが日々仕分けしている様々な荷物を、実際お客さまにお届けする係です。
ええ、あなたも知っての通り、今ではわざわざ人が自動運転車に搭乗して一軒一軒送り届けるなどという宅配業者はほとんど存在しません。
私たちが普段利用している動く道も配送管も整備されていない郊外の更に外れの地域。もしくはかつてあったとしても、なんらかの事情で故障も破損もそのまま放置されている、再開発から外された場所。
オートカーを利用しての配送は、そういった地域でしか行なわれていません。
しかもそういう地域は未だに治安の悪い箇所も多く、私のような女性は――男性でも腕に覚えのある者以外は――配置されないのが暗黙の了解です。
もちろん、私が配置された部門はそういった危険な地域を担当しているわけではありません。むしろ正反対でした。
今や人件費をわざわざ掛けてまで対面式の配送を望むのは、一部のお金持ちにのみ許された特権であることはあなたもご存知でしょう。
私がそれまでいたのも同じく、機械には任せられないこわれ物や貴重品などをわざわざ人の手を掛けて分類して行く部署でした。それが今度からはその仕分けされた荷物をお客さまへ届ける仕事になったわけです。
その部署では自動運転車を運転する必要はありません。そういった荷物専用の特別な配送管があるという話でした。
このようなサービスを提供している運送会社は、私が勤めているところを合わせても片手で足りる程度しかありません。それらの企業が共同出資し、高速でより安全に配送ができる専用チューブを張り巡らせているというのです。
私は用意された荷物と小型端末を携えて専用のコンテナに乗り込めば、お客様の許までは勝手に送られて行くのです。
あのかたとはそこで出逢いました。
とても……ええ、言葉では言い表せないくらいにとても素敵なかたでした。
あのかたの視線が私に注がれた時、きっとこうなるのが私の運命だったのだと瞬時に悟ったのです。
あのかたが頼まれた商品を届けに伺ったその日、私はそのままあのかたの許で長い夜を過ごし、帰宅してからシャワーを浴びるためバスルームへ向かいました。
昨日までとはすっかり別人になったような気持ちでふと姿見を覗き込んだ時、私はその予感が間違っていなかったことを理解しました。
そのことを自覚した途端、私はまるで生まれ変わったような気持ちでバスルームへ入り、シャワーはやめてバスタブにお湯を張り、薔薇の香りの入浴剤を溶かした湯にゆっくりと浸かりました。
あなたから久し振りに連絡が届いたのは、その日の勤務後でした。私は素直に驚きました。あなたも、何か予感めいたものを感じたのでしょうか。
翌日――もう昨日のことになってしまいましたが――数年振りに再会した私たちは、お互いの風貌に驚きましたね。
あなたはすっかり変わってしまっていた。もちろん、学生時代よりもっと素敵な大人の男性になったと思います。でもあの頃の純粋さはもう持ち合わせていないように思えて、少し寂しいと感じました。
逆にあなたは、私がまったく変わらないことに驚いていましたね。
ええ、今でも私は垢抜けないままなのです。そうでなければ、余計な視線を集めてしまうことを知っていましたから。
あなたはそんな私を連れてお洒落な店で食事をすることを敬遠しました。口に出さずともわかります。でも私も人がたくさんいるような所に長時間いたくなかったのでそれはいいのです。
きっとあなたが連れて行きたかった場所は、大きなガラス越しに夜景が見えるようなレストランなのでしょうね。恋人と訪れるには最高のロケーションだと、いつかあなたが話してくれたような。
でも私は、そういった店には行きたくないのです。
だから私の自宅へ招き、ここで食事を振る舞ったのです。
お互いの近況を話し、私があのかたのことに触れると、あなたはあからさまに不機嫌な表情を見せましたね。
そのためあなたは嫉妬半分で強引に私を抱いたのでしょう。でもあなたの予想と違い、私が清い身のままであったことで大層驚いたのだと思います。
あなたは慌てて、感動したように見せていましたが、その嘘は一種不快な匂いのように私にはわかりました。
でも男のかたはきっとそんな人が多いのだと思います。
いえ、あのかたは違います。あのかただけは特別なのです。
私は今夜、あなたのお陰でそれをようやく理解しました。そして私がこれからどうすべきかも。
あなたはまた素知らぬ顔をして私の許を離れ、連絡を絶つつもりでいたのでしょう。最後に、あなた自身の未練を残さないようにせめて……そんな風に考えていたのかも知れません。まさか私が何年もの間あなたのことを想い続けていたとは思ってもみなかったでしょうね。
私はあなたを裏切りませんでした。いえ、ある意味では裏切ってしまったのかも知れません。でもそれは恋とか愛などという一時的なものではなく、逆らえない運命だったと今では理解しています。
あなたは私を抱きながら、私の身体に噛み付きました。身体中にいくつもの歯形をつけ、また朱や蒼の痣さえもつけて、そのたびに「お前は俺のものだ……」と囁くように繰り返しました。
そのたびに私は「はい」と小さくうなずき、あなたから受けるしるしを数えていました。私が痛そうに顔を歪めると、あなたは満足げな表情になりました。私などを支配したつもりになったところで何が得られるのかと思いますが、私はあなたの望むようにさせていました。
あなたが私の部屋に訪れたのは確かまだ夕方といっていい時間だったはずですが、それから何時間もあなたは私を抱き続けました。
「まだ満足できないんだ。お前を大切にしたいと思うのに、滅茶苦茶にしてしまいたいという欲望も溢れて止まらないんだ」
あなたはむせびながらそう言ってまた私を押さえ付けました。首を絞められたときは、このままあなたの手の中で命が果てるのもいいかも知れないとさえ思いましたが、あなたはそうしませんでした。
室内は常に快適な温度と湿度に保たれているはずですが、あなたの全身からは滝のような汗がとめどなく流れ落ち、私の全身を濡らしました。私の身体がいつまでも熱くならず、ひんやりと冷たいままだったこともまた、あなたの内なる焔を更に燃え盛らせたのかも知れません。痣にまた痣を、歯形にまた歯形を重ねて、身体だけではなく心にまであなたの存在を刻み込もうとしているようでした。
そんなことをしなくても、私の心の中にはいつもあなたがいたというのに、あなたには理解できていなかったようですね。
いつまでも、そしてこれからも永遠に、あなたは私の中に生き続けるのです。
そのような意味のことをあなたに囁いた時、ようやくあなたは涙を流して微笑みました。身体中の水分が枯れ果ててしまうのではないかと、私はあなたが心配になったのですが、あなたはそれでも休もうとしませんでした。
ならばさいごに私があなたにしるしを刻みたいと伝えたところ、ようやくあなたは動きを止めました。
私はワインを口に含み、あなたに与えました。あなたが美味しいと言って何杯もグラスを空けたのは、あのかたからいただいた赤ワインです。あなたはそれを知りませんが。
私はぎこちない動きであなたの全身を愛撫しました。頭、顔、首、肩――初めてのことでどうしたらいいのかわからずあなたは途中で焦れましたが、私は構わず続けました。
それからあなたがしたように、私もあなたの身体にそっと噛み痕を残して行きます。爪先から足首、脛、膝……そのたびにあなたは吐息を洩らしました。
「もう我慢できないんだ」とあなたは囁くように訴えましたが、私は構わず焦らしました。メインディッシュはゆっくり焦らしてから食べた方がより美味しいのだということは、今も昔も変わらないのですから。
「耐えられないんだ真里亜。俺をお前のものにしてくれ」
ようやくあなたが私の名前を呼んだ時、私の全身に電気が走ったようでした。
「私もです」と熱い吐息でこたえ、あなたの身体に爪を滑らせました。そのたびにあなたが呻くその声で、私の本能も我慢の限界に達していたのです。
私はあなたの脇腹に噛み痕をつけながら問いました。
「あなたを私のものにしてもいいのですか? 一生、私の中にあなたの存在を残してもいいのでしょうか」
あなたは私を抱いて満足したら、また私から去ってしまうのではないでしょうか。そう問い掛けると、苦しそうな表情のままあなたは首を横に振りました。
私が言葉を発するたびに、歯を滑らせるたびに、あなたの身体が痙攣しました。
今一度、あなたを私のものにしてしまってもいいのかと問い直しました。
「あぁ……」というのは同意の言葉なのか、耐えられずに思わず発した声だったのか。今となってはわかりません。でもその声を聞いた私はもう我慢できなくなり、身を起こしてあなたの頬から首筋に熱い口づけを繰り返したのです。
あなたの口にも頬にも耳にも、あなたがしたように噛み痕を残しました。そしてもちろん首にも。深く、深く。
「真里亜……」
あなたがその時発した言葉は、どのような意味を含んでいたのでしょうか。
あなたに密着していた私からは表情がわかりません。感動なのか驚きなのかそれともそれ以外のものなのか……とにかくそれはあなたが発した最後の言葉で、あなたはそのまま果てました。
いつかあなた自身が言っていたように、あなたは真っ白な灰のように燃え尽きたのです。私はあなたに満足してもらえたでしょうか。
あなたが果てると同時に私もようやく満たされ、しばらくの間あなたの上で気を失っていたようです。
目を覚ました時、あなたの姿はありませんでした。
私は無言でベッドから滑り降り、パネルを操作してバスタブに湯を張ります。
テーブルの上には半分ほど空いた赤ワインの壜が残っています。私は無言のままグラスを手に取り、壜の中身を注いでその美しい紅色に一瞬見とれていましたが、グラスから溢れそうになっていることに気付き、慌てて口をつけました。
お行儀が悪いですね。
水よりもスムーズに喉を潤してくれるワインに感謝しながらグラスの中身を飲み干し、壜に残った分はそのままバスタブに空けました。
薔薇とワインの香りに満たされてゆっくり湯に浸かり、リビングに戻った時には壁掛けの時計が七時をさしていました。
テーブルの上を片付けて、続いてベッドのシーツを剥がしました。
私たちの汗などで重みを増したシーツは、それらを包み込んだままダストシュートへ消え、次は同様に汚れてしまった他のリネンも剥がしに掛かります。
シンクに下げた食器は自動的に洗われ、壜や缶なども自動で分別されてシューターを通り地下にある処理場へ流されます。
数十年前まではいちいち人が食器を洗ったり、壜や缶などを仕分けたりしていたという話です。今ではそんなことをするのはそれが趣味の人か、オートメイションに慣れないお金持ちのお年寄りがわざわざ人を雇ってそうさせるくらいしかありません。
あなたが床にこぼしてしまったクラッカーの屑もワインの染みも、私が寝ている間にきれいに処理されたようです。
よほど疲れていたのでしょうね。十二時間以上も眠ってしまったのですから。
最後に私は、あなたがのこしたものをどうすべきか、少しの間悩みました。
あなたが身に着けていた衣類や靴、持っていた鞄、そして携帯端末などです。
これからも私はあなたのことを想い続けるでしょう。でももう昔の私ではないので、あなた自身に未練はありません。
あなたには身寄りがないと聞いていました。
ならば送り返す場所はないということでしょうか。
私はひとりで納得して小さくうなずき、それらもまとめてシューターに入れると、新しいワインを取りにキッチンへ向かいました。
※バートリ・エルジェーベト(ハンガリー語読み)/エリザベート・バートリ(ドイツ語読み)1560年~1614年。ハンガリー王国の貴族。
吸血鬼伝説のモデルともなった人物。
(Wikipediaより引用)