紙士養成学校の日常1~野外実習編~
皆様、こんにちは。工藤湧です。
今回は短編小説の投稿となりました。この小説は本編「紙使い~鬼の首塚伝説」のおよそ一年前を設定しており、鳳凰兄妹こと砂川鳳太・凰香兄妹がまだ紙士養成学校の学生だった頃の話です。主人公は漉士クラスの男子学生ですが、彼の同級生である凰香はしっかり登場します。残念ながら(?)鳳太は殆ど出番無しですが。
本作品は学園ものということもあり、本編より笑いがとれる内容となっています。勿論、シリアスなシーンもあり! 本編で「紙士養成学校って何?」と感じられた方も多いと思いますが、「あー、こんなことやっているんだー」と多少でもわかって頂けたら幸いです。それでは少し変わった学校生活の雰囲気をお楽しみ下さい。
「おい、向井。いい加減にもう止めたらどうだ?」
結城進は、正面の席に座る向井直哉の赤ら顔をしげしげと覗き込んだ。
「へーきへーき。おばちゃーん、お銚子もういっぽーん!」
結城が心配するのを余所に、向井は上機嫌で一合徳利を振り、女将を呼んだ。
「……ったく、人の金だとよく飲むよな、こいつ」
結城の隣で森田啓三がチッと舌打ちをした。
吉華二十四年五月十三日、午後十一時過ぎ。ここは州都市星見区の笹原台駅前にある、昔ながらの大衆居酒屋。四人掛けのテーブル席で、結城は同級生二人と酒を飲んでいた。金曜日の夜とあって三十ほどある席は全てーーテーブル席もカウンター席も客で埋まっている。だがその殆どはスーツを身に纏った中年以上のサラリーマン風の男性で、結城達のような普段着の若者は彼らだけだった。
三人が来店して二時間近くが経つが、この時点で結城はビール中瓶二本、森田は一合徳利を二本空けただけ。それなのに向井の目の前には既に五本の空徳利が転がっている。誰の目から見ても明らかな飲み過ぎだった。結城と森田はほんのり頬が赤くなっている程度だったが、向井は真っ赤。目が据わり、呂律が回らなくなってきている。
「あらあら……。大丈夫なの? そんなに飲んで」
店の女将が徳利を一本、結城達の席まで運んで来た。
「大丈夫です。金はちゃんとありますから」
結城が答えると、女将は徳利をテーブルに置きながら首を横へ振った。
「いえ、そっちの話じゃなくてね。そんなに飲んで、明日大丈夫かって心配しているのよ」
「大丈夫でーす。明日は半ドン、午前中に講義が二つあるだけでーす」
手酌をしつつ向井が答えると、些か女将は驚いたようだ。学生がこの店に来るのは珍しいらしい。てっきり仕事帰りの若い工員がつるんで入って来たとでも思ったようだ。
「あなた達学生さんなの。どこの大学?」
「あ……俺達、大学生じゃないんです」
結城が少し返答に戸惑っていると、横から森田が口を出した。
「紙士養成学校の学生ですよ」
「ええっ! 紙士養成学校!」
女将は今度は心底驚いたようで、少々声がうわずっている。そこへここぞとばかり向井が手を挙げて叫んだ。
「そうでーす。僕達、漉士クラスの二年生でーす」
紙士養成学校。その名の通り紙士を養成する国立の専門学校だ。専門学校と言ってもその重要性からーー妖魔から国民を守り、折妖利用による豊かで便利な生活を担う人材を育成する機関であることから、扱いは大学とほぼ同じ。必要単位を全て修得し、卒業試験に合格した者には、紙士の国家資格が与えられる。
全寮制で就学期間は二年間。日曜祝日以外の休日は盆暮れ正月だけで、一般の学校のような長期休みはない。つまり学生はまる二年間、みっちり学校で紙士になるための技術と知識を叩き込まれるのだ。
紙士養成学校は和州全国に六校存在する。北海和州校、北和州校、中央和州校、西和州校、南和州校。そして本校だ。結城達三人は州都市にある本校の漉士クラスの学生。星見区の隣、桐生区に本校はあるのだ。
結城はこの日ーー十三日、午後の校内実習の後、寮食堂で夕食を済ませると学校の最寄り駅・桐生が丘駅から電車に乗った。二つ先の駅・笹原台駅前にあるパチンコ屋が今日新装オープンしたので、わざわざやってきたのだ。ところが店内へ入ると、見覚えのある人物がいる。しかも二人だ。それもその筈、同級生の向井と森田だった。二人は結城より一足先に来店していたのである。
向井は結城より一つ下の二十歳。漉士クラス一の大男で、身長も百八十二センチ、体格もレスラー並に良い。しかし体躯とは対照的に、顔付きは見るからにお人好しといった感じで、性格もそのままだ。おまけに大の酒好きで、女性にも弱い。妖魔との戦いを生業とする漉士としてはかなり違和感のある人物で、結城も向井が同級生になると知った時、「何でこんな奴が漉士クラスに? 染士クラスの方がいいんじゃないか?」と思ったほどだ。
一方、森田は結城より二つ年上で、二十三歳。高卒で紙士養成学校へ入学した結城や向井と異なり、大学を中退した経歴を持つ。身長は百六十八センチと普通だが、とにかく痩身。まるで電波塔のような体つきで、目つきもきつい。性格も些か軽率なところがある向井よりは遙かに慎重だが、肝心なところの詰めが少々甘いとの噂だ。因みに向井とは又従兄弟同士で、子供の頃から付き合いはあった。
この二人よりも結城はずっと小柄で、身長も百六十センチしかない。体格は中肉中背、顔付きも平凡で、見た目はどこにでもいる大学生といった感じだ。向井や森田と比べてみても、特に目立つものもない。早い話、少し小さめの普通の男なのである。
だからと言ってこれといったコンプレックスは抱えていなかったが、勝負事には負けたくないという思いはあった。だからパチンコ屋で二人を見かけた時、結城はあえて森田の隣の台を選んだ。どちらがより多く稼ぐか、勝負を挑んだのである。マイペースの向井は気にもとめなかったが、森田はこの勝負に乗った。店内に軍艦マーチが響きわたる中、二人は無我夢中でパチンコ台のレバーを弾いた。
結果ーー結城も森田も三万円ほど儲け、額に差は殆ど出なかった。向井はトントン。お互いの健闘を称え、儲かった金で一杯やろうと、結城と森田は向井も連れて、近くの居酒屋の暖簾をくぐったのである。
「まあ凄い! 紙士は簡単になれるもんじゃないってうちの主人は言っていたのよ。しかも漉士なんて」
感心する女将を見て向井は調子に乗ったのか、ハハハと照れ臭そうに笑った。
「いやー、そんなことはありませーん。僕にだってなれまーす」
お前が必要単位を全て取って、卒業試験に合格すればなーーと、陽気に喋る向井を見ながら結城は思った。こんな呑気な奴が本当に漉士なんかになれるのか。なれたとしても、狩りで妖魔に殺されるのがオチではないのかと、他人事ながら心配になってしまう。その時ーー
「あんた達、紙士養成学校の学生さんかね? 漉士クラスの」
カウンター席で一人飲んでいた白髪混じりの男性が三人の方を振り返り、急に話しかけてきた。見た目は四十代後半といったところか。鼈甲の眼鏡をかけているところから見て、それなりの社会的地位にいる人物であろうことがわかった。
「そうですけど……。何か?」
結城が怪訝な顔付きで相手を見返すと、男性は席を立って結城達のテーブルまでやってきた。
「いや……うちの町内で妖魔が大量発生しているらしくてね。困っているんだ」
男性はそう言ってふうと溜息をついた。彼の名は杉内孝太郎。今いる居酒屋から東へ行ったところにある蔵本町の町内会長を務めている人物だった。
「妖魔が大量発生って……。あなた達には見えないはずなのに、どうしてわかるんですか?」
結城の質問に、杉内は一回咳払いをした後答えた。
「まあ聞いてくれ。うちの隣の家がシェパードを一匹飼っていたんだが、三日前に急に死んだんだ。前日まで元気で何の異常もなかったのに。朝になって鳴き声がしないからおかしいと思って飼い主が庭を見てみたら、死んでいた。しかも骨と皮だけのがりがり状態で。これって妖魔の仕業だろう?」
さらに隣の区画のある家の庭には、毎年沢山の実をつける立派な柿の木があったが、僅か一日で葉を全て落とし、枯れてしまった。奇妙な出来事はまだある。町内の至る所に先程の犬と同じような野良猫の死体がいくつも転がっていたり、池の魚が大量死するなど、とにかく薄気味悪い事件が今週に入ってから頻発しているのだ。
「超低レベル妖魔の仕業だな……これは」
森田はぼそっと呟いたが、結城も同意見だった。妖魔の餌は妖魔。強い妖魔は他の妖魔を襲い、その妖気を吸って糧とする。だが妖魔の中には、他種を襲えないような弱いものもいる。1レベルか2レベルの、妖魔界の底辺にいる超低レベル妖魔だ。そのような妖魔は妖魔以外の生き物の気を吸うしかない。人間の気は不味くて毒もあるので絶対に食べないが、それ以外の生き物なら動物でも植物でも何でもこいだ。七、八匹に集られれば大型犬といえどひとたまりもない。気を吸い尽くされて痩せ細り、骨と皮だけとなって息絶えてしまう。
この様な被害は都市部でもまれに発生するが、短期間に複数件起こることはまずない。唯一の例外は、生息数が異常に増加した時だ。ただ、妖魔の世界にも縄張りというものは存在するため、他の地域から大量に流入することはありえない。つまり超低レベル妖魔が蔵本町内で過剰に繁殖し、餌を求めて手当たり次第に町内の生き物を襲っているのである。
「やはりそうか。とにかく町中から苦情がきて困っているんだ。あんた達で妖魔を駆除してくれないか」
「それは出来ませーん」
突然向井が奇声を発した。
「そんな事して学校にバレたら、僕達一発で退学でーす」
と、言うなり向井は猪口を握ったまま眠り込んでしまった。
だが実際、向井の言うとおりだった。紙士法では紙士の国家資格を持たない者が、紙士術を使うことを禁じている。妖視能力を使って妖魔の存在を教える程度なら問題はないが、学生の紙漉きは完全な違法。結城達が絶対に行ってはならない行為なのだ。
「俺達は駄目でも、公認ショップで妖魔駆除の依頼をすれば……」
「いや、それは無理だな」
結城の提案を即刻却下したのは森田だった。
「こんな都市部にある公認ショップじゃ、まず妖魔退治の依頼は受け付けてくれん。何故って都市には強力な妖魔があまり出没しないからな。需要が少なければ、店も取り扱いはせん」
「そうか……」
「ま、もっとも地方のショップなら話は別だがな。結城、確かお前の実家、深森県で公認ショップやっていたよな。お前の所ならやっているんだろう、妖魔退治」
「ああやっている。ただし退治屋に外部委託だ。でも手間暇かかるから、簡単な依頼なら自分の所でやれるようにって、俺が漉士の免許を取ることになったんだよ。売り物の妖紙も集められるからな」
「成程。さて、公認ショップが駄目となると」
今度は森田が杉内に話しかけた。
「妖魔狩りを行っている企業にお願いしてみるなんてどうですかねえ。この近くなら何社かあったはずです。例えば藤ノ木折妖とか」
「行ってきたよ、その藤ノ木折妖にも。ところが見積書を見てびっくりだ。うちの町内会費じゃ払いきれないような額だったんだよ。勿論他の会社も二、三あたってみたけど、駄目なんだよね。『そんな沢山の超低レベル妖魔、うちじゃ駆除しきれません』って」
杉内はほとほと困り果てているようだった。超低レベル妖魔を幾ら狩っても、手間ばかりかかって大した儲けにはならない。故に多くの企業は断ってしまうのだ。たとえ引き受けたとしても、多くの妖魔狩人を派遣しなければならず、べらぼうな額を提示してくるのである。
「警察に相談しようとしても、妖魔注意報の対象にもなっていない妖魔には対応しないと言われたよ。とにかく、八方塞がりでどうにもならないんだ。何とかならんかね」
「うーん……」
結城は腕組みをして考え込んでしまった。妖魔のことで困ったことが起きたら、見返りを求めず助けるーーこれが学校の方針でもあるからだ。しかしこれは自分達では荷が重すぎるし、やるにしても違法行為になる。
「それじゃ、こうしましょう。この件を学校に持ち帰って、教師に報告します。それでどうするかは、学校が判断するはずです。よろしいですか?」
「お、それ良い考えだな。やるじゃないか、結城」
森田がパチンと指を鳴らした。
「それは助かる。是非お願いします」
「それでは杉内さんの電話番号を教えてくれますか。多分、学校の方から連絡が行くはずです」
「ああ、わかった」
杉内は女将からボールペンとメモ用紙を借りて自宅の電話番号を書き、結城へ手渡した。
「それじゃよろしく頼むよ」
そう言って一礼すると、杉内は勘定を済ませて店から出て行った。その嬉しげな後ろ姿を見つつ、結城は眉を曇らせた。
「しかし俺もああは言ったものも、うちの教師がシカトしたらそれでお終いだよな」
「まあその時はその時だろ。話だけはしてみようぜ」
「ああ。で」
結城はテーブルに俯して鼾をかく向井を顎先で指した。
「どうする、こいつ」
「くそっ、直哉の奴完全にグロッキーじゃねえか。おい直哉、起きろ!」
森田が頬をペチペチ叩いても、向井は起きない。それどころか、
「うーん兄貴、もう一杯……」
と、寝言を言う始末。結城は呆れ顔で頬杖をついた。
「だーめだこりゃ。まだ終電には少し間があるが、この体たらくでは電車に乗るどころか、歩くことすら出来そうにないな」
「仕方がない。女将さんに賃送馬車を呼んでもらおう。全く、手間も金もかかる奴だ」
「でも森田、寮に着いてもその先どうする。タクシーだって寮の外門までしか行けないだろう。こいつを自分の部屋まで運んでやらなきゃならないんだぞ。こいつの部屋、どこだ?」
「二寮の301号室だ」
「何ぃ!?」
結城が愕然とした。二寮とは紙士養成学校の第二寮のことだ。寮は全部で三棟あり、うち第一寮と第二寮は男子寮。第一寮が外門に最も近く、第二寮はその裏側に建っている。しかも301号室は最上階の三階、玄関前の階段から見て一番奥。つまり、向井の部屋は男子寮の中で、門から一番遠い所にあるのだ。因みに第三寮は女子寮で、男子寮二棟からは少し離れた場所にある。
寮にエレベーターなどあるはずもなく、結城も森田も特別力があるわけではない。二人で三階の部屋まで向井を運び上げるのには無理があった。
「俺達だけでこんなデカブツそこまで担いで運べるかよ! どう見たってこいつ、八十キロはあるぜ!」
「ならこいつの同室生呼んで手伝ってもらおう」
寮は一部屋八畳で、各部屋に流し台と一口コンロ台、そして押入がついている。これを二人が共同で使う決まりになっているので、大抵の学生には寝起きを共にする相棒ーールームメイトがいるのである。
「誰だよ、そのルームメイトって」
「砂川凰香の兄貴だよ。折士クラスの」
「ああ、あいつか。あのシスコン野郎」
などと結城と森田が話していると、急に向井がよだれをたらし、ニターッと笑った。
「はあーい、砂川さあん。今度僕とお茶しない?」
向井は又従兄が口にした同級生の女子の名が聞こえたのようだ。夢の中で彼女にでも会っているのだろう。結城はもはや呆れてものも言えなかったが、森田は眉間に皺をよせた。
「この馬鹿が! そんなことてめえのルームメイトの前で言ってみろ。殺されるぞ!」
森田が割り箸の先で額を小突いても、向井はヘラヘラ笑ったまま。勘定を済ませ、女将にタクシーを呼んでもらおうと結城は席を立った。この様子では向井は今夜あったことなど覚えていないだろう。もう明日何があろうと、自分達の知ったことではない。頼むからとばっちりだけは勘弁してくれーーと、結城は向井に怒鳴ってやりたかった。
案の定、翌日の向井の二日酔いは酷いものだった。朝食の時間になっても寮食堂へ姿も見せず、一時限目の講義が始まる寸前にようやくフラフラと教室へ入ってきたのだ。しかしとてもまともに講義を受けられる状態ではない。青い顔で机にうつ伏したまま、どうにかこうにか頭痛と胸のむかつきに耐えているといった有様だった。
一時限目担当の教師は若手の穏和な人物だったため、多少渋い表情を見せたものの見逃してくれたが、二時限目はそうもいかなかった。この講義の担当は漉士クラス、いや本校一の鬼教師と呼ばれる漉士クラス主任教師・藍沢隼人だったからだ。
藍沢は五十一歳、十五段漉士。若い頃は名の知れた退治屋だったと言うが、三十代半ばに妖魔退治の際負った怪我が原因で引退。漉士としての実績と腕を見込まれ、本校長にスカウトされた……という経歴を持つ。体格は森田ほどではないが、かなりの痩身。左顔面には妖魔の鉤爪につけられた三筋の傷跡がくっきり刻まれ、右足には怪我の後遺症が残るため、少し引きずって歩く。
そんな幾つもの修羅場を潜り抜けた百戦錬磨の漉士だけに、学生への接し方も厳しい。少しでもふざけたり気の抜けた態度を見せようものなら、即座に雷の如く怒号が飛ぶ。昔、ヤクザに町で絡まれ、「ガンの飛ばし合い」で真っ向勝負を挑んで勝ったという「武勇伝」すらあった。手を挙げることは滅多になかったが、学生を震え上がらせるにはその声と目で十分。「妖魔より怖い藍沢」と恐れられている所以だ。
そのため藍沢が教壇へ上がると、得も知れぬ緊張感が漂う。教壇から教室内を見渡した藍沢の目に、顔を上げようともしない向井の姿が入るのにものの数秒もかからなかった。
「向井何だーっ! その態度はーっ!」
凄まじい怒鳴り声がビリビリと室内の空気を震わせた。しかしそれでも向井は起きようとしない。しびれを切らした藍沢は前から三列目にある向井の席まで教鞭を手に歩み寄った。
「貴様、さては昨夜飲み過ぎたな! 飲むのは勝手だが、講義に支障がない程度にしろといつも言っているだろうがっ!」
「せ……先生、間近で怒鳴るのだけは勘弁して下さい。頭が割れそうです……」
弱々しい声で向井が懇願しても、藍沢は容赦しない。教鞭で机の端を叩きながら、更に説教を続ける。
「おい! これはどういうことだ! 俺の講義を受ける気があるのか、貴様! 言ってみろ!」
もちろん受ける気があるからーーいや、こんな呆れた理由で欠席するわけにはいかないから、無理にでも出てきたのだが、今の向井にはそれを伝える気力も根性もない。
ーーあーあ、言わんこっちゃない。俺もう知らねえからな……。
結城の席は向井の斜め前。まともに藍沢の声が聞こえてくる。うんざりした結城がふと前を見ると、最前列の席にいる三人の女子生徒ーー通称「漉士クラス三人娘」が懸命に笑いを堪えていた。男子が圧倒的に多い漉士クラスの中で、女子はこの三人のみ。漉士は危険な職業とされるため、女性でのなり手が少ないためだ。
三人のうち、真ん中の席に座わるのが砂川凰香。その左隣は土井明美、右隣は渡辺昌子だ。彼女らは同じ年で大変仲が良かったが、渡辺が早生まれのため、学年年齢は一つ上だった。
結城とは違い、彼女らは藍沢の怒鳴り声を聞いても平然としていた。所詮は他人事、自分が怒られているわけではないからだろう。凰香が両隣の親友にこんなことを話していた。
「向井君、昨日の夜森田君や結城君と飲みに行って、ぐでんぐでんに酔っ払って午前様寸前で帰ってきたんだって。お兄ちゃん部屋で寝ていたのに叩き起こされて、向井君を部屋まで運ぶの手伝わされたのよ。今日の朝食の時、お兄ちゃんがむっとした顔でそんなこと話していたわ」
「やだーっ、何それ。間抜けな話ね」
「凰香ちゃんのお兄さん、お気の毒ーっ」
三人娘はひそひそ話していたつもりだったが、それでも少し声が大きかったようだ。藍沢がくるりと三人の方を振り向いた。
「砂川、土井、渡辺! うるさいぞ!」
その声は向井に向けられたものに比べればまだ「優しい」方だったものの、途端に三人は黙り込んだ。ところがすぐに、
「御免ねー、怒られちゃった」
と、凰香がぺろっと舌を出し、渡辺も
「いいのいいの、いつものことだから」
などと返している。彼女らに藍沢の一喝は大して堪えてはいないようだ。
ーー女って奴は、本当にお喋りだよな……。
やれやれ……と結城は鼻の頭をかいたが、呑気にかまえていられたのはそこまでだった。藍沢が説教を済ませ、教壇へ戻るや睨みをきかせてこう言ったのだ。
「全く、これじゃ話にならん。ボケナスは放っておいて講義を始めるぞ。向井、お前は講義の後ここに残れ。結城と森田もだ!」
えっと結城は凍り付いた。凰香のお喋りは、しっかり藍沢の耳へ届いていたのだ。
ーーあのお喋り女め、余計なこと言いやがって……!
最悪なかたちできたとばっちり。「放課後」の説教のことが気がかりで、藍沢の講義の内容も全く頭へ入ってこない。結城は頭を抱え込んでしまった。
講義終了後、結城達三人は教室内で藍沢から事情を聞かれ、説教をくらう羽目となった。だが予想に反し、藍沢はもう感情にまかせて叱るようなことはしなかった。いくら癇癪持ちの藍沢といえど講義前に散々怒鳴ったので、程々にしておこうと思ったらしい。
「お前ら二人もいたのに、こいつのことを監視できなかったのか。特に森田、お前はこいつの兄貴分だろうが。ちゃんと見張っておけ」
「すいません……」
早く終わらせたい一心で、結城と森田は素直に頭を下げた。面を上げる時、森田はまだぐったりしている向井を横目で睨みつけてはいたが。
「よし、今日はこの辺で勘弁してやる。もう寮へ戻れ」
「あ、先生。ちょっと話が」
席を立とうとする藍沢を結城が引き留めた。昨夜の一件を話すのなら、主任教師である藍沢が一番いいと結城は考えていた。校長や教頭に一学生が面会を求めることは容易ではなかったし、平教員では上部まで話を通してくれるかどうか不安があったからである。
「何だ? まだ説教が足りないのか?」
「いや、そういうことではなく……」
慌てて首を横へ振ると、結城は昨夜居酒屋であった出来事を話した。聞く耳を持ってくれるかどうか結城は心配だったが、藍沢は殊の外熱心に話を聞いてくれた。
「そうか。それでその蔵本町の町内会長だっていう人が、お前達に頼んだっていうわけか。しかし、それは少し面倒なことになっているな」
「どうしてです? これから先も犬猫が死んだり、木が枯れたりなんてことが起こるからですか?」
森田が尋ねると、藍沢の眼差しは急に真剣なものとなった。
「もちろんそれもあるが、もっと厄介なことになるかも知れん。超低レベル妖魔といえど町中にうようよいる状態が長く続くと、ろくなことが起きない。もっと強力な妖魔を引き寄せる可能性があるからな」
「中高レベルの妖魔を……ですか?」
「そうだ。小魚の大群を狙って大型魚が押し寄せる。草木に虫がわけば鳥がついばみにやってくる。獲物が豊富な所に捕食者が集まるっていうのは、野生動物の世界も妖魔の世界も同じだ。この辺りは都会のど真ん中だから、直ぐに強い妖魔が集来するということはないだろうが、早々に駆除するに越したことはない。このまま放置すれば、今度は住民に深刻な被害が出かねん」
藍沢が言わんとしていることは結城も森田も理解できた。超低レベル妖魔は直接人間に危害を加えることはまずしない。だが中高レベルは違う。好んで人を襲うものも多いのだ。
「とにかく、この件は俺の方から校長へ伝えておく。結城、その杉内っていう人の連絡先押さえているんだろう」
結城は頷くと、杉内の電話番号を記したメモ用紙を藍沢へ手渡した。
大丈夫なんだろうかーー足を引きずりながら教室を出て行く藍沢の後ろ姿を見ながら、結城は思わずにはいられなかったが、ここは任せるしかない。未だ机の上に伸びている向井の頭を軽く小突くと、結城は寮へ戻った。
動きは休み明けの火曜日、十七日にあった。この日の一時限目の講義の前、藍沢が学生達にこう告げたのだ。
「先日、当校の学生より隣の区の蔵本町で超低レベル妖魔が大量発生し、住民が困っているという情報が寄せられた。そこでその学生に話を持ちかけた蔵本町の町内会長から詳細を聞き、校長や教頭、他クラスの主任教師と協議した結果、二年次前期の漉士クラスの妖魔狩り野外実習を同町で行うこととした。まあ早い話、実習を兼ねてお前達に妖魔駆除をしてもらおうというわけだ」
漉士クラスの野外実習は、二年次の前期と後期の各一回ーー五月と十月に行われる。実際に学校周辺の町へ出て、学生全員で妖魔狩りを行うのだ。紙士免許がない学生が校外で紙漉きを行うのは違法だが、この時ばかりは例外。指導・監督役の教師が実習に同行すれば許される。馬車の仮免許教習のようなものだ。
実習を行う日は今週の土曜日、二十一日の午後。漉士クラスの場合、本来なら二年次前期の野外実習は五月の第四土曜日に行われるのだが、状況が状況だけに一週間繰り上げ、急遽今週実施されることになったのだ。
「お前達も聞いていると思うが、この実習は班対抗で行う。気の合う奴と二人から四人で班を組め。勿論、自身がある奴は人とは組まず、自分一人で臨んでもいい。実習日の当日、各々班ごとに蔵本町をまわれ。そこで見つけた妖魔を漉き、妖紙を持って帰れ。その妖紙のレベルと枚数によって点数を着ける」
点数は1レベルの妖紙なら一枚につき一点、2レベルなら二点……と、レベルと同じ分だけつく。もし1レベルの妖紙二枚に2レベルの妖紙が一枚なら、計四点というわけだ。ただし、この合計点を班の人数で割った数が、実際の点数ーー実質点数となる。前述の例でいくと班の人数が二人なら二点、四人なら僅か一点にしかならない。もし合計点が班の人数で割り切れない場合は、小数点第二位を四捨五入する。
班の人数が多いということは、それだけ獲物を探す目が多いということであり、有利だ。また、誰かがロックオンしても、他のメンバーが間髪入れずに紙漉き出来るため、獲物を逃がしにくい。逆に一人ならばそういった意味では不利とはなるが、全点数を独占できるメリットもある。
「当日の午後二時、蔵本第二公園まで各自来い。そこが今回の実習のスタート地点となる。実習時間終了後、集合するのもそこだ。実習で使用する蔵本町の地図は、前日お前達に渡す。なお、各班は班長を一人決めること。班長は明後日までに自分の班のメンバーを俺まで報告しろ」
「先生」
最前列、土井の左隣の席にいた色白の若者がさっと手を挙げた。クラス長の児島将太だ。
「一位になれば何かいいことはあるんですか?」
「いいこと……か。お前もなかなか聡いな」
藍沢はニヤリと笑った。
「いつもの実習ならA評価以外にいいことはないが、今回は特別だ。町内会長の杉内さんの御好意により、優勝した班には金一封が出る。今回の件について、当校は駆除費用を町内会に対し、一切請求していない。だがそれじゃ悪いからと、杉内さんが自腹を切って気持ちをだけでもと言ってくれたんだ」
藍沢の話に教室内がどよめいた。優勝賞金が出ると知って皆目の色を変えたのだ。単位さえ取れれば、取り敢えずそれでいいーーなどとは思わず、優勝を目指して俄然やる気が出てきたのである。
「こらお前ら、うるさいぞ!」
藍沢が拳で教卓を叩くと、教室内は水を打ったように静まり返った。
「最後に一つ、重要なことを言っておく。実質点数が五点を下回った班は、今回の実習の単位はやらん! 集合時間に間に合わず遅刻した者も同様だ! 心してかかれ!」
そう言って藍沢は講義を始めたが、皆下を向いたまま考え込んでしまった。野外実習は必須科目、絶対に落とせない。落とせば卒業試験の受験資格もなくなり、紙士になれないからだ。
ーーなんかまずいことになったよなあ……。こりゃ組む相手を選ばないと面倒なことになるぞ……。
結城も内心かなり焦っていた。結城にはクラス内に「こいつと是非組みたい」というほど仲がいい者がいない。かと言って一人で実習を受けるだけの自信も実力もない。あの居酒屋での一件があったので、向井と森田の二人と組もうと考えていた。森田は動作が機敏で漉士術もそこそこ使えるので、結構当てになるのだ。が、あの呑気者の向井はどうか。何となく不吉な予感がする。そんな思いが結城はどうしても拭えなかったのである。
五月二十一日土曜日、野外実習当日。その日空は朝からすっきりと晴れ渡り、風も穏やか。まさに絶好の「狩猟日和」である。
午後二時、蔵本二丁目にある蔵本第二公園には漉士クラスの学生三十四名全員が集結していた。藍沢があれだけきつく注意したので、流石に遅刻した者はいなかった。
例年、紙士養成学校の学生は、その殆どが十代後半から二十代前半の若者で占められていた。多くの場合、一般の学校を卒業して間もなく入学するためだ。ただ紙士養成学校は二年に一度しか学生を受け入れないため、入学まで一年のブランクが生じる場合はあるが。
しかし若者に混じって、明らかに彼らより年がいっている者もいる。一度社会人を経験した者だ。紙士は卒業時、七級以上の免許を取得すれば確実に就職先があるので、手に職を着け転職するために入学してきたのである。このような学生は決して珍しくはなく、どの期のどのクラスにも数人程度いる。今期の漉士クラスにも四名の該当者がいた。
さてーー集合場所である蔵本第二公園はそう広い場所ではない。ごく普通の児童公園だ。ブランコや滑り台、シーソーなどの遊具に、子供がキャッチボールが出来るくらいの広場、そして数台のベンチ。そこに三十人以上の大人ーー未成年もいたがーーが集結しているのだから、少々異様な光景だ。しかも土曜日の午後ということもあり、公園内には子供を連れた母親や小学生の姿もある。皆何事かと物珍しげに学生達を眺めていた。
その学生の一団の前に、三人の人物が立っていた。一人は言うまでもなく今回の実習の責任者である藍沢。残る二人のうちの一人、六十歳位の白髪頭の男は、教頭の福原幸之助だ。藍沢とは対照的に温厚な性格の人物で、学生の前で怒ったことが一度もない。そのため学生からは「仏の福ちゃん」などと親しみを込めて呼ばれている。
そしてあと一人は、結城にとって見覚えのある人物だった。
「お、あれ杉内さんだな」
「顔見せにでも来てくれたんだろ。依頼者だからな」
結城が森田とそんなことを話していても、向井はきょとんとしている。
「兄貴、あの人が杉内さんなのか?」
「直哉、お前やっぱり覚えていなかったんだな。一度会っているくせに」
結城は向井の少し間が抜けた顔が何とも言えずおかしかったが、すぐに笑いをかみ殺した。真後ろにいた学生二人が囁くように話す声が聞こえてきたからだ。
「何で教頭が来るんだよ。平教員でいいじゃないか」
「福ちゃん、暇なんだろう。家じゃ一人で暮らしているっていうし」
確かに彼らの言う通りだった。教頭は十八段染士、学生が集めた妖紙のレベル判定を行い、集計して実質点数を出すのが役目だ。しかしここにいる学生が漉ける妖魔のレベルは最高でも7レベル。よって役職に就いていない染士クラスの教師でも十分に務まるのである。
何か妙だな……と結城が思っていると、藍沢が学生達を見渡し、一歩前へ出た。
「よーし、時間になったな。出欠をとるぞ。一班、荒井、佐々木、堤」
藍沢は一班から順番に名前を呼んでいった。どうやら班の番号は、班長の名前の五十音順に着けられているらしい。結城の班は最年長の森田が班長なので、最後から二番めーー十三班。そして漉士クラス三人娘の班は渡辺が班長ということで、一番最後の十四班だった。
各班の数は四人班が二、三人班が四、二人班が六,そして一人班も二あった。この一人班のうちの一つがクラス長の児島の班だった。児島は漉士クラス一の優等生で、漉士術の腕も抜きん出いていた。よって一人でやってみようと思ったようだ。彼の学生間の評判が今一つで、誰も声をかけてこなかったせいもあるが。
「全員いるな。それでは今回の依頼者である杉内さんに挨拶してもらう。杉内さん、どうぞ」
藍沢が下がり、替わって杉内が学生の前へ進み出た。
「皆さん、私どもの無理なお願いを快く聞いて頂き、誠に有り難う御座います。ご存じの通り、町内には妖魔が数多く発生し、大変困った状況となっております。皆さんのお力でどうかこの状況を改善して頂けますよう、お願い申しあげます」
一礼すると杉内は下がり、藍沢が小さな紙袋を二つ持って再度前へ出た。
「では実習を行うにあたり、お前達にはこれをつけてもらう」
藍沢は紙袋の一つから安全ピンがついた七、八センチくらいのリボンを取り出した。リボンには黒い文字で「実習中」と書かれている。
「これを左胸につけろ。お前達はこれから蔵本町内を歩き回ることになるが、あちこちキョロキョロしながら歩けば不審者と勘違いされて警察に通報される恐れもある。これはそれを防ぐものだ。実習中の学生にはこのリボンをつけておくと、杉内さんを通じて町内の住民には事前に伝えてある。一班から七班までは黄色のリボンを、八班から十四班は水色のリボンをつけろ」
各班の班長が人数分のリボンを藍沢から受け取り、各自左胸につけた。結城達の班は十三班なので水色だ。
「全員つけたな。ではこれより実習の注意事項を説明する。各班自由に行動していいが、実習は蔵本町町内のみで行うこと。終了時刻は今より三時間後の午後五時十分、それまでに必ずこの公園に戻ってくること。移動は徒歩のみとすること。あまり遠くまで行くと、時間までに戻ってこられなくなるから、注意しろよ。狩りをする際は無断で他人の敷地に入り込まないこと。どうしても入りたければ、住民から許可をもらえ。もし今言ったこれらのことに違反した場合は失格、単位は無しだ。わかったな!」
全員がはい、と返事をしたのを見て、藍沢は頷いた。
「よし。では今から野外実習を始める。行け!」
藍沢の一声で学生達は各班に分かれ、一斉に公園から出て行った。結城も森田や向井と共に、町中へと駆け出して行く。
瞬く間に三十四名の学生達は、公園からいなくなった。その姿が完全に消えたことを確認すると、藍沢はふっと笑った。
「全員出て行ったな。それでは教頭、お願いします」
「ああ。ではお前達、行っておいで」
どこからともなく「はーい」という可愛らしい声がしたかと思うと、福原の足下から黒い影が二つ飛び出した。二つの影はまるで水面下を進む魚影のようにすーっと地表を滑り、公園の出入り口まで来ると分かれ、別々の方向へ消え去った。
「教頭先生、あれは……?」
何が起こったのかわからず、杉内は唖然としていたが、福原は相変わらずにこにこと微笑んでいる。
「あれはだね、杉内さん。私の自慢の子供達だよ」
「お子さん……ですか?」
「ええ。いつも前期の野外実習の時は、あの子達に手伝ってもらうんだ。ちょっとしたアクシデントをおこしてもらうためにね」
「はあ……」
「まあ立ち話も何だし、まずは座ってゆっくり話そうかね」
そう言って福原がベンチへ座ると、杉内も隣に腰を下ろした。杉内の隣に藍沢が座したところで、福原は話し出した。「アクシデント」の内容と目的を。
蔵本町は星見区の南部に位置する町で、笹原台駅から徒歩十分から二十分圏内にある。古い町並みが残る駅周辺とは異なり、吉華十年代前半に整備された新興住宅地で、商店は殆どない。ただ町境には昔からある町工場が数軒残っていて、杉内もそのうちの一つを経営していた。
結城も今回の実習に当たり、事前に蔵本町について下調べをしていた。蔵本町は一丁目から三丁目まで、番地も多くても五十番代まで。三時間あればどうにか回れそうだが、東西に細長い形をしているので、端から端までは結構距離がある。町内に坂は殆どなく、平坦な道が多い。新興住宅地ということもあり、道も入り組んでおらず真っ直ぐ、見通しもいい。獲物を追うにはいい条件だ。ただまだ家が建てられていない空き地が散見し、住宅も全て戸建て。草が生い茂る空き地に逃げ込まれたら姿を見失う恐れがあるし、住宅地の庭に入られたら厄介だ。いちいち断っていかなければならないのだから。
実習が始まって四十分ほどが経過した時、結城達は一度足を止め、学校から渡された地図を広げた。電信柱の街区表示板によると、現在地は蔵本三丁目八番地辺り。蔵本第二公園が町のほぼ中央にあり、そこから八百メートルほど西へ行った場所のようだ。
ここへたどり着くまでの間、結城達は既に四枚の紙漉きに成功していたが、捕らえたのはいずれもランク1の尾長鼠。1レベルの妖魔だ。まだ四点しか獲得していないのである。相手もこちらの存在を察知してか、なかなか姿を現さない。
「もっとペースを上げないとまずいな」
森田がうーんと唸ると、結城も頷いた。
「ああ。何としても十五点はとらないと。お……」
結城が地図から目を離した時、斜め前方数メートルに何か動くものを見つけた。電信柱の影から姿を現したそれは、見紛う事なき不可視状態の妖魔。鶏に似ているが嘴の先は曲がり、尾はトカゲのそれのように細長い。地鳥だ。しかし鶏冠はまだ小さく、ランク1と思われた。大きさは三十センチを越える程度で、ランク1地鳥としてはやや小柄だったが。
ランク1地鳥のレベルは2、このメンバーなら誰でも紙漉きが可能だ。結城は即座に行動に出た。
「地鳥発見! ロックオン!」
右手の小指と人差し指を立て、結城は地鶏へ向かって可視化の術をかけた。途端に地鳥に色が付き、誰の目にも見える状態となった。黒と白の羽が胡麻塩のように入り混じった姿に。
「やったぞ! 直哉、漉け!」
森田は叫んだものの、向井は突然のことで心の準備が出来ていなかったのか、オロオロするばかりで印を結ぼうとしない。そうこうしているうちに姿を晒され驚いた地鳥は、あたふたと羽ばたいてーー地鳥は地上性の妖魔だが、数メートルくらいなら飛べるーー目の前のブロック塀を越え、住宅の庭へ逃げ込んでしまった。
「あ……逃げちゃった」
「逃げちゃったじゃねえだろう、このノロマ!」
森田はもうカンカンだった。せっかく見つけた2レベルの妖魔を逃がしてしまったのだ。しかしまだ相手は庭の中にいる。諦めるのは早いがそれには家の者に事情を説明し、庭へ入る許可を得なければならない。
「お前が行ってこの家の住民に話をつけてこい! ぐずぐずするな!」
「わかったよ兄貴、今行くからそんなに怒るなよ」
ばつが悪そうに向井は家の玄関へ向かい、呼び鈴を鳴らそうとしたがーー
「キャーッ!」
家の庭から女性の声がした。声からして年輩者のようだ。
「何よこれ、妖魔ぁ! うちの犬に何かしたらただじゃおかないないからね、この野郎! とっとと出ておゆき!」
バン、バンと何かを叩くような音がする度に、「ギャー!」「グエーッ!」という気味悪い悲鳴があがった。庭で如何なる「惨事」が起きているのか、想像に難くない。やがてそれらの音が静まると、ブロック塀の向こう側からボロボロになった地鳥が目もうつろに現れ、力なく路面に落ちた。
「魔性のものよ。その異形の身を溶かし、二次元の存在となれ」
結城は印を結び、地鳥へ向けて虹色の光を放った。もはや逃げる気力すら失った相手に光を命中させることは容易い。地鳥は瞬く間に斑模様の妖紙と化した。
「可視状態になったら超低レベル妖魔はこのざまか。みんなが連中を怖がったりするのは、姿が見えないからだな」
結城は妖紙を拾い上げつつそんなことを漏らした。
「そうだな。人間のおばちゃんにこんなコテンパンにされるんだから、惨めなもんだ。あーー」
森田がふと左手を向いた。門扉が開き、家の住民が外へ出てきたのだ。赤いエプロンを腰に巻き、つっかけを履いた中年の女性だ。恐らくこの家の主婦だろう。その手には籐の布団叩きが握られており、「凶器」はこれに違いなかった。
女性は結城達の胸につけられているリボンを目敏く見つけると、口をへの字に曲げた。
「ちょっと! さっきの妖魔、もしかしてあなた達の仕業?」
「はい。どうもすいません。ご迷惑をおかけしました」
そう頭を下げつつも森田は「てめーのせいだろう!」と向井の頭を殴った。
「もうびっくりしたわよ。干していた布団を取り込もうとして庭へ出たら、出来損ないの鶏みたいな化け物がいるんだもの。こいつでひっぱたいて叩き出してやったわよ」
女性がケラケラと笑い出したのを見て、結城達は安堵の息を漏らした。どうやら本気で怒ってはいないようだ。
「今回は弱い相手でしたから撃退できましたが、基本妖魔は危険な存在なので見付けても手を出さないで下さい」
結城はそう一言注意して森田や向井と共にその場を去ったが、焦りを隠せなかった。不安的中、向井が足を引っ張っている。普段は正面切って相手に文句を言うことは少ない結城だったが、今回ばかりは黙っていられなかった。
「向井、お前さあ……。そんな調子で本気で漉士になるつもりかよ。そんなトロいんじゃ死ぬぞ、お前」
「あー、それなら大丈夫。俺、警察官になるから」
「はあ?」
言っている意味がよくわからず、結城が呆然としていると、向井は胸を張った。
「今年の採用試験、受けるつもりなんだ。警視庁か如月県警のどっちかにしようと思っている。警察なら一人で妖魔に立ち向かうなんて事態はまず起こらないし、都市部なら高レベル妖魔も滅多に出てこないだろう?」
「合格する自信はあるのかよ」
「勿論。紙士は貴重だから、採用されやすいって言うしな」
「直哉。お前、そんなこと考えていたのかよ」
森田は冷ややかな目で又従弟を見た。
「お前が担当する地域の住民は気の毒だな。上司も大変だ」
森田に小馬鹿にされても、向井はヘラヘラ笑っている。楽観的なのか、無神経なのか。結城には向井の頭の中の構造がとんと理解できなかった。
次なる獲物を求めて三人が隣の区画、蔵本三丁目九番地を探索していたとこのことだった。十メートルほど先の辻をよく知っている一団が、向かって左から右へ横切って行く。人数は女性が三人。一人目は長髪のなかなかのべっぴん。二人目は快活そうだが、見るからにきつそうな短髪の娘。そして残る一人は少しウエーブがかかった髪の、中学生のようなあどけなさが残る娘だった。十四班ーー漉士クラス三人娘だ。彼女らはお喋りに夢中で、こちらの存在に全く気付いていないようだった。
「本当、びっくりしたね」
「あんな可愛い子供だったから全然わからなかったわ。油断も隙もありゃしない」
「凰香ちゃんが気付いてくれなかったら、危なかったね」
女子三人組はそんなことを話している。何かあったようだが、相手は女子だ。どうせたわいもないことに決まっているーーと結城は気にもとめなかった。
だが結城達は知らなかった。彼らの背後に一つの影が忍び寄っていたことを。気配を消し、音もなく近付いてきたことを。
「成程……。そういうことでしたか」
福原から「アクシデント」についての説明を受けた杉内は、大きく頷いた。
「しかしいいんですか。学生さんにそんな『悪戯』をして」
「構いやしないさ」
そう答えたのは藍沢だった。
「あいつらが卒業した後に立ち向かわなければならない試練に比べれば、あんなもの可愛いものだ」
その後、藍沢の口調がぐっと重くなった。
「あいつらはまだ知らない。漉士の過酷さと妖魔の本当の恐ろしさを。陰じゃ俺のことを妖魔より怖いとか言っているらしいが、本物の妖魔は俺なんか比べものにならないくらい恐ろしい奴らなんだ」
「いやはや、全く。藍沢君は間違っても学生に怪我をさせる何てことはしないが、妖魔は情け容赦ないからね。向こうも漉かれまいと必死だから、食い殺そうと襲いかかってくるし」
にこやかに話していても、福原の言っていることは杉内をぞっとさせるには十分だった。
「そんなに恐ろしいんですか、妖魔は」
「ああ。これを見てくれ」
藍沢は顔の傷跡を指さした。
「この一撃をくれた野郎は、俺の一瞬の隙をついて来やがった……」
藍沢は紙士養成学校を卒業した直後、とある大手企業に就職した。漉士としての実力はあったものの、お世辞が下手でものをはっきり言う性格が災いし、うまく会社に馴染めない。そこで社内で知り合った馬の合う人物ーー紙士養成学校の一期下の後輩である折士とコンビを組み、退治屋稼業を始めることにしたのである。
事件が起きたのは腕も上がり、退治屋稼業が軌道に乗りだした頃ーー二十五年前に起こった。依頼を受けて如月県西部の山林へ入った藍沢達二人は、数時間後に標的である妖魔を発見。妖魔は二人と相棒が率いる折妖犬を見るや否や逃走を謀ったが、直ぐに藍沢が可視化に成功。沢へ追いつめられ、哀れな声を上げて観念したかのように身を縮めた。
藍沢は紙漉きをしようと、相棒より前へ出た。もはや折妖犬の助けは不要、自分一人で十分だと思ったのだ。ところが直後、妖魔の態度が豹変。鋭い鉤爪がついた前足を振り上げ、藍沢に襲いかかってきたのだ。
既に紙漉きの体勢に入っていた藍沢は、完全に不意をつかれた。それでも何とか身をよじって体躯への一撃は免れたが、顔面にまともにヒットした。藍沢の身体は衝撃で吹き飛び、沢地の草むらに倒れ込んだ。
脳震とうを起こしたのか、意識がもうろうとして動けない。妖魔の勝ち誇ったような咆哮が聞こえてくる。ここで俺は死ぬーー藍沢は覚悟した。
だが妖魔の勝利の雄叫びは悲鳴に変わった。相棒が素早く折妖犬に指示を出し、妖魔にけしかけたのだ。腕に噛みつかれ、折妖犬を振りほどこうと暴れる妖魔。その隙に相棒が藍沢の許へ駆け寄った。相棒に抱き起こされ、その涙声を聞くうちに意識が次第にはっきりしてきた。相棒の助けを得て立ち上がると、藍沢は暴れ狂う妖魔へ向かって印を結んだ。
ーー野郎、やりやがったな。失せろ!
怒りのあまり紙漉きの際の「決め台詞」も言わず、藍沢はいきなり術を発動させた。妖魔は呆気なく妖紙へ姿を変え、安堵した藍沢は今度は完全に意識を失った……。
「……で、気付いたら病院のベッドの上だったというわけだ。その時の傷はこの通り残ったが、幸い脳には異常はなく、左目も失明することはなかったんで、また退治屋を続けることが出来た。だがそれから十年経った時、今度は右足を派手にやられた。そこで諦めたよ。退治屋はもう無理だってな」
いつ妖魔に殺されても不思議ではない職業。生活のためとは言え、家族にも散々迷惑をかけた。「お父さん、退治屋なんてもうやめて」と娘達にも泣きつかれた。だから教師になる決意をした時、みんな喜んでくれた。
藍沢が学生に対し、願うことはただ一つ。卒業生が一人前の漉士となり、引退するその日まで全員が五体満足な身体で生きていて欲しいーーそれだけだった。自分の轍を踏んで欲しくない。ましてや死ぬなんて。しかしいくら藍沢がそう願っても、現実は厳しい。何度か教え子の葬儀に参列する羽目となったのである。
「そういうことでしたか。でもこれでわかりました。藍沢先生が学生さんに厳しく接するわけが」
「ああ。あいつらが生き延びるためなら、憎まれ役にでもなるさ」
「頭が下がる思いです。ところで、その相棒の折士の方は、今でもお元気なのですか?」
「元気だ。毎日顔をを付き合わせているからな」
「毎日……ですか?」
杉内が不思議そうな顔をすると、藍沢は相好を崩した。
「俺のカミさんだからな」
「あ……成程」
「そうだろう。こんな傷物の男と一緒になる物好きな女はあいつくらいしかいない。おかげであいつには未だに頭が上がらんが」
二人は声を上げて笑い出した。笑いながら藍沢はあの時のことを思い出していた。
事故から数日経ったある日の昼下がり、病院のベッドに横たわる藍沢の傍らで、相棒は見舞い客からもらった果物を切っていた。藍沢にはいざというとき頼れる親兄弟がいない。漉士になる決意をした時、家出同然で家を飛び出したからだ。故に彼女はこれまで毎日病室を訪れては、あれこれと世話を焼いていたのだった。
ーーこの傷は一生残っちまうってさ……。
包帯が巻かれた顔をさすりつつ藍沢がそう呟いても、相棒は気を使っているのか、顔を見ようともしない。
ーー仕方がないでしょう。命が助かっただけでもありがたいと思わなくっちゃいけませんよ、先輩。
ーーそうだな。ところでお前……。
ーーはい?
相棒は手を休め、今度は藍沢の方を振り返った。
ーー傷のある男は嫌いか?
突然のことに相棒は一瞬言葉が出なかったようだ。しかし暫くすると笑いを堪えながら、
ーーいいえ。嫌いじゃありません。私、そういうのは気にしませんから。
と、答えてくれたのだ。頬を僅かに赤らめて。
それが二十五年前の今日ーー五月二十一日。あれから三ヶ月後には籍を入れ、相棒ーー妻は妊娠を機に退治屋を引退した。以来藍沢は一人で退治屋家業をしてきたが、結局それも怪我のせいで十年しか続かなかった。
ーー今年は銀婚式か。すっかり忘れていたぜ。あいつには随分苦労かけたから、何かしてやんなきゃなあ……。
上の娘は就職して家を出た。下の娘は今年成人するが、間もなく親元を離れるだろう。そうなればまた夫婦二人きりの生活に戻るーー
などとぼんやりと考えていた藍沢だったが、不意に自分を呼ぶ声が耳へ飛び込んできて、我へ返った。
「先生! 藍沢先生!」
声の主は短髪の娘ーー渡辺だった。公園へ駆け込んだ渡辺は藍沢達三人の十数メートル前で止まり、ハアハアと肩で激しく息をしている。よほど急いでここまで来たと見える。
藍沢は自分の時計を見た。実習が始まってからまだ一時間程度しか経っていない。それにもかかわらず息を切らせ、しかもたった一人で渡辺は戻ってきたのだ。何かあったなーー藍沢は直感的に悟った。
ベンチから立つと、藍沢は教え子の元へ歩み寄った。
「渡辺か。どうした?」
「先生、実は……」
渡辺から事情を聞いた藍沢の顔から、すっと血の気が引いた。
「わかった。直ぐ行く。場所はわかるな?」
「はい、この辺りです」
地図を広げて渡辺がある一点を指すと、藍沢は眉をひそめた。
「ここから少し距離があるな……。とにかく急ぐぞ! 教頭!」
藍沢は振り返り、叫んだ。
「緊急事態発生です。詳しいことは後ほど説明しますので、暫くこの場をお願いします!」
「ああわかった。行っておいで」
福原の返事を聞くや藍沢は一礼し、渡辺と公園を後にした。その背中を目で追いつつ、杉内が福原に尋ねた。
「どうしたんでしょうか、藍沢先生」
「何かあったようだね。あの藍沢君があそこまで慌てることは、滅多にないから」
「そうなんですか……」
「どうやら今回の野外実習は、ただの妖魔駆除じゃすまないようだね」
福原は表情一つ変えずにあっけらかんと言ったが、杉内は不安げに周囲をうろうろし始めた。自分は学生達にとんでもないことを頼んだのではないのだろうか。もし彼らの身に何かあったらーーそう思うと、いても立ってもいられなくなったのである。
「なあ。何だかこの辺、妖魔の姿を見かけないな」
結城は地図へ目をやりながら、周りを見渡した。現在位置は蔵本三丁目十四番地周辺。先程凰香達を見た辻を直進した辺りだ。今さっきまでちょろちょろ見かけていた超低レベル妖魔の姿が、パタッと消えたのである。
「どうもこの辺りは駄目みたいだな。別を当たってみよう」
「その方が良さそうだ。時間が勿体ない」
森田も同意し、三人は踵を返そうとした。ところがーー
「ハロー!」
突然背後から聞こえてきた元気な声に三人はドキリとした。振り向けばほんの二、三メートル後ろに娘が一人立っている。艶やかな栗色の長い髪。色白で目は澄んだブルー。肩にフリルのついたピンクのワンピースに白い靴。容姿といい先程の声の発音といい、どう見ても外国人だ。
「あー、俺達英語は全然駄目で……」
結城がどう答えていいかわからず困惑していると、娘はにっこりと微笑んだ。
「ご心配なく。私、和州語全然オッケーでーす」
何だーーと結城は胸をなで下ろしたものの、直ぐに横の二人の様子がおかしいことに気付いた。向井は鼻の下をのばしてデレデレ。娘の年は見たところ高校生くらい。まるで天使のように愛らしく、向井は完全にいかれてしまったのだ。森田はそんなだらしない又従弟をもの凄い目つきで睨みつけている。
「あなた達、紙士養成学校の学生さんですよね?」
「はいっ、そうですお嬢さ……いてっ!」
にやける向井の足を森田が容赦なく蹴飛ばし、代わって前へ出た。
「ところであんた、誰だ? この町の人間か?」
「そうでーす。私のうち、ここからちょっと行った所にあるんですけどーー」
そこまで話した時、娘は急に目を潤ませた。
「うちで飼っていた猫が妖魔にやられて、死んじゃったんです。お願いですから、仇をとって下さい」
「お任せ下さい、お嬢さん。僕達が必ず……ぐえっ!」
今度は向井の腹へ肘鉄をお見舞いすると、森田は冷静な口調で再度娘に話しかけた。
「そうは言ってもなあ。あんたのとこの猫を殺した妖魔を見つけ出すのはほぼ不可能だぞ」
断られてがっかりすると思いきや、娘は口元を綻ばせた。何とも喜怒哀楽の激しい娘である。
「わかっています。私には妖魔の姿は見えないし。でも、妖魔が集まる所なら知っています。この近くです」
「何? 本当か? でも何故わかる?」
「変な声がしたり、地面に足跡がいっぱいついているから。きっとそこに集まっているんです」
「成程な。もし本当にそこに奴らがたむろしているのなら、不思議ではない。おい結城。行ってみるか?」
「ああ」
本当なんだろうかーーそう思いつつも結城は賛同した。妖魔が集中してやって来る所であれば、効率よく妖紙を集められるからだ。つまり楽が出来るわけで、町中あちこち歩き回る必要もない。行ってみるだけの価値はある。
「それじゃご案内しますね。私について来て下さい。こっちです」
「はいっ! 僕達、頑張ります!」
向井は妙に張り切っている。下心見え見えのその態度に結城も森田も呆れかえったが、今は目的地へ行くことが先。小走りする娘の後を追いかけていった。
娘が三人を連れてきたのは、三百メートルほど先にあった空き地の前だった。普通の戸建て住宅が一軒建つくらいの広さがある。
「ここか?」
「はーい、そうでーす。あの辺です」
森田の問いに答えると、娘は空き地の奥を指さした。しかし、いくら結城達が目を凝らして見ても、妖魔の姿はどこにもない。尾長鼠一匹すら。森田が怪訝な顔をして尋ねた。
「いないじゃないか。どういうことだ?」
「そんなはずはありません。確かに今は鳴き声はしませんけど、足跡はあるはずです」
「それなら確認してみようか」
森田を先頭に三人は空き地へ足を踏み入れた。中はよく手入れされていて、草はさほど生えていない。足跡があるのなら直ぐわかるはずだ。結城達は目線を下へやり、地面を隈無く調べたがーー
「ないぞ! おい、どういうこと……あっ!」
森田は叫び、面を上げた。娘の体がふわりと宙へ浮き、手の届かない所までーー数メートル頭上まで上昇したのだ。まるで風に舞う羽のように軽々と。
「あらあら、あっさり引っかかっちゃったのねー。残念ーっ」
娘はさもおかしそうに空中で笑い転げた。宙に浮かぶなど、人間に出来る技ではない。かといって周妖光も見えないので、折妖でもない。即ちーー
「貴様、妖魔か!」
森田は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、向井は娘が妖魔であったことがかなりショックだったようで、声すら出ない。そんな彼らを見下ろしながら、妖魔の娘はぱちぱちと手を叩いた。
「大正解ーっ! でもわからなかったでしょう? 私、妖魔の気配消すのは得意なの」
「さてはこの超低レベル妖魔の大発生は、お前の仕業か!」
結城の問いかけに娘は一変してむっとした表情を見せた。
「酷ーい、それは違うわ。私、そんな人間が本当に困ることはしないもの。さーて」
娘は再び嬉しそうに笑った。
「紙士養成学校の学生のみなさーん」
大きく息を吸い込むと、娘は声も高らかに叫んだ。
「横着はいけませんよ。人の言うことを鵜呑みにすることも。世の中そんなに甘くありませーん」
娘が右手の親指を指をぴんと弾くと、何か小さな粒のような物が三つ飛び出し、結城達の脳天へ一つずつ落ちた。
「あなた達にはどんな花がお似合いかしら。そーねえ」
しばし考え込んだ後、娘はまず向井を指さした。
「そこの背の高いお兄さんには、暑い夏を象徴する花を」
次に森田と結城を交互に見て、
「強面のお兄さんには童謡にもある春の花を」
「最後の一人は女性の姿にも例えられる花を」
と言うや、その姿から急速に色が抜け出した。妖魔本来のあるべき姿、つまり不可視状態になろうとしているのだ。一般人の視界から消え、逃走しようとしているーーそう悟った結城は拳を振り上げた。
「逃げる気か、貴様!」
「あーら、まだ逃げません。だって」
完全に透明な姿へと化した娘はふふんと鼻を鳴らした。
「もう一仕事、残っているから。はーい、開花ーっ!」
その「号令」と共に、三人の頭上から草の芽が出たかと思うと、あっという間に伸びて見事な花を咲かせた。向井はひまわり、森田は真っ赤なチューリップ。そして結城は純白の百合だ。
「うわあ、綺麗。あなた達、とってもお似合いよ」
けたたましい笑い声が耳をついた。だが結城達は笑い事ではすまされない。頭に花を乗せたこんな恥ずかしい姿で、町中など歩けるはずもない。三人は慌てて茎をつかみ、引っこ抜こうとしたがーー
「あ、一つ注意しておくわね。無理矢理抜こうとすると頭の皮、剥がれますよ。ハゲになっちゃいますよ。切っても無駄。直ぐ生えてくるから」
「こ……この……」
森田は悔しさのあまり石を拾った。この妖魔、森田の目には10レベルを超えるように映る。紙漉きしようにも森田が対応できるレベルは4まで、術は通用しない。なれば石でも投げつけてーーと考えたのだが、途中でその手が止まった。空き地の前を通りかかった幼い女の子が、一緒にいた母親に向かってこう叫んだのだ。
「ママ見てー! あのお兄ちゃん達の頭にもお花、咲いてるー!」
「あのお兄ちゃん達の頭……にも……? ってことは……まさか!」
「はーい、そのまさかでーす。他の学生さんの頭にも花、咲かせましたーっ! みんな結構簡単に騙せるのよね。男の人は私みたいな可愛い女性には弱いから。でもね」
娘はきっと目尻を上げた。
「私が妖魔だってわかった人もいたわ。特にあのロングヘアーの女の子、鋭かったな。ちゃんと気配消していたのに一発で私のこと、妖魔だって見抜いたもの。女の人は子供に弱いから小さな女の子に化けていったんだけど、彼女には通用しなかったなあ」
娘の言うロングヘアーの女の子。間違いなくそれは凰香のことだった。結城はここで彼女らが辻を通過する際、話していたことを思い出した。渡辺が言っていた「あんな可愛い子供」とは、この妖魔の娘のことだったのだ。話の内容からして土井と渡辺はその正体を見抜けなかったらしい。彼女らも危なかったのだ。凰香の漉士術の腕前はクラス内ではさっぱりだったものの、妖魔の気配を察する能力は皆も一目置くところだった。
「それじゃ皆さん、実習頑張ってね。バイバーイ」
妖魔の娘はくるりと背を向けた。その背に向かって森田が叫ぶ。
「待てーっ、この野郎! このみっともない花をどうにかしろ! 何で俺達をこんな目に遭わせるんだ! 俺達漉士クラスの学生に何か恨みでもあるのかーっ!」
しかし娘はその質問には一切答えず、
「あなた、和州語間違っていまーす。私は女の姿だから『この野郎』じゃなくて、『このアマ』でーす」
と、だけ言って結城達の前から飛び去って行ってしまった。
「兄貴ぃ……。どうしよう……」
流石に呑気な向井もこれはかなり堪えたようで、べそをかいてその場に崩れ落ちた。だが泣きたい気分なのは森田も結城も一緒だ。切ることも抜くことも出来ず、自分達ではどうにもならない。学校へ戻ってこの術が消せる能力を持った折妖に、術を解いてもらうしかないのだ。勿論都合よくそんな能力を持った折妖がいればの話だが。
「畜生……。もう実習なんて無理だ。こんな姿で妖魔狩りなんて出来るか……」
森田はがっくりと膝をついた。もう彼らにとるべき手段は一つしか残されていなかった。蔵本第二公園へ戻り、藍沢に助けを求めるしか。だがーー
「こ……この状態で公園まで戻るのかよ……。しかも騙されましたとあの鬼教師に報告しなきゃならんとは……」
激しい目眩に見舞われ、結城もうずくまってしまった。土曜日の午後、人の行き交いも多いこの状況で、誰の目にも触れずに公園まで戻ることなどほぼ不可能だ。恥を晒して戻ったとしても、待っているのは藍沢の説教。結城達はもう逃げ出したい気分であった。
「それにしても見事に咲きそろったな。まるで花屋のショーケースだ」
藍沢は心底呆れたように、目の前に立ち尽くす学生達を見渡した。午後五時十分、野外実習終了時刻の蔵本第二公園内。遅れて戻る者もおらず、全員が顔を揃えてはいたが、その半分以上ーー十四班中八班、計十九人の頭上には、色とりどりの花が咲き乱れていた。バラ、カーネーション、アジサイ、ポピー、菊……。全て異なる花で、まさに「町のお花屋さん」状態であった。
何故か藍沢は事情を知っても怒り出そうともせず、黙って学生の報告を聞いているだけだった。かといって何かするわけでもーー犯人である妖魔の娘を捜し出そうとすらしなかったが。
「先生! そんな呑気なことを言っていないで何とかして下さい!」
たまりかねて学生の一人が助けを乞うた。しかし藍沢は黙って腕を組むだけで、何の反応も見せない。
「アーッハッハ! 本当に綺麗ねーっ。みんなあの子にまんまと騙されたんだって」
この被害から逃れた渡辺は、笑いすぎて涙すら浮かべていた。土井はそこまであからさまではなかったが、おかしさのあまり「お花屋さん」を正視できない。しかし凰香だけは何故か一人首を傾げている。
「あの子さ、外国人みたいで、どう見ても和州産の妖魔じゃなかったよね。何かヨーロッパ産の『……』みたいだった」
「え、そんな妖魔いたっけ?」
渡辺が涙を拭って尋ねると、凰香は頷いた。
「うん。前に図書室にあった『妖魔大系』で見たことがあるの。空中飛行や地下移動、高ランク個体になると百花繚乱や幼児変化なんて特殊能力も使えるって書いてあったわ」
「流石凰香ちゃんね。勉強熱心ーっ!」
「講義にも出てこないのに、よく覚えていたわね。凄い!」
土井も感心したように手を叩いた。
「妖魔の中ではかなりの変わり者で、インパクトあったの」
凰香は少し照れくさそうだ。しかし「お花屋さん」状態の学生には、そんな会話など耳に入らない。一斉に「何とかしろー!」と藍沢に訴えてくる。
「お前ら、静かにしろ!」
藍沢が喝を入れると、学生達はギクリとして静まり返った。
「そんなにどうにかして欲しいか? ならまず何でそんな目に遭ったのかを説明してやる。教頭、もうよろしいですか?」
「ああいいよ。今ちょうど集計が終わったところだ」
ベンチの上で学生が集めてきた妖紙の点数を計算していた福原は、ボールペンを置いて藍沢の横へ立った。
「さて、諸君」
福原は不思議そうに自分を見詰める学生達に向かって言った。
「この子達に見覚えはあるだろう? 娘達や、出ておいで」
「はーい、旦那様あ」
福原の足下から二つの影が飛び出し、別れて両肩の上一メートルほどの所でそれぞれ実体化した。右肩の上には黒髪の娘、左肩の上には栗色の髪の娘。どちらも長髪碧眼でそれは可愛らしい。黒髪の娘は薄緑色の、栗色の髪の娘はピンクのワンピースを身に纏っている。
「グリフィーナでーす」
と、黒髪の娘。
「ファルシオーネでーす」
と、栗色の髪の娘。ああっと言う声が、学生全員からあがった。皆彼女らのどちらかに見覚えがあったのだ。
「彼女らは中央ヨーロッパ原産の妖魔・竈乙女だよ。この子らは番でね。昔、学校の用でヨーロッパに出張に行った時、古い空き家で偶然出会ったんだ。私に懐いてついて来てくれた。ま、幾ら不可視とはいえこのままの姿で飛行機には乗せられないから、校長に一時的に妖紙にしてもらったけどね。竈乙女は危険な妖魔ではないから、妖魔局に輸入許可を求める必要はなかったし」
皆が呆気にとられる中、凰香だけが「やっぱり」と呟いた。彼女の読みは当たっていたのだ。ただ、流石の凰香もまさか彼女らが福原の足下に隠れていようとは想像もしていなかった。気配を消して地下に潜んでいたため、感知できなかったのである。
凰香が言うように、竈乙女は妖魔の中でも一風変わった種だった。妖魔は普通、人間の気が籠もる場所を酷く嫌う。よって妖魔が人の家の中へ侵入するような事態はまず発生しないのである。
しかし、竈乙女は人間に寄り添って生きる道を選んだ妖魔だった。彼女らは人の気が苦手ではないのだ。人間の家の中に住み着き、生活を共にする。彼女らは喜んで家事を手伝う。汚れていた室内がいつの間にか綺麗になっている。たまっていた洗濯物が洗って干してある。そして時々聞こえてくる陽気な笑い声。多くの人間にはその姿は見えないが、そのような現象で彼女らの存在を知ることが出来た。
古くから竈乙女の住む家には、幸福が訪れるという言い伝えがある。また、家の周辺に出没する妖魔も食べて駆除してくれる。良いこと尽くめのようだが、彼女らには困った点が一つがある。大の悪戯好きなのだ。掃除をしてくれたかと思えば、数時間後には滅茶苦茶にされる。いつも使っている大事な道具を隠される……など、とにかく気紛れなのだ。それ故悪戯を気にとめないような寛容な人物にしか懐かない。グリフィーナとファルシオーネがいた家が長年空き家になっていた理由もそこにある。懐いていた人間が他界して以降、次々に新しい住民がやって来たものの、彼女らの悪戯に耐えきれず出て行ったり、逆に彼女らが気に入らず追い出したりしたからだ。
「和州にも座敷童子という妖魔がいるが、あれはこの子達の近縁種だね。人間好きの妖魔はとにかく少なくて、世界全体でも数種類程度だ。どうかね、貴重なこの子達を見られて勉強になったかね?」
福原は相変わらず笑顔で説明したが、彼の仕業だとわかった途端、学生達がざわつき始めた。竈乙女の罠を回避した学生は「何だ、そうだったのか」程度だったが、頭に花を咲かせた学生は黙っていない。花の天辺から湯気を出さんばかりの勢いで、口々に罵りだした。
「そいつら教頭の手下かよ!」
「きったねーぞ!」
「俺達がどんな恥ずかしい思いしてここまで来たか、わかっているのかよ!」
「ふざけるな!」
罵声と怒号が飛び交う中、頭に花を咲かせた学生達は拳を突き上げ、福原に迫ろうとした。しかしここで藍沢が彼らの前に立ちはだかった。
「この大馬鹿野郎! いったいどうして実習でこんなことやったのか、まだわからんのか!」
学生達は藍沢の凄みの効いた睨みにたじろぎ、足を止めた。ヤクザも怯むという眼光の威力は抜群だ。未熟な学生の足を竦ませることなど造作もない。
「お前ら、ただ超低レベル妖魔を狩ればいいなんて安易な気持ちで実習に臨んだんじゃねえのか? 実際の妖魔狩りっていうのはな、そんな甘っちょろいもんじゃねえんだよ! 狩られる方だって必死だ。ありとあらゆる手を使って俺達漉士を抹殺しようとする。ただ襲って食い殺すだけじゃない。妖魔の中には人間に負けず劣らず狡賢い連中も多い。そんな奴らは知恵を絞り、罠を仕掛けて俺達の命を狙おうとする。わかっているのか!」
つまりこういうことだったのだ。グリフィーナとファルシオーネは敵の妖魔役。甘言とその美しい容姿で学生を誘い、罠にはめる。まんまと罠に引っかかった学生には、目印として花を頭上に咲かせるーーという。
「でも先生……。俺達、そいつらが妖魔だなんて、全然気付きませんでした。気配消していたみたいですし」
学生の一人がぼそぼそと反論すると、藍沢は声の勢いをやや落として答えた。
「それならどうして花がある奴とない奴がいる? このお嬢さん達は全員に同じ罠を仕掛けたんだぞ。黒髪のお嬢さんは黄色いリボンの班に、栗色の髪のお嬢さんは水色のリボンの班にだ。たとえ彼女らが気配を消していたとしても、気を引き締め神経を研ぎ澄ませていれば、妖魔独特の気配を感じ取ることが出来たはずだ。早い話、お前らが油断して手抜きをしていたってことだろうが!」
もう反論の余地はなかった。罠にはまった学生等は俯き、言葉も出ない。
「今回は実習だから恥を晒す程度ですんだが、これがもし本当の狩りだったら、お前ら間違いなく全員死んでいるぞ! わかったか! 頭に花を咲かせたおめでたい連中は、獲得した妖紙の数にかかわらず全員失格! 反省しろ!」
それだけ言うと藍沢は学生達に一旦背を向け、福原から一枚の紙を受け取ったが、はーっとため息をついた。
「やれやれ、残ったのはこれだけか。それじゃこれから今回の野外実習の結果を発表するぞ」
「おめでたくない」六つの班の学生十五人は息をのみ、期待を込めた眼差しで藍沢を見詰めた。
「一位、七班。実質点数13.5」
やったーと声を上げ、七班の学生二人が飛び上がった。
「二位、九班。実質点数11.0。三位、十四班。実質点数9.3」
凰香達漉士クラス三人娘の班は三位であった。凰香は親友二人に手を合わせて囁いた。
「三位かー、残念だったね。『あんなこと』あったから。ごめんね、余計なことして」
「仕方がないわよ。あれを見つけた凰香ちゃん凄いよ」
渡辺がウインクして笑っている間にも、結果発表は続く。
「四位、六班。実質点数6.5。以上だ』
藍沢は集計用紙から目を離したが、学生達は気付いていた。まだ読み上げられていない班が二つあることを。三班と十一班だ。三班は児島の一人班、十一班は三人班である。
「先生、俺、まだ呼ばれていません。点数は十五点を軽く越えているはずですが……」
「俺達もです。うちだってトータルで二十点はとっているはずです」
児島ら四人は不安を隠せない。一体どういうことなのか。彼らだけではなく、他の四つの班のメンバーも「何で?」といった顔をしている。
「そんなに不思議か、お前ら」
児島達を見る藍沢の表情がにわかに険しくなった。
「それなら自分の胸に手を当てて、よーく考えて見ろ。俺がお前らがやったことを知らないとでも思ったか? こっちはちゃんと報告を受けているんだぞ。そこのお嬢さん方にな!」
藍沢が親指で竈乙女を指すと、まずグリフィーナが口を開いた。
「私、見たの。クラス長さんが地鳥を追って、勝手に人の家の庭に入っていくところを」
ファルシオーネも続く。
「私も見たわ。そこの三人が帰り、タクシーを使って戻ってくるのを」
四人はぐうの音も出なかった。竈乙女の役目は学生を罠にかけることだけではなかったのだ。学生がちゃんと注意事項を守って行動しているかーーその監視も同時に行っていたのである。
「どうやら身に覚えがあるようだな。言ったはずだ。違反したら失格だとな。わかったか! お前らにも単位はやらん!」
言い逃れも出来ず、四人はうなだれた。特にクラス長の児島のショックは大きい。違反さえ発覚しなければ、間違いなく一位になれるだけの妖紙を獲得していたからだ。
「さて、こうなると今回の野外実習の優勝班は」
改めて残った四つの班の学生達の方を向くと、藍沢は言った。
「七班」
七班の二人がうおーっと喚起の雄叫びを上げ、抱き合った。
「……と、言いたいところだが」
藍沢の思いもかけない台詞に七班の二人は喜びも一気に冷め、驚いたまま固まってしまった。
「こいつを見ろ」
藍沢は福原から一枚の妖紙を受け取った。銀色の鈍い光を放つ、見慣れない妖紙。町中のあちこちで見かけた尾長鼠や地鳥といった超低レベル妖魔のものではないことは、誰の目にもわかった。
「この妖紙は今日この蔵本町内で、俺が漉いた物だ。だがこいつの素妖を見つけたのは十四班ーー砂川だ」
そう説明すると藍沢はその妖紙を手に入れた経緯を話し出した。そして当事者である凰香も思い起こしていた。自分が先程口走った「あんなこと」を。
「凰香ちゃんが気付いてくれなかったら、危なかったね」
土井は渡辺の横を歩きながら、前を行く凰香に向かって言った。実はつい先程、漉士クラス三人娘の前に外国人の女の子が突然現れ、
「紙士学校のお姉ちゃーん。私、妖魔がいっぱいいる所、知ってるー」
など叫びながら駆け寄って来たのだ。土井と渡辺はてっきり近所の子供かと思い、優しく話しかけようとした。が、凰香は一目見るなり、
「明美ちゃん、昌子ちゃん! 近寄っちゃ駄目! その子、妖魔よ!」
と、二人の手を引っ張って子供から引き離したのである。
「あーあ、あっさりばれちゃった。仕方がない。またねー」
女の子はみる間に高校生くらいの娘の姿となり、不可視状態となって飛び去ってしまった。一体何が目的で自分達へ近付いたのか、わからぬまま。
「捕まえ損なっちゃたけど、大丈夫かな?」
「明美ちゃん、それは大丈夫だと思う。全然敵意は感じられなかったから。何か面白そうだから、からかってやろうって感じだった。それにあの妖魔、私達じゃ多分漉けなかったよ。10レベル以上あるみたいだった」
「でもおかしいわね。あの子、私達が養成学校の学生だってこと、知っていたじゃない。そりゃこのリボンがあるからわかるかもしれないけど、それってこの町内の人しか知らないはずよね?」
渡辺の指摘通りだった。妖魔は紙士、ことに天敵である漉士の気配に敏感だと言うが、「漉士」であることはわかっても、「漉士の卵」であることまでわかるだろうか。
「うーん、確かにそうよねえ……。あ……」
不意に凰香が歩みを止めた。足ばかりか表情までも強ばらせて。
「どうしたの、凰香ちゃん」
土井は凍ったように立ち尽くす凰香の肩を叩いた。
「ここ、いる……」
凰香が震える手で指さしたのは、道路の左手にある一軒の日本家屋だった。木の門扉は汚れが目立ち、蝶番も一つが外れて壊れかかっている。表札もなく、郵便受けには広告紙やゴミが無造作に突っ込まれたまま。垣根の木も手入れが全くされておらず、ぼうぼうだ。
「何か空き家みたいだけど……。本当にここにいるのーー妖魔が」
「うん……。確かに気配が……」
凰香は小さく頷くのが精一杯だった。今まで感じたことがないような強烈な妖魔の気配。しかも先程の子供の時とは違い、明らかな敵意が感じられる。
「よし。とにかく入ってみましょう。空き家なら断る必要もないし」
渡辺が先頭に立ち、凰香と土井が後に続いた。玄関の引き戸を開けようとしてみたものの、あいにく鍵がかかっている。そこで三人は庭へ回ったが、そこは酷い荒れようだった。草が膝の高さにまで達し、庭木の枝も伸び放題。生い茂る枝葉のせいで庭は薄暗く、尚更不気味に見えた。人が去ってもう何年も経過しているのだろう。
「ねえ。あれ、何かしら?」
渡辺が庭に面した窓の方を指さした。人の背丈より高い窓が五、六枚、家の一面を覆うように並んでいる。うちガラスが一枚だけ粉々に砕け、窓の下半分に直径一メートルほどの大穴が空いているのだ。穴の真下に踏み石があることから、この窓から庭へ出入りが出来るようだった。
「昌子ちゃん、気を付けて。この中よ。この中にいる」
「えっ、本当? 凰香ちゃん」
渡辺は慎重に穴から中を覗いた。縁側を挟み、奥に十畳ほどの和室が見えるが、妖魔の姿はない。室内に立ちこめる異様なほどの殺気は感じるのだが。
「いないわよ。おかしいわね。確かに何かいそうな感じなのに」
「そんなはずはないわ。あっ!」
室内を見た凰香が、何かに打たれたように後ずさりした。
「目が合っちゃった……」
凰香は軽い目眩を覚えた。妖魔の鋭い眼光をまともに受けてしまったのだ。しかし土井が見ても渡辺同様、何も見えない。
「ちょ……ちょっと待って。凰香ちゃんには見えて、私達に見えないってことはーー」
渡辺は土井は頷き合った。もう答えは一つしかない。相手が「穏形」を使って姿を消しているのだ。穏形は妖魔の特殊能力の一つで、不可視状態の妖魔がさらに姿を消す術だ。これを使われると妖視能力者にも他の妖魔にも見えなくなってしまう。
だがこの穏形を見破れる者がいる。妖視能力がSSの者だ。凰香ままさにこのSSだったのである。土井はB、渡辺はAなので、穏形を使われるともはやどうにもならない。
「それで凰香ちゃん、相手はどんな妖魔なのよ」
土井が尋ねると、凰香は頭を一回ぶるっと振った。
「体はムササビみたいで、顔は狼みたいだけど耳はちょっと大きく、目は四つあったわ。サイズは結構大きくて、十五(一メートル半)くらいあったかなあ」
「ねえそれって、忍包よね。確かランク2以上で穏形を使えたはずだし。でも忍包ってこんな町中にいたっけ?」
「いないわよ、普通。もっと山奥にいるはずよ」
凰香がそう答えた直後、渡辺がその手を握った。
「ロックオンしてよ、凰香ちゃん。私達であいつをやっつけましょう」
「駄目よ! 相手はどう見ても10レベルはあるわ! 私達じゃ手に負えない。漉けないのよ」
自分の手に余る妖魔をロックオンしてはならないーー漉士の鉄則だ。忍包はランク1個体のレベルは4、決して格の高い種の妖魔ではない。ランク2までの個体なら渡辺が漉けるが、凰香の見た目ではそれを遙かに越える、高ランク個体のようなのだ。
「忍包は基本的には隠れることが特技の臆病な妖魔だけど、気も荒いし追い詰められれば人を襲うこともあるわ。こんな危険な妖魔、放っておけない。どうしよう」
「それで凰香ちゃん、相手の様子はどうなの?」
「明美ちゃん、それが変なのよ。私のことをもの凄い目つきで睨んで威嚇してくるけど、皮膜を広げて畳にへばりついたまま動こうとしない。私に気付かれたことはわかっているくせに」
「確かにそれは変ね。第一、空き家で人の気が抜けて久しいとは言え、妖魔が人家に住み着くなんて」
渡辺がそう言ったきり、三人は黙り込んでしまった。妖魔の存在を知りながら、ここを立ち去ることも出来ない。かと言って自分達で対処も出来ないのだ。
そんな中、沈黙を破ったのは渡辺だった。
「よし。藍沢先生を呼んできましょう。先生ならあいつを漉けるわ」
ああそうか、と凰香も土井も思った。腕のいい漉士で、妖魔のことを知り尽くしている藍沢は、間違いなく頼りになる。忍包の紙漉きもそう難しいことではないはずだ。
「でも、誰が呼びに行くの? 凰香ちゃんが離れたら、あいつのこと監視できない。逃げられちゃうかもしれないわ」
「明美ちゃん、私が行く。走るのなら任せてよ。こう見えても元陸上部だから」
渡辺はそう言って地図を持ち、一度道路へ出た。電信柱の街区表示板を見て、現在位置を確認する。
二人の許へ戻ると、渡辺は背中の荷物をおろし、土井に預けた。
「明美ちゃんは残っていて。二人でいれば心強いでしょう。でも無理だけは絶対にしないでね。少しでもあいつがおかしな様子を見せたら、直ぐに逃げて。お願いね」
「うん、頑張ってね!」
「じゃ、行ってくるね。なるべく早く戻るようにするから」
「行ってらっしゃい!」
駆け出す渡辺に、凰香は手を振った。
走るのが得意であるかのようなことを言った渡辺であったが、実のところ専門は走り幅跳び。瞬発力には自信があるものの、持久力はない。ものの一、二分で息が上がり、足がもつれてきた。それでも十分近くかけてどうにか蔵本第二公園へ駆け込んだ。
「渡辺か。どうした?」
異変を察知したのか、藍沢は渡辺の姿を見るとそばまでやって来た。
「先生、実は……」
「お前、かなり焦っているな。息を整えて、落ち着いてから喋れ」
「はい……」
言われる通り渡辺は胸の鼓動が静まるのを待って話し始めた。
「空き家の中に妖魔が潜んでいます。でもその姿は凰香ちゃ……砂川さんにしか見えないんです」
「穏形か! 忍包だな!」
流石は主任教師、話を少し聞いただけで藍沢には直ぐに見当がついた。
「そうです。砂川さんはその忍包は10レベルはあるって言うんです。私達じゃどうにもなりません。お願いです。先生、あいつを漉いて下さい」
「それで砂川と土井はどうした!」
「まだその空き家の庭にいます。妖魔が逃げ出さないよう、見張っていなきゃいけないから……」
「馬鹿! お前、班長だろう! どうして二人を連れて来なかった!」
あの二人を現場に残すのはまずいーー藍沢は蒼白となった。たとえ穏形を見破ったとしても、高ランク忍包はなかなか厄介な相手だ。過去に対戦経験がある藍沢には、その手強さがわかっていた。もし自分が駆けつける前に妖魔が二人に襲いかかったら……!
「だって妖魔は砂川さんにしか見えないし、砂川さん一人より土井さんと一緒にいた方がいいから……。妖魔が少しでも変な様子を見せたら、直ぐに逃げるようには言ってありますけど。それに砂川さんが言うには、妖魔は床にへばりついて動こうとしないとか」
「わかった。直ぐ行く。場所はわかるな?」
「はい、この辺りです」
渡辺は地図の一点を指さした。場所は蔵本三丁目十四番地だ。
「ここから少し距離があるな……。とにかく急ぐぞ!」
福原に一言断りを入れ、藍沢は渡辺と共に現場へ急いだ。だが藍沢は右足が悪い。走りたくても思うように走れない。普通の人が早歩きをするより少し早い程度しかスピードが出ない。肝心な時にーー藍沢は自分の体が呪わしかった。
二人が現場の空き家へ到着したのは、渡辺がここを出てから三十分ほど経った頃だった。
ーーいるな……。
家の前に来るなり、藍沢は妖魔の気配をーー殺気を感知した。間違いない。「奴」はここに潜んでいる……と。
門扉を開け、庭へ入ると、すぐさま凰香と土井が駆け寄ってきた。
「あ、先生!」
「無事だったか……」
怪我一つない二人の姿を見て、藍沢は全身から力が抜けるのを感じた。土井は安心してただはしゃぐだけだったが、凰香は藍沢の緩みきった表情を見て、ひどく驚いた。今までこんな藍沢の姿を見たことがなかったからだ。
ーー藍沢先生、ただの怖い先生と思っていたけど……。そうじゃない……。
自分達のことを心配して、無事だとわかった瞬間、気が抜けてあんな表情を見せたのだーー凰香はそのことをしっかりと感じ取っていた。
しかしそれも一瞬のこと。藍沢はすぐに戦闘モードへ切り替えた。退治屋として名を馳せた、かつての闘志と感覚が蘇る。
「砂川。奴はどこだ?」
「はい、先生。この部屋の奥です」
凰香が示した場所ーー破れたガラス戸の前まで来ると、藍沢は身を屈めた。
「ここから窓を破って中に入ったか……。奴め、何を考えている」
体勢を低くしたまま、藍沢は窓を開け放ち、前面を開放した。途端に室内に充満していた敵意が一気に放出される。未熟な漉士なら震え上がってしまうほどの濃度と勢いで。だが敵の存在を確信できても、藍沢の目には相手の姿は映らない。
「間違いなくここにいるが、俺には奴の正確な位置がわからん。砂川、奴はこの部屋のどこにいる?」
「あ……、部屋の奥の壁に壊れた時計がかかっていますよね? ちょうどあの真下辺りです」
「そこか」
藍沢の目がきらりと光った。
「お前達、下がっていろ。俺がいいと言うまで絶対に前へ出るなよ」
「はいっ!」
三人が斜め後方、庭の隅の方へ移動したことを確かめると、藍沢は立ち上がった。右手を前方へ伸ばし、人差し指と小指を突き立てる。
「ロックオン!」
藍沢が叫ぶと同時に、室内に潜んでいた妖魔に色が着き、姿を現した。その姿は凰香が見たものと同じ。体はムササビ、頭はジャッカル。そして尾は蛇だ。全身銀色の毛で包まれていたが、艶があまりなく光り方が鈍い。つり上がった目は紫色で、顔の左右に二つずつある。口の中には三角形の鋭利な牙がびっしり並び、四肢の指先にはフックのような爪がはえている。体長は1.3メートルほど、尾も含めれば1.5メートルは優にある。
姿を露わにされた妖魔ーー忍包は声を上げて唸りだした。不可視状態の時は存在を知られぬよう睨みつけるだけだったが、姿を見られた今は全身全霊の力を込めて威嚇してくる。ウーッ、グルルーッと押し殺すような、しかし凄みの利いた迫力ある声だ。全身の毛は逆立ち、目は燃え上がらんばかりにぎらぎらと光っている。
「うわっ、凶悪……」
その恐ろしげな姿に凰香達は小さく悲鳴を上げたが、藍沢はいたって冷静だった。相手の真正面に立ったまま、じっと敵を見据えている。
「ランク12忍包、15レベルってところか。忍包の中じゃ故老の類に入るな」
しかし忍包は手足を目一杯伸ばし、皮膜を広げてーー滑空飛行する時の姿勢を保ったまま、畳にへばりついている。牙を剥いて唸るものの、その場から一歩も動こうとしない。
「貴様、腹の下に何を隠している」
藍沢の言葉がわかるのか、忍包は耳をぴくりと動かした。
「ま、何があるか見当はつくがな。貴様が人に危害を加えることなく、即刻山奥へ帰るというのなら、見逃してやる。それとも俺とここで一戦交えるか。さあ、どうする?」
藍沢がそう尋ねた直後、忍包は口をかっと開けた。折り畳まれていた舌が弾丸の如く飛び出し、相手の左胸めがけて真っ直ぐ伸びて行く。その先は人の軟らかな体など容易く貫けるほど、鋭く硬く尖っていた。
「先生、危ない!」
渡辺が叫び、凰香と土井は思わず目をつぶった。だが当の藍沢は身を右手に傾け、この一撃をかわしたのだ。相手の手口を完全に読んでいたようで、その避け方には余裕があった。
「それが返事か!」
舌が口内へ戻りきらないうちに、藍沢は印を結んだ。印から放たれた虹色の四角い光は相手の額に命中。悲鳴を上げる間もなく光は全身を覆い、忍包は銀色の妖紙へ姿を変えた。
「凄かったねー」
「先生が紙漉きするところ、久しぶりに見ちゃった」
「格好良かったわあ」
凰香達は興奮覚めやらぬ様子で話している。藍沢は室内へ上がり込むと、妖紙を拾い上げた。
「よし。お前ら、もうこっちに来てもいいぞ」
藍沢に呼ばれ、凰香達も部屋の中へ入った。が、畳の上にーー先程まで忍包が貼りついていた辺りに、何かが横たわっていることに気付いた。
「先生。これって忍包の骨……ですよね?」
凰香が尋ねると、藍沢は頷いた。確かに忍包のものらしき妖魔の骨が一揃いある。
「そうだ。お前はSSで奴らの骨格まで見えるから、わかるな」
「はい。でも何でこんな所に妖魔の骨が……」
「これはこいつの繁殖相手だ」
妖紙をヒラヒラさせながら、藍沢は説明し始めた。
「忍包は通常、成熟するとペアでーー繁殖相手を伴って行動する。しかし奴らは見かけによらず、結構好みにうるさくてな。決まった相手以外とは絶対に繁殖しないんだ。しかも一度番うと、どちらか一方が死ぬまでその関係は続く。まあそれだけ仲睦まじいってことだ。だから忍包を相手にする時は、必ず二体いるって事を覚えておけよ」
「でもこうしてその繁殖相手が骨になっているってことは……死んだってことですよね?」
「その通りだ、渡辺。しかもよく見てみろ。あちこちの骨が砕けている。頭骨もかなり手酷くやられているな。恐らく、これが致命傷だ」
「でもどうして……。他の妖魔にやられたんでしょうか?」
土井の質問に藍沢は首を横へ振った。
「違うな。この周辺には15レベルの妖魔を襲うような強者はおらん。多分、事故だ」
事故ーー凰香達は顔を見合わせた。超低レベル妖魔が人にうっかり蹴飛ばされたり、屋根から落ちて負傷するということはよくある。だがこんな町中で15レベルの妖魔が事故にあった話など、聞いたことがない。
「馬車にでも轢かれたんだろう。だが15レベルの妖魔を轢き殺せるような車となると、大型運送馬車か大型乗合馬車くらいしか考えられん。この骨の損傷状態もそれを裏付けている」
藍沢の推測はこうだ。理由はわからないが、番の忍包が蔵本町へやってきた。しかしそのうちの一体が、この近くで大型車に轢かれ、死亡。連れ合いの忍包は死体を引きずって、雨風がしのげるこの空き家の中へ侵入したのだ。そして遺体に覆い被さり、守っていたのである。
「どうして死体を守っていたんでしょうか? 普通の妖魔なら仲間の死体なんか守るどころか、逆に妖気を食べちゃうこともあるのに」
土井が不思議そうな顔をするのを見て、藍沢は改めて骨を指さした。
「この骨、先程の奴と大きさもさしてかわらない。あいつはランク12、忍包としてはかなり長生きした個体だ。連れ合いも同じくらいの年齢だったのだろう。つまりこの二体は、相当長いこと連れ添っていたってことだ」
講義でも聞けないような内容に、凰香達は興味津々だ。藍沢はさらに話し続ける。
「そんなずっと行動を共にしてきた相手の亡骸が、他の妖魔に妖気をむさぼり食われるのは、奴にとっては耐え難いことだったんだろう。死体が自然消滅するまで、他の妖魔から守ることにしたんだ。穏形を使って覆い被されば、他の妖魔からは見えない。死体が自然消滅する過程で少しずつ放出される妖気はこいつが自分で食い、事故で飛び散ったり、ここへ運び込む際に着いた血肉も丁寧に舐めとったことだろう。さもなければその気配を辿って、他の妖魔が集まってくるからな」
「だから私達が来ても、先生が挑発しても動こうとしなかったんですね。死体を守ろうとして」
渡辺がしみじみ言う傍ら、土井は目を潤ませ、
「麗しき夫婦愛」
と、一人感動していた。
「おい。妖魔に雄も雌もないぞ。だがこいつをよく見つけたな。おかげで今回の事件は解決しそうだ」
「え? 私達が増えた妖魔を駆除すればすむ話じゃないんですか?」
凰香が尋ねると、藍沢はうーんと唸った。
「実のところ、俺も当初はそう思っていた。校長もな。超低レベル妖魔が異常発生することは稀ではあるが起こる。頭が一時的にいかれて、仲間を増やさなければという衝動に駆られることがな」
しかしそのような異常行動は大抵十日から二週間でほどで終息する。よって増えた分だけ狩れば個体数は落ち着くが、数が数だけに駆除にはかなりの手間がかかる。そこで今回、学生達にそれをやってもらおうと、学校側は考えたのだがーー
「しかし実際はそうじゃなかった。ただ駆除するだけでは事は収まらなかったんだ。超低レベル妖魔の異常発生は、こいつが原因だったんだからな」
「この妖魔ーー忍包がですか?」
「そうだ。ある日突然、15レベルもあるような恐ろしい敵が現れた。妖魔は俺達以上に他の妖魔、特に敵の気配に敏感だ。奴らにとっては青天の霹靂、だが近くの別の場所へ逃げたくても、そこのライバルに追い返されるから縄張りから外へは出られない。このままでは仲間が食い尽くされてしまう。犠牲が出るのは仕方がないが、根絶やしにされるのはごめんーーとでも思ったんだろう。危機感を持った奴らは、とにかく数を増やそうとしたんだな」
「でもその忍包はここから動かなかったわけですから、超低レベル妖魔を狩ってはいないわけですよねえ……」
土井はそう言って考え込んだ。
「ああ。奴はここから動かない、いや動けない。でも超低レベル妖魔はそんな事情など知らん。敵の存在に怯え、どんどん数を増やす。肝心の忍包は一向に奴らを食おうとしない。結果、奴らの数が増えすぎて、町内の動植物や人間にとばっちりがきたんだ。先程杉内さんから聞いたんだが、今回の被害はこの周辺ーー蔵本三丁目と、隣接する二丁目に集中しているそうだ。それもこいつが異常増殖の原因であることの証拠だな」
町中に住む妖魔も成長してランクが上がれば、町を離れてもっと自然が多い所に移り住む。天敵が少ない町はか弱い子供が生きるにはいいが、如何せん餌に乏しい。よって都市部でお馴染みの尾長鼠でも地鳥でも、ランク3以上の個体を町中で見かけることは比較的珍しいのだ。
ただこのような格の低い妖魔は、ランク1でも取り敢えず繁殖は可能なので、数も増えやすい。こうでもして個体数を維持しなければ種を存続出来ないからだ。ランク1の妖魔が生まれた翌日に自身も繁殖を開始。それこそねずみ算式に増殖するーーということが、今回蔵本町では起きていたのである。
「でも先生、この忍包は連れ合いの死体さえ消えれば、この町から出て行ったはずですよね? 脅威さえいなくなれば超低レベル妖魔も安心して過剰な繁殖は止め、その数も減っていくはずじゃ……」
「確かにな。この死体、既に肉や皮は消え、骨だけだ。こいつが事故に遭ってから十日は経過しているだろう。もしあいつがこのまま守っていたら、完全に消滅するのに最低でもあと一週間はかかる。その間にも超低レベル妖魔はどんどん増えるぞ。そしてそれは新たな高レベル妖魔を引き寄せるかもしれん。危険だ。それに渡辺、お前の言うように、奴が大人しくこの町から出て行ったかどうか。最愛の連れ合いを人間に殺されたんだからな」
獲物を求めて高レベル妖魔が町へ来るのも怖いが、忍包が報復に出るのはもっと恐ろしかった。対峙した時の、人間に向けられた凄まじい憎悪の炎。忍包を一目見た途端、藍沢は相手の心中を察した。だから助ける条件として、「貴様が人に危害を加えることなく、即刻山奥へ帰るというのなら」などと言ったのだ。
「だがこうして奴は排除できた。これでお前達がきちんと駆除すれば、超低レベル妖魔の数も落ち着くだろう。よくやったな。この妖紙は俺が預かっておく。教頭や校長に報告しなきゃならないからな」
凰香は正直、少し残念だった。忍包の妖紙が実習の得点対象にならなかったからだ。妖紙を得るためには、「妖魔発見」「ロックオン」「紙漉き」の三段階を踏む必要がある。この中で最も重要なのが「紙漉き」で、漉士のルールではこれを行った者に優先的に妖紙の所有権が与えられる。俗に「ロックオンした者勝ち」何て言われるが、それは紙漉きまで行った場合の話だ。今回、忍包を見つけたのは凰香だったが、ロックオンしたのも紙漉きしたのも藍沢。文句は言えなかった。
仕方ないかーーと肩を落とす凰香の横で、渡辺が言った。
「ところで先生、この死体はどうしますか? ほったらかしておいていいんですか? 妖魔の死体は他の妖魔を呼び寄せて危険だから、極力処理するようにって確か講義で……」
「構いやしないさ。来たとしてもそれは超低レベル妖魔だし、ここは空き家で人もおらんから実害はない。それにこんな骨など一日……いや、半日ももたず食い尽くされる。動植物の気ばかり食べている奴らにしてみれば、またとない御馳走だからな」
そう言い残すと藍沢は凰香達を置いて、空き家から出ていった。
「ところで今、何時かしら?」
渡辺に聞かれ、土井は自分の時計を見た。
「うわっ、大変! もう三時四十五分よ。大分時間を食っちゃった」
「この遅れ取り戻さないとまずいね。急いでここを出よう」
と、凰香が部屋を出ようとした時、土井がはっとなった。
「ちょっと待って。直にこの死体を食べに妖魔がここに来るってことよね?」
土井が言わんとしていることが、凰香にも渡辺にもすぐにわかった。
「そっか。こっちから探しに行かなくても、向こうから来てくれるのね」
「そこを狙って紙漉きすれば……!」
三人はふふふと声を上げて嬉しそうに笑った。
「よーし! それじゃ隠れて見張っていましょう。凰香ちゃん、見る方をよろしく。来たら私と明美ちゃんでロックオンして、紙漉きするから」
「オッケー!」
そんな楽しげな凰香達の会話は、門の前にいた藍沢の耳まで届いていた。
ーーあいつら、気が付いたな。横着をしようっていうんだから、あまり感心できるやり方ではないが、俺の思い込みのせいで恐ろしい思いをさせたこともある。今回は大目に見てやるか。
そんなことを思いながらその場を立ち去る藍沢も、どこか嬉しそうだった。
「……と、そういうことがあって、この妖紙を手に入れたわけだ」
藍沢から忍包の妖紙を漉いた経緯を聞いて、学生達は驚きを隠せなかった。まさか15レベルもあるような妖魔がこんな都会のど真ん中にある町に潜み、超低レベル妖魔異常発生の原因となっていたとは、誰も想像もしていなかったのである。
「恐らく、お前らの中にも問題の空き家の近くを通った奴はいたはずだ。だが忍包に気付いたのは砂川だけ。たとえ姿は見えなくても、そこに何かがいることぐらいは感知できただろう。もっと神経を尖らせて、妖魔の気配を探れ! そんなことじゃこの先、妖魔狩りなんぞ出来ないぞ!」
藍沢の説教は結城達にとって耳が痛いものだった。空き家があったのは蔵本三丁目十四番地。結城達が「妖魔がいない」と不思議がっていた辺りだ。よくよく考えてみれば、それも当然のこと。忍包を恐れ、超低レベル妖魔は周辺に近寄ろうとしなかったのである。
そして同様に、藍沢の話を心苦しい思いで聞いている人物がいた。杉内だった。忍包の妖紙を持って公園へ戻った藍沢が、福原にその件を報告した時、杉内は告げたのだ。「その話、身に覚えがあります」と。
今から二週間ほど前の、五月六日の深夜。杉内は資材を満載したトラックを御し、自宅隣の工場へと急いでいた。予定では昼過ぎには戻れるはずだったのに、ひどい渋滞に捕まって大幅に遅れてしまったのだ。しかもこの時、杉内の末子が体調を崩し、学校を休んで寝込んでいた。その様な理由で彼は一刻も早く自宅へ戻りたかったのである。
普段なら住宅地でトラックを飛ばすという危険な行いはしない杉内だったが、深夜の蔵本町は人通りは殆どない。騒音をたてて住民には申し訳ないが、今日は特別に目をつぶって欲しいーーそう思って馬に鞭を当て、町内を疾走した。
ところが工場まで後一息という所で、何かに乗り上げたような衝撃が車に走り、「ギャン!」という甲高い悲鳴が耳へ飛び込んできたのだ。
ーーしまった! 犬でも轢いたか!
杉内は慌てて手綱を引き、トラックを停車。御者台から飛び降りて、車の後ろへ回った。ところが乗り上げたと思われる地点には、何もない。だが確かに何か轢いたのだ。その証拠に後輪のタイヤのホイールが一つ、外れかかっている。首を傾げつつも杉内は馬の様子を見に行った。幸い二頭の大型馬に怪我はなく、荷物にも損傷は見られない。ほっとした杉内はホイールを直すと、再び馬車を走らせた。
だが工場へ到着した後も、奇妙な現象は続いた。馬を厩舎へ入れて荷車の元へ戻った杉内は、キーキーと変な声がするのことに気付いた。だが姿は見えない。どうも妖魔が荷車の周りに群がっているようなのだが、理由は不明だった……。
その話を聞いた藍沢はしばし杉内の顔を見詰め、おもむろに言った。
ーーあんた、命拾いをしたな。
命拾いとは穏やかではない。言っていることが理解できず、杉内がうろたえていると、藍沢は理由を説明した。
ーー忍包を轢き殺したのは、間違いなくあんただ。奴は路上で餌でも食べていて、トラックの接近に気付くのが遅れたんだろう。そこへあんたの車が乗り上げたというわけだ。あんたはわからなかったんだろうが、その血が荷車にべったり付着していた。そいつを狙って尾長鼠どもが集まってきたんだな。
ーーで……命拾いとは……。
ーー忍包は執念深い。長年連れ添った繁殖相手を殺されたとあっては、奴も黙っていまい。あんたの車や馬の臭いは、死体についている。奴はしっかりそれを覚え、死体が消滅したら捜すつもりだったんだろう。連れ合いの仇を討つためにな。見つかったら最後、あんただけではなく、周りの人間も殺されていたぞ。退治しようにも穏形を使われたら、殆どの漉士はお手上げだ。嗅覚の優れた折妖の助けでもない限りはな。
杉内は恐怖のあまり身震いし、絞り出すように声を出した。
ーーあ……有り難うございます。
ーー礼なら俺ではなく、砂川に言ってくれ。あいつじゃなければ奴は見えないからな。俺だけだったら奴の居場所がわからず、ロックオンすらできなかった。
さらに藍沢は、この件は今この場にいる三人と校長だけの話にしておくと言った。故意ではないとはいえ、妖魔の異常発生の原因が杉内にあったと知られたら、町内会長としての立場がなくなるし、学生達に対しても印象が悪くなるからだ。
「さてーー」
そんなことを思い返している杉内の前で、藍沢は学生に向かって話を続けた。
「原因となる妖魔を発見した十四班には、それに見合った評価をするべきだ。よって十四班にこの妖紙の点数を加点することとする。こいつのレベルは15、十四班は三人なので実質点数に五点をプラス。最終的な実質点数は14.3。よって」
藍沢が凰香達の方を向いた。
「優勝は十四班」
凰香も土井も渡辺も歓声を上げ、手を取り合って喜んだ。しかし納得がいかないのは七班の学生だ。不満を露わにし、藍沢にこう訴えた。
「先生、そりゃないですよ。砂川さんは穏形見えるし、妖魔の気配にも敏感だからわかったと思いますが、俺達はそうじゃありません。第一その空き家の周辺には行っていません」
「それならチームワークでカバーしろ。確かに砂川は見たり感じたりする能力は秀でているが、漉士術はお世辞にも誉められたもんじゃない。それを土井と渡辺がうまくフォローしたからこそ、当初の順位でも三位に入った。妖魔狩人でも退治屋でも、一人で狩りを行うことは少ない。多くの場合、他の漉士や折士と組む。仲間と助け合い、協力していかないと結果は出せないぞ。わかったな」
藍沢にそう言われては、もはや返す言葉もない。七班の学生は黙るしかなかった。
「よし。それじゃ賞金授与といくか。杉内さん、お願いします」
「あ……はい」
藍沢に促され、杉内は前へ出た。杉内からの金一封は、代表して凰香が受け取ることになった。本来なら班長である渡辺がすべきなのだが、忍包の妖紙のおかげで優勝できたので、凰香に役目が回ってきたのだ。
「有り難うお嬢さん」
おかげで命が助かりましたーーと、賞金を手渡しながら杉内は心の中で手を合わせた。そんなこととは知らない凰香は友人と「明日、みんなで夏物の服を買いに行こうねー」と無邪気にはしゃいでいる。
祝福の拍手が収まった頃、「おめでたい」学生の一人が恐る恐る藍沢に声をかけた。
「あのー先生……。そろそろ俺達の『これ』、何とかして欲しいんですけど……」
「ああ、そうだったな。もう勘弁してやりますか、教頭」
「そうだねえ。娘達や、いいかい?」
福原が両肩の上に漂う竈乙女を交互に見やると、二人は、
「別にかまわないけど、私、お腹が空いちゃった」
「私も、旦那様。随分妖力使っちゃったから、もうぺこぺこ」
とだだをこねた。
「そうかいそうかい。あいわかった。藍沢君、すまないが今日集めた妖紙を二枚、紙解きしてくれないか。そうだな、ランク1の地鳥がいいかな」
「わかりました」
藍沢は福原に言われた通り、ランク1地鳥の妖紙を二枚手に取り、それぞれ右手の指を一本ずつ当てた。紙解きとは妖紙を妖魔へ戻す漉士術の一つだ。元の姿へ戻った妖魔はコントロールされておらず危険なので、通常漉士はこの術をなかなか使おうとしない。しかしランク1地鳥は特殊能力を持っておらず、ただの鶏とさして変わりないので問題はなかった。
「二次元の存在と化した者よ。その紙の身を解き、異形の姿へ戻れ」
使い慣れた技とはいえ、学生の手前もあって藍沢はきちんと「決め台詞」を述べて術を施した。妖紙は虹色の光を発し、僅か数秒のうちに立体をなして妖魔の姿にーー地鳥の姿へと戻った。
「さあお嬢さん方。どうぞ」
手早く長い尾を掴み、左右の手に一体ずつ地鳥をぶら下げると、藍沢は竈乙女へ差し出した。食われることを察したのか、二体の地鳥はばたばたと羽ばたき、わめき散らして暴れている。
「まあ、戻したては生きがいいわね」
「美味しそーっ」
グリフィーナとファルシオーネは受け取った「獲物」の頭を数発はたいて気絶させると、首と尾をむんずと掴み、
「いただきまーす」
と、まるで鶏の丸焼きを食べるようにかぶりついたーー生きたまま。姿形は可憐な娘でも妖魔は妖魔、その食事風景は見ていて決して気持ちのいいものではなかった。口から妖気を吸い取られ、見る間に地鳥は萎んでいく。形を失って最後には丸い肉と羽の塊になりーーものの一、二分で地鳥は完全に娘達の腹の中に収まった。
「うえっ、気色悪い……」
「やっぱり所詮は化け物だぜ、あいつら」
「教頭も悪趣味だよな。あんなの飼っているなんてよ」
「ったく、あいつらをどこで口説いてきたんだよ、教頭は。エロ爺」
学生達の間からそんな声が上がった。小声で話したつもりだったようだが、妖魔は人間より遥かに耳聡い。彼らの「悪口」はしっかり気紛れな竈乙女の耳へ届いていた。
「酷ーい。私達のことならまだしも、旦那様の悪口いうなんて」
ファルシオーネがふくれっ面で学生達を睨むと、グリフィーナも舌を出した。
「頭に来たわ。もうあんた達にかけた術、解いてやんない」
ところがそれを聞いて頭に花を咲かせた学生達は謝罪するどころか、猛然と抗議し始めた。学校の策略で散々な目に遭っただけに、完全に頭が切れてしまったのだ。「この野郎ーっ!」「いい加減にしろーっ!」と罵詈雑言が乱れ飛ぶ。
「うるさい! 黙らんか!」
藍沢の怒号が学生達の声を押し返した。
「お前ら、全然反省していないな。よくわかった。お嬢さん達もああ言っていることだし、その格好で寮まで帰れ! それから明日の午前九時よりこの蔵本町で再実習を行う。超低レベル妖魔はまだ完全に駆除し切れていないからな。今回の実習の失格者である、おめでたい奴らと違反者は必ず出ろ! これが単位を取る最後のチャンスだ。わかったな!」
「そんな先生、こんな格好で寮まで戻れなんて。いつになったらこれ、とってくれるんですか」
向井が懇願するように尋ねると、藍沢は後ろにいる福原の方をちらりと見た。
「それはお嬢さん方と教頭に訊くんだな。教頭、どうしますか?」
「さーて、困ったねえ。私は明日娘達と山に出かけようと思っていたんだ。この子達に久し振りに森の空気を吸わせてあげようと思ってね。そんなわけで明日はここへ来られないよ」
「じゃあいつになったら……」
「知らん」
藍沢のつれない返事に向井は失神寸前、巨躯がぐらついた。結城は勿論、他の罠に引っかかった学生達も皆真っ青になっている。
「俺だって日曜返上でお前らに付き合ってやるんだ。そこまで面倒見きれるか。まあ、少なくとも月曜の朝までは我慢するんだな」
「ってことは、この格好で実習を……」
「そういうことになるな」
藍沢があっけらかんと答えると、向井はばったり倒れた。今度こそ本当に失神してしまったのだ。
「今回の実習はこれで終わりだ。解散。各自帰宅しろ」
藍沢がそう言ってもおめでたい学生達は動き出そうとしない。時刻は五時半過ぎ、まだ辺りは明るい。暗くならないと恥ずかしくて道も歩けないからだ。
そんな彼らとは対照的に、合格した四つの班の学生達は悠然と引き上げていく。失格した二つの班も暗い面もちで後に続いた。途方に暮れる残り組の方を渡辺が足を止めて振り向き、追い打ちをかけるように叫んだ。
「あ、そうそう。今日の夕食、寮食堂に予約を入れている人は、ちゃんと食べに行きなさいよ。ドタキャンすると料理長のおばちゃん、怒るから。怖いわよー」
その声に結城は心臓が飛び出る思いだった。今日は午後に実習が入り、自室で作ったり外に食べに行くのが面倒なので、大多数の漉士クラスの学生は夕食の予約を入れている。当然の事ながら寮食堂には他クラスの学生も集まるし、調理担当者もいる。そんな所にのこのこ顔を出せば学校中の笑い者だ。もっとも食べに行かなくても寮へ戻れば、いやでも他クラスの学生とは顔を合わせるので、結果は同じだろうが……。
「それじゃ諸君、ご苦労さん。我々も帰るから」
「バイバーイ」
「明日の実習、頑張ってねー」
福原が歩き出すとグリフィーナもファルシオーネも足下へ隠れてしまった。
「教頭先生、後生ですから何とかして下さい!」
学生達が必死に呼び止めようとしても、福原は無視してさっさと公園を去り、藍沢も、
「俺も寄る所があるから帰るぞ」
と、出て行ってしまった。流石に学生の前で「カミさんに花買って帰らなきゃいけないからな」とは言えなかったが。
教師がいなくなっても花が咲いた学生達の騒ぎは収まらない。向井もひっくり返ったままだ。だが結城はふと気付いた。いつの間にか杉内の姿も消えている。自分ではどうにも出来ず、学生に責められるのも困るので混乱に乗じて帰ってしまったのだ。
しかし周囲ではもっと深刻な事態が起きていた。公園の周りにギャラリーがーー近所の者や通行人が騒ぎを聞きつけ、押し寄せてきていたのである。
「何じゃ、あれ?」
「よくわからないけど、紙士養成学校の学生さんですって」
「しかしけったいな物、頭に乗せているよな」
「綺麗ねーっ」
人々は口々にそんなことを言っては、声を殺して笑っている。穴に入りたくても、入る穴はない。そうこうしている間にも、見物人はどんどん集まってくる。あまりの恥ずかしさに森田が耐えきれなくなり、天を仰いだ。
「俺達が何でこんな目に遭わなきゃならないんだよーっ! ボランティアでこの町の妖魔を駆除しに来ただけなのに!」
空しく響く絶叫。この人波の中、如何にして寮まで戻ればいいのか。明日の実習をまともに行えるのか。考えようにも頭は真っ白、もはやどうすることも出来ない。この日は結城にとって、いや、この場にいる学生にとって二年間の学校生活の中で最悪の日になることは間違いなかった。
初となる「紙使い」シリーズの学園もの、如何だったでしょうか。今回の実習は結城にとっては大変残念な結果に終わりましたが、何とか日曜日の再実習で合格点をもらえたようです。
因みにお気付きの方もおられると思いますが、本編第1話に話として出てきた鳳太の「時々酒をおごってもらった年上のルームメイト」とは向井のことです。向井があの日の夜、頭にヒマワリを咲かせて寮へ帰ってきた時、鳳太は腹が捩れるほど大笑いしたとか。まあ酷いもんですね。また同じく本編第3話で沢崎が話していた「教師やってるうちの同期」とは藍沢のことなのです。この二人、紙士養成学校時代の同期なんですよ。クラスは違いますが、在校時代からの顔見知り。「あいつは人使いが荒い」なんて沢崎は藍沢のことを言っていたりします。沢崎だって部下をこき使っていますから、人のことは言えませんが。
このように本編とも細かい所で繋がりを見せたいと思っています。学園ものの短編は少なくともあと一作は書く予定です。次は鳳太の学生時代も出してみたいですね。それではまたお会いしましょう。