それはトラブル?それとも罠?
復帰するにあたって、引き金を引いてくれた、七篠りこ様に敬意を示す意味で一発目はこれ。
どうして、ってー……。と、思う。いや、うん。俺も話始めた以上、全部話すつもりでいたんだけどさ。
でも、何ていうの?
この子、本当に直球なんだよね、さっきから。
とくとくっと注がれた冷酒が入ったお猪口の中で、テーブルの上の裸電球が揺れている。
よく依子と二人で歩いた平吉の帰り道の空にも満月が浮かんでたっけ。
そう思い出したら急に涙が浮かんできた。じわって本当に自然に。酔ってるからっていうのももちろんあるんだけど、あの頃はものすごくもどかしくて依子に触りたくて触りたくて、でも、手も繋げなくて。それが苦しくって苦しくって、たまらなかった。
リサとの事をようやく決着つけて、それで、堂々と付き合えてるはずなの、どうして俺はこんなに苦しいんだろうって。
「あっ!」
と、声を誰よりも早く漏らしたのは俺じゃなくて笹川さんで、ただ、予想外だったのはその後びしゃっと何かが俺の顔にぶつかった事。ぼたぼたっと顎から垂れる雫でそれが飲み残しのビールだったと気づく。
「す、すみませんっ。下げて貰おうと思ったら手が、滑っちゃってっ」
立ち上がり自分のバッグから出した綺麗な花柄のハンカチを差し出しながら、がやがやと五月蠅い店内で、彼女の身体から出したとは思えないほど大声で店員を呼び止め、おしぼりを貰う姿を渡されたハンカチで顔を拭いながら、情けない事に俺は何も言えずに見ていた。
りょ、涼さん?
と、思わずさん付けで突っ込みたくなったのはその突発的な行動が不自然過ぎるのが隣で見ていてありありと分かってしまったから。
涼はどんなに焦っていても、そういうミスをするような子じゃない。
それは今まで涼が歩んできた社会経験が彼女の日常に存分に生かされているからだ。
飲食店やコンビニ、果てはAV女優のマネージャーまでやったのだから、そこらへんの男よりよっぽど気が利く上に、優秀だ。
つまり。
つまり、目の前で起こった事を俺なりに分析するなら、俺が気づかない何かが藤代さんに起こったんだろう。それも俺も祐樹も気づかない何かが。
その証拠に祐樹に至っては何が起きたのか、俺と同様分かってないから、茫然としている。
「スーツ大丈夫ですか?シミになったらどうしましょう」
涼は多目に貰ったおしぼりを藤代さんに渡しながら、彼のスーツを気にし、彼は彼で、へらりと笑いながら大丈夫だと手を振っている。一見してしまえば、ただのおっちょこちょいと優しい男性にしか見えないだろう。
たまげた。
涼のまるで本当にミスしたように見える演技もそうだけれど、それに瞬時に合わせられる藤代さんにも、俺はたまげてた。
『兄はバカは相手にしないので、藤代さん本当は頭が良いんじゃありません?』
涼はつい三十分ほど前にそう言い放って、彼はそれを少し困った顔をしながらもすんなり受け入れた。
それが、たった今、証明されたのだとようやく呆けた顔を戻した祐樹をちらりと見ながら目配せでお互いに確認しあった。
つまり、それは、ここはもう面倒くさいから放って置こう、と。
地雷だった、と思ったのは藤代さんの目が潤んだから。
男の人って、赤の他人の前では泣かない生き物なんだと思う。それは遺伝子的に組み込まれていて、滅多な事で泣かないようになっているんだろう。
当たり前といえば当たり前で、男は獲物を狩ってくるのが役割で、雄は強くないと生き残れないのが動物のルールなのだ。それが人間に当てはまらないわけがない。
だから、礼も私の前で中々涙を見せなかったし、逆に信頼できると彼の中で認めてくれたからこそ、私のように回数は多くなくても、涙を見せてくれるんだ。
兄に関してもたぶん、同じ。
けれど、兄と礼が同じなのかと言えば違うと思う。
そんなに二人に泣いた回数まで確かめたわけじゃないけれど、きっと、二人は無二の親友だし、甘え甘えられはするけれど、泣くという行為に関しては本能的なそれが働いて、どこかでセーブしているだろう。
男の人はそういう生き物なんだろう。
事実、私は明の涙を見た事が無いし、他の男性の涙もほとんど見た事がない。
生きてきた中で初対面の男の人が、例え酔っていたとしても、泣いた事なんて今まで一度だってなかったんだ。
だから、藤代さんの目が潤んだ時、地雷だと確信した。
目が潤んだだけなのに泣くという行為に考えが直結したのは、きっと、私自身がたくさん今までに泣いてきたから。
礼と一緒に居る時にも、……明との過去の出来事でも。
万が一、私の経験から考えて間違っていたとして、コンタクトレンズがずれたとかそういう理由だったとしても、それが同時に両目で起こるなんて有り得ないと思う。
だって、藤代さんの目が潤む直前、彼俯き加減ではあったけれど、目を擦ったりはしていなかったから。
だから、たぶん、百パーセント、当たってる。
私は地雷を踏んだんだ、藤代さんの。
ただ、踏んだことに対しては後悔なんか全然してない。
何でも聞くと言ったんだし、話す事を決めたのは誰でもなく藤代さん自身なのだから。
けれど、世の中には守らないといけない物があると思ってる。
そういう尊くて大切な物は多少無茶をしても守るべきなんだと思ってる。
きっと、初対面の女の子の前で惚気るつもりが泣いてしまった、なんて、藤代さんにしたら不名誉そのものだろう。
もし、彼が私だけとの付き合いならこんな無茶はしなかった。
でも、彼は私より先に礼や兄、佐久間商事と付き合いがある。
だから、そんな不名誉を抱えてほしくなかった。
泣いてしまったという事を隠すための嘘も吐いてほしくなかった。
そういう事実を恥じて、兄や礼との絆を切って欲しくなかったんだ。
おしぼりを広げながら、不自然にならないように次のをと、渡せば、藤代さんはへらりと笑って顔や首元、それからワイシャツやスーツを拭きながら、大丈夫だと言ってくれ、その言葉に心の奥底で息を吐いた。
助かった、じゃなくて、助けて貰っちゃった。と、思う。
丸まったままじゃなくわざわざ広げながら、心配そうに見つめてくる小さな女の子に、俺は心の中で感謝をした。
それから再確認する。
なるほどね。
黒井さんの妹っていうのも、佐久間さんの恋人っていうのも、本当に頷ける。
その証拠にこういう事をしたら怒鳴るはずの黒井さんは黙ってるし、気まずそうに最初はしていた佐久間さんも今は少し穏やかな顔をしながら冷酒を口に運んでる。
暗黙の了解で、ここはこの小さな女の子に任せる事にしたんでしょう。
それって、本当はすごい事なんだって小さな女の子は気づいているんだろうかと思いながら、同時に二人がノータッチ態度を取っている時点で、俺はこの子から逃げられないのね、と、気づいた。
さあ、どうしようか。
涙は有り難い事に引っ込んだ。でも、これで酒に逃げる手はなくなった。
だからこそ、酒が入ってる状態で難解な頭脳戦に挑まないといけない。
この先どうやって泣かないようにしながら、依子との事を、彼女に、小さな女の子である笹川涼さんに説明していこう、か、と。
まだ続きます。ってか、藤代さんぽいかなぁ。
りこちゃん、メッセージありがとう。
返事のかわりに、これ、受け取ってくれると嬉しいなぁ。……まだ、全然終わらないけれど、ね(笑)