社長と副社長と秘書と俺
「黒井さん、このかわいー子、誰なの?」
猫舌の黒井さんがカップ持ってフーフー息吹きかけてるというのに遠慮せず聞けば彼はそれを止め、あ?と言いながら彼女をちらりと見る。
「礼の秘書。笹川。……ほら、挨拶しろ」
黒井さんはそう俺に手短に言えば彼女に目配せをし、言われた彼女はあわあわとお盆を置いて立ち上がる。
「あ、あの、すみません。笹川涼です」
ぺこっと頭を下げてからジャケットのポケットに手を入れ彼女に似つかわしくない黒革の名刺入れから一枚差しだされ慌てて立ち上がり内ポケットからステンレスの名刺入れを出し受け取ってから俺の分も差しだす。
「へー……涼さんって、この字。なんかちょっと意外ですねー」
座り直しながら貰ったそれを見れば確かに社長秘書と書いてある。
彼女もとい笹川さんは俺のそれをしげしげと見た後、黒革のそれにそっとしまった。
所作があまりに綺麗で見とれていれば黒井がにやにや笑いながら口を開く。
「おい、駄目だぞ、涼は。俺の妹で礼のこれだからな」
と、小指を立てるそれに二重に驚き、思わず声を漏らした。
「えぇ?!い、妹?だって名字……ってか、恋人?!」
「お、お兄ちゃんっ!!」
笹川さんはそう怒鳴り顔がみるみる間に赤くなりそれにまた驚いた。
こんな子居るの、とまるで異世界の生き物を見ているような気分になる。
というか、なんか、かわいいわ、確かに。
いや、違う。
あの、あの、生真面目で仕事一直線な社長に恋人、が出来たの?
「藤代、お前、鳩になってるぞ。んな驚くなよ、礼だって恋ぐらいする。まぁ久しぶり、だけどな。で、俺は結婚した、と。お前は?例の恋人とはどうなったんだ?」
はいはい、と適当に妹もとい笹川さんをあしらい兄もとい黒井さんはそうにやにや笑って言い、あまりにそれが直球すぎて息を飲んだ。
「う、うーん?えーっと……ご結婚おめでとうございます」
はぐらかすよう軽く頭を下げれば黒井さんは目を細め、そりゃどーも、と言うだけでとても許してくれそうになかった。
藤代には確か長年付き合った彼女が居たんじゃなかったっけか、と話しながら振った話題を奴は見事に誤魔化そうとした。
それならそれでいいけどな、と思えば彼は困った顔をし、涼はその空気を察知したらしくそっと立ち上がり衝立の向こうへと歩いて行く。
「まぁ、お前が元気そうで何よりだ。……今日はもう上がりだろ?」
涼が淹れたコーヒーを啜りながら聞けば、衝立の向こうに消えた姿を目で追っていた藤代がゆっくりと振り向く。
「んー、多分ねー。西さんには直帰で良いって言われてるから。飲みいく?」
察しが良いのは相変わらずだな、おい。とにやりと笑って返事をしようとすれば、ドアがガチャリと開く音がし、二人そろってそっちを向いた。
この部屋にノックせずに入ってくる奴なんざ、一人しか居ねえと思惑通り顔を出したのは礼で気難しそうな顔をし、眉を寄せてため息混じりで入ってくる。
「おう」
とりあえず、と声を掛ければ、俺たちの姿を見て目を丸くし、瞬きをするより早くその顔はいつもの穏やかな物にと変化した。
それから参ったね、と呟きながら頭をがしがし掻きつつ歩いてくる。
「藤代さんが来てるなら、言ってよ。……久しぶり」
ふっと誰にでも見せる穏やかな敵意の無い笑みを礼は藤代へ向け、彼もまた同じような笑顔を返した。
俺から見てこいつらは似てる、と思っている。
礼は藤代のように女にモテようとしないし、藤代は別に金持ちのボンボンじゃねえ。
ただ、根本的に人当たりが良い様に振舞うところなんかそっくりだ。
「いやぁ、すみません、急に。うちのが体調崩しちゃってるんですよ」
笑みを浮かべたまま俺に対するよりは少し畏まって藤代が言い、礼はそれにひどく気の毒そうな顔をした。
「それは大変だね。お大事にって伝えてください。……で、仕事の話は終わったの?俺も聞いたほうが良かった?」
さて、と仕切り直すように礼は俺を見て呟き、それに首を振ってやる。
カップの中に残るコーヒーを飲み干し、それをソーサーへと戻してから藤代が持って来た茶封筒へと手を伸ばした。
「終わったぜ、それは。ほらよ」
気になるなら勝手に見ろと言わんばかりにそれを礼に差し出せば一瞬の間を置いて小さく目配せをし、それは見ませんよという意思の表れだった。
伸ばした手を自然に戻しながら立ち上がり、二人で飲みに行くのだと言えば、礼は、へぇと漏らしてから目線を上へと向ける。
「……俺も行こうかな。涼はどうする?」
衝立の方を見る事無く礼は語尾にそれを付け、ひょいっと衝立から顔を出した涼はそれはそれはうれしそうに笑っていた。
何でこんな事になっちゃったの、と一番最後を歩きながら思う。
黒井さんと飲むのは嫌いじゃないけどさ、何で社長までくっついてくんの。
その上、秘書まで居るって。
それって接待みたいじゃない。
どっちがどっちをしてるのかはすごく微妙だけどね。
「何が良い?」
佐久間商事を離れ駅前の歓楽街へと近づけば、先頭を歩く佐久間さんと笹川さんが足を止め、俺や黒井さんを振り返る。
社長という立場からなのか、何となく佐久間さん仕切りになってしまうのはしょうがないとして、黒井さんまで俺を見ないでよ、と振り返った三人の顔に思った。
「んー、何でも。お任せしますよ」
希望は特に無いし、財布はちょっと心許ないし、とは言えず言葉を濁せば口を開くのは笹川さん。
「じゃあ駅向こうの海鮮居酒屋にしましょうか。あそこマグロフェアやってますよ」
ふふっと笑いながら嬉しそうに言うそれに彼女の護衛にしか見えない男二人は、いいねぇ、と同意し俺はそれに遅れを取らないように頷いてみせた。
笹川さんを先頭に向かった先のそこは一目で海鮮を取り扱ってると分かるごくごく普通の庶民的な居酒屋で、佐久間さんの家柄を考えると正直かなり意外だった。
ガラスの引き戸を迷う事無く開けたのは佐久間さんで、四人だと手馴れた様子で店員に告げ、案内された先の席は壁側のボックス席。
佐久間さんと笹川さんは迷う事無く隣同士に腰を下ろし、黒井さんは俺を壁側へと押し遣った。
「とりあえず、生、ですよね」
メニューを取りながら笹川さんが言うのは俺に向かってだけで、それに頷けば、彼女もまた手馴れた様子で店員を呼び寄せる。
その上、生四杯以外に頼む物も何て言うか無難な物ばかりで、俺は呆気に取られてしまった。