代理営業
「あ、藤代さん。西さん探してましたよ」
あれから大分泣いて、赤くなった目を冷やしてなんとか誤魔化せるレベルまで持って行って、それからようやく戻ってくれば、繁忙期が終わったばかりのオフィスでは誰も気にしていなかったようで、ただ、一人上司だけは俺を探していたと言う。
言ってきた後輩へお礼を言い課長である彼を探せば机でどっかりと座り書類を睨んでいて、ひとつ呼吸をし近付く。
「西さん、すいません。下痢ってました」
ふっと情けなく笑ってそう言えば彼は俺をちらっと見てからぐつぐつと笑い、書類を置いて口を開く。
「変なもん食うなよなー。女と違って手当たり次第は駄目だ」
今その冗談はちょっとねー、と思いながら、乾いた笑いを浮かべ返せばそれ以上は彼も何も言わなかったつもりらしく顔をきゅっと引き締める。
「悪いんだけどな、鈴木が今日休んじゃってよ。鈴木の前に担当してたのお前からださ、今日行ってきて欲しいんだよ。他のやつは予定埋まっててな、どうだ?」
彼は机の引き出しからほらよ、と封筒を出し差しだしてきて、それを見て、なるほど、と思った。
確かにそこはまだペーペーだった頃俺が担当していた会社で、うちにとって手放したくない案件だ。
だから下手な奴に行かせる訳にはいかない。
正確には、その会社が、では無く、そこに居る人が、だ。
だからこそ真面目で何にも熱心に取り組む、その会社のトップが気に入るような鈴木を後任に選んだ。
俺はと言えば鈴木ほど真面目でも熱心でも無いが、そのトップの次の人に気に入られていた。
「了解しました」
小さく溜息を漏らしながらそれでも少し楽しみになっていたのは、本当にそこを訪れるのが久しぶりだからだ。
それと、今は依子の側に居たくなかった、から。
佐久間商事 黒井様 と鈴木の字で書かれた封筒の宛名を見ながら、まったく本当に真面目な奴だ、と思わざるを得なく、ごく自然にふっと笑みが漏れた。
『黒井さん内線5』と書かれたスケッチブックを河合が立ち上がり掲げていてそれに手を振って答え受話器を取りそれを繋げば受付からで客が来てるから通して良いかとの事だった。
「あ?誰だよ、んな時間に」
思わずぼやいたのは十五時をとっくに過ぎ、十六時になろうという時間だったからで、俺のそれに慣れている彼女は社名と名前を告げそれに酷く驚き、にやりと口元が勝手に歪んだ。
「おう、分かった。っと……そうだな、応接は礼が取材で使ってっから……社長室でも借りるか。おう、一番上の階に行くように伝えてくれ」
三月の頭に礼が失踪した後、彼は俺に合鍵を作って寄越した。
使うか使わないかは別にして、俺に何かあった時の為に持っていて欲しいと言われたそれは家の鍵やら倉庫の鍵やら何やらがくっついているキーホルダーに一緒になっている。
鞄からそれを取り出し、ちょっと上に居ると告げ部屋を出て階段へと向かった。
「どうも」
上りきったそこに居たのは相変わらずふにゃふにゃした奴で、けど、俺はそいつが嫌いじゃない。
顔を見た瞬間からにやっと笑い、おう、と返事をすれば、まるで取って付けたかのように頭を軽く下げる。
「相変わらずふにゃふにゃしてんな、藤代。最近どうよ」
大して背も変わらず、年も変わらないそいつはまだ多分独身だろうと、一足先にそこから抜けた優越感から言えば彼は困った顔をする。
「どうって、普通通り。何も変わらないよ」
肩を竦める仕草に、相変わらずぱりっとしてねぇな、と笑いながら社長室へ歩み寄り涼が居るかとドアを開けようとすればやっぱり閉まっていて、鍵を探しがちゃりと開けて電気を点けて招いてやる。
「下はな、今日うちの馬鹿が取材受けてんだよ。だからよ、ここで我慢してくれ」
ほら、早く入れよ、と言えば彼は、恐縮したように顔を歪めた。
「ここって社長室じゃないの?うち契約切られると困るんだけど」
それに、はっ、と鼻で笑えば彼はようやく佐久間商事の内情を思い出したようで、そうでした、と小さく呟きながら中へと入る。
通り過ぎるその時にふと目が赤いような気がし、思わず凝視し目を細めれば彼はそれに気付く事無く中に入り所在なさげに立ちすくんだ。
意外と……シンプルなんだ、と思うのはいつも通されていた応接室というそこは海外の輸入品を中心にヨーロッパ調にまとめられたまるで貴族の家の一室のようだったから。
ここはそれと比べれば至ってシンプルだ。
どこにでもありそうな普通の社長室よりずっとそうかもしれない。
変わった物と言えば奥にある年代物の輸入物だろうと分かる本棚と、入って右手にある衝立だろう。
こんな所に衝立?と見れば黒井さんはドアを閉め後ろからやってきて普段からそうしているようにどっかりと応接セットの黒い革張りのソファに腰を下ろした。
「座れよ」
くいっと顎で向かいを示されそこに歩いていき腰を下ろし、持ってきていた鞄から封筒を取り出す。
中身はここへ向かう際に確認済みで決算後の報告書だった。
それを、どうぞ、とローテーブルへと置けば、がちゃりと今入ってきたばかりのドアが開いた。
それに反応したのは俺だけで、黒井さんは封筒を手にし中身を取り出している。
入ってきたのは驚くほど小柄な女の子、で、その女の子という表現が一番合っていると思った。
化粧っ気の少ない顔は成人男性の片手を目一杯広げたら入ってしまうんじゃないかと思うほど小さい。
いや、体に対してみれば対比として可笑しくはないんだ。
ただ、小さい。
本当に小さくてあまりに驚いて失礼なのに見つめてしまえばずっと俺を見て驚いた顔をしていた彼女は頭を深く下げる。
肩から深い茶色のさらさらとした髪が前に流れた。
「御来客中とは知らず失礼致しました」
鈴の鳴るような声とは言い過ぎかもしれないが、小さいけれどよく通る声だった。
高すぎず低すぎず心地よいとも言えるその音にどくりとするのは何て言うか雰囲気が依子に似ているような気がしたから。
いや、背の高さも顔も、全然違うんだけど……。
「おう、構わねえよ。お茶淹れてくれ。藤代、何が良い?大体何でも出てくるぞ」
その言葉に黒井さんを振り返れば書類から顔を上げにやりとこっちを見た所で、じゃあコーヒーかな、と言うと、入ってきた彼女は、はい、と気持ち良いくらい潔い返事をしてくれた。
うーん、どなた、だろう。と、衝立の奥に引っ込んでから思う。
ポットに水を入れスイッチをパチンと入れてから腕組みをして悩むも、多分、まだ会ってない。
というか、礼と私しか普段居ないから油断したんだ。
まさか兄が社外の人との打ち合わせにここを使うなんて思わなかった。
私がしたことが失礼すぎ眉を寄せ、それからカップを三つ取り出した。
兄とフジシロさんは御客様用のソーサーがお対のカップ、私はいつものマグカップにインスタントコーヒーを入れ、ミルクと砂糖を自分の分だけの入れて沸いたお湯を注ぐ。
ソーサーに砂糖を一本と別の小さなガラスの器に粉末ミルクを入れ、スプーンを添え、鎌倉彫のお盆に乗せ衝立の向こうへと行く。
「お待たせしました」
衝立に背を向けて座っていたフジシロさんが振り向き、人を安心させるような柔らかい笑みを送って来てびっくりした。
なんかすごく感じが良い人だ。
だから、兄はわざわざここへ通したのかも知れない。
「どうぞ」
お盆をテーブルへと置いてからそっと出せば彼はありがとうとその柔らかい笑みを浮かべたまま言い、それに穏やかにそっと笑みを浮かべて首を小さく振れば、少し驚いたような顔をした。
「……で、堅物はどうしたんだよ、今日。お前んとこの西さんからちょっと遅れるって連絡はあったけど、な」
一通り目を通したらしく封筒へと書類をしまいながら兄が言い私からそちらへ視線を戻したフジシロさんが口を開く。
「いやぁ、なんか具合悪いって、すいません。でも、俺の方が良いでしょ?」
兄にコーヒーを出している最中だった私はそれに思わず彼を見てしまった。
いや、そんな事言ったら、と思うのは私の勘違いというか考え過ぎだったようで、兄は怒髪天を迎える事無く大笑いをする。
「あっはっは、いや、ま、そうだな。うん、あいつ、つまんねーもん。やっぱお前くれえ弄りがいがねぇとな。分かってんじゃねーか」
くつくつと未だに笑っている兄がこのフジシロさんという方と仲がいいのだけは分かり、ふーんと頷けば、彼の目線は私へとそっと移った。
その目は優しいのだけれど、何て言うか少し赤く見えて、とても悲しそうに見えて思わず首を小さく傾げてしまった。
それは勘でしかないのだけれど、とても、目の前の兄と冗談を交わすその人がとても傷ついているように見えた。