事実
翌日もその翌日も、依子は来なかった。
土曜日は手違いで午後になったのだとメールがあり、日曜日は同居して居る従妹が熱を出したとメールがあり。
結果的に姿も見ていないし、声も聞いていない。
ここまで露骨にされると嫌でも避けられているのだと分かる。
立川は遠いんだ。
俺と依子の住まいがある駅からも会社からもとてつもなく遠い。
そこを一人で往復したわけじゃないし、その上、口争いまでした。
あの時はお互い大人の対応をしただけ、だ。
あくまで分かった振りをした、だけ。
依子の事を天秤に掛けていたのは事実だし、それ以上に待たせたのも事実だ。
そして公表できないのも事実、で。
俺に成す術が無いのも、事実、だ。
そう気付いてしまえばメールをするのも憚られ、それ以降、まるで自然消滅したかのように連絡を取る事も二人で会う事も体を重ねる事も、平吉で飲む事も無くなった。
これで終わったのだろうか、と思ってしまう程呆気なく、ただ、依子を見ると苦しくて苦しくて、次第に会社に行くのも本音を言えば億劫になった。
四月に入ったある日、それを俺は会社の廊下の自販機がある所で聞いた。
そこには二人掛けのベンチが置いてあり先客が居たので机に戻って飲もうと缶コーヒーを買って足早に去ろうとしたんだ。
でも座っていた二人、同じフロアの別の課の彼ら男性社員の言葉が耳に飛び込んできた。
「蓮見って知ってる?」
「あぁ、あの大人し目の子だろ」
それが例えば田中だったり菅原だったり、とにかく蓮見以外の誰でも、他の奴だったら気にならなかったんだ。
動揺して居るのを悟られないようがしゃんと金属音を立て落下した小さな缶をプラスチックの幅の広い蓋を開けて取る。
動けよ、足。
ここに居てもしょうがないじゃないか。
頭ではそう思っているのに、足が動かなかった。
俺が居ても構わないというように彼らの会話が続く。
「昨日さ、ちらって見ちゃったんだけど」
にやりと笑って片方の眼鏡が言いそれにもう片方が、何を?と手に持った缶をぷらぷらさせながら言う。
「男だよ、お・と・こ!会社の近くで一緒に居るの見たんだよー」
それにどきりと心臓が跳ねたのは俺だからじゃない。
それは、俺じゃないんだ。
「マジで?いや、今だから言うけどさ。三月の終わり頃の……いつだったかな、確か……ああ、そうだ。木曜にさ、木曜はコロッケの日なんけどな、その木曜に俺も見たんだよ、蓮見の首の後ろにさ」
ここ、ここ、と彼はうなじを懸命に指差しながら言う。
眼鏡がずれるのも構わずそこを示す程それが重要なんだろう。
不自然に思われないように、と缶コーヒーを開けポケットにねじ込んで来た携帯を取り出し操作して居る振りをする。
ただ画面を流している、だけだ。
「ここ?うなじってこと?そこがどうしたんだよ」
眼鏡じゃない方が眉を寄せ相手のそこを見てから言い、眼鏡はにやりと笑い周囲を確認し、蓮見依子が居ないのを確認した後、声を潜めた。
ただそれはあまりにも近くに居過ぎた為俺の耳にも届いてしまったんだ。
「キスマークだよ。机に向かう時にさ、一瞬だけど、髪を結ぼうとしてた仕草で見えたんだよ。後は上手く隠れてたけどね。あーりゃ、気付いて無いと思うよ、本人。あんな所に付ける男は相当な独占欲の塊、だと思う」
ひひっと笑うそれに吐き気まで感じ足早にそこをあくまで飲み終わったと言わんばかりにまだ中身の残る缶をゴミ箱へと捨て立ち去った。
うなじにキスマークなんて付けた事は一度も無い。
そこへ付けるなら女の体をひっくり返さないと無理だ。
所謂バックと言われる体位は好きじゃない。
抱き締めないとどこかに行ってしまいそうだから、その体位は嫌いだ。
だから、それは、俺じゃ、無い。
ぐっと握り締めた手は白くなっている。
そのままトイレへと向かい滅多に入らない個室へ飛び込んで扉と鍵を閉め、それに寄りかかって握り締めていた手を外し口元を覆った。
涙が溢れて溢れて、そうせずにはとても居られなかったんだ。
なんで?
どうして?
俺の想いはひとつも少しも一ミリも伝わらなかったの?
俺は確かに依子とリサを天秤に掛けた。
けれど、これだけは確かなんだ。
依子を想うようになってから他の女なんて、一度も、抱いてない。
声を押し殺したまま泣きそれが止まるまで微動だに出来なかった。