『センチメンタル・ジャーニー』―In Emerald Isle―
完全なる閑話休題的エピソードです。
短い。今回1回で完結です。
「ダブリン?」
「簡単な仕事だけど、気前のいい依頼人でね。
滞在費は出すから、早く終わったら1日観光でもしていったらどうだと言われてるんだ。
いつも世話になってるし、あんたも一緒にどうかと思ってね」
アンナに呼び出された俺は、ロウアーイーストサイドにある彼女の家を訪れていた。
アンナは愛用のSIG P229をクリーニング中、その父親マシューは愛用のキンバーイージスをクリーニング中だった。
「マシューの旦那。あんたは?」
俺が旦那に問いかけると旦那は残念そうに言った。
「俺は駄目だ。生憎、ワシントンに行かなきゃならねえ。長引きそうなやつだ」
話を聞くと、彼女曰く「簡単な」呪いの解呪らしい。
依頼主はダブリンの古い家系だが、荒事は苦手で、時折、ロセッティ親子の腕を見込んで頼みに来るそうだ。
アンナの母、モリーさんとは古い友人だったらしい。
「しかし、なんでまたお前に?ニューヨークからダブリンじゃ旅費も馬鹿にならないだろ?」
「金のある人間なら、同じ簡単な仕事でも腕にいい人間にやってもらいたいと思うのが人情だろう?」
しかも、アンナの話によると旧家には珍しく、依頼主のクリスティ・ゴールウェイ氏は温厚な人物でハンターを下賤と誹ることもないらしい。
いつもクールな彼女が珍しく機嫌がよさそうだったが、それだけ旨みのある仕事が入れば嬉しいのも当然だろう。
「で、どうする?」
「いや、お誘いは嬉しいけどよ。話が急すぎるぜ」
「じゃあ、同行する意思はあるんだね?」
「そりゃあもちろん」
「なら、何の問題もない」
翌日、ボスのウィンタース警部からガルダ・シーハーナへの出張を命じられた。
またしても名目は人材交流だった。
きっとオックスフォードで出会ったローガン警部が根回ししたのだろう。
俺とアンナはJFKからエア・リンガスの直行便に乗り、アイルランドに飛び立った。
××××××××××
仕事はあっさり終わった。俺はただ見ていただけだった。
依頼主のゴールウェイ氏は嫌味のない温顔で「ありがとう」と「Have a nice stay at Dublin!」という言葉で俺たちを見送ってくれた。
翌日、ロウアー・ストリート・リーソンの小汚いホテルを出ると、ダブリン中心部に向けて歩き出した。
市内にはルアス(路面電車)が走っていたが、アンナ曰く「あんなもの使うぐらいなら歩いた方が早い」とのことだったので
歩いて回ることにした。
ダブリン城、アイルランド国立博物館、テンプル・バー、グラフトン・ストリート、クライストチャーチ大聖堂、トリニティ・カレッジ、
ハーペニーブリッジ。
アンナに連れられて目ぼしい場所を次々と練り歩いたが、朝から歩き始めて夕方にはすべて見終わっていた。
「キルメイナム刑務所まで足を伸ばしてみないか?」
と、アンナに提案されたが
「冗談じゃねえ。観光に来てまでムショなんで御免だ。歴史的建造物でも見たくねえ。
俺はサンフランシスコに行った時も、アルカトラズだけは避けた」
「ごもっとも」
というやり取りがあって取りやめになった。
時刻は午後5時を回っていた。
夕刻に大人がやることと言えば1つしかない。
「ダブリンに来たらここと決めていてね」
フォー・コーツから橋を渡った場所にある、中世から営業しているというパブだった。
古ぼけた建物はあちこちからグラスを傾ける心地よい音が響いていた。
俺とアンナは愛想のいいマスターが注いだパイントのギネスを傾けていた。
控えめに言ってとても旨いギネスだった。
「ギネスは世界中で飲めるけど、アイルランドを出ると劣化するらしい」
とアンナが行った。
「これに比べりゃ、クイーンズあたりのアイリッシュパブで飲むギネスは黒い小便だな」
「あんたは本当に上品だね」
3パイント目のグラスに手を付け始めたころ、楽器をもった集団がぞろぞろと入ってきてセッションが始まった。
アイルランドのパブでは日常の光景らしい。
セッションのメンバーは楽器を持った6人の男と赤毛の若い女だった。
賑やかなリールが終わると、伴奏がギター一本になり赤毛のレディが柔らかな声で何かセンチメンタルな歌を歌い始めた。
聞き覚えのある言葉、アイルランド・ゲール語だ。じいさんとばあさんが生前に時々話していた。
センチメンタルな曲だな。いつもクールなアンナはどんな気分でこういう曲を聴くのだろう。
そう思って隣を見ると、我が相棒、鋼鉄の女アンナ・ロセッティは涙を流していた。
控えめに言って、俺はかなり驚いた。
俺は彼女と6年バディを組んできたが彼女は心臓打ちをモロに喰らっても、自分の左腕を切り落としても涙1滴流さないような
タフな女だ。
時々、本当はキンタマがついてるんじゃないかと疑っているほどだ。
そんな人物がセンチメンタルな歌を聞いて涙を流している。
シカゴ・カブスがワールドチャンピオンに返り咲く日が来てもここまで驚かないだろう。
その後、何曲かセッションが続き、やがてバンドの面々がバラバラとはけ始めた。
アンナはボーカルの赤毛の女に話しかけていた。
「ハイ」
「ハイ!」
「とても良かったよ」
「ありがとう」
アイルランド人は人懐っこい。
「綺麗な髪だね」
「いかにもアイリッシュって感じでしょ?」
「私は好きだよ」
女はアンナの燃えるような赤毛を見て言った。
「あなたの髪もいいね!」
「バイ!」
××××××××××××
繁華街を離れ、セントスティーブンスグリーンに差し掛かると人通りは少なくなり、背後からは大声でストリートソングを歌う
酔っぱらいの声が聞こえてきた。
「あの歌、どういう所縁があるんだ?」
俺がアンナに水を向けると彼女が答えた。
「母さんが子守歌代わりに歌ってくれた歌だ」
アンナは歌の意味を教えてくれた。
漁師が浜にある日、浜に打ち上げられた人魚を見つけた。
漁師は人魚を妻にし、海に戻れぬように人魚の冠を隠した。
人魚は冠を隠されたことで、人魚としての記憶を亡くし、2人の間には子供も生まれ、幸せに過ごした、
ある日、子供たちが隠しておいた人魚の冠を見つけてしまう。
妻の人魚は記憶を取り戻し、海に戻ってしまう。
「今日はどうにもセンチメンタルな気分でね。
今までそんなことは一度もなかったけど、親父と母さんのことを漁師と人魚に重ね合わせてた。
2人とも、もう2度と会えないんだなってね。
死んじまって会えない親父と母さん、生きてるけど2度と会えない漁師と人魚、どっちがマシなのかってね」
俺は酔っている。完全に酔っ払っている。
いつになくセンチメンタルな気分と異国情緒に酔った俺は自分でも信じられないようなクサいことを『ラッシュアワー』の
クリス・タッカーみたいにペラペラと話し始めていた。
「モリーさんは死んでねえよ」
俺は酔った勢いに任せて言った。
「旦那にモリーさんの話を聞いて以来、とてもお前のおふくろさんのことが他人と思えねえ。
モリー・フィッツジェラルドって名前を聞くと会ったこともないはずの人間なのに浮かんでくるんだ。
花が咲いたみたいな笑顔、世間知らずでトンチンカンな語り口、優しい眼差し……。
身勝手な屁理屈かもしれねえが、モリーさんは俺の中で生きてるんだ。
旦那の中でも、お前の中でもな」
アンナはポカンとしていた。いつもクールな彼女の事だ。きっと呆れているのだろう。
「お前とバディを組んで6年になる。最近までモリーさんのことは名前しか知らなかった。
お前やマシューの旦那が悲しがるなら別に話してもらえなくてもいい。そう思ってたけどよ。
マシューの旦那にモリーさんのことを聞いて、話してもらえてよかったと思ったよ」
俺が恥ずかしさを酔いで隠しながらそう言い終えると、彼女との距離がいつもより近くんり、頬に柔らかい感触がした。
彼女の手はゴツゴツと角ばっているが、唇は柔らかかった。
「ありがとう」
彼女はそう、静かに一言だけ言うと、彼女と俺の距離はいつもの物に戻っていた。
「お前が生物学上、女だってことを忘れてたぜ」
「ニューヨークいち麗しい魔術師にひどい言い草だね。
女じゃないならなんだと思ってたんだい?」
俺はこの上なく真剣な顔で言った。
「キンタマのねえ男だ」
次の瞬間、腹部に激痛が走った。
ゴツゴツした感触の拳だった。
「まったく。この酔っぱらい」
「……アンナ、痛えよ」
うずくまる俺に彼女は肩を貸してくれた。
酔っ払った俺はまたしても余計なことを言っていた。
「ありがとうよ。お前の腕、たくましいな」
「もう一発喰らいたい?」
ダブリンの夜空にはなお、酔っぱらいの歌声が響き渡っていた。
次エピソードは再びアメリカに戻ります。
シカゴに行くエピソードを構想中ですが、いつも通りニューヨークになるかも。




