『マンハッタンの吸血鬼』―New York, I love You But You're Bringing Me Down -2―
すいません。更新サボってました。
このエピソードはこれで完結です。
糸はタイムズスクウェアからブロードウェイ沿いを南に伸びていた。
ブロードウェイを南下する。
ブロードウェイはフラットアイアンの目前で5番街と合流し再び枝分かれする。
糸はまだ続いている。
俺とアンナは耳が千切れそうなほど冷え込むマンハッタンをブロードウェイ沿いにさらに歩き続けた。
マーケットで賑わうユニオンスクウェアパークを通り過ぎ、閑静なグラマシーを抜けるとアンナが言った。
「パン屑の反応が強くなってきた。お菓子のお家は近いようだね」
糸はグラマシーからさらに南に延び、俺たちはソーホーにまで到達していた。
ソーホーの一画にあるカーストアイアン様式の古い建物。
その建物の地下に続く階段へと糸が伸びていた。
ソニー・クラークの『クールストラッティン』のアルバムジャケットのように足早に行きかう人々の足を頭上に確認しながら地下への階段を下りた。降り立つと古めかしいドアがあった。
ドアは自動的に開いた。
「魔力のオートロックだ。この糸は糸を作った術者自身の魔力がこもってる。
これを持った人間が通ると自動的に扉が開くようになっているんだ」
ドアを開けるとかび臭い匂いが鼻孔を突いた。
部屋の中は薄暗く、一瞬目がくらんだ。
薄暗闇に目が慣れると、思いのほか広い部屋に細身で長身の男が立ってこちらを見ていた。
男は艶やかな黒髪に漆黒のような黒い瞳をしていた。
吸血鬼という言葉から俺が連想したのはベラ・ルゴシのような鷲鼻でいかにもな悪人面の中年だったが、
そのイメージからはほど遠い、若々しい青年風の風貌の優男だった。
だが、その雰囲気は若者のそれではなかった。
男は25歳だと言われればそうも見えたが、250歳だと言われればそうも見える神秘的なオーラを纏っていた。
「やあ。待っていたよ。
ミス・アンナ・ロセッティにミスター・パトリック・ケーヒル」
その声は中欧の森の奥から響いてくるような神秘的な響きだった。
アンナは男に言った。
「すべてお見通しなんだね」
「私は君たちの祖父母がまだ受精卵にもなっていないような頃からこの街に居る。
この街のことならニューヨーク市長よりも詳しい自信があるよ」
薄暗い半地下の部屋は大量の蔵書で埋め尽くされ、アンティーク物の家具が整然と並べられていた。
「読書家なんだね」
「吸血鬼の人生は長い。この世でもっとも時間のかかる行為は長い本を読むことだ。
特にスティーヴン・キングは最高だ。あれだけ多作だと読み終わるまで嫌でも時間がかかる」
「その経験は何の役に立つんだい?」
「人間と言う脆く短い生命にアドバイスしてやれる。
特に歴史学者にはよく資料を貸し出している。
時折、魔術師にアドバイスをしていることもある。
匿名で書簡のみのやり取りなので顔も知らないがね」
「あんたのこと、何て呼べばいい?吸血鬼さん?」
「君ならば知っているとは思うが、我々吸血鬼に名前はない。
それで困るならば便宜上、『ブラム』とでも呼んでくれればいい」
「ブラム。『ドラキュラ』の作者のブラム・ストーカーかい?」
「そうだ。彼の小説はなかなか面白かった。幾分かフィクションも混ざっているがね」
今度は俺が聞いた。
「思っていたのとだいぶ違うな」
「ベラ・ルゴシかクリストファー・リーみたいな風貌で森の古城に隠れ潜んでいるいかにもな悪人面の中年でも想像していたか?
ミスター・ケーヒル」
「違うんだな」
「君たち人間の住居が時代によって変わるのと同じだ。いまどき古城に住んでいる人間などいないだろう。
それに我々吸血鬼は歳を取らない」
改めて部屋を見回す。
カビの生えかけた古い蔵書で埋め尽くされた古い建物だが、よく見るとラップトップとテレビがあった。
「ネット回線も引いてあるのか?」
「もちろんだ。このような素晴らしいテクノロジーがあるのに使わないのは愚かだ。wikipediaの間違い探しは良い暇つぶしになる。
アメリカン・アイドルは毎週見るし、『Law&Order』は20年間最終回まで毎週見ていた。『トワイライト』は吸血鬼を美化しすぎだな。
FOXが共和党シンパの放送局だという事も知っている。
戸籍がないので投票は出来ないが、10年前の大統領選挙では、アル・ゴアに投票するつもりだった」
「とことん夢を壊すことを言ってくれるな」
「夢というものは得てして簡単に崩れ去れものさ。
彼女のようにね」
彼女が誰を指すのかもちろんすぐに分かった。
あのダブルデッカーバスの2階席で見つかったヒスパニックの若い女のことだ
「彼女の死因は栄養失調による衰弱。手持ちはわずかに27セントだった。
どう見ても殺人じゃない。なのに、あんたは無理やり事件に仕立て上げた。
人除けの結界に首筋の噛み痕なんて言う演出までつけてね。
こんな芝居がかったことをしたのはなぜだい?気まぐれによるイタズラってわけじゃないんだろ、ブラム」
「彼女の望みをかなえてやりたかった。そのための演出だ」
「望み?」
いつもクールなアンナがポカンとしていた。
経験豊富な彼女にとっても予想外の答えだったらしい。
ブラムは前のピッチャーが作ったピンチをダブルプレーで切り抜けたベテランセットアッパーように落ち着き払って言った。
「こちら側の世界の事情を知るぬ人間と大っぴらに接触するのはソサエティとの協定に抵触する。
ジェームズ・ブランデルとカール・ラントシュタイナーの功績で輸血技術が確立されて100と余年。
我々は人を襲撃して血液を吸う必要がなくなり、人間のハンターたちとの攻防の必要はなくなった。
せっかくの安寧を無駄にしたくない。それで凝った演出をする必要があった。
一般社会ではゴシップ紙だけが大騒ぎし、君たちのような人間だけが追ってくるようにね。
『吸血鬼マンハッタンに現れる』なんてポスト紙あたりがいかにも喜びそうなネタだろう?
ソサエティはそういうものを気にしない。
だが、君たちは気にする。君たちはそう言う人種だ。
だからこそ君たちに来てもらいたかった」
「一体何が目的なんだ?」
「それを話すために手間をかけてパン屑を撒いた。
ここまでわざわざ来たんだ。聞いてくれるね?
ミス・ロセッティ、ミスター・ケーヒル」
俺とアンナは顔を見合わせた。
そして俺が答えた。
「望むところだ」
「少し長い話になる、アイリッシコーヒーでもどうだ?」
×××××
「彼女は――」
ブラムは湯気を立てるアイリッシュコーヒーのグラスを手に言った。
「――彼女はテキサス州に面したメキシコの田舎町に生まれた。
家は極貧で、その日口にするものにさえ事足りない生活だった。
父親はずっと失業中で酒浸り。母親は病弱で家事もまともにできなかった。
そんなある日、父親が蒸発した。ほどなくして母親も亡くなった。
親戚とは疎遠。彼女は事実上、天涯孤独の身になった。
失うものを亡くした彼女は故国を捨て、テキサス州マクネアリーで国境を越えた」
どうやら名無しの彼女の話らしい。
名無しの彼女はヒスパニックだった。生まれはメキシコだったのか。
「彼女は密かに画家を目指していた。
アメリカンドリームを実現させようとする多くの人間がそうするように、
国境警備隊の監視を逃れて入国した彼女は、一路この世界一エキサイティングな街。
ニューヨークを目指した」
彼女の話は続いた。
テキサスからヒッチハイクを続け、彼女はこの街にようやくたどり着いた。
マンハッタンに聳え立つ摩天楼、夜でも煌々と明かりをともす多くの建物。
足早に行きかう雑多な人々。今まで彼女の見たことのない光景だった。
彼女の心は踊った。そして、夢を実現させようと決意を新たにした。
みすぼらしいベッド一つだけのホステルで寝起きしながら、
最低賃金の仕事をいくつか掛け持ちし、日銭を稼いでは絵を書いて。路上で売っていた。
楽しかった。すべてがエキサイティングに思えた。
最初のうちは。
絵は全く売れなかった。まったく何の注意も引かなかった。
毎日同じ交差点を行き来し、同じ場所に絵を並べる。そして視線を向けられることすらない。
街の往来はまるで彼女が存在すらしないかのように無反応だった。
毎日がその繰り返しだった。
――そんなある日。
7番街の倉庫で彼女はお決まりのパートタイムジョブをしていた。
服のかかったラックをAからBへと運ぶ仕事。手足があればだれでも出来る仕事だ。
そこで彼女は運悪く仕事中に負傷した。ありがちな悲劇だ。
経営者側は不法入国者を雇ったことなど知られる訳にはいかない。
救急車も呼んでもらえず、彼女は放り出された。
怪我の程度は思いのほか重かった。肉体が資本の最低賃金労働の掛け持ちなど出来るはずもない。
わずかな蓄えはほどなくして底をつき、生活は困窮し始めた。
――最初のうちはホームレスシェルターを転々としていた。
だが、この街には彼女のような人間が何人もいる。彼女のような孤独な若者が。
そのうち一晩の宿と食事にすらありつけなくなりはじめた。
彼女は寝床に困り、ポートオーソリティー近所の雑居ビルの地下室を根城にし始めた。
そしてますます衰弱して行った。
「――そのころになって。私は彼女と出会った」
1度深く息を吸い、続けた。
「彼女は5番街のセントパトリック大聖堂の前に佇んでいた。
もう、夜も遅い時間だ。
ところで、私は人間と極力関わらないようにしている。
何故だと思う?」
俺もアンナも何も言えなかった。
ブラムの語り口には中途半端な意見や疑問が憚られるような雰囲気があった。
彼は俺たちの沈黙をBGMにその長い話の続きを始めた。
「我々吸血鬼は、親も兄弟も無く、ある日突然生まれ落ちる。
吸血鬼はその土地のマナから生れ落ちる。
そのため、よその土地に行くとそのうち消滅してしまう。
この世界のどこかに同族がいる者と思うが、彼らに会ういに行くことは叶わない。
つまり、生まれながらにして天涯孤独の身だ。そのせいか思いのほか寂しがり屋だ。
人間と接触を持とうとするものは少なくない。
――だが、長年生きていると気付く。私たち吸血鬼は何をどうしても孤独だとね。
私は生れ落ちてまだ200年程度だが、幾人もの親しい人間の死を看取ってきた。
何度見ても慣れない。ウォーターゲート事件の起きるころには人間と親しくするのは止めようと腹を決めた。
――だが、うつろな目で深夜の5番街の往来を見つめる彼女の姿はなぜか私の心の琴線に触れた。
私は自らの原則を破り、彼女に話しかけた。
『誰かを待っているのか?』
『分からない』
『では、何かを待っているのか?』
『そうかも』
私は彼女を我が家に連れ帰った。
――彼女がもう長くないのは明らかだった。
人間と違い、我々吸血鬼は病気にならない。怪我もしない。
強力な魔術を扱えるが、治癒魔術だけは使えない。
もう夜明けまで持たないだろうと思った。
彼女はそこに――」
ブラムは俺の座っているあたりを指さして言った。
「――今君が腰かけているソファに横たわり息も絶え絶えに言った。
『タコスが食べたい』
私は深夜営業の店に行き、タコスとボトルのコーラを買ってきてやった。
彼女は衰弱しきって吐き出しそうになりながら、タコスとボトルのコーラをどうにか平らげた。
そして少し落ち着くと自分の生い立ちを話した。
彼女の口から語られたのが君たちに披露したありきたりな悲劇だ。
最後の晩餐を終えた彼女に私は言った。
『他に何か望みは?』
『絵が描きたい。あなたをモデルにしていい?』
『わかった』
私は答えた。彼女はわずかの持ち物の中からスケッチブックとペンシルを取り出し、
私の肖像画を描いた。絵を描き終えた彼女に私は言った。
『他に望みは?』
『この街に私がいたこと。この世界に私が存在したこと。それを誰かに知ってもらいたい。
無理を言っているとは分かっているけど、他に頼める相手がいない。お願い』
『善処しよう』
『glacias』
それが彼女の最後の言葉だった。
その言葉を言い終わった瞬間、彼女の体が軽くなるのを感じた。
何度も見てきた瞬間だ。その瞬間に立ち会うのは久しぶりだったが、やはり私は慣れていなかった。
私は軽くなった彼女の体をバスターミナルまで運び、バスの2階席に座らせて、人通りの一番多い時間に効果が切れるように
人除けの結界を張った。そして首筋に噛み痕をつけるとその場を去った。
彼女存在が少しでも注目を集められるようにね」
ブラムはそう言うと静かに立ち上がり、タンスの引き出しから一枚の絵を取り出し、俺たちの前に置いた。
「彼女の絵だ」
描かれたブラムの表情はどこか悲しげだった。
9回2アウトからサヨナラホームランをくらった後のベンチのような沈黙が続いた後、アンナが口を開いた。
「彼女の名前は?」
「フリーダだ。フリーダ・カーロの絵を見ている時に初めて母親に悪阻が来たことに由来するそうだ」
「ファミリーネームは?」
「わからない。だが、彼女はフリーダだ。それ以上でもそれ以下でもない。
私にはそれで十分だ」
いたたまれなくなって視線を逸らし、グラスを見る。
湯気を立てていたアイリッシュコーヒーは冷め、静かな黒い液体となってグラスに収まっていた。
×××××
地下室を辞して、地上に出る。
真っ暗になった真冬のニューヨークの空には予想通り白い雪の塊がゆっくりと落ちてきていた。
これは積もりそうにないな、と俺は思った。
行き道とは逆にブロードウェイを北上する。
ずっと黙り込んでいたアンナが口を開いた。
「この街を愛しているけど、時々嫌になるよ」
「俺もさ」
クラクションと人々の喧騒が木霊するニューヨークの夜空に雪がただ静かに舞っていた。
次回、番外編てきなショートストーリーです。
舞台は再びアイルランドの予定です。




