『強引な出会い』―Encounter -1―
予告通り番外編です。
ロンドン編(『悪魔を憐れむ歌』)に登場した2人がメインです。
アンナとパトリックは1回お休みしてもらいます。
今日は非番だ。
溜まった洗濯物を片付け、近所のセインズベリーで日用品のストックを買い占めると私は地下鉄に乗った。
ウエスト・ブロンプトン駅から乗車しヴィクトリア駅で乗り換え、ブリクストン駅で降りる。
ブリクストン・マーケット周辺の雑然としたエリアに彼は住んでいる。
入口で部屋番号を押し、インターフォンを鳴らす。
私が名前を告げると、インターフォンの向こうにいるであろう彼は
何も言うことなくドアロックを解除した。
1st floorに上がり、ドアをノックする。
「Come in<どうぞ>」
という素っ気ない返事を待ってドアを開けた。
非番のこの日に、進まない気持ちを抑えて私がここに来た目的の人物、
サマセット・クロウリーはアンティークもののソファーに寝転がって目を閉じていた。
「やあ、ソフィー」
「ハイ、クロウリー」
クロウリーはソファーから身を起こすと、私の顔を一瞥して言った。
「ずいぶんお疲れのようだね。労働というのは無意味な上に苦しい。
あれは害悪そのものだな」
そう言うと、クロウリーは紙巻のタバコに火をつけた。
純粋なタバコとは違う、独特の匂いがする。
恐らく、ジョイントだろう。
「仮にも私は刑事なんだけど……」
私は言った。
「その目の前でどうして堂々とマリファナをキメられるの?」
「では、僕を逮捕するか?」
「あなたが薬物にはまり込んで暴行を振るったりしないのは分かってる。逮捕する気はない。
そういうことじゃなくて、どうしてそんなに堂々としていられるのか不思議に思っただけ」
「堂々としていられる理由は簡単だ。今君が言った通り、君が僕を逮捕する気がないのを分かっているからだ」
全くだ。分かってはいるが、腹が立つ。
紫煙を燻らせながらクロウリーは言った。
「アダムとイヴは知恵の実を口にした代償として楽園より追放され、労働を課せられた。
聖書を信じるならば労働は罰以外の何物でもない」
「私はこの仕事に誇りを持ってる」
「君が自らの職務に誇りを持つのは大いに結構なことだ。
だが、もし君が、街の治安を守るという社会への貢献を意義あるものと思っているならばそれは幻想だ。
人生は究極的には無意味だし、複数の人生によって構成される社会もまた無意味だからね」
「ご立派な理屈だこと。でも、クロウリー。
人の仕事を無意味と決めつけるのってあなたの嫌いな価値観の押しつけじゃないの?」
「一理ある。君は賢いな」
その間、クロウリーから見える"色"は最初からまったく変わらなかった。
揺らぎのない中間の色、緑。
傍目には、私がクロウリーを言い負かしたように見えたかもしれないが。
彼はきっと議論の結末を予測したうえで私に話を振ったのだろう。
彼とはもう短くない付き合いだ。
分かってはいるが、未だに馴れない。
本当に嫌な性格だ。
彼との出会いは、2年前にさかのぼる。
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あの日は人生最悪の日であり、人生の転換点だった。
タロットだったら、運命の輪を引き当てていたに違いない。
私は首都警察で刑事の任についている。
そのころ、私は近年増加しているバルカン半島経由で密輸された銃の出所について調べていた。
密輸業者の居所を洗い出していくうちにたどり着いたのが、今私がクロウリーと対面している
ブリクストンの一角だった。
元々私はワーカホリック気味だが、その時は実にひどい状態だった。
一緒に捜査していた相棒のエルバ刑事――今は刑事部長に昇格している――からは、
30分に一度の割合で、「エヴァンズ、少し休め、酷い顔だぞ」と言われるほどに。
その日、エルバと一緒にブリクストンで情報収集に勤しんだ後
彼は何言か私に気遣いの言葉を残して事務処理のために先に署に戻った。
私は彼の言葉に従い、実際さっさと帰るつもりだった。
だが、悲劇は起きてしまった。
フラフラだった私は、あろうことかこの長年暮らした街で道を間違ってしまったのだ。
ブリクストンはお世辞にも治安が良いとは言えないエリアだ。
刑事の私でもあまり遅い時間にうろつきたくはない。
スマートフォンで道を探している時、背後に気配を感じた。
気付いた時にはもう遅かった。
22口径の発砲音が聞こえた次の瞬間、私は血を流して倒れていた。
後で知ったことだが、私を撃ったのはアルバニア・マフィアの構成員で
奴らの商売について色々と嗅ぎまわっていた私は"制裁"の対象になったらしい。
そんな事とは露知らず、しかも一人で人気のない場所に勝手に迷い込んでくれた私は絶好のターゲットだったわけだ。
――どうやら動脈をやられたらしい。
そんな風な冷静で機械的な思考が人生最後かもしれない瞬間になぜか私の脳内を巡った。
すでに出血は1クォート近くに達し、私の意識はどんどん薄れていく。
――もうお終いなのか。
諦めに似た境地に達したころ、1人の人影が近づいてくるのを感じた。
顔は見えなかったが、声からして若い男性らしい。
若い男性は私には理解できない言語を発していたが、不思議なことに彼が何かを言うたびに私の体から痛みが引いていった。
どうやら、彼は私を助けてくれたらしい。
失血で弱り切った体で私は絞り出すようになんとか一言を口にした。
「……ありがとう」
失血のせいで、すでに意識はだいぶ薄く顔を判別する事はかなわなかったが私の礼に対して男はこう答えた。
「礼には及ばない。借りは返してもらうつもりだからね」
「……借り?」
「ああ。僕に借りを返せるように、君に力を与えた。
今は僕の言っていることの意味が解らないと思うが、眼が覚めたらすぐにわかるはずだ」
状況が今一つわからない私に、彼はさらに言った。
「君の眼が覚めたらまた会いに来よう。今は休むと良い。ソフィー・エヴァンズ刑事」
――どうして私の名前を?
そう言おうと思ったその次の瞬間、私の意識はブラックアウトしていた。
これがサマセット・クロウリーとの出会いだった。
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眼が覚めた私はベッドに横たわっていた。
薬品の匂いが鼻孔を突く。
どうやらここは病院らしい。
「ソフィー」
ベッドサイドから聞きなれた声が聞こえた。
恋人のダグだった。
「ああ、よかった」
彼は泣きながらそう言うと、私の手を強く握りしめた。
「……ダグ、ここは?」
「病院だ」
ダグは再び「ああ、よかった」と繰り返した。
その時、奇妙なことに気づいた。
ダグの体に――いや、体というより、ダグが発する一言一言や仕草に――私は薄い色を感じていた。
それはフォートナム・アンド・メイソンのティーサロンで出てくる紅茶のような暖かい色で、私の心を落ち着かせてくれた。
「ソフィー、大丈夫かい?どこか痛むのか?」
始めて見た奇怪な光景のせいで表情が歪んでいたのだろう。
ダグはまたしても素朴だが思いやりにあふれる言葉をかけてくれた。
「ううん。大丈夫。それより私が眠っている間に何があったの?」
ダグは私がここに運ばれるにいたった経緯を教えてくれた。
ブリクストンの人気のない一角でマフィアに撃たれた私に
"誰か"が応急処置を施し、その"誰か"が救急車を呼んでくれたそうだ。
私に打ち込まれた22口径はすでに摘出され、容体は安定しているらしい。
医者によると、「太い動脈を傷つけられた割には極めて良好な状態」らしい。
ひと通り状況を説明すると、ダグは私のフラットに着替えを取りに行ってくれた。
人生の最期を覚悟した私だったが、どうやら助かったらしい。
痛む頭であの時のことを思い出す。
私は確かに誰かに助けられた。
ダグの言っていた"誰か"は多分、あの時不思議なことを言っていた青年だと思うが、あの青年はいったい何者だったのだろうか。
彼に触れられたとき、確かに体が楽になるのを感じた。
――薬?
いや、違う。
何かを吸引した感触も、注射を打たれた感触も、何かを嚥下した覚えもない。
確か彼は「力を与えた」「眼が覚めたらすぐにわかる」と言っていた。
只のたわごとと片づけられるかもしれないが、さっきダグに見えたものはいったい……駄目だ。頭が重い。
今は休もう。
私はダグのいなくなった病室で再び眠りに落ちた。
全2回で完結です。




