『残留思念』―The ghost of Greenwich Village -1―
新エピソードです。
全3回で完結予定。短いです。
これは、人材交流で知り合った
日本のマツモトって刑事から聞いた話だが、日本には
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』っていう諺があるそうだ。
こいつは英語圏で言うなら
One always proclaims the wolf bigger than himself
(狼を見た人はいつも大きく報告する)
にあたる言葉だ。
だが俺が今日話したい事はこの諺の有難い教えについてじゃない。
2年ほど前にこんなことがあった。
その日は親父の命日で、俺は墓参りに行っていた。
俺の親父、アイルランド移民2世のアーサー・ガブリエルは
ブルックリンのホリー・クロス墓地に眠っている。
ホリー・クロス墓地があるイースト・フラットブッシュ地区は
ジャマイカ系住民の多い地区でお世辞にも治安が良いとは言い難い。
俺が無理やり仕事を途中で切り上げて到着した時にはすでに日が暮れかけていた。
ジャマイカ人がボブ・マーリーを聞きながらジャークチキンを焼いているような陽気な連中ばかりならば良いのだが残念ながらそのステレオタイプなイメージは事実に反する。
あまり遅い時間にはうろつきたくないエリアというのが事実だ。
親父には悪いと思ったがおざなりな訪問を済ませ、帰途につこうとした時には陽が落ちかけていた。
薄暗闇の中、歩みを進める俺の視界の端にふと、白い何かが浮遊しているのが映った。
――いつもの悪い癖だ。
アンナと経験してきた異常な経験のせいで妙な何かを受け入れ
またその正体が気になって仕方がなくなっている自分がいる。
俺はその"何か"の行方を追った。
やがてその白い何かは墓石の間をゆらゆらと漂うと
浮力を失い墓石の間へと消えていった。
俺はその何かが消えていった場所へと歩みを進めた。
――そこにあったのは。
どこかの不心得者が捨てていったプラスチックバッグだった。
××××××××××××××××××××××××××××××××××××
深夜0時過ぎに、俺のblackberryに着信があった。
ディスプレイには「アイリーン」と表示されている。
「ハイ、パット」
取るなり電話の主、アイリーンはそう言った。
俺のことを「パット」と呼ぶ人間は限られている。
イラクにいたころに亡くなった親父、自宅でフランス語教師をしているおふくろ、俺をフってバラナシに行った元ガールフレンド――今何をしているのかは謎だ――そして妹の4人だけだ。
ニューヨーク市立大学を卒業した俺の妹アイリーンは、ニューヨーク大学付きの臨床心理士として学生たちの心のケアに日々努めている。
俺にはいったい臨床心理士というのが何をする仕事なのか
未だによく分かってないが、代々筋肉労働者を生み出してきた
由緒正しい家系であるケーヒル家の中でその意味を正しく理解できていそうなのは妹以外ではボーダー・コリーのケニーだけだと思う。
「久しぶりにランチをどう?」
一般的に0時過ぎというのは人に電話をかけていい時間ではない。
そんな時間に「ランチをどう?」なんていう緊急性のない要件で安眠を妨害されたら、マハトマ・ガンディーでさえ憤怒の感情を抱くかもしれない。
しかし俺にとってその時間は平均的に帰宅して一息ついた頃の時間だ。
当たり前だが俺の妹もそれを知っていて電話してきている。
我が妹、愛しのアイリーンは断じてそんな無神経な女ではない。
晴れ渡った空の下、ワシントン・スクエア・パークのベンチで
俺達兄妹はベンダーで購入したチキンオーバーライスと妹が「謎の液体」と呼んでいるインクを溶かしたような味のコーヒーをすすっていた。
アイリーンはいつものように持参したメープルシロップをたっぷりと黒い液体の中に注いでいた。
簡素なランチが終わり、俺は2本目のラッキーストライクに火を着けると
こう切り出した。
「ところで、今日はなんの頼みだ?」
「どうして?」
「お前が俺を呼び出すのは何か頼みがある時に限られるからな」
「そうだっけ?」
「そうだよ。ドナルド・トランプが時期大統領になったら政権が右寄りになるってのと同じぐらい確かなことだ」
アイリーンは「そう」とおざなりな返事をするとこう言った。
「私の診ている学生がね…幽霊を見たって言ってるの。
…そういうの得意でしょ?」
勘違いのないように言っておくが、アイリーンは俺が魔術を使えることを知っているわけじゃない。
俺が、経験した不思議の国の事件を詳細は伏せて時折話しているからだ。
きっと彼女は、俺がカール・セーガンみたく科学の力で不思議な現象の謎を解き明かしたと思っていることだろう。
だから彼女は俺がそういうのを得意だと思っている。
実際、俺は魔術師で、使い手としては2流もいいところで、風変わりで有能な相棒が実際は事件を解決していると知ったらどう思うのだろうか。
俺が思索に耽っていると、アイリーンがまた言った。
「ねえ、得意でしょう?」
これは明らかに断れない流れだ。
――やれやれ。
俺はクソを引き付ける磁石か?
事件のあらましはこうだ。
その日、大学一年生のオリビア・ジェファーソンは
ドミトリーの自室で浅い午睡を取っていた。
時間のある時の彼女の習慣だ。
オリビアは仲の良かった姉、イザベラを一年前に事故で亡くした。
それがきっかけで精神に軽い変調をきたしアイリーンの世話になることになった訳だが、とにかく彼女は眠りに落ちていた。
彼女が不穏な気配に気が付き、目を覚ますと
窓の外に誰か立っていた。
オリビアの部屋は5階にある。
ベランダに誰かが立っているとすれば、それはルームメイトのジェニファーかあるいは道に迷ったスパイダーマンの他にはあり得ないはずだった。
陽は落ちかけ、空は薄暗闇に覆われていた。
そして薄暗闇の中には、その人物の着ていた
目の覚めるような鮮やかなイエローのスプリングコートがくっきりと浮かび上がっていた。
奇妙なことにそのコートは他ならぬ亡くなったイザベラが好んで着ていたものだった。
なによりもそんな悪趣味なコートをエレガントに着こなせるのは
亡き姉以外には存在しない。
少なくともオリビアはそう確信していた。
どの程度の時間が経っただろうか。
オリビアは絞り出すように一言口にした。
「…ベラ?」
イジーでも、エラでもなく、いつもの呼びなれた呼び方で
オリビアは姉の名を呼んだ。
するとその人物は部屋の中を振り返るようなそぶりを見せ――
カーテンの陰に隠れてしまった。
しばし、呆然としていたオリビアだが
やがて立ちあがりまだ覚醒しきっていない頭のまま窓際まで歩いて行った。
しかし、そこには誰も立っていなかった。
そして、彼女はベランダの外壁に奇妙な物があることに気が付いた。
それは、いくつかの人間の手形と
「So Long Nola(さようなら、ノラ)」
というメッセージだった。
彼女は気が動転し、とにかく誰かを呼ぼうと部屋を駆け出して行った。
そして、ちょうど部屋に戻ってくるところだった。
ルームメイトのジェニファーを廊下で捕まえ再び自室のベランダに出た時には
手形もメッセージもまるで魔法使いのバア様が放った屁のように跡形もなく消えていた。
アイリーンの常駐する診察ルームでオリビアは途切れ途切れに事のあらましを語った。
憔悴している様子で目の下に誰かに殴られたようなくっきりとした隈があったが無理もあるまい。19歳は多感な時期だ、それぐらいは俺にもわかる。
俺にだって19歳の頃はあった。今じゃ自分でも信じられないが。
話が終わってしばらく沈黙が続いた。
やがてしびれを切らしたアイリーンがこう言った。
「どうなの、パット?」
俺はこう返した。
「そうだな…。とりあえず現場を見せて貰えないか?」
ドミトリーはグリニッジ・ヴィレッジの一角にあった。
この一帯は若者に人気のお洒落エリアだがこんなところにドミトリーがあるというのは何とも奇妙な気がした。
しかし建物を見るとその疑問は氷解した。
ドミトリーと言いながらも建物は瀟洒なアパートメントであり街並みに違和感なく調和していた。
『ゴシップガール』あたりを見てニューヨークのシティライフにあこがれを持って来たティーンエイジャーだったら喜びのあまり我を失っているところだろう。
そういえばニューヨーク大学は全米でも有数の金がかかる大学だということを思い出した。
きっとオリビアの父も株だか債権だか俺の理解の範疇を超えたものを転がしているエリートに違いない。
そんなことを考えながら俺はアイリーンとオリビアに付いて、
カンザスから出てきたそばかす面のジミーあたりならあまりのお洒落さに
失禁する危険すらありそうなドミトリーに入って行った。
瀟洒な外装とは裏腹に、内部の施設はかなり貧相だった。
だが、ニューヨークの不動産で一番大事なのはロケーションだ。
グリニッジ・ヴィレッジやソーホーやノリータに建物があるということは
イコールその不動産に高い価値があるということだ。
部屋に入り、意識を集中させる。
俺の魔術は後天的な突然変異によるものだ。
アンナのような生まれつきの魔術師は呼吸や発汗をするのと同じように
ごく自然に魔術を使えるが、俺にとって魔術の行使はちょっとした有酸素運動だ。
意識を研ぎ澄まして魔力の痕跡を探してみたが、どれだけ探索してもなんの神秘の感触もしなかった。
俺の怪訝な表情を見てアイリーンの表情が曇る。
俺は焦った。
これでは兄としての威厳が――最もそんなものがあればの話だが――
危険にさらされることになる。
俺は小さくため息をついてこう言った。
「この事件には…ワトソンが必要だな」
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「魔力の欠片も感じないね」
翌日、不承不承ながら協力を取り付けた
アンナは部屋に入るなり開口一番そう口にした。
「本当に何も感じないのか?」
そう言うとアンナはやはり不承不承ながら、部屋を歩き回り始めた。
「Pat, quel type de professionnel est-elle?(パット、彼女は何する人なの?)」
部屋中を何も言わずにただひたすら歩いて回るアンナを見て、
アイリーンは至極当然の疑問をフランス語で口にした。
風変わりな相棒の存在は話していたが、そういえばアイリーンはアンナとは初対面だった。
ケーヒル家はアイルランドの家系だが、俺たち兄弟のおふくろは
ケベックシティから来たフランス系カナダ人だ。
この国に来たばかりのころは英語がほとんど話せなかったおふくろは、
今でも英語があまり得意ではない。
亡くなった親父は、英語以外の言語にまったくと言っていいほど興味を示さなかったが、両親の間でコミュニケーションの齟齬が起きたのを見たことがないのは未だに不思議だ。
ともあれ、おかげで俺たち兄妹はフランス語をたしなむようになった。
俺の密かな特技はこんな風にナイショ話をするときには大いに役立つ。
「Eh bien…(そうだな……)」
俺が正体不明の赤毛の美女のことをなんと説明しようか思案していると、当の本人が答えた。
「Je suis juste une magus, Mademoiselle.(ただの魔術師だよ。お嬢さん)」
アイリーンは突拍子のない回答とフランス語で答えが返ってくるという意外な展開に面喰っていたが、どうやらジョークと受け取ったらしい。
「面白い人だね、美人だし」という無難な感想を今度は英語で俺に言った。
そういえば、アンナは以前、6国語が話せると言っていた。
彼女の話はどこまで本当か分からないことがしばしばあるが、どうやらその話は本当らしい。
「やっぱり何も感じないね」
「本当か?本当に何も感じない?」
「ああ。間違いないよ、テキサス人はドクターペッパーが好きだってのと同じくらい確かだ」
「じゃあ、霊の正体は一体?」
「一つアドバイスをあげるよ。
『蹄の音を聞いたら、シマウマではなく馬が来たと思え』
っていう諺、知ってるかい?」
「自分で考えろってことか、わかったよ。とにかく、ありがとう」
「いい子だ、パット。じゃあ、がんばって」
彼女はそう言うと、「眠い」というありがたい一言を置き土産に立ち去った。
アイリーンは初めてR・A・ディッキーのナックルボールを
打席で目の当たりにしたルーキーのようにポカンとしていた。
俺の面目は丸潰れだ。
なるほどだ。
これがお前なりの愛情って奴なんだな、アンナ。
うれしくて涙が出るぜ。
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とっくにシフトが終わったオフィス。
まだ残っていたのはいつもの3人だった。
つまり俺とモラレスとグリーンのことだ。
溜まりに溜まったペーパーワークに愚痴をこぼしながら、
モラレスがいつものお喋りを始めた。
彼女の話は3種類ある、男に振られた話、登山の話、そして男に振られて登山に行った話だ。
今日は登山の話だった。
俺は帰りにデリでチョコレートドーナツとシュガードーナツ
のどちらを購入するかという重要な問題の思索にふけりながら
適当に彼女の話を聞き流していた。
彼女の話がアイゼンとピッケルについてに差し掛かったあたりで
グリーンが心底困った顔をしていることに気が付いた。
グリーンはナイスガイだが真面目すぎる性格が災いして人の話を聞き流すということができない。
俺はグリーンに助け舟を出してやるために彼女の有難い話に割り込むことを決め――
そして刑事にとってはうってつけの話題があることに気が付いた。
モラレスの話がクレバスの危険性に差し掛かったところで
少し間ができた。
俺はそこでこう切り出した。
「モラレス、話の途中で悪いんだがな―お前らに相談があるんだ。
グリニッジ・ヴィレッジで亡霊を見たって話なんだがな…」
俺は事件の全容を掻い摘んで二人に話した。
話が終わると、聞き手の二人のうちの一人。
グリーンが不思議そうな顔でこう言った。
「ケーヒル、その話のどこが不思議なんです?
誰がやったかなんて分かり切ってますよ。
それにどうやったかも大よそ検討がつく。
何故あなたほどの人がこの程度の事に気が付かないんですか?」
ナイスガイのグリーンは俺をそう過大評価した上で
自分の考えを語りだした。
そうか、確かにそれなら合点がいく。
なぜこんな程度の事に気が付かなかったのか。
どうやらアンナと不思議の国を探検している間に
刑事としての当然の感覚が麻痺してしまっていたに違いない。
後は実証するだけだ。
待ってろよ、モリアーティ。
今回は出題編でした。
次回、回答編です。




