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magus hunter 紐育魔術探偵事件簿  作者: ニコ・トスカーニ
『ハンター』―Pilot―
2/120

『ハンター』―Pilot -2―

シリーズプロローグの第2話です。

基本的に主人公2人が交代で語り手をする形式で進めます。

 音が止んだ。

 ほどなくして、少女を抱えて出てくるアンナの姿が見えた。


「メアリー!」


 ミセス・マッコーリーは待ちきれず二人のもとに駆け寄っていった。

 アンナはそっと母親に少女を預けた。

 ミセス・マッコーリーは「ありがとうございます」と繰り返しながら、娘を抱きしめた。


「警官に送らせます。念のため、病院でも診察を受けてください。ジャルザルスキー巡査!」


 吐くものをすべて吐き出して、ようやくゲロ地獄から解放されたジャルザルスキーを呼ぶ。

 ジャルザルスキーは未だ蒼い顔のままだったが、予想外にしっかりした足取りで近づいてきた。


「どうぞ、こちらへ」


 巡査はミセス・マッコーリーを連れて市警の用意した車両に乗り込んだ。

 市警が用意したのはいかにも燃費の悪そうなSUVだった。

 助手席を見ると、今夜、俺の安眠を妨害したブリスコーの姿があった。


「よう。お二人さん」

「今晩は。ブリスコー巡査部長。また太ったんじゃない? ドーナツの食べ過ぎは毒だよ」

「久しぶりに会ったと思えばそれか。お前は俺のカミさんかよ」

「あんたのブサイクなカミさんなら、今頃ブルックリンのアパートでラガー飲んでふて寝してるんじゃない?」

「この野郎!」


 そう言いつつも、褐色の肌をくしゃくしゃさせてブリスコーは豪快に笑った。

 ブリスコーはもともと、俺の相棒だった。

 魔術の存在は可能な限り秘匿するというのが、魔術師を統括する組織、ソサエティの方針だ。

 そのため、魔術に関する事件の捜査は可能な限り秘匿し続けていたが、四六時中一緒にいる相棒に隠し続けるのはさすがに無理があった。

 ある日、初めて魔術の存在を目の当たりにしたブリスコーは小便をチビらんばかりにビビっていた。


 その後、巡査部長に昇格したブリスコーは殺人課の刑事からパトロール警官を束ねる立場に転身し、運がいいのか悪いのか、こうして今も時に不思議の国の事件に遭遇する。

 そういう時は、必ず俺かアンナを呼び出すように言ってある。


 現在、俺の刑事としてのパートナーの席は空いたままになっている。

 ニューヨーク市警の上層部はソサエティの魔術犯罪捜査部と連携をとっていると聞く。

 つまり、俺はこのニューヨーク一優秀な魔術師で風変わりな赤毛の美女のパートナーに指名されたわけだ。


「それじゃ、よろしくたのむぜ」


「おう。任せとけ。おい、ジャルザルスキー、ゲロはもう勘弁しろよ。漏らすなら小便にしとけ。そのぐらいなら大目に見てやる!」


 ジャルザルスキー巡査はいかにもバツの悪そうな顔をしてエンジンをかけた。

 排気口から煙を吐き出してSUVが動き出す。


「あの」


 動き出す車から、ミセス・マッコーリーが身を乗り出した。


「あなたに神の祝福を」


 十字を切ってそう言った。

 微笑してアンナが応える。


「あなたにも。マダム」


 エンジン音をとどろかせると、車は速度を上げ、やがてマッコーリー母娘の姿は見えなくなった。


「おつかれ」

「どうも。パトリック・ケーヒル刑事」

「フルネームはよせよ。夜中に叩き起こされたの、怒ってんのか?」

「まさか、私とあんたの仲だろ?」

「ところで、お前、やらかしてないだろうな?」

「ああ"聴いて"たのかい?殺人罪も故殺罪も犯しちゃいないよ。撃ったのは床さ。ちょっと脅かしてやろうと思ってね。あいつは自分の放った屁の音で飛びあがるような小心者だ。泡吹いて倒れてるよ」


 そう言うと彼女は、ポケットからアメリカンスピリットのパックを取り出し、火をつけた。


 ――彼女、アンナ・エヴリン・ロセッティはいささか風変わりな友人だ。

 魔術を悪用してお尋ね者になった魔術師を捕まえ、ソサエティから賞金を得る"ハンター"であり、腕利きの魔術師。

 父親でビジネスパートナーのマシューと一緒に"家業"を運営している。

 亡き母親のモリー・フィッツジェラルドはマンスターのジェラルド伯の遠い子孫にあたると言われる由緒正しい魔術の家系。


「私はマンスターのジェラルド伯の血を引いている」


 その話を初めて聞いたとき、俺はさすがにこれはジョークだろと思った。

 俺の爺さんはアイルランドのアルスターからやってきた移民で、子供のころジェラルド伯の伝説を寝物語に聞かせてくれたものだった。

 だから、俺にとってジェラルド伯はおとぎ話の中の存在で、「子孫だ」と言われても突拍子がなさすぎて到底信用できなかったわけだ。

 もっとも、俺が今使ってる魔術だって突拍子もないという点においては変わりないが。


 だが、今ではアンナの話はマジだと思っている。

 信じる気になったのは、アンナが魔術を使うからじゃない。

 マンハッタンのジムで戯れにベンチプレスをやって、ジムの新記録を塗り替えるところを目撃したからだ。

 コナン・ザ・グレートみたいな大男ならまだしも、ほっそりしたモデル風の美女が800ポンドのベンチプレスを悠々と成功させる姿はあまりにも異様だった。

 明らかにアンナを口説こうとしていたウォール街のスカしたエリート風の二人組は顔面が蒼白になり、俺も正直、金玉が縮み上がった。

 後で聞いたが、その時アンナは身体強化を使っていなかったらしい。

 人間業とは思えない。

 その異様な姿にビビる俺に、彼女は涼しげな顔でこう言い放った。


「親父なら調子が良ければ900ポンドまでは軽いよ。もちろん、魔術なしでね」


 この親子がマジで喧嘩してるときは、10マイルは近くにいたくない。

 俺は心の底からそう思った。


 以来、注目を集めすぎてやり辛くなったのかジム通いはやめたらしいが、「西54丁目のジムにメスゴリラが現れてベンチプレスの新記録を作った」という噂が今もマンハッタン中のジムでまことしやかにささやかれているらしい。


「そりゃ良かった。じゃあ、後始末だが、これだけ警官が出張ってたら、即釈放ってわけにもいきそうにないんで、悪いが、一度アルフレッドソンを逮捕する」

「うん、それで?」

「ミランダ警告を読み忘れたとかなんとか理由をデッチあげて釈放するから、ソサエティのリエゾンに引き渡してくれ」

「OK。毎度悪いね」

「お安い御用だよ。そのぐらい」


 俺が"こちら側"の世界に足を踏み入れたのは、偶然だったが、ハーレクインロマンスばかり読んでいる根っからのロマンチストならそれは運命だ、と言うかもしれない。

 魔術は生まれつきの才能がなければ扱うことが出来ないが、基本的にその能力は親から子に遺伝する。

 アンナは両親ともに魔術師で、彼女はこちら側の世界に生まれた時から自動的に所属させられた。

 だが、俺は違う。

 おふくろも妹も神秘とは無縁のシティライフを謳歌する、"こちら側"から見たら一般人だ。


 俺に能力が発現したのは、海兵隊の一員としてイラクに派兵されていた時の事だ。

 バグダッドでの任務中、ハンヴィーに乗っていた俺は遠隔操作で起動したIEDに車体ごと吹き飛ばされた。

 他の乗員は全員仲良くあの世にランデブーしてしまったが、悪運なのか幸運なのか、偶然が重なって俺だけが生き残った。

 目が覚めた時、手足の1本ぐらいは失っているものと覚悟していたが、

 実際は火傷と裂傷に軽度の外傷性脳損傷がついた程度だった。

 医者も同僚も上官も全員が「奇跡だ」と言っていた。


 それから間もなく、任務中の負傷による名誉除隊という形で、俺は戦地に戻ることなく軍隊生活に別れを告げた。

 しかし、それと当時に、俺は自分でも知らないうちにそれまでの生活とも別れを告げていた。

 しばらく休息を取った後、NYPDニューヨーク市警のパトロール警官になった俺は、

 殺人の現場に鉢合わせるたびに、奇妙なものを見るようになった。


 それが、エーテルと残留思念で構成された霊体であることを知るのはだいぶ後のことだ。

 他の人間には見えないものが見えてしまうようになった俺は、度々妙なことを口走るようになり、気味悪がられるようになった。

 俺は自分がイカれたと思い、酷く落ち込んだが、ある日、ボスからある場所に一人で行くよう指示を受けた。

 新米だった俺が、指導役のベテラン警官もつけず、一人でしかも非番の日に指示を受けたことに不信感を覚えたが、あまりの事の奇妙さに逆に好奇心を駆り立てられ、素直に指示に従うことにした。

 指示された場所は「船の墓場」の通称で知られるスタテンアイランドの一画だった。


 そこで待っていたのが、今やわが相棒となったアンナ・ロセッティだ。

 彼女は俺が自己紹介すると、何の前置きも「今日はいい天気だね」の一言もなく、言った。


「あんた、"あれ"が見えるのかい?」


「船の墓場」は自殺の名所として知られている。


 俺は、「またか」と思いつつも、見えてしまう死者の陰に否応なく視線を引かれていた。

 いつもなら、同僚から「どうした、ケーヒル。スリーピー・ホロウでも見えたか?」とあきれ側で皮肉を言われるところだが、赤毛で長身の美女の視線は明らかに俺と同じものに向いていた。

 俺は驚いて言った。


「君にも見えるのか?」

「ああ」

「ひょっとしてあれが何かも知ってる?」

「もちろん」


 俺はその時、どんな表情をしていただろうか。


 「自分はイカれていない」という安堵感と何か言葉では言い表せられない複雑な気持ちに呆然としていた俺に、彼女は言った。


「"こちら側"へようこそ」


 こうして俺はめでたく"こちら側"の世界の住人になった。


「さて、じゃあ後始末は頼んだよ。刑事さん。アルフレッドソンを解放したら教えてくれ」


 寝不足で半分脳みそを過去に持っていかれていた俺に、黙った紫煙をくゆらせていたアンナが言った。


「一杯おごろうか?クイーンズに旨いギネスを出すパブがあるんだ。きちんとサージングしたやつをな」

「やめとくよ。あんまり女の子が夜更かしするとパパに怒られちゃうからね」

「女の子って歳かよ、お前」


 冗談で言っているのはわかっていたが、アンナは20代後半のいい大人だ。



「ひどいねえ。清らかな魂を失わない限り、女はいつまでたっても女の子のままだと思うけど、私は」

「本当に清らかな魂の持ち主なら、自分から清らかな魂なんて言葉出さないと思うぜ」

「ま、とにかくビールはまた今度ね。手数料代わりにおごってあげるよ。そのぐらいらいならいいでしょ?」

「ああ、ボランティアのご褒美には十分だ」


 そう言うとアンナはタバコをすて、足元で揉み消した。


「じゃあ、そろそろ失礼するよ。夜更かしはお肌に悪いんでね」

「マシューの旦那によろしくな」

「ああ、伝えておく。あんたによろしく言われて親父が喜ぶとも思えないけどね」


 そう言うと、アンナは背を向けて歩き去って行った。

 気が付けば空はすっかり明るくなっている。

 さて、これから俺はもうひと仕事だ。


×××××××××××


 気が付けば空はすっかり明るくなっていた。

 早朝にこの街を女一人で歩くのは好ましくないと言われている。

 強盗や通り魔ぐらい返り討ちにできる自信があるが、進んでトラブルには巻き込まれたくない。

 だが、この気持ちのいい天気だ。

 ロウアーイーストサイドの我が家まで歩いて帰ることにした。

 早朝にも関わらずニューヨークはもう動き出していた。

 ロウアーマンハッタンでは、早朝から2000ドルはしそうなスーツに身を包んだオフィスワーカーが早足で歩き、近所のベーグル店からはベーグルの焼ける臭いがしていた。


 私の父方の曽祖父アントニオ・ロセッティはボローニャからやってきた移民で、この界隈にはその代から住んでいる。

 母方の家系が由緒正しい名門だったのに対して、父の家系はまだ私で4代目だ。

 突然変異で魔力を持った父方の曽祖父は、エリス島に向かう船の中でマルシリオ・フィチーノの直系の弟子を名乗る人物に出会った。

 その人物のもとへ強引に弟子入りして攻撃魔術を身に着けた曽祖父はそれを売りにイタリア系マフィアの用心棒やマフィア同士の抗争の際の助っ人をやっていたという。

 

 祖父レイモンドの代になると、第二次大戦が勃発した。

 アメリカで生まれ育ち、愛国心の芽生えた祖父は曽祖父譲りの攻撃魔術とバカ力で連合国軍の勝利に人知れず貢献し、

大戦後はその能力と経歴を生かして傭兵稼業を開業した。


 魔術を使う腕利きの魔術師で戦闘屋のロセッティの評判はやがてソサエティ関係者の耳に入り、傭兵稼業とソサエティの依頼で悪徳魔術師を狩るハンターを多角経営するようになる。


 これがロセッティ一家の"家業"の始まりだ。


 父のマシューと父の兄であるロバート――つまり私の叔父だが――はその「家業」を受け継いだ。

 伯父は今も多角経営を続け、駆け落ち同然で母と一緒になった父は、それを機会に魔術師を狩るハンター専門になった。


 だが、ハンターも傭兵もどちらにしても危険な仕事に変わりはない。

 

 そして、必然的に悲劇は起きた。

 ある「仕事」のさなかに母は亡くなった。

 私はまだティーンエイジャーだった。

 普通の女の子ならば、誰とプロムに行こうかなんてことで悩んでいる年頃に、目の前で母親を失うのはあまりも辛すぎた。

 それでも、今もこの稼業を続けている。

 私が子供のころ、魔術の鍛錬の時、今は亡き母はよくこう言っていた。


「アンナ、あなたは才能がありすぎるの。

残念だけど、それだけ才能があると嫌でも闇の世界が放っておいてくれない。

辛いだろうけど、これはあなたの身を守るためなの。

どうか許して、スウィートハート」


 年を取るごとに母が常日頃から言っていたことの意味が分かってきた。

 だから、こうして今もこの稼業を続けている。

 物思いにふけっていると、家が見えてきた。

 ドアを開け、中に入る。

 父はすでに起きていた。


 茶色い髪と眼に褐色の肌、たっぷりと蓄えた髭。

 6フィートを4インチのガッチリした大柄な体を椅子に押し込めて、ハンバーガーに山盛りのフレンチフライを食べていた。

 カロリー過多な朝食だ。


「朝帰りか?」

「しつこい男につかまってね。生理中だって言って逃げてきたよ」


 上着を脱ぐ。

 ホルスターを外し、銃を置いた。


「そいつは大変だったな」

「そりゃどうも」

「よう、アンナ」


 父とは違う、野太い声にボストン訛り。

 がっしりした体格でスキンヘッドの大男が立っていた。


「ハイ、キンケイド。どうしたの、ベテランのネオナチみたいな顔して?

レッドソックスがアメリカン・リーグ東地区で最下位争いしてるのがこたえてる?」

「レッドソックスの不調は残念だがそれは関係ねえ。

……この悪人面は生まれつきだ」


 キンケイドはボストンを拠点に活動しているハンターだ。

 父とも私とも旧知の仲で、何度か一緒に"仕事"をしている。


「カリブの小さな島でちょっと捕り物があってな。JFK経由で帰って来たから、少し顔を出しに来ただけだ。察するにアンナお嬢様はお休みになりたいようだし、もうお暇するさ」


 そう言うと、キンケイドはドアに向かって方向転換した。


「じゃあな、2人とも。せいぜいくたばるなよ」


 数秒後、ドアが閉まる音がした。


「ディーキンスが死んだそうだ」

「それで、キンケイドはあんな厳しそうな顔を?」

「気付いてたか?」

「女の勘、舐めないでほしいね。

キンケイドのあの顔、ジョークでも言わなきゃやってられないって感じだった。」


 ディーキンスはキンケイドの相棒だった。

 彼はまだ、駆け出しのハンターでキンケイドにくっついて必死にこの世界で生きていくすべを身に着けようとしていた。

 魔術を扱える人間が、一般的な職業に就くのは難しい。

 見えないものが見えてしまうことは、社会生活を営む上で不都合にしかならないからだ。

 私は子供のころ、どうして両親がこんな危険な稼業を続けるのか理解できなかったが、

 今ではよくわかる。

 ディーキンスは「やっと自分の居場所を見つけた」と言っていた。

 その矢先にこんなことになるのは、残酷としか言いようがない。


「……ディーキンス、確かお前より年下だったな」


2人ともしばらく何も言えないでいたがその沈黙を父が破った。


「……ああ」

「こんなヤクザな稼業してる時点で覚悟はしちゃいるが、自分より若い奴が先に逝っちまうのは、気持ちのいいもんじゃねえな」

「ジジ臭いよ。親父」

「うるせえよ。小娘」

「まあ、それはそうと、こういう稼業だからよ。お前もせめて健康には気をつけろよ。この機会に禁煙してみたらどうだ?」

「朝からコレステロールの塊食ってるやつが言うことかね?」


 私は背を向けたまま、そう言った。

 多分、父はハンバーガーを見つめたまま唸っていることだろう。

 私は、汗を流すためにバスルームに向かった。


×××××××××××


 仮眠をとって起きると、夕方だった。

 時計を見る。

 午前4時を指していた。

 そして外は見事な晴れだった。


 真夏のニューヨークは夕方でも猛烈な暑さになるが、

私の心と足はある1点に向かいたいと訴えていた。

 私は起き上がると支度を始めた。


 私はブルックリンの墓地に来ていた。

19世紀に建てられたこの墓地はニューヨークに所縁のある多くの有名人が埋葬されている。

セントラルパークができる以前、ここでは多くの人がピクニックを楽しんだという。


 ここは多い時には1000人以上の人が訪れるという。

 多くの有名人が葬られているこの墓地は、それを目当てにしたツアーも催されており、今日はツアー客と思われるお上りさん風の連中ともすれ違った。


 だが、私の目当てはそういうものとは無縁の存在。

 

 イーストリバーが見える見晴らしのいい一角にその墓はあったが、だれも気に留めるものはいない。


"In Memoriam of Molly Fitzgerald"


 小さな十字架とたった一つのフレーズだけが刻まれたシンプルな墓石。


 そこに私の母、モリー・フィッツジェラルドは眠っている。


 知人が死んだなんて言う話を聞いたからだろうか。

 ついここに足が向いてしまった。

 母も"仕事"の最中に亡くなった。

 私の最も辛い思い出だ。


 母の墓石を前にするといつも、実の母の墓石に自分と違うファミリーネームが刻まれていることに奇妙な感覚を覚える。

 父と母は、籍を入れなかった。

 フィッツジェラルドという名門の名前が役に立つことがあるかもしれないからというのが理由だったが、役に立った記憶はあまりない。

 生前の母はどこか抜けているところがあったが、頑なに旧姓を守り通したのもその人柄を物語っているように思う。


 私は母の墓石の前にひざまずくと、ポケットからタバコのパックを取り出した。

漢字と思われる文字で謎の商品名がパッケージに書かれたそれは、生前に母が愛飲していたものだ。


 なぜ、アイルランドで生まれ育った母がアジア産と思われるこの謎のタバコを愛飲していたのか謎だが、

 母はいつもこの銘柄を吸っていた。


 私はパックから一本取り出し、火をつけた。

 紫煙を味わい、吐き出す。


「不味い」


 思わずそうこぼした。

 薄くて、妙にイガイガした風味がする。


「よくこんな不味いもの吸えるね。尊敬するよ」


 私は、火のついたままのタバコを残りが入ったパックと一緒に墓前に据えた。


「また持ってくるから、それまでその不味い煙を心ゆくまで味わってて。もう健康の心配する必要もないだろうしね。

――死ぬのも悪いことばかりじゃないね」


 私は立ち上がり、踵を返して言った。


「またね、母さん」

次回から本格的にエピソード開始です。

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