『少年と鬼』―Tokyo nightmare -4―
それからほどなくして、コウイチが目を覚ました。
少年は私の酷い有様を見ると本気で心配してくれたらしく
あらゆる種類の気遣いの言葉を投げかけてきた。
そういえば今回日本に来てから初めて
純粋な善意の気持ちを受け取った気がする。
私は「大丈夫だ、何も問題ない」と言う代わりにサムズアップし、彼にウィンクしようとしたが
失敗して両目を閉じてしまった。
30年弱の自分の人生の中でウィンクに失敗したのは
初めての経験だった。
コウイチは「なんなの?」という表情で私を見上げていた。
その後、ヒノサキの愛車で一緒にコウイチを自宅まで送り届けた。
去り際、少年は決意に満ちた表情であの巨人との再戦を誓った。
強い子だ。
今日はよほど怖い思いをしたに違いないのに。
妹のために頑張る兄、麗しき兄妹愛
やはり愛こそすべてだな。
コウイチを見送ってから
私も宿泊しているシティホテルまで送ってもらった。
狭い車内でヒノサキのようなごく控えめに言って心を許せない相手と
短時間とはいえ2人きりで過ごさなければならないことにはいささか抵抗感があった。
しかし、全盛期のマイク・タイソンにハードパンチを
しこたま込まれた後のサンドバッグのようにボロボロだった私には
もはや1塁まで歩く気力さえ残っていなかった。
サトウ家を出発して10分。
車内には沈黙が広がっていた。
車は住宅街を抜け、市街地に入っていた。
都心に向かう幹線道路はそれなりの交通量があったが流れてはいた。
前方の信号が黄色から赤に変わる。
ヒノサキはゆっくりとブレーキングし車体を静かに停止させた。
停車してから彼女はラジオをつけた。
ラジオからはポップなメロディに乗って日本のアイドルグループの下手くそな歌声が流れてきた。
「音楽」と呼ぶより「騒音」もしくは「雑音」と呼んだ方がしっくりくるような歌声だった。
歯医者の治療音を聞いている方がまだマシに思えるような曲だったがその「騒音」のお陰で沈黙からは救われた。
大半の日本のポップソングと同様に日本語の歌詞に混ざって、
ところどころ英語のフレーズが聞こえてきた。
「ヒノサキ」
ヒノサキは視線を正面に向けたまま「何?」とだけ答えた。
「何で日本のポップソングのリリックはどれも日本語と英語が混ざっているんだ」
「日本人にとって英語がクールだからだよ。
あなたたちアメリカ人だって漢字のプリントされたTシャツを着るでしょ?
それと一緒だよ」
女性のアイドルグループの歌が終わり、今度は若い男性グループの歌声が聞こえてきた。
こちらもやはり英語が混ざっていた。
そして明らかに奇妙なフレーズが混ざっていた。
「なあ、ヒノサキ。私は日本語はわからないが、これは雰囲気から察するにラブソングなんだよな?」
「そうだよ」
「じゃあ、どうして"I can't take my eyes on you ,Baby"(君はブサイク過ぎて見るに耐えないよ、ベイビー)
なんていうフレーズが出てくるんだ?日本人は控えめな国民性だと聞いてたが、控えめだけど皮肉屋なのか?」
ヒノサキは笑って言った。
「Engrishへの理解が足りないね、アンナ」
それから目的地に到着するまで私もヒノサキも一言も言葉を発しなかった。
ホテルに辿り着きエントランスに入るとやはりホテルマンはアラブの王族を迎えるように
恭しく私にお辞儀をした。
いっそのこと10ドルのチップを払って部屋まで運んでもらうサービスでも
受けようかと思ったが、その手続きをする気力さえなかった私はガタガタ不吉な音をさせるエレベータに乗って
7階の部屋まで辿り着き、崩れ落ちるようにしてベットに倒れこんだ。
ベッドに入るとあっという間に暴力的な睡魔が襲ってきた。
私はそのまま深い闇に落ちていった。
目が覚めた時最初に感じたのは暑さだった。
どうやら空調が切れていたようだ。
シャツが汗でべっとりと肌に張り付き不快だった。
枕元の簡素なデジタル時計はもうすぐ午前2時を指すところだった。
うめき声を上げて体を起こす。
痛みはデオンテイ・ワイルダーの強打を食らった後から
フロイド・メイウェザー・ジュニアの連打を食らった後ぐらいまでには引いていた。
悪くない。治癒魔術は多少なりとも効果を発揮したようだ。
立ち上がると私は重たい窓を押し上げ空気を入れ替えた。
窓からはムシムシしたトーキョーの夏の夜風が吹きこんできた。
次に汗でべっとりした衣服を脱ぐと
シャワーを浴び、シャツとジーンズのラフな服装に着替えた。
そして、私は喉の渇きを潤すために外に出ることにした。
この街なら午前2時過ぎに営業している店を探すのも難しくはないはずだ。
部屋を出る前、窓から下界を見下ろす。
窓からは隣のビルの汚い壁と、トーキョー都心のギラギラした
エキセントリックな夜景を堪能することができた。
私が入ったのは外国人向けの小奇麗なバーだった。
クラシカルな調度品でまとめられた店内のテーブル席ではテキサス訛りの若い3人組が日本の住宅事情の劣悪さと
日本人女の尻軽さをあげつらっていた。
3人組は私が入店すると
下卑た視線を送ってきた。
私は彼らをホールの悪趣味な調度品の1つだと思うようにし
視線に気付かないふりをして通り過ぎると離れたカウンターシートに座った。
私はブルックリン・ラガーを注文した。
店員は英語が話せた。
綺麗なGeneral American(標準英語)だった。
残念ながらブルックリン・ラガーは無かった。
店員は本当に申し訳なさそうな態度でブルックリン・ラガーを置いていないことを丁寧に詫びた。
私はブルックリン・ラガーを店が置いていないことでそんなに丁寧に詫びられることを不思議に思いつつ
代わりに世界中どこに行ってもあるキング・オブ・ビール、
バドワイザーを注文した。
トーキョーで飲むバドワイザーはやはりバドワイザーだった。
私はその何の味もしないビールのような液体で喉を潤しつつあのデカブツとストローハットの男への対抗策を考えた。
やがて私は一人――今回の事件にうってつけの知人が――この国にいることを思い出した。
正確には思い出したのではなく今まで勘定に入れないように避けてきただけだったのだが…。
いささか以上に気乗りはしなかったが帰って奴に連絡を入れようと考え席を立とうとした。
すると1人の男が私に近づいてきた。
テーブル席のTexanだった。
連れの2人がにやけた笑いを浮かべてこちらを見ていた。
きっと誰が私を落とせるのか賭けでもしているのだろう。
そのにやけ面のテキサス男は鼻にかかったテキサス訛りで言った。
「ハイ!調子はどう?」
私は一瞥してため息をついた。
相手のつれない様子に男は少し躊躇したようだがあきらめずに私の隣席を指さしこう続けた。
「一緒しても良いかな?」
「お断りだね」
きっぱりと突き放したが、男は構わず私の隣に座った。
やれやれだ。
思考の邪魔をされた私はごく控えめにいってイラついていた。
私は中指を真っ直ぐに突き立てて暗示を与えた。
「この指くれてあげるから…その汚いケツをどけて私の視界から消えてくれる?」
暗示はバッチリ効いた。
男は「ああ」と言って素直に頷くとテーブル席に戻って行った。
私は店員を呼ぶと勘定を払って店を出た。
出る前にテーブル席のテキサス人の様子を伺った。
見学していた2人は連れの明らかに普通ではない様子に慌てている様子だった。
私は老婆心から彼らにこうアドバイスしてやった。
「寝る前に歯を磨きなよ。ママに怒られたくなければね」
店を出て生ゴミの臭いの充満する早朝の通りを歩いていると
ふとパトリックのことが脳裏に浮かんだ。
「あいつらに比べればあんたの方が100倍良い男だね……」
私はそう呟き今日20本目になる煙草に火を着けた。
懐のiPhoneがテキストメッセージの着信を知らせる振動音を出した。
メッセージは父からだった。
翌日の便でニューヨークに帰るという極々短いものだった。
私の胸にはモヤモヤとした感情が去来していた。
この気持ちを何というのだろうか?
――ああ、思い出した。ホームシックだ。
だが、まだ家に帰るわけにはいかない。
私は27歳の大人で、今、解決しなければいけない仕事を抱えている。
数時間後――
私は朝1番のトーキョーステーション発のシンカンセンに乗っていた。




