犬が西向き猫が東向く 中編
思ったより長いの三回にします。
結構な"売れっ子"である千鶴さんはなかなかの頻度で仕事が入っている。
来週、私と彼女はとある依頼を遂行しに行く予定になっていた。
それで、涼みながら打ち合わせでもしようという話になった。
本郷三丁目から地下鉄に乗り、上野御徒町で降車する。
千鶴さんの自宅は徒歩圏内であり、私の自宅へは乗り換えれば帰り道になる。
上野繁華街であれば店も多いので、この辺で喫茶店でも探そうという話になった。
時間帯は平日の帰宅ラッシュ前、学校の下校時刻と会社の定時の間頃で車内はさほど混んでいなかった。
制服姿の中高生がちらほらと見える。
夏服は涼しいとは言え、制服は酷く窮屈に思える。
それでもスーツよりマシだろうが、私は就職以来スーツなど数え切れる程しか着たことが無い。
うち一回は確か兄の結婚式だと記憶していたが、よく考えたらそれはまだ学生のころで、しかもスーツではなく礼服だった。
数少ない私のスーツを着た回数公式記録がマイナス一された。
気になったので千鶴さんにも今までスーツを着た回数を聞いてみた。
彼女がスーツを着た回数は「今までの人生で全部合わせて五回以内」らしい。
きっとスーツ着用のお堅い職業人は夏服の学生服を見て「楽そうだ」と思うのだろう。
だが、夏服を来た学生もまた、ラフな格好をした我々を見て「楽そうだ」と思うのだろう。
空白の多い車内に、間もない駅到着を知らせるアナウンスが響き、我々は目的地に到着したことを知った。
自動ドアが開くのを見計らい、電車を降りる。
東京の日常の光景だ。
混雑時間帯に比べれば相対的には少ないが、絶対数で言えばそれなりの数の人がホームを行き交っている。
その日常光景にちょっとした非日常が混ざっていた。
男性は三十代の後半ぐらいに見えた。
彼はホームのベンチに座っていて、いかにも「調子が悪い」といった様子だった。
これを傍観者効果と言うのか。
彼の前を通り過ぎる人は相当数いた。
数人に一人は彼を一瞥したが通り過ぎ、それ以外は見もしなかった。
寺に生まれたせいか、どうにも私はお節介焼きらしい。
急ぐ用もないので千鶴さんに一言断りを入れ、男性に声をかけた。
「どうしました?」
男性は弱弱しく「調子が悪くて」と返事を返した。
返答通り、明らかに正常な状態に見えなかった。
顔面は蒼白で、手が微かに震えている。
「一型ですか、二型ですか?」
一歩遅れて着いてきた千鶴さんが唐突に言った。
唐突過ぎて私ではなくベンチの男性に声をかけていることに気付くのが一瞬遅れた。
「二型です……ランチを取り損ねたのが災いしたみたいです……」
後で理解したことだが、男性は糖尿病だった。
低血糖による発作を起こしていたらしい。
「では、これをどうぞ」
千鶴さんはゴソゴソとポケットの中をまさぐり何かを取り出した。
見ると、ビニールで包装されたいくつかの飴玉だった。
「私の非常食です」
男性は弱弱しく礼を言い、包装を破って砂糖の塊を口にねじ込んだ。
〇
男性は鈴木雄介と名乗った。
スポーツ用品メーカーで営業職をしている会社員で、今日は私用で早退し帰途の途中だったそうだ。
早退するためにさっさと仕事を終わらせようとしたところ、集中のあまりいつもはとるはずのランチをおざなりにしていた。
それで低血糖の発作症状を起こしてしまったようだ、と語った。
男性が少し落ち着くと、「言うまでも無いですが医療機関を受診してくださいね」と千鶴さんは念押しした。
彼は「もちろんです」頷いた。どちらにして今日は通院の予定で早退していたらしい。
お節介を始めたのは私だが、結局お節介の続きは全部千鶴さんが引き継いでいた。
助手が探偵に敵わないように、弟子が師匠に敵わないように、私は千鶴さんに敵わない。
地下鉄駅から地上まで出ると「では、気を付けて」と暇を告げようと思った。
すると千鶴さんが思いもかけないことを言った。
「お住まいは近所ですか?」
流石に初対面の相手に住所まで明かさなかったが、果たして鈴木雄介氏は徒歩数分内の住人だった。
「では、谷中方面ですね?私も近所なので途中まで行きましょう。発作を起こしたばかりですし、念のためにね。お節介のついでです」
確かに千鶴さんの自宅はこの近辺だが、どうにも不自然だった。
彼女は冷血ではないがここまでお節介でもないはずだ。
聡明な彼女は私の疑念に気付いていたようだ。
先回りして疑念に答えた。
「この人、妙な気配がする」
言われて気付いた。
私も多少は経験を積んだ。
呪殺された被害者を見た。妖精を見たし、魔術も見た。
それらに比べるとだいぶ弱い気配だが、確かに鈴木雄介氏には何かが憑いている。
私は千鶴さんに従い、男性へのお節介の延長を決めた。
駅から出ると猛烈な熱波が襲ってきた。
我々は発作を起こしたばかりの糖尿病患者のことも考慮しながら出来るだけ、日陰を選んでゆっくり歩いた。
雄介氏が糖尿病に罹患したのは最近の事らしい。
彼の父も叔父も糖尿病で、当人は「糖尿病のサラブレッド」と自嘲していた。
自分が糖尿病を発症することは遺伝的にあり得ることとして覚悟していたが、罹患したばかりなのでまだ付き合い方をよく理解していないと話した。
そして「しかし、よく低血糖への対処法をご存じでしたね。おかげで助かりました」と改めて礼を言った。
「たまたまですよ」と千鶴さんは謙遜した。
ところで千鶴さんが低血糖への対処法を知っていた理由だが、彼女は勉強が好きと言う奇特な人種なのだ。
祓い屋学校には一般的な学科のクラスもある。
一般的に憑き物を落とすときは「心理的な作用」と説明するため、心理学を熱心に勉強する学生は多いが、一般的な医学知識を学ぶ学生は少ない。
千鶴さんは在学中に取得できる単位はすべて取得しており、その中に家庭の医学も含まれていた。
低血糖の発作に対処できたのはそういう理由からだ。
「ところで、あなたは"一型か二型か"と聞きましたが、なぜ糖尿病だとわかったんですか?」
それは確かに疑問の残るところだ。
男性の問いに千鶴さんは苦笑した。
「それです、それ」
千鶴さんは男性が背負ったリュックのサイドポケットを指した。
サイドポケットはメッシュ状になっていたペン型の何か入っているのが見えた
「それ、インスリンペン型注入器ですよね?糖尿病以外にそんなものを持ち歩く理由は無いでしょう?」
簡単すぎるタネが割れて男性は破顔一笑した。
しかし、そう言われても、サイドポケットに入ったインスリンペン型注入器に気付く人間はそれほどいないだろう。
これは注意力や観察力といったものの産物なのだろう。
ある名探偵は「見ているだけで、観察をしていない」と助手を窘めたが、どうやら私も見ているだけで観察できていないようだ。
〇
男性の自宅は谷中の千鶴さん宅からほんの二ブロック程しか離れていなかった。
ここまで近所なら互いに顔ぐらい知っていてもおかしくないが、自営業の祓い屋と雇われ者の会社員では家を出る時間も帰宅する時間も全く違う。
生活リズムが違い過ぎて今まで顔を合わせることが無かったのだろう。
しかし、こうして我々は顔を合わせた。
そして、男性からは妙な気配がする。
いよいよ奇縁と言うものだ。
男性の名前はわかっているし、どこに住んでいるかもわかっている。
あとは祓い屋協会に頼んで口実を作ってもらい、男性とは後日話せばいいと思った。
門の前で少しばかり立ち話をして辞去しようとしたところ、雄介氏と同世代に見える女性が出てきた。
奥方らしい。
夫の通院に付きそう為に一足早く早退していたようだ。
雄介氏は駅で発作を起こしたことを話し、我々を「親切な隣人」と紹介した。
鈴木梨沙子と名乗った奥方は、礼を述べると「暑いし、冷たい飲み物でもいっぱいいかがですか?」と我々を誘った。
日本的な文化では断るところだが、我々にとって渡りに船だった。
我々は多少遠慮する姿勢を見せながら誘いに従い、厚意に甘えることにした。
〇
麦茶には体を冷やす効果があるという。
誰が飲み始めたのか不明だが、伝統的であると同時に合理的でもあり、しかも安上がりだ。
実にありがたいと思う。
冷たい麦茶を飲みながら、夫婦と少しばかりの雑談になった。
鈴木夫婦は共働きで結婚十年。まだ子供はいない。
だが子猫はいる。
猫は良く寝る生き物だ。
一日の大半を寝て過ごす。
鈴木家の飼い猫である縞と白のバイカラーの日本猫も、ご多分に漏れず寝ていた。
ソファの脇で丸くなって固まっている物体が何なのか、入室時には気付かなかったがそれははたして昼寝中の猫だった。
「この子、名前は?」
千鶴さんが尋ねると、雄介氏が答えた、
「フクです。猫なら招き猫だから、福を呼ぶでしょう?それが由来らしいです。安易でしょう?」
雄介氏は「フク」と猫を呼んだ。
フクは呼ばれたことには気づいたらしく、顔を少しだけ持ち上げたがすぐに昼寝の体勢にもどった、
フクは中々の古だぬきならぬ古猫で、すでに十五歳を超えているらしい。
横着してスマートフォンで検索したころ、飼い猫の平均寿命が十五歳とのことなので人間なら立派に晩年である。
元は雄介氏の祖母の飼い猫だったが、五年前に祖母が死去し、以降は鈴木夫婦が飼っている。
夫婦が引き取った時点ですでにフクは十歳だったので、まさか今も生きているとは想像していなかったそうだ。
雄介氏は再び「フク」と名前を呼んだ。
今度は、フクは顔すら上げずピクリと耳を動かしただけだった。
「素っ気なくて」
フクは主人のことなど関せずの様子で丸まって寝ている。
それでも夫婦はあまり気にしていない様子だった。
「あんまり人懐っこいのも猫らしくないですしね。ほら、言うじゃないですか
犬は人に懐く、猫は家になつくって」
〇
結局雄介氏から感じた妙な気配の正体は私にはわからなかった。
千鶴さんの様子だとなにか掴んだようだが、彼女は何も言わなかった。
あっさりと辞去したが彼女はどういう考えなのだろうか。
外は変わらず真夏の日光が照り付けていた。
猫でなくともエアコンのきいた室内で昼寝を決め込みたいところだ。
いかに大都市東京とは言え、昼間の住宅街は人通りが少なかった。
だから、気付いた。
我々の後を一匹の日本猫が歩いている。
特徴的なガラと首に付けた鈴からして、恐らく先ほどまでお邪魔していた鈴木家の飼い猫のフクだろう。
猫がふらりと主人の家を出ることは珍しくない。
猫は体が小さく、俊敏であるため、主人の思いもよらぬところから抜け出していることも少なくない。
私の実家は寺だが、寺の境内をよく猫が出入りしている。
野良猫も相当数いるはずだが、首に鈴をつけた明らかな飼い猫もいた。
一度など、近所の住人が猫を探しに境内に入ってきたことがある。
しかし、どうにも奇妙だった。
鈴木家の飼い猫のフクは我々の後をついてきているように見える。
その奇妙さに気付いた――訂正、どうやら鈴木家に招かれた時点で彼女はアタリをつけていたようだ。
千鶴さんは足を止めるとついてきたフクの前にかがみこんだ。
そして、そっと柔らかな毛並みに手を触れた。
フクは触れられるがままにじっとしていた。
猫はじっと見られることを嫌う習性と言われているが、彼女――メスらしい――はじっと千鶴さんを見返していた。
「この子、猫又だね」
千鶴さんは思いもかけないことをはっきりした口調で言った。
「正確には猫又になりかけてる」
「ニャー」というフクの鳴き声が、私にはまるで千鶴さんの言うことを肯定するように聞こえた。
つぎで完結。