ディープフェイク
今週、一部界隈を騒がしている某女優の動画流出問題の話。
筆者は当該女優を知らないので、本人かどうかは判別できないが、少なくともあれはディープフェイク合成ではない。現在のディープフェイク合成では、振り返りであったり、瞬き、その他の表情をLoRAで再現しようとする場合、あそこまで滑らかな動画は生成できないからだ。
AIの生成物は、とにかく「学習の結晶」である。そのため、学習サンプルに不足のある部分には、まだまだ甘い生成を行う。またプロンプトによるゼロからの生成であった場合でも、AIが「避けるべきアングル」が滑らかに再現されており、動画そのものがオリジナルかAIかは一目瞭然である。
こんな話をしていると、筆者が「アダルト動画マエストロ」のようにも聞こえるかもしれないが、本題はそこではない。明らかに実写であることが前提の動画にも「これはディープフェイクだ!」という詭弁が、いよいよ通じそうになってきていることへの懸念である。
性的なスキャンダルなどでのフェイクの主張は、別にかまわないし「逃げ道」としてあった方が、本人も救われるケースがある。しかし、政治的スキャンダルにまで、この詭弁が適用されるようになると、また話が変わってくる。
国家的な陰謀を命がけで動画に収めたジャーナリストの投稿が「はっ、ただのフェイク動画じゃん」で語られるような時代が、もうすぐそこにまで来ている。そうなると「ファクト」の価値は暴落へと向かう(すでに滑り台の上には乗っている)。
今回の動画騒ぎでも「どうせディープフェイク」という言葉が、ちらほら散見。明らかに実写であるにも関わらずだ。すでに「見る目」のない人間には「真偽」が見えなくなってきており、この現象は加速していく。筆者にしても「自分にとって信じたいもの」であれば、これからはそれが事実であるかどうかではなく「真」へと変わる。真偽はただの信仰へと変化し、争いの種火はどこにでも生まれる。
―― そうなればもう、後は焼け野原である。




