第9話 女王の朝
女王の朝は、思ったより早い。
日の出と同時に侍女が部屋に入ってきて、今日の予定を読み上げる。外交部との引き継ぎ会議。財務報告の確認。隣国の使節団との公式謁見。その後に地方貴族との茶会。夕方に法務部の人事案の決裁。
前世の新聞社よりスケジュールが過密だ。ただし、前世と違って缶コーヒーがない。代わりに、マリアが淹れてくれる温かい林檎酒がある。これはこれで悪くない。
「殿下」
マリアが衣装を持ってきた。深紅のドレス。女王の色。灰青色の地味なドレスしか着てこなかった私には、少し眩しい。
「……派手ね」
「お似合いです。殿下」
マリアの目が潤んでいる。泣かないで、と言おうとして、やめた。泣きたい時に泣けるのは、自由の証だ。
◇◇◇
執務室の机に着いた途端、息が詰まった。
書類の山。文字通りの山だった。未署名の決裁文書が三十通以上、外交書簡の下書きが十二通、地方からの陳情書に至っては数えるのをやめた。私が「影の補佐官」から女王に変わるまでの空白の二週間、誰も最終決裁ができなかったのだ。
前世の政治記者時代、大臣の机に書類が積み上がる写真を何度も記事にした。まさか自分がその大臣の側になるとは。大臣ではない。女王だ。もっと悪い。
一通ずつ目を通す。財務部の予算案。農務部の灌漑計画。辺境伯からの騎士団増員要請。どれも私が裏方時代に下書きを手伝ったものだ。自分の筆跡が残る書類に、自分の印を押す。奇妙な感覚だった。
マリアが林檎酒を置いてくれた。温かい。手のひらから、少しだけ緊張がほどけた。
◇◇◇
午前の政務は、思ったより滑らかに進んだ。
十年間、裏方で全ての部署を見てきた経験は伊達ではなかった。外交部の翻訳班長が報告を始めると、私の頭の中には既に全体像がある。「第三項の修正は先月の暫定合意に基づいていますね」と言っただけで、班長の目が丸くなった。
「殿下は、暫定合意の内容もご存知で……」
「書いたのは私ですから」
会議室に小さな笑い声が漏れた。初めてだった。この部屋で、私の言葉に笑いが起きたのは。
ただ、問題もあった。
新しい執務室に辿り着けない。
王宮の東翼、三階の角部屋。地図を見ても、廊下の配置が頭に入らない。二度曲がり角を間違えて、一度は厨房の前に出てしまった。パンを焼く匂いがした。焼きたてのパンの匂いは、王宮のどこにいても変わらない。それだけが安心できる一貫性だった。
三度目の挑戦で、ようやく執務室の前に立った時、侍女が控えめに「こちらです、陛下」と声をかけてくれた。陛下。その呼び方にまだ慣れない。
◇◇◇
午後。公式謁見の時間。
レオンハルト殿下が、ヴェスター王国の正式な使節として謁見室に入ってきた。黒い外套に銀の留め具。いつもの装い。だが今日は、胸元に王家の紋章入りの勲章をつけている。公式の場だからだ。
「エストレア王国の新たなる女王陛下に、ヴェスター王国より祝意を申し上げます」
外交の声。低く、安定していて、一点の隙もない。この人は公の場では完璧だ。
「両国の新たな関係を、より一層深めたく存じます」
私も外交の声で応じた。
「ヴェスター王国のご厚誼に感謝いたします。条約の更新につきましても、速やかに協議に入りたく存じます」
儀礼的な挨拶が終わり、随行員が退出する。
謁見室に、二人だけが残った。
レオンハルトの姿勢が、微かに変わった。肩の力が抜ける。外交官の仮面が少しだけずれる。
「……執務室には辿り着けましたか」
不意打ちだった。
「な、なぜそれを」
「厨房の前で侍女と話しているのを、窓から見ました」
見られていた。よりによって迷子のところを。女王の威厳が、就任二日目にして崩壊している。
「……案内してもらいました」
正直に答えた。隠しても仕方がない。国と国の距離は把握できるのに、廊下の距離がわからない女王。
レオンハルトの口元が動いた。笑っている。この人が笑うのを見たのは、北の塔の夜に続いて二回目だ。
「セレナ殿下」
「はい」
「二国間の関係を……」
始まった。外交用語。この人は大事な話をしようとすると、必ず公文書のような言い回しになる。
「二国間の関係を超えた、個人的な連携の可能性について……いや」
言い直した。沈黙。窓の外を見る。外交官の逃避行動。
私は待った。前世で培った取材の技術。相手が言葉を探しているとき、沈黙は質問より雄弁だ。
「同盟ではなく」
レオンハルトが、ようやくこちらを見た。
「隣にいたいと言っている」
視線が泳いでいる。五カ国語を操る天才の目が、行き場を失って窓と私の間を往復している。
「……それは外交提案ですか、それとも」
「外交提案なら、もっと上手く言える」
ああ、そうか。
この人は五カ国語を操る天才で、外交交渉で一度も失敗したことがない。その人が、たった一言を伝えるのに、ここまで不器用になる。
胸の中で、何かが静かにほどけた。名前をつけるなら――いや、名前はつけなくていい。手のひらが温かい。それだけで十分だった。
「レオンハルト殿下」
「はい」
「……返事は、条約の更新会議のときに」
「それは……いつですか」
「来週です」
「来週」
レオンハルトの耳が赤くなるのを、明るい謁見室の中で、はっきり見た。
この人の耳が赤くなるのを見たのは、これが初めてだった。暗闘の中では見えなかったもの。見えた方が、やはり良い。
◇◇◇
謁見室の扉が閉まった後、私はしばらく動けなかった。
右の手のひらを見る。温かい。謁見の間、レオンハルトと手を触れたわけではない。なのに、温かい。前世の記者時代なら「心理的な身体反応」と冷静に分析しただろう。前世でもこんな経験はなかった。取材対象に心臓を掴まれたことなど、一度も。
手のひらを、そっと握った。逃がさないように。
来週。たった七日。条約の更新会議。その場で、私は何と答えるのだろう。女王としての正解は知っている。でも、セレナとしての答えは、まだ胸の奥で形を探している最中だった。




